黄昏の夢、幾多
 

 


                                            小林幸生   2007

 

あめしずくのおはなし

小説家・石倉翠は、未亡人の姉の藍の住む広い家の離れに住まないかと誘われ、引っ越してきた。妹夫婦も

住んでいて、娘(姪)は寮生活をしていて普段は居ない、そして飼猫が1匹、という母屋と多少の行き来を

してすごす。母屋でお客さんとして来ていた雫と、彼女がモデルとなった人形に出会う。藍と妹の真白は翠の

女性関係を心配して、デリヘルで働くという雫を呼ぼうとするが、断わる。不思議な夢も見て、そんな仕事をする

いきさつを聞いて、翠は雫を救う。デリヘルを辞め、借金を返した、本名・那由多である雫は、藍の家に住むことに

なる。

 

 

「大城さんのおうちって、風情があるのよねえ」

 風情とは程遠い、新築の合理的なマンションに居を構える仁香(きみか)は、いつも感慨深げに言う。親しげに名前を言うけれど、

表札を読んだだけで、なんの面識も無い。表札は実は、そのお宅には4つもあり、最初からあったらしい石の表札の名前を選んで

言っている。おそらくその大城さんというのが主で、ほかは間借りの人たちなのだろう、というのが仁香の推測だった。でも今日は、更に

話に熱が入る。大きな、嫌味の無い洋風のその家から注文を受けたのだと喜んでいる。依頼主の名前と住所で、その家だと確信した。

かねてから憧れていたその家の門をくぐれるのだ。

 塀が高めだから、1階や庭の様子はわからない、2階の雰囲気と門、見えるところは全て、仁香は気に入っている。その庭は住人が

管理してガーデニングしているということだが、今回大掛かりに何かしたいらしく、カルチャーセンターでそのほうの先生をしている仁香が

呼ばれたというわけだ。頗るたのしみにしている様子を見つつ、おれは夏の終わりに見たその家の庭を思い出していた。

 

 勝手に外出して通りかかったときその高い塀は、おれの背の高さならギリギリ中を見ることができた。庭には池があり、ふたりの高校生

くらいの少女が、その傍の日陰にデッキテーブルを出し、その上にグラスと本を置き、手作りみたいな揃いのワンピースを着て、密やかに

笑い合っていた。ふたりは姉妹のようにも友達のようにも見えた。髪がうっすら茶色いほうがおれに気付き、頬を赤らめて目を逸らした。

おれのほうも覗いていたばつの悪さから、もうそちらは見ずに通り過ぎた。なんとなく、夢みたいな景色だった。時折思い出すが、外出も

内緒だったし、わざわざ言うほどのことでもないので、黙っていた。その日がくれば、仁香のほうから庭の話をするだろう。

 

 注文を受けて行った日、機嫌がいい印のシーフードカレーが出て来た。中の印象も良かったらしい。

「庭も1階もすてきだったわ、赤毛のアンっていう名作があってね、女の子しか読まないかなあ、それが小さい頃にアニメになったのね、

だから視覚的にいろいろ残ってるんだけど、アンが引き取られて住む家、グリーンゲイブルズみたいなのよ」このところ、おれの昔話

ばかりで混乱していたので、大城さんの話になって安心した。まあ、やっぱり不安もいろいろあるが。

「そんなんだ」何も考えていないふりで、相槌を打つ。

「まさに、だったわ。小さな池と離れのおうちがあるんだけど、ともすると和風になりそうな設定なのに、植わっているものや置いてある

もので、完全に洋風なの。大城さん、30代後半かなってかんじの素敵な方でね、お人形を作る人なの。基本的に洋風でたまに

和も作るっていうから、そういうのが出てるのねきっと」

「へえ、人形師」

「人形師っていうと、浄瑠璃か何かみたいよ」笑う。「お人形に服も作るから当然お裁縫も得意でしょ、ご自分の服もキッチングッズも、

みんな手作りなの。すごいわよねえ」働いているから当然だが、料理はうまいが裁縫をしている姿は見たことのない仁香は、溜息と共に

言った。おれはあのふたりが着ていた服を思い出す…と言っても全然ちゃんと覚えていないが…手作りの印象だった。「菜園もあって

野菜も手作りだし」

「表札の人たちは、やっぱり間借りの人なの?」

「そうだって。誰も居なかったけど、古谷さんというのが妹さん夫婦、石倉さんが弟さん、あと臼倉さんてのが妹の友達の妹…だった

かな」

「石倉と臼倉?」

「似てるわよね」

「だね」なんてことのないように食事を続ける。

「大城さんにはお嬢さんが居るらしいんだけど寮生活で、休暇には帰って来るらしいから、結構な人数よね。しかもねこも居た!」

笑う。

「へえー」

「明後日、また呼ばれてるの。たのしみー」庭に1日居て、帽子も被っただろうが日焼けした上気した顔をこちらに向け、笑う。続けて

スプーンを口に忙しく運び、カレーをおかわりする。元気そうでよかった。おれさえ心配かけなけりゃ、こんな日が続いて行くのだ。

「ねえ、おれももうだいぶ調子がいいし、そろそろ仕事を探すよ。体力づくりに、ウォーキングしようかな」機嫌を更によくするつもりで言った

のに、途端に悲しそうな顔になる。

「無理しないで。年内はゆっくりしなさいよ」まだ10月なのにそんなふうに言う。

「…じゃあウォーキングだけにする」

「そんなにうちから出たいの?」

「え?」

「ううん、なんでもない…」取り繕ったが、しっかり聞こえた。なんでそんなことを? また仁香の顔に不安が広がる。聞こえないふりで話を

続ける。

「一緒にウォーキングしようよ、仁香だってガーデニングは体力勝負だろ? まあ、もう充分頑丈かもしれないけど」

「酷い!」

「そうだなあ、来月くらいからにしようか。今すぐじゃなくていいんだ」

 仁香の顔から緊張が消える。

「そうね、一緒にね…来月くらいからね…」

 

 此処に越してくる前に、おれは事故に遭ったらしく、怪我をして床に臥せってしかも記憶が無かった。妻だという仁香のことも忘れて

いた。彼女は根気よく世話をしてくれ、起きられるようになった。彼女の仕事の関係で引っ越しをして、此処に来た。普通に生活

できるようになったものの、働いてはいないので、養われているわけだ。早く苦労させないように焦っているのに、仁香はおれが外に

出るのを神経質に咎める。

 それで、仁香が学校で教えているような時間にたまたま鍵を見つけたので、施錠して出掛けたのだ、引っ越しのときにトラックから見た

景色を思い出し、駅を目指した。その途中に大城家があり、庭にいる髪が茶色いのと黒いのを見たわけだ。その日はバレなかったが、

なんとなく仁香を怒らせて追い出されることに恐怖を覚え、それから出掛けていない。必要なときだけにしようと思う。毎日確認して

いるが、鍵はいつだって本棚の洋書の後ろにあるのだから。あれはたぶん、不動産屋から貰った本鍵、無くさないように仁香はスペアを

使っている。記憶が無いくせに、そういう発想ができるし、開けっぱなしでなく出掛けるし、そんな自分が可笑しい。

 

 翌朝、仁香が出勤する時間に合わせふたりで朝食をとっていて、気付いたので言う。

「あれ、珈琲、違う?」

「スルドイ! 大城さん家にいっぱいあるらしくて、いただいたの」

「そう、おいしいね」

 昨日は夕食の間ずっと大城家の話をしていたが、それでまたその話になる。遮るには興味がありすぎた。聞けば聞くほど、怪我で

起き上がれなかったときにおれを支配していた不安が甦ってきたけれど、それでも遮れない。

 だんだん判ってきた。夏に見た、目が合った赤毛のほうではなく、黒髪のほう。どこかで見た気がずっとしていた。あの臼倉という、縁

遠い間借り人ではないかと直感する。その名前に、昨日戦慄を覚えた。

居なかったせいで仁香の話には出て来ないが、どうして大城家に住んでいるのだろう。

 仁香が出掛けた後、控えていた外出をすることにした。金も持っていないから、何か買ったり食ったりはできない。ただ、大城家の

表札を見たかった。黒髪のほうが居れば、何か思い出すかもしれない。

 今日は土曜日だから、仁香は午前中だけ学校で講義をして、1時頃昼飯を携えて帰って来る。それまでに戻らなければいけない。

彼女の'そんなにうちから出たい?'に対して反発と、心配をかけたくない気持ちとがあった。結局、おれには彼女しか居ないのだ。

 大城家が見えてきた。門の前の一本道の遠くのほうから門を見ながら歩いていると、門から誰か出てきた。華奢だが、男性らしい。

配達の人などの雰囲気は無いから、大城夫人の弟だろう。家の前はゆっくり歩き、表札を確認した。仁香の言うとおりの名前。ほかに

何も見受けられないので、とりあえず弟らしき男の姿を探す。すぐに後ろ姿を見つけたが、そちらに出入りしているガーデナーの主人

ですと挨拶するには屋敷からだいぶ遠退いていたので、追いかける必要は無いかなと思い始めたら、道が開けてロータリーになる。

駅前に来ていた。弟は駅出口にいたアタッシュケースを提げた男と頭を下げ合い、ふたりで脇のカフェに消えて行った。急にひとりに

なって、駅のほうを見ると、なんとあの黒髪の少女がこちらを凝視していた。駅から出てきたところらしい。

「イクくん!」彼女が駆け寄って来る。その途端、大きな頭痛に襲われ、地面にへたりこんだ。もう一度声が聞こえ、少し遅れて

「どうしました?」と支えられたのは、さっきカフェに入って行った、弟らしき男だった。

「スイさん…」

「今、そこからきみに気付いて」声がこちらに向いて、「気分が悪いんですか?」

「い、いえ…大丈夫です」頭痛はおさまっていたが、額や体は汗が噴き出していた。勇気を出してふたりを見る。心配そうな顔をして

いる。

「イクくん、やっぱりイクくんだわ。スイさん、兄です」

「ええっ」弟らしき男とおれの声が重なる。

「ほんとに?」男はおれと黒髪を見比べている。

「いえ、きっと人違いです。おれはイクという名前ではありません」

「えっ…」今度は黒髪の声。「ウスクライクタ、ではない…?」みるみる、目に涙がたまってくる。比例して、おれの体にも汗が滲む。

「おれは守岩賢児です…」3人の間に沈黙が漂う。

「そうですか」沈黙を破ったのは、意外にも、黒髪だった。「すみません、人違いです。具合はどうですか。駅の、救護室とか…」

「いや、大丈夫です。頭痛がして…持病なんで慣れています。では」これから出掛けるようなふりで、駅に入ろうとして、弟らしき男に

呼び止められ、

「本当に人違いかもしれませんが、何か少しでも思い当たることがあったら、連絡をください」と手に名刺を捩じ込まれた。迷ったが

受け取って、駅の階段を上がったところの窓からロータリーを見ると、黒髪が駅から離れて行き、弟らしき男は彼女が去るのを見て

いたが、やがてカフェに入った。少ししてからおれは下に戻り、もと来た道を帰った。途中、黒髪の後ろ姿が見え、少し待ってから追い

付かないように歩いた。この道しか知らないのだから仕方無い。間近で見たあの顔に、後ろ姿に、ウスクライクタとうう名前に、頭痛は

増してきた。吐き気までする。なんだろう、何か思い出すのか?

 黒髪が大城家の門に消えたのを確認し、前を通り過ぎた。もうすぐだ、もうすぐ仁香とおれの家に帰れる。

 するとなんと、大城家の塀が終わらないうちに、向こうから、仁香が走ってくる。

「賢児!」おれは呆然とする。なんで? まだ午前中…「何処に行ってたの?!」

「…あーえっと…」

「もう帰って来ないかと思った…」涙を流した蒼白な顔で間近まで来て、おれに抱きつく。見上げると、大城家の2階の窓に、黒髪の

姿があった。目が合うと、カーテンを閉められた。

 

 マンションに帰るまでの間、お願いだから出て行かないでと繰り返され、辟易した。確かに仁香のところしか帰るところが無いのは

解っている、ドアを開けられないようにされているわけでもない、けれども離れたい衝動に駆られる。出て行った理由も言わず、早く

帰宅した理由も問わず、寝室に隠った。仁香はなんだかんだ言っていたが無視し、やがて静かになった。追い出したいならそうしてくれ、

なるようになるさ。しかし仁香にその気は無いらしく、暗くなってから夕ごはんに呼ばれた。

 

 それから必要なことだけは話した。翌日は出掛けに

「今日は出掛けないで。約束して」と言った。

「今日は出掛けない」毎日こういうやりとりをするのかうんざりしたが、とりあえず面倒なのでそう言う。大城に行くのでガーデニングの

用具をカートに乗せ、ドアを閉める。鍵をかけられる前に、中からかける。カートを引く音はエレベーターに消えた。

 床を出てからの日課で洗濯をしようとしたら、昨日のシャツのポケットから、紙片が落ちた。

 石倉翠 ishikura sui

白い艶無しの紙面に、青緑色の細い字のシンプルな名刺。肩書きは小説家。

 いろいろと聞きたくなり、電話のところへ急ぐ。受話器をあげると何の音もしない。よく見ると電話線が抜かれている。そう言えば、

仁香が使っているのは見たことあるが、鳴った試しが無い。抜いてから出掛けているのか? 懐疑するがそれは後でいい、線を差し、

名刺の携帯番号に電話する。家番号だと仁香の前でおれからだと呼ばれる可能性もあるから避ける。

『はい』知らない番号に警戒しているような声がした。

「あの、石倉さん。昨日名刺をいただいた守岩賢児です。わかりますか」

『あ、ああ、どうも』

「昨日のおふたりの言葉が気になって…お話をうかがいたいのですが、今なんてお時間ありますか」

『…えーと、はい、大丈夫です』

「よければ、事情でうちを空けられないので…いらっしゃれますか」

『いいですよ。あの、昨日の子は連れて行くべきでしょうか』

「いえ、いいです」また大きな頭痛がしては話もできない。そして大城家からうちまでの道を説明する。

 数分して呼鈴が鳴る。招き入れた石倉翠は、黒いパーカーにワークパンツで昨日よりラフな服装。昨日は少し年上かと思ったが、

同じくらいだろうか。て言っても自分の歳は、仁香に聞いたもので自分ではよくわからないが。丁寧な挨拶を交わす。基本的には

社交的だが、他を受け容れないかんじもする。友達にすぐなれそうにも、絶対になれなさそうにも感じた。

「お宅からいただいた珈琲ですが」と珈琲を出す。

「え?」

「実は、今お宅に伺っている庭師が、家内でして。この前伺ったときいただいたそうです」

「やはりそうなんですか」珈琲を飲む。「昨日、あの子があなたと庭師さんが一緒に居るところを見たと言っていました」

「あの子は妻を知ってるのですか」確かに見られてはいるが、庭師とわかるのか。

「一昨日お帰りになるときに帰宅したらしく、見たんだそうで」誰も居なかったと言ったから、仁香のほうは気付いていないのか。「昨日

うちは、彼女のお兄さんの話で持ちきりでした。行方不明でして、見つかったと思ったら人違いだったと」

「行方不明…」

「ご両親は既に他界されていて、ふたりきりの家族でしたが、新聞記者になり海外へ行って消息を絶ったそうです」

「…おれ、記憶喪失なんです。彼女を見たことある気もするし、ウスクラという名前にも、なんだか反応します。もしかしたら、と思うん

ですが…家内の説明ではおれは守岩賢児で…」

「那由多は…あの昨日の子ですが…あなたは絶対に幾多くんだと言っていました」

「…ナユタ…?」また不安が甦って来る。石倉翠は、黙っておれの表情を窺う。「あなたの石倉さんて姓にも、何かひっかかって」

「石倉翠ではなく石倉真白と言ったら? 臼倉幾多さんとは、高校の同級生で」その名前を聞いただけで、目の前に閃光が

走る。「守岩さん?」またおれは、頭を抱えて床に突っ伏していた。

「…そうだ、おれは臼倉幾多だ…」いとも簡単に、答えが出て来る。激しい頭痛は続く。石倉と臼倉が似すぎているから、みんな

名前で呼んだ。あいつは何でも作ってくれる姉と、勉強を教えてくれる兄が大好きで、よくみんなを家に招いた。大学生だった

翠さんに、おれも会ったことはあったのだ。涙が出てくる。「真白は…少しは落ち着きましたか」そんなことを聞いてしまう。翠さんは

笑って、

「相変わらずですよ」と言う。「苗字は変わりましたけど」

「ああ…」仁香の話にあった、妹夫婦。「でもそしたら…守岩賢児って…誰だ?」

「そういうことになりますね?」翠さんはおれとは反対に落ち着いている。「こんなことになるとは思いませんでしたが、庭師さんが姉の

依頼でうちに居るのは何かの縁かもしれませんね。彼女のお話を聞いて…」そこで、玄関の鍵が開けられる音がした。

「賢児!」仁香が居間にバタバタと駆け込んで来た。翠さんを見て、蒼白になる。

「思い出しちゃったよ、仁香」おれは笑顔を作ろうとしたが、うまくできなかった。

「何を? あなたは守岩賢児よ、ほかの誰でもないわ」

「本当の守岩賢児さんが居るんだろ? おれは代わりなんだろ?」

「あなた賢児に何を言ったの?」翠さんに震えながら向き直ったとき、玄関のドアが開く音がする。

「幾多、来なさいよ!」勝手に入って来たのは、高校生のときからなんら変わらない真白だった。「なゆちゃんのところに来なさい、

あんたは幾多なんだから」

「あんた、つけて来たのね? 勝手に入って来ないで!」仁香が怒り、真白は取り合わずにこちらをまっすぐ見ている。

「幾多、あんた騙されてんのよ! 昨日なゆちゃんの話を聞いて直感した。今日あんたを返せと言ったら、血相変えて飛び出して

行ったのが何よりの証拠よ」相変わらずキツい女だ。

「…仁香と話をしたい」おれは真白に言う。「翠さんも…ありがとうございました、また連絡します」

「ちょっと、幾多!」

「真白」翠さんに制されている真白を、懐かしい目で見てしまう。欠け換えの無い妹以外に、初めて大切に思った女。恋なんかしそうに

なかったくせに、とっとと結婚している女。おれの視線にちょっと臆して、

「じゃあ。お邪魔しました」と出て行く。翠さんが静かにドアを閉める。

 

 仁香は呆然と立っていたが、沈黙に耐えられなくなって

「あんたが悪いのよ!」と叫んだ。「そんな顔でそんな姿で、しかも記憶が無いなんて! 賢児の葬式の直後に現れて…結婚してまだ

2ケ月だったのに!」

「それは悪いことをした」素直に認めたら、火に油で

「馬鹿にしないでよ!」とクッションを投げつけられた。思い切り、顔に当たる。

「いや、本当に。辛かっただろ、微細に違うおれと一緒に居て」

「そーゆーの、偽善者って言うのよ! あんたが本当に賢児ならよかった、あんたなんか好きでもなんでもなかった!」

「そうだね、ほんとにそうだよ」今度は珈琲カップが飛んで来る。おれからだいぶ離れた壁にぶつかり、割れる。残りの珈琲は、床や壁に

飛び散る。「そう思うけど、賢児ってやつにはなれない。ごめん」今度はソーサーを床に叩きつけている。おまえが勝手にしたんじゃん、と

いう気持ちも確かにあったが、それより可哀想という気持ちが勝った。抱き締めたくて仕方無かったが、夫婦でないと判った今となっては、

逆に宜しくないと判断して、辞めた。可哀想で堪らない、後追い自殺でもしかねない、だけどおれに、何ができる? 何を言っても何を

しても、火に油なのだ。消えるのが、一番いい。「助けてくれて…養ってくれてありがとう。元気で」仁香は何も言わない。自分の荷物を

持って行こうと思ったが、皆無なのだった。本当は、この服だって賢児のなんだろうけど、それはしらばっくれる。返したら出ていけない。

 玄関を出る。最後に振り返ったが、仁香は後ろを向いたままだった。泣いている、と思いたい。おれとの別れを少しでも悲しんでくれる

と。賢児としてではなく。

 階段を降りながら、

「さて、無一文だな。どうするか」と呟く。どうするも何も、那由多に会うのが先決だ。それからまた養ってもらうのかどうか。情けない

なあ…。

 エントランスから市道に出ると、上から声が降ってきた。

「ねえ!」見上げると、仁香が窓から顔を出していた。涙でグショグショの顔。「今大城さんに電話して、これからのことお願いしといたから。

安心して行きなさいよ!」そしてすぐ引っ込んでしまう。

「ありがとう」聞こえるかどうか、礼を言って、マンションに背を向ける。

 こんな出会い方をしてしまった以上、仁香がおれを選ぶことはない。どうしたって、賢児の代わりなのだ、心のどこかで確実に残念に

思いながら、まっすぐに歩く。

 

 大城家が近づいて来る。門のところに、那由多が立っている。明らかに、おれを待っている。

 記憶は完全に戻っていない。彼女の目が余りに直情的なので、また過去を植え付けられそうな不安は否めない。彼女の口からは、

何が、どんな過去が語られるのだろう。おれはそれを全て信じていいのか。頭のどこかで思うかもしれない。

 彼女の語るその人は、一体だれだろう。本当のおれは、一体どんな―――

 

 

 

                                                       了

 

 

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