小林 幸生 2008
人生を山と喩えてそこに頂点があるのだとしたら、僕はもうずうっと前から、それは30歳だと決めて疑わなかった。現代では
80歳や90歳まで生きられるのが普通だとしても、その数字に変わりは無かった。僕の中で30歳という年齢の先には
頂点は無く、もう下り坂でしかないように思えた。だから小学生のときに「30歳で成功して、33歳で惜しまれて死ぬ」なんて、
現実的且つ退廃的な決意をしていたのだ。
そして僕はあと数日で、31歳の誕生日を迎える。現実はそこまで甘くはなく、勿論、成功なんてしやしないで、その日が
やって来てしまうのだ。
1.下り坂まであと数日
いつもの夢。闇の中に浮遊する、妖鬼ならぬ妖妃。乱れた髪に、着崩した黒地に青味がかった辻が花柄の和服。僕を
支配するその眼と声を甘受し、夢の続きを自ら追い求める。
昨日幕の下りた舞台の疲れに飲み込まれて、いつまでもその夢にしがみついていた。電話がけたたましく鳴り、瞼だけは
どうにか開いた。ジリジリという音が続き、ファックスだと判る。その音が止んでも暫く眠気に勝てず放っておくと、今度は携帯
電話が鳴った。ディスプレイには団長の名前があった。
「はい…」堪忍して、眠気を噛み殺して出ると、
「昨日はおつかれさん。寝てたのか、ファックス見たか?」と、標準語の鹿児島風早口発音。
「ああ…いえ、まだ。今見ます」起き上がって見てみると、そこには映画のエキストラ募集についてが書かれていた。
「楠木とおまえに行ってもらいたいんだけど、
どうだ?」まだ起ききっていない腕で手帳を不器用に手繰り寄せて確認。
「…ちょうどバイト非番です。行けます」
「よし決まり。劇団員ならオーディション無し、当日現地集合で。よろしくな」
「わかりました」切りボタンを押すとすぐに、
着信。今度は噂の楠木。
『おい、もう聞いたか。映画のトラ(エキストラ)!』
「聞いたけど…おまえ初めてだっけ」冷めた反応をすると、
『なに、同期なのにおまえは行ったことあんのか』と先を越されて怒ったみたいな声になる。
「俺は、よく時代劇のやってる。なかなかセットとか興味深いよ」
『それは和装が似合うかどうかで、俺、外されたんだな』
「いや、劇団関係は今回だけ、それはオーディションだった」
『そうか、なら受けなかっただけか俺が』
「おまえ、完璧舞台人だからな」
『まあな。それで今回の映画、超話題作じゃん、うまくしたら、次もアリかもよ』
「エキストラで繋ぐ気かよ」
『違うって、役貰えるかもって』
「んなわけない。言っとくけど、おまえがいつも行ってる舞台の役付きエキストラと違って、通行人とかそんなもんだ、
演技の披露しようが無い」
『じゃあじゃあ、有名人とフォールインラブとかね!』
「ますますあらへん」インチキ関西弁で話を区切って、待ち合わせやらを決めて電話を切る。
確かに最初のエキストラのときは、次の役付きへの抜擢を期待したものだった。しかし
実際は茶屋のシーン、後ろで話してる旅人で、演技が目立ったらNGなのだ。居るだけでいいんだ。次の話なんて来る
わけが無い。でもそんな仕事でも期待して、アルバイトをフルに入れなかったりとか、しっかり根回ししてしまうんだよな。
翌日には台本が送られて来て、出番のところにはアンダーラインと注釈。劇団員だったらそれだけで、当日一発OKを
出さないといけない。全部を読んで、だいたいの流れを理解し、当日現場へ向かった。今回のは現代もの。もしかしたら、
衣装すら無いかもしれない。あまり乗り気でなく、普段着で出掛けて行った。
現場の貸し切り遊園地には、役者もスタッフも合わせるとすごい人数で、普段遊びに来ているお客さんより多いんじゃ
ないかと思うくらいだった。
朝の遊園地はやけに陽が当たって、みんなの影がやたらに長く感じた。寒いなと手を擦り合わせながらエキストラの集合
場所で待機していると、トラ取りまとめ役のアシスタントさんと監督が挨拶に来た。
「おおっ、有名な安達監督が直々に!」楠木はやけに感動して涙ぐんでいる。
あとで聞いた話によれば、一旦僕らのところを去った監督が、今度は小走りに寄って来たらしいが、僕はそれを見て
いなかった。急に肩を叩かれ振り返ると、居なくなった筈の監督が目の前に居たのでそれはもうビビった。それまで有名人を
前にも平静を保つように気合いを入れていたのを、一気に崩されてしまった。
「な、何でしょう!?」
「きみ、ちょっと、変装する場面だけなんだけど、柏崎くんの代わりをやってくれないかな」
「どへえっ、主役?!」後ろで楠木の声がしたけれど、自分は声も出なかった。
「背格好はバッチリ、どうせ変装なんだから
顔が似てないのは構わない。声はあんなわけないだろうから、後で吹き替えでもしよう」
柏崎集人の声はわざとそうしたのだろうけど掠れ声なので、お察しの通り、同じなわけはない。「いいから早く来て。だめなら
交替しないといけないんだし。時間が無い」
僕は混乱しすぎていて、チャンスだ!などと思えなかった。要らん汗が背中を伝い、されるがままになった。
「きみの役は」変装用衣装を着せられながら、
脇に居るだれかも判らない人から説明があった。「主人公、アイドル歌手のマサト。まあ諸々のことはいいとして、今日は元
クラスメイトで恋仲のショウコとデート。マスコミにバレてはいけないから変装している。衣装を替えて3日分撮ります…」簡略化
しすぎなくらいの説明だが、まあ単純な流れなので飲み込む。要は、3回デートして、1回目は無事終了、2回目は見つかって
走って逃げる、3回目はやはり逃げるが秘密の迷路に迷い込むところまで。その先はホンモノの柏崎がやるってことだ。まあ僕が
マサトだったら、1回見つかった所には二度と行かないけどね。それでは話が続かないので仕方無い。と、アガっているわりには
冷静に原作にツッコミを入れてしまう。
「髪、黒いですけどどうしましょう」
「ズラってことにしよう。変装だから」などとスタッフが話しているが、何にしてもツッコみたいこと満載だった。なんでも変装だからで
許されちゃうこの現場って…。
「集人くん、おはよう」ヨン様みたいにマフラーを巻かれていたので見えなかったが、その声の主は、スタッフのひとりに代役だよと
言われ、僕の前にもぐら叩きのもぐらのように出て来た。「えっと、何くん?」
「マサトです、代役の」
「そんなの知ってるって。本名、あ、芸名でもいいんだけど。教えて」
「乗田衛(まもる)」知るわけないだろ、と思ったその瞬間、
「のりたまくんだ!」そいつは目を見開いて驚き、笑った。…やっと判った、ヒロイン、安芸穂波…15歳にして一躍トップスターの
アイドル。少年誌のグラビアの出で、テレビでは看板番組をいくつも持ち、ドラマも舞台も映画もこなす期待の美少女ってわけだ。
僕の半分しか生きてないのに、まさに小学校時代の綽名を言い当てるあたり、やっぱり只者ではないかもしれない。周囲もどっと
笑って、数メートル離れたところに居た監督まで
「のりたまくん、スタンバイできた?」と言って来た。
撮影は…幸いショウコの方がマサトを連れまわす形のデートだったので、彼女に任せておけばよく、セリフもそのヨン様マフラーで
口が隠れているので言わないでいいとのこと、なんなく終了した。こんなんでいいのか?ってくらい簡単に。ただ3日分の待ち合わせや
ランチを日の高いうちにやりたいので、衣装替えが半端な回数でなかったため、だいぶ疲れた。更にショウコのテンションの高さにも
うんざりだったし。
「いやあ、無事遊園地のシーンは終わったよ、ありがとう」監督やスタッフからお礼を言われ、照れ隠しに
「でも演劇やってなくてもできたっぽい場面でしたね」と言うと、
「そりゃあそうだよ、じゃなきゃ頼まないよ。背恰好が同じでよかった!」と返され、思いきりへこみつつ、荷物置き場に戻った。
楠木はもう居なかった。電話を見ると彼からメールが来ていて、
<おつかれ、ちょっと夜約束があるから先に帰るな>とあった。
まあ、反対の立場だったら、僕でも一緒に帰る気分では無いわな、と苦笑しつつ、余計なことを言っても何だし、
<おつかれ、またな>とだけ返しておいた。
夕暮れのだれも居ない遊園地は、今まで見たこともないくらい、寂しげだった。
翌日、団長から電話が入り、
『スペシャル・エキストラ、ギャラは当分先になるがお礼の電話が入ったよ。ごくろうさん』僕は昨日最後に言われたことを言った。
「背格好が同じなだけですから、今後に期待しないでくださいね」
『そんなチビ助でも役に立つんだな』
「柏崎集人がこんなにちっちゃいなんて知りませんでしたね」
『でもまあ、期待していいかもしれんぞ。或るプロダクションから調べが入った。おまえのことを教えてくれってな』
「柏崎の事務所じゃないですか。またゴースト頼もうってんじゃ」
『いや、違うな。あんな、男子専門アイドル宝庫ではなかったぞ。ええと、‘満月プロ’だ。でも年齢に引いてたから、無理かもな』
「なら言わないでくださいよ!」
全く、期待しないと決めたそばから、持ち上げて落とす展開。
そう、ちょっとだけ期待しちゃったんだ。
30歳で大成功、あと何日かもまだ捨てたもんじゃないかもしれないって。
そこで、メール着信音。目下劇団での一番の信頼関係にあったのに昨日の一件でぎくしゃくしてしまうかも…な楠木、と予測して
手にしてみると、麻葉(あさは)だった。
<明日夕方から明後日の午後まで、友助(ゆうすけ)預かってもらえない?>
おっ、と声が漏れた。手帳を開いて、アルバイトが明日は一日、明後日の誕生日は逆指名休みでまるまる寂しいオフになって
いるのを確認。
<いいよ。明日は帰り夜になっちゃうけど、鍵を郵便受けに入れておくから、中に入っているように言っておいて。明後日はずっと
一緒に居られるから>
<ありがとう、よろしくね>
…理由言わねーし。男か。苦笑して、適当にひとり分の夕餉を作って食べる。明日あいつ来るなら、何作ってやろうかな。食器を
片づけ、部屋もささっと掃除をし、風呂釜も洗ってトイレもやっつけると、いい時間になったのでパソコンを開く。最近は携帯の方に
来てしまうのでこちらのメールは寂しいもんだが、今日は一通新着があった。
見たことの無いアドレスで、
<Mくんへ。明日会えませんか、正午にD電塚本駅東口の本屋さんで立ち読みしてます。だめならメールください。S子より>とあった。
「イタズラメール最近減ってたのに!」思わず悪態をついて、‘MくんとS子の密会’に怖気を震わせた。だいたい、‘Mくん’のMが
衛のMだったとしても、子がつくような名前の女友達は最近めっきり居ないし、アルバイト先と塚本ではうちを挟んで正反対、行ける
わけが無い。思いきりそのメールは削除して、ちょっと調べ物をしたりしてからパソコンを閉じた。
さ〜あ、愈々誕生日まで秒読み段階に入りましたぁ!…ナレーションの声が、布団に入った僕の頭に鳴り響いた。
2.頂点最後の日
本屋でのアルバイトを終え、スーパーで買い物をして街灯の点いた道を歩いて、マンションの前に辿り着くと、自転車置き場から
「やーっと帰って来た」と、素頓狂な声がした。見ると、制服の上にダッフルを羽織った安芸穂波が居た。
「…な、なんでおまえ…」
「どうしてお昼、来てくれなかったの?」怒った顔で自転車置き場から出て来る。「あー寒い、風邪ひいたらどうしてくれんの」状況を飲み
込めずに言葉を探していると、「メール見てないの?」と言った。
「メール?」思わず携帯を出す。
「違う違う、パソコンのアドレスだったよあれ」
「…あっ、あの、怪しいメール、おまえ?」
「…さっきから気になるんだけど、気弱そうな顔して、おまえおまえって、名前で呼んでよ。穂波でいいから」
「なんでおまえ、俺のアドレスとか住所とか知ってんの?」
「聞いてないし…。事務所の人に、期待の役者が居るって言ったら、のりたまくんとこの劇団に問い合わせてくれたの。なんか仕事
送るって言ったら、ほいほい教えてくれたみたいよ。わたしはそれを書き写しただけ」
「プライバシーも何もあったもんじゃないな。まあ、大きい事務所でなかったら教えなかったんだろうけど。悪いけど、悪戯としか思え
なかった」
「マサトとショウコで解ってくれると思ったのに、謎かけすぎたか」
「悪いけど、人が待ってるからまたね」僕はエントランスの中に入り、ガラス戸を閉めようとした。
「えっ、女の人と住んでるの? もう結婚してるとか?」
「いや」間髪置かずに否定してしまい、カッコワルイなと思う。
「まもちゃーん」絶妙のタイミングで中から声がして、振り返ると、友助が降りて来てしまっていた。「やーっと帰って来た」おんなじセリフを
言っている。
「ただいま…っておい、なんで靴下のまま降りて来るかな!?」
「え、やだ、子持ち?!」小学生を見て自分が隠れるでもなく、安芸穂波は動揺を隠しきれない顔をした。「30歳とは聞いてたけど、
完璧ひとりぼっちだと思ってた!」
「なんでそう決めるかな…」
「このおねいちゃん、誰?」
「え、知らないの?!」僕は驚愕した。思いきり、テレビのまんまの芸能人やんけ!
「会ったことないよねえ」となれなれしく近寄っている。ああそうだった、こいつ、お笑い番組しか見ないんだった。
「おねイちゃんて!」爆笑している。「おねエちゃんって言わない? まあいいや、おねイちゃんは、穂波っていいます。よろしくね!
ぼくは?」
「おれは、谷友助っていいます!」
「おお、もう‘おれ’なんだね! じゃあ友助くん、お部屋に戻ろうか!」と手を繋いで階段へ。
「なんでおまえも行く?!」
結局、安芸穂波も部屋に上がり込み、何も食べていないと言って僕らの夕餉まで奪って食べる。
「さっきピンポンが鳴ったんだけど、無視しちゃった。あれって、おねいちゃんだったの? 何回も、ちょっと怖かったよ」
「そうそう、ごめんねー」
「おまえ、だいたい何しに来たの?」
「のりたまくんに会いに来たに決まってんじゃん」
「のりたまー?」友助もウケている。
「友助くんの‘まもちゃん’ってのも捨て難いけどねー」
「呼び方はいいから! そういうのを、若気の至りって言うんですよ、お嬢さん。だいたい今は友助が居るからいいようなものの、
普段は居ないわけだし…」
「うーん、確かにふたりっきりじゃないのは残念だけど、友助くん一緒なのもたのしいから、いい」
「おれもー!」
「そうでなくて」
「で、別れた奥さんとの子供とか?」
「なんでおまえが質問する…まあいいか、友達の子供、血の繋がりは無い。時々預かる」
「そっか、じゃあのりたまくんは、わたしが貰った」
「またそんな…ふざけない! 俺、きみの倍生きてるおっさんなんですけど」
「ふざけてないよ。だって、そんなの説明できないよ。そうでしょ?」
「はあ?」呆れて、半笑い。「もしほんとでも、よっく現実を見たほうがいいよ」
「現実?」
「順風満帆、未来が輝かしいアイドルと、しがないエキストラの売れない舞台俳優だよ? 30にもなって、アルバイトして、
ワンルームマンションに住んで、結婚資金も無く…」
「…そんなの知らないよ」
「とにかく、現場で一緒になったって住む世界が違うわけ。こんなの相手にしてないで、柏崎集人を落としたら?」
「やだ、あいつ大きらい」
「じゃあ、きらいなあいつの代わりは、みんなマシに見えるんじゃないの?」僕は箸を置いて、珈琲を淹れに流しの方に
行った。友助にはジュースをパックのまま出し、「おまえ、珈琲飲める?」と聞いた。
「飲めない。紅茶にして」僕は肩をすぼめて
「はいはい」と答える。面倒なので自分も紅茶にする。「これ飲んだら帰んな」
「イヤ」
「……」
おうちの人にはとか、明日の学校や仕事はとか聞くと、うるさそうに
「友達のとこに泊まるって言って来た。明日は土曜日。学校も仕事も休み!」と言って、友助がするパズルを眺めている。
「ほんとに帰る気無いの?」…狭いんですけど。
「ずっと居るわけじゃないから。明日の夜には帰るから」…明日の夜まで居るんですかい。
それから風呂に入るまで友助が、お笑い芸人の真似などをして盛り上げてくれ、お姫様の機嫌は少しよくなった。
「わたし、お風呂は朝借りるね」
「…そう」友助と狭い風呂に入る間、例の台本の暗記をしているようだった。呟きが漏れてきて、読んだ本なのですぐにあれかと
思った。
「ねえ、読み合わせしてくんない? お手のものでしょ?」風呂から上がるなり、言ってくる。
「いいけど…」ちらりと友助を見ると、
「おれ、聞いてやる!」と寝ない気満々だったので、やってみることにした。僕もトラのときに貰った台本があるので、それを
引っ張り出して、マサトの役を読んだ。
そうしてるうちに、安芸穂波はボロボロと涙を落した。
「…どうしてのりたまくんじゃないの? あんなやつより絶対うまいのに…」
「それを言ったら、ぶっちゃけきみよりうまい役者もうちの団にいっぱい居るんですけど…でもさ、役が貰えるのって、上手い下手
だけじゃないから。別に自分より下手な役者が売れたって、それはそれで仕方ない」
「わけわかんないよ…」
夜は、ワンルームで仕方ないので、友助を間に、川の字になって寝ることにした。眠っているうちに気配を感じる。友助のほうを
向いて横になっている僕の背中の側に、いつの間にか安芸穂波が滑り込んで来ていた。僕の背中に顔を埋めて寝ているらしい。
僕はそっちを向かなかった。
この子、お父さんかお兄ちゃんを亡くしてるんじゃないだろうか、とそう思った。静かに息を吐いてから、僕はゆっくりと目を閉じた。
3.下り坂が始まる当日
浴室の音で目覚めて、ああそうだったと理解するまでに少し時間がかかった。シャワーの音がしている間にこっちも着替えを済ませて、
朝餉の準備に取り掛かる。友助は、まだよく寝ている。
「ごめん、うるさくなかった?」用意周到、今日の服になって出て来た安芸穂波は、「タオル勝手に借りたから。パジャマと一緒に
洗濯機に入れておくね。ありがとう」と初めて来た家とは思えないほどあちこち開けまくっている。「ドライヤー借りるねー」ぶおーという
音がし始めると、流石の友助も起き出した。
「…おはよー」
「お、起きたな。おはよ」
「あ、友助くんまだ寝てたんだ、ごめんごめん」
「いーのいーの、せっかく3人で楽しいのに、まだ寝てるなんてつまんない」もうバッチリ目覚めてまともなことを言いながら、すぐに
着替えにかかっている。
「確かに! のりたまくん、今日仕事は?」
「オフ」
「きゃー、示し合わせたような一致! 3人で、何しよっか。どっか行く?」
「わほーい!」友助も嬉しそうだ。
「まあ、こんな狭いとこに3人では…て、おまえ、真昼間出歩いて大丈夫なのか?」
「変装グッズ持って来た。眼鏡に帽子に、髪もお下げにするし! はじめっから、今日はデートするつもりだったし!」
「おれもヘンソウしたーい!」
「意味無いから!」
「3人でしようか!」
「俺はいいよ。別に誰も追っ掛けて来ない」
「……」一瞬、安芸穂波の顔が曇る。
「あーえっと、ほら、3人で変装したら、怪しいし」なんとなく、慌ててフォロー。
「そうだね」
朝餉の間は、また元気になって友助と漫才していた。メールが来て、見ると
<今日午前中時間あるか、本番舞台の空きがあったんで、ちょっと早いが場当たりをやってしまいたい。>と団長から。
「…無理だな」即返事をしようとすると、
「何、何?」と安芸穂波が聞いて来た。
「あいや、なんでも…」言いかけたその隙に、僕から携帯を奪って読んでしまう…「おい、何、読んでんだよ」
「行きなさいよ。留守番してるから」
「だって友助…」
「だから友助くんも一緒に留守番」
「えーやだあ、おれ、一緒に行く!」
「ほら、出掛ける気満々だったんだから」
「…ねえ、見学しちゃだめ? 大人しくしてるし、わたしが誰だか明かさないし…」
「ええ?」
「おれ、ケンガクする!」
「そういう場所かなあ」
「まあ、聞いてみなさいよ」
<友達の子供を預かっているのですが、連れて行っても大丈夫ですか? 小2と中2ですが>
「ちょっと、わたし、高1なんですけど!」
「いや、知ってるよ。姉弟あんまり歳離れてないほうがいいかなと」
「あそっか。マジピッタリじゃないほうがいいしね」そこで着信音。「あ、何だって?」
<中2の子が小2の子の面倒を見てくれれば問題無い。因みにD電の弓削原駅徒歩2分のK劇場、
覚えてるか>
<面倒見させます。場所も大丈夫です>
<では10時半に現地集合>
「ひゃっほーい!」
「友助、あんまり面白くないぞ、期待すんなよ」
「のりたまくんの舞台かあ…」
「そっちもあんまり期待しないように! 場当たりだし」
「バータリって何? おばあさんのタタリとか?」友助がおもしろいことを言っている。
「バカタレ、のことをお年寄りはそう言うんだよ」安芸穂波は、すかさずそう教える。
「バカタレ!」
「あ、年寄りじゃない!」
「コイツのお話は嘘だから、信じるな…」
昨日のダッフルコートの下にコーデュロイのオーバーオールに、お下げ髪、眼鏡に帽子、安芸穂波とは誰も
気づくまいその1女子と、小2男児を連れて劇場に行く。収容人数は200、狭いところだが使い勝手がよく、
此処での公演には団員としてもトラとしてもよく参加した。台本を持った僕は舞台に上がり、客席にふたりを
待たせて、あとは団長や他の役者との話し合いに夢中になった。楠木があれ以来だったが、変わりなく、ほっと
した。
場当たり。この場面では誰がどこに立つ、というのだけを、舞台を使ってその場面ごとにやる。既に演出も
入って立ち稽古している作品ではあるが、なんだかまだ早い気もした。しかしこっちが先に決まってしまうと、
逆に話が早い場合もあるということが判った。今回はまさにそれだった。場当たりだけをやって、セリフ入りで
一度通してみて、直しをしたら、1時を過ぎていた。
「続編にも出る者は、2時集合!」団長が言い、解散になった。僕はそちらは関係無いのでこれで上がり。
みんなに挨拶して客席に行くと、さっきはすっかり僕の姪みたいにふるまって機嫌よく挨拶していた安芸穂波が
「どこが売れない舞台俳優よ、主役やってんじゃん」とボソボソと文句を言った。
「まもちゃん、かっこよかった!」
「あいやー。これは、この劇団だからでね。俺と、続編の主役やるやつ以外みんな若手だしね…一歩外に出ると
全然相手にしてもらえないわけ」
「だって、演技だってハチャメチャうまいじゃん。まだセリフ覚えてないのに、すっごく伝わってきたよ!」
「実はこの間も」僕は周りに人が居ないことを確認しながら言う。「よその大きな劇団、オーディション受けたんだけど、
落ちちゃった。年齢制限でもう二度と受けられない、最後のチャンスだったのに」
「そんなの運が悪かっただけだよ、今まで会った誰よりもうまいのに、そんな…」
「まあ、高校の部活を入れると、人生の半分芝居やってんだよ、俺。そのわりには大したこと無いんだよね」情けなく
笑いながら、僕はそう言って、友助の手を取った。「昼飯食いに行こうよ」
駅前のファミレスに入って、友助はハヤシライスを、安芸穂波と僕はカルボナーラを頼んだ。
「あれっ、友助」声の方を見ると、麻葉だった。そこそこめかしこんではいるが、ひとりだった。
「かあちゃん」
「ありがとね、衛。…えっ、この子は?」変装・安芸穂波と麻葉の視線がぶつかる。
「まあちょっと事情がありまして」
「あら、お邪魔だったらこのまんま連れ帰っても…あ、だめだ、荷物持ってないじゃない。衛のところにあるの?」
「うん」
「じゃあ悪いけど予定通りお願いするわ。6時頃迎えに行く」
「おう。ところで、麻葉は何してんの、ひとりだったんだ?」
「今はね」意味深な言い方をして、去って行く。
「かあちゃん、ちゃんと作戦実行するからね!」友助が叫んだ。麻葉は振り返って、親指を立てた手をこちらに
見せた。
「なに、作戦って」
「ナイショ!」無邪気に言う友助の横で、
「ほんとに元・奥さんじゃないの?」と安芸穂波が外した眼鏡を弄りながら、訝しそうに言う。
「まさか。恋愛感情を抱ける相手ではない」
「ならいいけど…」
「…あのさあ、今までの俺の話、聞いてた? こんなさ、おんなじ部屋で寝ても発情しない枯れたおっさんよりも、
同年代のギンギンな少年のほうがたのしいんじゃないの」
「そっちこそ、わたしの話聞いてる? わたしはのりたまくんがいいの!」でっかい声で言うので恥ずかしくなって、
「お、俺は鮭のふりかけがいい!」などと阿呆なことを言いながら誤魔化し、
「おれは海苔山葵でないと!」友助は本気で話に乗って来るが、放っておく…。そこで運ばれて来た食事に、話を
スイッチ。ああ疲れる。
うちに戻ると、友助は自分で荷物をまとめ、その中からプレゼントをくれた。
「お泊りさせてくれてありがとう、あと、誕生日おめでとう!」中身は、ネジで動く車。今度来たとき自分で遊ぼうという
魂胆らしい…。
そうして迎えに来た麻葉とともに出て行った。
送り出して振り返ると、そうだった、もうひとりの居候が居た。人の事務椅子を占領して
「…今日、誕生日なのに何の約束も無いわけ?」とニヤニヤしている。
「悪かったね」
「そのほうがいいけど…はい」なんと、安芸穂波もプレゼントを用意してくれていた。
「なんで? 知ってたの?」
「お人好しの団長さんが、うちの事務所に教えてくれたプロフィールの中に書いてあって…そう言えばあのプロフィール、
身長167センチなら、普通170って書くよね、馬鹿正直!」
「そんなところで見栄張ったって、衣装合わせですぐバレるし」
「まあそれはいいや。だからね、今日一番初めにわたしを見てほしくて、昨日、行かなきゃって思って来たんだ」
「…初めは、友助の寝顔だったな」
「なによそれ! …いいから開けてよ」
「はいはい」包みを開けると、僕が代役をやった、殆ど顔の見えていないマサトと、安芸穂波の演じるショウコのツーショット
写真の入ったフレームだった。「よく手に入ったね、こんなショット」心底驚いて言った。
「うちのマネージャーにデジで撮ってって頼んでおいたの。着替えで離れてる間に」
「ショウコ、ほんとに楽しそうだな。いい演技だ」
「演技じゃない。のりたまくんと一緒に遊園地に居るのがたのしかったのよ」
「……」
「ねえ、明日は仕事なの?」
「え?」
「今日は約束通り帰るけど、明日遊園地に行きたい。マサトとショウコでなく、のりたまくんとわたしで」
「……」
「迷惑?」
「…明日は、たぶん稽古が。今日予定外で入ったけど、明日の分は予定通りやると思う。
中止の連絡も無いし」
「稽古終わってからでいいよ。待ってるから。あの、撮影した遊園地で」
そうして、だいたい何時か聞きもせずに、鞄を持って出て行った。今まで三人でぎゅうぎゅうだったワンルームが、
やけに広く感じた。夕闇がますますそれを肥大させていた。
気づくといつの間にか僕は、頂点を通り越してしまっていた。
4.下り1日目
行かないほうがいいんだと思う。結局稽古は無しになって、暇な一日を過ごしながら、何時から待ってるんだろう、
何時まで待ってるんだろう、寒くはないだろうか、とか余計なことを考えてしまっていた。だいたい、2日連続でオフなんて、
あの子にあるだろうか。サボってまで来るだろうか。
もう閉園も間近な時間になって、電話が鳴った。
『満月プロダクションの橘と申します。乗田衛さんですか』
「…はいそうですが」
『突然お電話してすみません、この番号は、お宅の劇団の団長さんにお聞きしまして』
「はい、聞いております。でもお電話いただけるとは思っていませんでした」そう言いながら、なんだか厭な予感がしていた。
『すみません、今日は仕事の話ではありませんで』…やっぱり…。
「もしかして、…」僕は言葉を継げず、唾液を飲んだ。
『うちの安芸穂波、そちらに行ってませんでしょうか。今日、仕事を初めてすっぽかしまして…』
「…そうなんですか」
『お恥ずかしい話ですが。ここ最近の言動を繋げてみると、あなたのところしか考えられなくて』
「因みに、昨日などは?」
『昨日はもともとオフで、会っていません』
「…わかりました、今一緒には居ませんが、心当たりを探してみます。橘さんの携帯の番号、うかがってもよろしいですか」
仕方無く、僕は遊園地に向かった。もう居ないでほしいと思いながら。夜の遊園地の影は不気味だった。遠くから、
観覧車やジェットコースターや塔が悪魔的な構えで僕を待ち受けていた。正門まで来たが当然閉まっており、中には
入れなかった。走って来たので息切れしながら、門の前で辺りを見回すと、
「やーっと来た」と、昨日よりめかしこんで帽子を目深に被った女子が歩いて来た。ギリ安芸穂波と判る。「もう閉園だよ」
「おまえなあ、ドラマの見すぎなんだよ。この寒い中…」
「ちゃんとスタバに居たよ。こんな寒い中立って待ったりしないよ。それこそ、ドラマの見すぎなんじゃないの」
「てか、仕事はサボるな。人に迷惑がかかるんだから、それはよくない」
「…なんだ、マネージャーに言われて来てくれただけなの?」
「…ごめん、来ないつもりだった」
「なんでちゃんと断らないのよ」
「連絡先知らないし」
「メール送ったでしょ」
「最初の? その場で削除しちゃったよ。イタズラだと思ったから」
「……」
「マネージャーさんに連絡入れろよ」
「……」
「なあ」
「…ねえ、なんであなたってそんなにキッチリしてるの? 時々すげームカつくんですけど!」急にキレられて、危うく
一歩引きそうになるが、腹を据えて言う。
「別に普通のことだろうが」
「いや、すっごいキッチリしてる」
「世代差じゃねえの?」
「…そうやってすぐ大人ぶるし!」
「大人だし」
「バーカ!」
「…うん、ばかかもね」
「きらい!」
「それはよかった」
「嘘に決まってるでしょ!」
「それは困った」
「…もう! どうしたってあなたには勝てない」
「勝ってるよ。収入もきっと」
「卑屈!」
「そうだね。でも、それは事実だから」
また一昨日と同じように涙を落としながら、抗議するようにこちらを見た。
「そんな思いをさせるくらいなら、辞めてもいいと思ったの。だから今日、サボった。でもわたし…このお仕事が好きなの。
ううん、映画が好きなの。グラビアとか、テレビは全部やめたっていい。でも、映画は辞めたくない。映画をやったままで、
あなたとはうまくやっていけないのかな」
「…ていうか、それ以前に…」
「わたしではだめな理由がある?」
「正解」
「麻葉さんだ」
「不正解」
「じゃあ何?!」
「…俺が芝居を始めたきっかけはね、中学生のときに連れて行かれた、芝居小屋みたいなところでの舞台を観たことなんだ。
そこに出ていた女優さんで、恋い焦がれた相手が居るんだ。それこそ、俺よりずいぶん年上。和服を着崩して色気もあった
けれど、何より強い眼と聡明な額を持っていて、その辺りから目が離せなくなった。その人の声が、頭から離れなくなった。
今でも覚えているよ。登場してすぐの名台詞。‘蒼穹の果てに飛び去りし鳩は、わたしの心臓。もう戻らない、わたしの
鼓動’…俺はそれ以来彼女に支配されてしまって、ほかの人に代わりは務まらない。手に入らなくても構わない、ずっと
夢で、追い続けるしかないんだ」
「探さなかったの?」
「探したさ。あっさり見つかった。有名な舞台女優だった。でももう亡くなってる」
「なんて人?」
「まあいいじゃないか」
「…けち」
「きみも、そんな映画俳優になれたらいいね。ひとりの男の人生を、台無しにするくらい」
「…それっていいことなの」
「いいことだよ。俳優冥利に尽きる」
安芸穂波は少し間を置いてから、涙を拭って堪忍したように言う。
「電話、するよ。マネージャーに」
「うん」
「でもその代り…」
「何だよ?」焦る。
「映画の撮影が終わったら、遊園地でデートして。今度はちゃんと来て」
「……」
「いやとは言わせない」ものすごく怖い顔でこちらを一瞥してから、携帯を取り出した。
それから暫く、安芸穂波は映像の中でしか見かけなくなった。相変わらずテレビには出ていたし、映画に
絞ったりなんて、周りが許してくれそうになかった。忙しいんだか、僕のことなんて忘れてくれたのか、映画が
公開になっても遊園地への誘いは無かった。
5.ほんとうの頂点
嘘は言っていないけれど、隠したことがあった。その女優となんの接点も無いように言ってみたが、ほんとうは
あったのだ。
高校で演劇部に所属して、アルバイトしてチケットを買い、彼女、日野海里の舞台を中心に様々な演劇を観た。
大学に入って演劇サークルに所属したけれども、3年生からは彼女の劇団の研修生になって、公演のエキストラや
受付などの手伝いをやるようになった。最初ほどの刺激は無かったものの、彼女の演技はいつも誰よりも素晴らし
かったし、どんな役でもこなしてしまっていたし、ほんとうに尊敬していた。舞台で観るよりも小柄な、衣装でなく
普段着の長髪の少年のような姿も好きで、よく見つめてしまっていた。時折その視線に気づいた彼女はこちらを見て、
曖昧に笑った。またあの子だわくらいには思っていたかもしれない。
1年くらいそうして、4年生の夏に研修所近くのドトールのカウンター席で、時間まで本を読んで過ごしているときに、
隣から
「難しそうな顔。何読んでるの?」と頭から離れないあの声がしたときは、飛び上がらんばかりに驚いた。「これから稽古
なの?」
「…は、はい」
「3時からでしょ。此処、お邪魔していい?」
「どうぞ」僕は本をしまって、面接みたいに聞かれたことに対して答えた。今読んでいた本のこと、演劇のこと、研修所の
こと。その間彼女は、快活に話の舵を取り、珈琲を飲みながら親切な相槌を打った。
「僕、7年前のあなたの舞台を観て、芝居の世界に入ったんです」思い切って言ってみる。
「えっ、そうなの?」嬉しそうに眼を見開いて、僕のほうを覗き込んだ。「何観てくれたの?」
「舞台版‘橋守妖妃綺憚’…お蔓の役です」
「…すごいな、あれ、初主演だったのよ。20歳だったの。中学から舞台やっていたからいろんな役は貰えていたけど、
主役は初めてだったの。今思い出しても、ゾクゾクする舞台だわ」
「僕も今でもゾクゾクします」
「怖かったでしょ」笑う。「そのとき、いくつだった?」
「14、中学3年です。それからあなたの舞台は全部観てます」
「……」黙られて、咄嗟にヤバい、気持ち悪がられてるかも、と思い否定した。
「ごめんなさい、別にストーカーみたいなかんじじゃなくて、あなたみたいに芝居ができたらって勉強を…勿論全日
じゃないですし…」
「ああ、ごめんなさい、そういうふうには思ってない。ただちょっと…」
「え?」
「…ううん、またもうちょっと考えたら言うね。ありがとう、今日は行くわ。今度、研修生の舞台も観せてもらう」あっと
言う間にトレイを片づけ、荷物を持って出て行った。
僕は呆気に取られ、稽古までの時間を頭に入らない読書の続きをして過ごした。
僕としては初めて話した興奮、そして何かまずいことを言ってないかという不安で押し潰されそうだったが、あの暗い
闇から僕を見下ろしたお蔓も、隣に座ってみれば普通の等身大の女性なんだなあという気持ちもあった。
僕の答えた言葉のどれにもちゃんとした感想を持ってくれて、すごくできた大人ではあるけれど。
数日後に稽古が終わってミーティングをしていると、誰かが
「日野さん居たよな?」と言った。「後ろのほうで、俺たちの芝居を観てたの、あれそうだよな!」いささか興奮気味な
その声に、彼女の偉大さを感じる。ほかのみんなも「何か批評いただけるんだろうか」「うわー、情けないことしてなかった
ろうな俺」などと騒いだ。結局その日もそのあとも、彼女からの批評や感想めいたものはアナウンスされなかったんで、
見間違えか、ただ時間ができたから寄っただけかだろうってことになった。僕は今度観にいくと聞いていたので、まあ
来ていたんだろうとは思ったが、大した意味があるとは思わなかった。
ドトールで会えるというほうには、期待もあったのかもしれないし、簡単に習慣を変えるほうではないし、その夏ずっと、
稽古の前には時間まで同じように過ごした。でも彼女はあれ以来現れていなかった。まあ売れっ子なんだし、毎週
此処へ寄るほど暇ではないだろう。
秋になって、飲み物をホットに切り替えた頃に、喫茶店ではなく稽古を終えて駅に向かうところで、後ろから追い掛けて
来る足音がして、僕に並んだところで急ブレーキをかけたのが彼女だと判った。
「居た居た、探してたのよ。最近受付とかやってくれないじゃない」僕は驚いて、相当間抜けな顔になっていたと思う。
「…ああ、どうも…受付、人気があってなかなかできないんですよ。客席には居ますよ」
「知らぬ間に帰っちゃってたのね。お見送りしてたのに」
「…いや、反対で…客席で研修生同士、油売ってるうちに役者さんが楽屋に帰っちゃうんです」
「なんだそうなの」
「何か用だったんですか」
「ううん、ただ話したかっただけ。駅まで行くなら、一緒に行きましょうよ」
僕はただ、彼女は自分を褒めてくれる人と話したいんだろうと思った。けれども芝居の話なんかしやしない。最近どんな
音楽を聴いたか一方的に喋ったり、僕の故郷・山梨について尋ねたり。普通の話題だった。何度かそんな駅までの道や
ドトールでの遭遇を重ね、年齢差やら尊敬と恋愛感情の違いやらの回りくどい質問の後に、彼女はあっさりと僕の恋人に
なってしまった。まるでそもそも其処が自分の席だったみたいな雰囲気で、入り込んで来てしまった。今まで遠くから見ていた
女性が急にそんな近くに居たので、僕としては驚くしかなかった。僕にとっては言うまでもなく、彼女が初めての恋人だった。
お蔓のメイクをしていない、やや幼い27歳のその人は、僕の右腿の上に腰かけ首に両手を回して、僕を求めた。触れ
られるとは思ってもみなかった髪や肌に触れ、指を絡めて歩き、その状況に慣れてきた頃に、僕は大学と研修所を卒業した。
ただ正規の役者として劇団に残れるのは二人の枠しか無かった。僕は落ちて、よその劇団のオーディションを受けた。
同じ舞台に立つことはなく、それぞれの道を歩み始めた。もともとふたりのときは芝居の話をしたがらなかったけれど、海里は
報告無くちゃんと活躍していた。僕は端役を貰い、エキストラをし、アルバイトをした。
お互いのアパートを引き払って一緒に住み始めたけれど、其処でふたりで過ごすのは稀だった。会う、という言い方のほうが
正しい。それでも時々は愛し合っていたし、お互いに何の文句も無かったので、敢えて打破しようとは思わなかった。
海里の29歳の誕生日は、時間をやりくりして一緒に過ごした。豪華な料理を作ってくれ、プレゼントには時計をあげる。
「来年は、指輪にしよっか、お互いにあげるの」などと言うので、
「え、それって…」と返すと、
「そう、プロポーズ。わたしは、自分からするって決めてたの」と悪戯っぽく笑った。「何も変わらないでいい、今のままをずっと
続けたいの、すごく幸せ…」
養ってあげられるとはとても言えない状況を複雑に思いながら、ぼくは誠意を持って頷いた。
けれども、海里の上り坂は、それまでだった。頂点を迎える前に、癌性の腹膜炎に冒された。もう手の施しようが無かった。
如何に死ぬかということが問題だった。倒れたときに付き添って病院に行った僕はそれを聞いて、告知をすることにした。彼女の
強さを信じてそうした。
海里は泣かなかった。
「誰にも知らせないで。ふたりで過ごそう。家族も親戚も居ないの、こういうときラクチンでしょ? ただ、わたしが死んだら、東向井に
ある‘チルドレンハウス・太陽’に居る徳井先生には手紙を渡してほしい、彼女がお墓のこともやってくれると思う。頼める?」
勿論だと言った。
僕のほうが泣いた。知らなかった。彼女は孤児だったんだ。ひとりぼっちで、芝居だけを糧に生きて来たんだ。
アルバイトを最低限に減らし、ふたりして舞台を休んだので怪しまれたけれど、気にはせずできるだけ長く海里と居た。
やがて一滴の涙も僕に見せずに、彼女は静かに眠りについた。埋葬を、その徳井先生にお願いした。ささやかなお葬式もして
くれた折に聞いた話では、その孤児院出身のこどもたちは日野と名乗り、其処が実家となるようだった。結婚したり養子になったり
しなければ、其処のお墓に入れてもらえるのだそうだ。
海里は研修所に13歳のコースに合格して、孤児院を出て寮に入った。15歳でデビューを果たして以来、必ず孤児院に
招待券を送っていたと言う。スタッフは代わる代わる彼女の晴れ姿を観に行っていた。
事の次第を海里の劇団、僕が研修生で居たところに伝えに行った。一緒に住んでいることを海里は隠していなかったみたいで
皆知っており、話は早かった。彼女の死は、演劇雑誌や新聞を多少騒がせたけれど、すぐに忘れられた。僕はマスコミを回避
して暫くおとなしく過ごし、海里の面影の残る部屋は出ることにした。
後を追うことも考えなくもなかったけれど、彼女が望んでいたとしたら心中を持ちかけただろうし、なんとなく、ずるずると義務的に
生きてしまった。それからは普通に生活できたけれど、胸の中心と目の周りがすぐに疼き、ちょっと物理的精神的に刺激があった
だけで瞳が涙でいっぱいになった。花粉症のふりで、しょっちゅう鼻をかんでいた。ショウウインドウなんかに映る自分の顔は、今まで
通りつまらなそうだったし、もともと快活ではないので何も変わりなかったけれど、僕の中身はだいぶ変わってしまった。
彼女は何も言い残さなかった。わたしなんて忘れて、とも、忘れないで、とも。忘れられるわけは無かった。思い出すのは笑顔の
海里だけ。泣き顔なんて見たことも無かった。
それでも時間とは残酷なもので、あらゆる方向に治癒の兆候が見られ、僕は鼻をかまなくてもアルバイトできるようになった。
そうしてまた、舞台に立てるようになっていった。
ほんとうは30歳ではなく、22歳とか23歳とかの、海里と過ごしたあの辺りが、僕にとっての頂点だったのではないかと思う。
今思えば、舞台にもう一度立ったらいけなかったのかもしれない。あのとき全く違う人生を歩み出していれば、また別の頂点が
あったかもしれない。しかしそんな考えは全て、後の祭りなのである。
再び、等身大の海里ではなく、舞台の妖妃・お蔓が僕の人生を支配していた。
6.下り続けて五年
久しぶりに楠木と飲みに行って、人生について語り合った。同じ歳で、なんの希望も無く芝居にしがみついているクチで、同じ
ような状況下で燻っているのだった。
「俺、劇団の中での自分の役割を考えたんだけどさ」楠木は肉蓮根をつまみながら、こちらを見ずに言う。「貫禄あるから主役
張れるじゃん、若い役者が主役だったら、カーテンコールでトリを飾れるような重要な役を貰えるじゃん。そのうち後者だけになって、
だんだん御役柄が決まってきちゃってさ。なんかだんだんつまんなくなってくんじゃないかって。でもよそへ行くと主役なんか貰える
わけないじゃん。雁字搦めっていうかよ」
「…全く同じこと考えてた。あと、稼ぐことがプロなんだとしたら、なんか、これって趣味なのかなとか」僕はビールを飲まずに眺め
ながら言う。
「考える考える!」
「なんか動けなくなるよね…」
なんの結論も出ないまずい解散になって、楠木は地下鉄の駅のほうに去って行った。僕はちょっとしか飲んでないのにあまりにも
眠いので、うちまで帰りつけるように一杯珈琲をひっかけて行こうと、駅の珈琲スポットに寄った。
何も考えずにカウンターに座って一口ブラック珈琲を飲んでから周りを見回すと、やけにあのドトールに似ていることが判った。明らかに
違うチェーンだし、場所も違うし、なんでこんなに酷似しているんだろう。
今にも左側の席に海里が現れそうで鼓動が高鳴った。わざとゆっくり珈琲を飲んでみたけれどそんな筈は無く、僕のほかに客は
居なかった。紙カップは空になった。まだ早い時間だったが目も覚めて来たので、迷わず店を出てホームに向かった。
階段を上がるときに、追い掛けるような足音が聞こえて来て、ギクリとした。電車も来ていないのに走って階段を上がる元気な
人も居るだろうけど、僕は構えてしまった。今日はなんでこんなに期待するんだ?
僕の隣まで来て急ブレーキをかけたのは、海里ではなく5年ぶりの安芸穂波だった。変装スタイルだけれども、僕は一度その手順を
知ってしまったのですぐに判った。
「やーっぱり、のりたまくんだ! 全然変わらないね」
「何やってんの、電車とか必要無いだろ、おまえ」
「またそーゆー…今日は個人的に調べ物があったから、そこの大きな図書館に閉館まで居たのよ。明日にでも襲撃しようと思って
たんだけど、会えたなら話は早い」
「なに、襲撃って…」
「橋守のお蔓、やることになったの」
「なんだって?!」
「図書館に、DVDあったよ…日野海里さんの」
「…えっ」僕は素で動揺してしまった。
「非売品だったから、持ってないでしょ」目を逸らして、階段を再び上がる。「ごめんね、意地悪言って。調べてたらすぐに判っちゃった。
あなたの言ってたセリフが何のお芝居の何て役のものなのか、11年前に演劇界を震撼させたその役をやった人は誰だったのか。
ついでに、亡くなったときの話も、いろんな人が教えてくれたよ」
「…そう」僕は階段を上がりきって、線路のほうを向いた。
「誰とつきあっていたかもね」追い掛けて来た安芸穂波は、斜め後ろから言う。
「あっそ」彼女を見ずに、続ける。「言っとくけど、俺は嘘は言ってないからな」
「見た目もだけど、態度も全然変わってないねえ、のりたまくん」
「それで? その役をやるから何?」振り返ってそちらを見ると、眼鏡を外して仁王立ちでこちらを睨んでいる。
「その役をやって、日本中を唸らせることができたら、またあなたのところ行くから。もうそのまんま住んじゃうから」
「…何を言ってるんだか」また前を向く。
「海里さんには負けない。5年間、演技の勉強本格的にやったんだから。キャリアは全く同じ。こちらは悪いけど、初の主役では
ないけどね」
「俺、観ないよ」
「観なくても、噂は耳に入るでしょ」
「…おまえが彼女を超えたところで、何も救われないんだけど」
「言うと思った。でも、何かは変わるよ」
「俺には関係無い」
「まあ見てなさい」通過電車が、目の前を横切る。その間、ふたりは黙った。
「…意地悪の仕返しだけど、おまえ、お父さん生きてんの?」
「うん? 生きてるよ」
「じゃあお兄さんは?」
「もともと居ない。両親健在ひとりっ子」
「…とんだ勘違いだな」
「何が仕返し?」
「…なんで俺なんだよ、たった1回共演しただけで、しかもろくに喋ってないのに」
「説明できないでしょう、恋心ってえのは。まあ、強いて言えばそもそも好み。見た目とその、覇気の無い
投げやり性格」
「悪かったな」
「でもすっごくやさしいのよね」
「どこがじゃ」
「じゃなきゃ友達の子預からないって」
「あれは単に面白いから」
「友助くん、元気?」
「相変わらず時々泊まりに来るよ」そこで電車が入線して来た。中に入り振り返る。「おまえ、あっち?」
「こっちだけど、やめとく」
「へ?」
「また公演後に襲撃する」ドアが閉まる。窓ガラスのむこうで、帽子の下の目の辺りに涙が滴っていた。
また泣くか…その時点で負けてるし…。
3ヶ月後に、‘橋守妖妃綺憚’が公開になった。海里のことを知らない仲間は誘ってくれたが、楠木や団長は何も
言わなかった。それでも、見かける演劇誌の表紙は、お蔓メイクの安芸穂波だったし、見出しもすごい褒め言葉
ばかりだった。稽古場でもやたらにその話題だった。
団長が、話に加わらずにひとりで居た僕のほうへ来て
「きみと日野海里のなれそめの話まで、私は聞いている。だから誘わなかった。でも、行ったほうがいい。観るべきだ」と、
千秋楽のチケットをくれた。
「団長…」
「無駄にしないでくれよな」
最後まで迷った末に、当日になってようやく決意をしてチケットにある時刻、劇場へ行った。キャパ100しか無い
狭い劇場で、通称「穴蔵」と呼ばれるところだった。海里がやったところとは違うが、規模は同じだった。其処で1日
1から2回、10日連続だった。パンフレットを見ると、プロデュースは安芸穂波になっていた。企画は勿論、会場や
キャストやスタッフを選び、衣装や大道具小道具などを全てチェックし、なんと演出にも助言したと書いてあった。
始まってすぐに気付いた。脚本はそのものを使っているが、照明やセット、役者の出方立ち位置など、海里の
ときと何一つ同じものは無かった。真似と言われるのが厭で、一から考え出したのだろう。
やがてお蔓が現れた。
「蒼穹の果てに飛び去りし鳩は、わたしの心臓。もう戻らない、わたしの鼓動…」海里のとは違って、ドスの聞いた
印象的な声にはしていなかった。放心したように、呟くように
言っていた。お陰様で、海里とはダブらなくなった。目つきもあんなに鋭くはなく、焦点が合ってないような、どちらも
そうだが違った意味合いの狂女になっていた。
そうして最後に、あるべき筈の無い、海里が言ってはいないセリフが入っていた。
「そうしてわたしは、あなたを解き放つ。支配ではなく、見守るためにわたしは滴る。いつまでも、あなたのために……」
…不覚にもそこで涙してしまった。周囲も完全に涙の渦に飲まれていた。そこで幕。カーテンコールには、安芸穂波は現れ
なかった…客席から名前を連呼されても。
アナウンスで、体調不良のためと言われた。帰って行く人たちは、心配しながらも、演技について絶賛していた。
「アイドルの演技じゃないよねえ」「芝居畑の人みたいだった」「体調悪くてもがんばっちゃったんだねえ」などと。
僕はみんなが出て行ってから、ようやく立ち上がった。まだ涙が出ていたので袖で拭って、後ろのドアのほうへ向いた
そのとき、
「乗田さんですか?」と声がかかった。アルプスの少女ハイジのロッテンマイヤーみたいな眼鏡をかけたスーツ姿の女性が、
舞台脇のドアから上半身を覗かせていた。声に聞き覚えがあった。
「そうです。もしかして、橘さんですか」
「はい、その節はありがとうございました。今日あの子があるのは、あなたのお陰です」
「そんなことは…」僕は続いて落ちて来る涙を拭いながら「すみません、安芸さんの演技、というか演出がすごくよかったもので」
「医務室で寝ているんですけど、よかったら会ってやってもらえませんか」
「ほんとうに具合が悪いんですね、まああれだけのことをしたら」
「今日は最初から調子が悪くて」
「そんなふうには見えませんでした」橘女史がもう一度ドアのほうへ招く仕草をしたので、僕は躊躇して少し考えてから、
「…いや、お大事にとお伝えください」と頭を下げて、出口へ向かった。
かっこつけすぎなんだろうか。でも今、褒め言葉を与える気には全くなれなかった。一目散にうちへ帰って、ドアを閉めた。
その途端、電話が鳴った。
「…もしもし」
『…のりたまくん』シマッタ、と思う。そうだ、こいつは住所もメアドも電話番号も知ってるんだった。『来てくれたんでしょ、
どうだった?』ほんとに具合悪そうな声だった。
「…10年も経てば」僕はぶっきらぼうに言った。「照明も大道具も進化するし、演出で如何様にも見せられる。おまえと
海里の演技は比べられない」
『比べなくていいよ。今日の舞台みたいのは、好き?』
「…うん」堪忍して唸るように答える。
『ならよかった…』
「おまえ、大丈夫なのか?」
『ちょっと疲れただけよ』
「そうか」…少し沈黙したので、僕は思い切って言った。「ありがとうな、ちょっと…救われたわ、最後の脚色」
『あはは、あれは賛否両論だけどね』
「だろうな、あんなに結末変えちゃ。まあ人生頂上過ぎて下り坂でも、いい芝居観たら少しはましになるよな」
『下り坂って、まだまだこれからじゃない! 全く弱気なんだから。わたしはまた映画に戻るよ。バリバリやるんだから。…舞台は
しんどいねえ。なんであんなに何回もやるのよ』
「知るか。そういうもんだ。まあ、いい映画俳優になってくれ」
『おう、なってみせるさ』
そんなふうに電話を切ったので、公演後の襲撃の件はすっかり忘れていたのだが、1か月くらい経ってから、また自転車
置き場で待っている安芸穂波に出食わした。
「やーっと帰って来た」
「なんで?!」
「だから、これからまた一緒に頂上目指すために来たのよ。あなたのこと、見守るんだから…一生ね…」
…妖妃だ、と僕は思った。
一番怖いのは、支配を取り去ると見せかけて支配しにやって来る、銀幕から飛び出して来たやり手の女優かもしれない…。
了