似非御伽草子〜源氏物語〜 

 

 


                                                小林 幸生  2011

 

 

源氏は療養のために訪れた地で、密かに恋い焦がれる藤壺の面影をもつ少女を垣間見る、実はそこは藤壺の

祖母の家で、少女は藤壺の姪であった。後に身寄りの無くなった少女を引き取り、藤壺の身代わりに理想的な

女性に育てようと考える。

 

  章太郎の叔父さんである“げんちゃん”の店は、男ふたりで切り盛りしているというのに、なんであんなに少女趣味で

きれいなのか、行く度に目を疑う。花屋だから当然と言えば当然だが。自治会で見るげんちゃんは、小倉花卉店

という名前をつけて、仏花みたいなのばっかり売ってそうな、男前ではあるが無骨なイメージなのに、店の名前は

ブルーメンクランツ、店頭にキッチンブーケが並び、全体的に淡い色の花しか置かず、お待たせしたり配送伝票を

書いてもらったりするガーデンテーブルとチェアは白、本人はダンガリーなどのシャツとワークパンツに濃いグリーンの

エプロン、揃いのキャスケット。此処はシャンゼリゼ通りかい!と思う。パートというか昼のアルバイトというか、の

一央くんも、ミュージシャンの卵のくせにその格好が妙に似合うし(普段は革ジャンとかなのに)

  おれは最近、塾が始まるまでの小一時間、お邪魔しては店の奥の事務所でげんちゃんと将棋やチェスに興じる。

げんちゃんは休憩でもないのに、一央くんに店を任せて、発注用の電話に繋がった特殊なマシンを片手に、二刀

流で駒を動かす。ふたつのことがよくいっぺんにできるもんだ。自分で言うのもなんだがおれは秀才ではあるが天才

ではなく、不器用なので、集中しないと何もできないのだ。

  片手間にやられながらも勝てない毎日。出て行くときに一央くんに

「きょうは勝った?」と言われるが

「また負けたー」と言うしかない。

「亮輔くん、絶対本気でやってないよね」

「やってるさ」めっさ本気でやって、片手間のげんちゃんに負ける、この屈辱。学歴なんて関係無いのだ。げんちゃんは

高卒なのに将棋だけでなく、星、魚、虫、野球、サッカー、パソコン、料理、興味があるもののオタク度はかなり

高い。しかも店の名前はドイツ語で花冠、いつそんなのを勉強したんだ。

 

 章太郎のところには寄ったり寄らなかったりで、きょうは母親にお団子を頼まれていたし、顔を出す。

「いらっしゃい…おー、亮輔」

「りょうすけもおだんご好きだなあ」ショーケースとは反対のほうから、駿の声がし、覗き込むと、手を挙げる。こちらも

挙げて、厨房のおやっさんにも頭を下げて、章太郎に注文する。

「またげんちゃんに将棋負けた」と、すっかり慣れた手でだんごをパッキングする章太郎に言う。

「商店街一強いらしいよ」それはちょっと、ショボいけどな。

「全国大会とか出たことないの?」

「ないんじゃない」おやっさんにも聞いているが、無いねーと言っている。

「口笛コンテストと毛筆は関東で銀賞らしいけど」新たに知る才能!

「なんでもできんのな」

「できないのは結婚だけか」兄と甥は笑わずに言う。

「ひとりではできないしな。でも立派に生活して店をやってる。ひとりでやることは、難無くできるのか」

「かもなー。昔から、手伝おうとしても“ひとりでできるもん”なんだよな」おやっさんは苦笑する。

  母親に頼まれた品を買い、まだ糞暑い9月の日射しの中うちに戻ると、塾の出入口の前に、榎本真悠子が

居た。いやな予感を抱きつつ顔に出さず、生徒に対するちょっと砕けた先生の顔を作って言う。

「あれっ、まだこっちに居たんだね」

「すぐに引っ越してほしかったわけ?」

「なんでやねん」彼女は中2。先月末、福岡に引っ越すからと母親と挨拶に来て、辞めたのだった。

「明日、引っ越すの」

「へえ」

「だから最後に会いたくて。先生、メアド教えてくれない?」

「…それは無理」

「なにかっこつけてんの、もう生徒じゃないからいいじゃない」笑顔がひきつっている。

「余計にでしょ。なんで塾辞めたのにって」

「好きだからに決まってるでしょ」

「簡単に結論出さない。ほかの人でも、東京経験者で学歴よければ同じように憧れるよ」

「違う、うちは先生だから…」上目遣いされ、目を逸らす。

「それにおれ、カノジョ居るから。じゃあ元気で」

「えっ、この1カ月、つけてたけど、デート1回もしてないじゃん!」悪びれもせずつけてたとか言う。「まさか、あの、

商店街の和菓子屋の息子じゃないよね? あの人なら何回か会ってた」

「カノジョっていうからには、女だし」呆れて言う。「東京に住んでるから、会ってはいない。でも電話毎日してる

から」おれは家のほうの入口の戸を閉めてしまう。外から、先生のバカー!と聞こえ、暫くして駆けていく足音。

バカはおまえだ。

「しょーがないなあ、何人目だ」父親が中で腕組みしていた。「まだ講師4カ月目だってのに」

「知るか、おれは気を引くようなこと、してないし」

「見た限りそうだが…あの子は順番逆だけど、みんなおまえにフラれて辞めるんだ、勘弁してくれ」

「じゃあつきあっちゃえばいいのかい」

「それは更に勘弁してくれ」

  台所にだんごを置き、洗面所へ。嗽をしながら鏡を見る。

  大したことないと思うけどなー。華奢だし、眼鏡はまあ、やたら好きな女も居るらしいけど、ファッションだって、

塾のYシャツと私服のTシャツにジーンズで特別なことはないし。教えられるとやさしくされた気になるのか? おれ

だったらげんちゃんのほうがずうっといい。ああいう男がひとりもんで、おれがカノジョも居て生徒から4カ月の間に

6人も告られるなんて、わけが解らん。しかしだ。そもそも週に1回しか電話してないし、先週は出てもらえなかった。

毎日電話してるなんてのは、嘘だ。

  9つ歳上のカノジョができてひと月の章太郎は、トキメキ真っ盛りで、そんな相談はできまい。まあ、終わるなら

仕方無いと思いつつ、次の週末まで放置する。

「亮輔くん、元気?」将棋を指しながらげんちゃんが聞いてくる。

「なんで?  元気無さそうに見えます?」

「なんとなくね」鋭いな。

「げんちゃんて、店のレイアウトとかどうやって考えたの? あとお店の名前とか」話を逸らす。

「インターネット見てるとさ、いろんなお店の写真出てるじゃん、それで参考にしてる。名前はつけてくれた人がいて、

レイアウトの最初の最初は、その人の入れ知恵」

「へー、誰?  お兄さん…なわけないか」

「んなわけない!」笑う。「ある音楽家」

「音楽家なんて、どうやって知り合いになるわけ」

「此処ね、花屋だったんだよもとから。坂井花卉っていう。最初そこの息子であるおれの友達が継ごうとしたん

だけど、うまく行かないから、おれ次男坊だから和菓子屋継がないしね、手伝おうと思ったわけ。したら失踪され

ちゃって。しょうがないから好きにやってんのよ。で、音楽家ってのは、もともとのお店の常連客」

「え、坂井さんは戻ってきて、うまくいってるこの店をおれのもんだって言わないかな」

「戻って来ないし、店を頼むって手紙があるから心配無いね」笑っている。それはつまり、遺書と死体が見つかった

とか、そういう意味?

「音楽家さんは、よく来る?  おれ会ったことある?」

「そう言やー最近来ないなあ」なんてことなく言うげんちゃんに、おれは少し小芝居を感じた。こういうレイアウトをするのは、

女に違いない。彼女に実らない恋をしたか、両想いなのに先立たれたか。

「来たら紹介してね」

「なんで?」

「音楽家の知り合いなんて、居ないから」

「ははは、そうか。じゃあ是非な」

  その日も負けて、直接家へ。玄関からして既に、中の緊張感が伝わってきた。

「どうしたの?」

「あーお帰りなさい」母親が振り向く。父親との間に、こどもが居た。こちらをジロリと見る。駿と同じくらいの女子だ。

塾でなくなんでこっちに?「従兄の高徳(たかのり)くんとこの紫音ちゃん」

「高徳にこどもなんか居たんだ。てか、結婚してたっけ?」

「知らなかったよね…」

「知らなかったんだ…」聞けばひとりで育てていたのだが、事故に遭って急死したので、きょう告別式をして、親戚で

協議してうちに来たのだそうだ。つい、章太郎の生い立ちに重ねてしまう。

  5時になって塾へ行かなければいけないので、事務室で読書をさせ、3人のおとなはそれぞれの教室へ散る。

 一応うちは入塾試験をして成績の良さではなく苦手分野を見て、面接を通った者を少人数しか取らないから

問題児は居ない。7時まで小学生、8時から10時半まで中学生を、4人以内の教室でそれぞれ、並行して見る。

 おれの教室には5年生と6年生ふたりずつ、きょうは算数からスタートして、早くキリをつけた者は理科に行っても

よい。みんな気味の悪いくらいおとなしくテキストに向かう。それぞれのレベルと志望校に合わせテキストを作り、

臨機応変に変えていくので、苦手が徐々に無くなる。夏休み最後の提携塾全体の模試で、全員合格可能性を

80%越えた優秀な人材。まあ、指導したのはおれだけじゃないけど。

  質問が途絶えたときに一瞬事務室を覗くと、高徳の娘はおとなしく本を読んでいる。利口そうだから試験受け

させてみるか、なんて、さっき父親も言っていた。本を読む伏し目がちの顔は、東京に居るカノジョを思い出させた。

 空き時間はたいてい、夕食を食べながら生徒の情報交換だが、きょうは高徳の娘と話すことに気を取られ、

両親は生徒の話はしなかった。大丈夫かなあ、と不安になる。

  ちいさいこどもに罪は無いけれど、彼女が来たことで、4カ月で築いてきたものが崩れる気がした。

  10時になり、母親は塾の片付けをおれたちに任せ、眠そうなこどもを抱き上げて家に行った。おれたちが戻った

ときには風呂に入れ布団に寝かせた後だった。居間で母親に、

「なんでうちなの? ちょっと生徒のことが疎かにならない?」おれはべつに怒るでもなく言う。高徳は父方の従兄

だから、父に言うべきか、と思うが、母親は

「老いていない両親が揃ってて、手がかかるこどもが居ないのが、うちだけなのよ」

「片親だって立派なこどもは居るじゃん。章太郎とか」駿とか、と言おうとして、駿のことを母親は知らないと気付き、

口をつぐむ。

「今までおとうさんしか居なかったからね、千葉の幸正くんのところとかではまた不安になると思って。経済力とかも

考えてなのよ」

「ふうん」

「反対?」

「彼女が来たこと自体はいいよ、だけど塾のほうを疎かにしないでね。おれも協力はするけど」

「わかってますよ、よろしくね」母親は困ったように笑う。

  両親の寝室を覗くと、ちいさい布団に寝ていた。寝顔を見ているとやはり可愛いもので、そっと頭を撫でてから

部屋を出た。

 

  翌朝は母親は役所などをまわり、紫音は正式にうちのこどもになった。22で10歳の妹とは複雑だ。あまり喋ら

ない子だが、「わたしたちは新しいおとうさん、おかあさん。亮輔は、あなたのおにいちゃんよ」と母親に言われ、あどけ

ない顔で

「おにいちゃん…」なんて言われると、マジで赤面する。まずは生活に慣れさせるのが先なので、入塾試験は後にし、

4年までの勉強を父親がみていた。おれはげんちゃんのとこでも章太郎のとこでも、何気なく10歳の妹ができた話を

した。

「源氏物語の若紫も、10歳くらいだったよな」博学のげんちゃんが笑う。「手をつけたらいかんが、理想の女性に

育てるたのしみは、いいな」

「10歳だっけ」しかも、名前、紫がつくじゃねーか。「そのとき光源氏は何歳?」

「18歳」負けた()

「確か本命のほうが23歳、亮輔くんと同じ年」来月まで22だけどね。

「藤壺だよね?  葵の上じゃないよね?」

「藤壺だな」少しほっとする。そこまで同じでなくてよかった。

  章太郎とおやっさんは源氏物語なんかは引用せず、駿と同じ学年かー、と言っていた。

  帰宅すると、葵の上ならぬ葵から手紙が来ていた。厭な予感がして部屋に持って行ってから読もうと思うが、

玄関に紫音がいておずおずと

「お帰りなさい」なんて言われちゃうと、

「退屈してなかったか?  明日から学校なんだってな。たのしみだな」などと話しかけ、手紙はジーンズのポケットに

仕舞う。「おやつとか、かあさんに貰った?」と聞く。首を振るので夕飯まで長いし適当に食べさせ、両親を探す。

  母親は寝室で、昨日高徳の家から持ってきた紫音の服を広げては捨てるのを選り分け、使うのは畳んで箪笥に

仕舞っていた。

「おやつ適当にあげておいた」

「あらっ、もうそんな時間?  おとうさんにみててって言ったんだけど、あげてくれなかったんだ」

「居なかったし」

「えー」

「まあ小4ならずっとついてる必要無いけど、おれ塾の準備したら紫音のとこに戻るよ。食べてる間はほっといて

大丈夫だろ」

「助かる。キッチンには行くわ。おべんとも作らないと」

「そっか」じゃあそんなに急がないでいいのか。部屋でYシャツ姿になり、ネクタイを絞めながらふと葵の手紙を思い

出し、脱いだジーンズのポケットを探る。開けてみると、白黒のよくわからない写真が出てきた。センター辺りが

仄明るく、そこに小さな塊が見える。…なんだこれ。畳まれた便箋を開く。

“ごめん、子供できちゃった”

「はい?!」ひとりで叫んでしまう。もう一度写真を見る。端のほうに小さく、産院の名前があった。「羊水かよ…」

  おれはそれを胸ポケットに仕舞って、下へ。

「ごめん、塾始まるまでには戻る」

「あら、どうしたの」母親の素頓狂な声がしたが、もう玄関を出る。商店街に走る。おれが向かった先では、げん

ちゃんが店先で接客していた。

「亮輔くん」なんとお客さんは流果さんだった。

「おう、どうした」おれの顔を見て、げんちゃんの表情が変わる。「すんません、ちょっと代わります」一央くんに引き

継ぎをして、事務所に入る。

「すみません、仕事中に」

「いや、なんかすげー顔だぞ。男前が台無しだ」そんな冗談はスルーして、手紙を見せる。

「どうしよう。最近カノジョが音信不通だと思ったら、こんなことになってた」げんちゃんは手紙と写真を見比べ、

「ばかだなあ」と言う。

「ちゃんとおれ、避妊はしてましたよ。なのに…」

「こっちに帰って来てから、会ってないって言ったよな?」

「え、はい」

「ちょっと待ってな」店に出ていき、流果さんを連れて戻って来る。

「えっ、ちょっ…」できれば知られたくないんすけど!

「これって、3カ月くらいですよね」写真を見せる。流果さんはそれをじっと見て

「そうですね」と言う。「2カ月かも」

「おまえ、2、3カ月前なんて、会ってないだろ、カノジョと」

「…ああ」へなへなと床に座り込む。

「おまえは白だ」

「…てことは」

「おまえの気を引くための狂言か、またはだ」

「……」

「あ、流果さん、ありがとう。一応まだ、章太郎には内緒で」

「わかりました。亮輔くん、何か困ったら、相談乗るからね」

「ありがとうございます…」流果さんは店に戻る。

「おまえ、そんなに時間無いだろ、もう行かなきゃだろ。ちょっとしらばっくれて、相手の出方を見よう。きょうは連絡

するな。明日、将棋の時間にいろいろ考えよう」

「ありがとう、そうさせてください」

「ありがとうございましたー」一央くんが流果さんを送り出す声が聞こえた。おれも頭を下げ、塾に戻った。

  家の前に、見覚えのある後ろ姿があった。咄嗟に逃げたくなるが、メモを手にうちを見上げたあと、郵便受けを

こっそり開けようとしたので、

「おい」と声をかける。

「あ、りょ、亮輔…」暫くぶりに見る葵は、少し痩せたようだった。「ごめん、わたし、手紙を…」

「うん、見た。こんなほうまで旅して、大丈夫なのか」葵の目から涙が、ぶあーっと溢れ出た。

「ごめん、わたし、あなたを騙そうとした…後悔して、手紙を処分しようとしたのに、もう…見ちゃったんだね…」

「うん…」おれはちょっと迷ってから、塾の事務所に通し、まだ家にいたみんなに、カノジョが突然訪ねてきた、きょう

泊めてやってほしい、塾をやってる間は待たせると言った。

「あらま。おべんと、4人分しか無いわ」母親が要らぬ心配をする。

「何か買ってやるよ」みんなで塾へ行く。挨拶しているのをよそに準備をする。

「おねえさん、おにいちゃんのお嫁さんになるの?  わたし、昨日妹になったの。よろしくね」紫音が言うと、また葵は

はらはらと泣き出す。おれは放って、まだだれも来ていない教室へ行く。

「くそ、汗だくだ」トイレに寄り、顔をザバザバ洗い、手拭き紙タオルを濡らして腋を拭う。教室に戻ると4人とも揃って

いる。

「こんばんはー」「宜しくお願いしまーす」そしてもうテキストに顔を向ける。淡白な生徒たちでほんとよかった。気合いを

入れ直し、ひとりのスケジュール表を見ながら、彼らの質問を待った。

  間の時間になるとすぐコンビニに走り、稲荷セットを買って来る。事務所へ行くと、もうみんな居て、母親がお茶を

出していた。おれはコンビニの袋ごと葵に渡し、自分の席に着く。隣の葵が、袋からセットを出した途端にうっとなり、

流しに駆け寄って嘔吐した。母親がびっくりして駆け寄り、そしておれを振り返った。父親もおれを見る。ふたりがおれを

見るから、紫音もおれを見る。

「違う、誤解だ! おれじゃない!」言ってしまって後悔する。葵の立場が無いじゃねーか!

「ごめんね、確かにお稲荷さん、好物だったんだけど…こうなってから全然…」…聞かなかったおれが悪かったよ…。

  側で食べても厭だろうから稲荷は隔離して、夕食要らないと言うが栄養を取らないとってことで、またコンビニに

走り、大丈夫な素麺を買って来る。栄養にならないんじゃと思いつつ、天麩羅とかつけてまた吐かれても、と素麺

にしておく。

「塾10時までなんだよ。泊まって行けよな。話は明日聞く」食べながら言うが

「え、悪いよ。勝手に来たのに…」と困惑している。

「こんな時間に帰すほうが心配だから、泊まってちょうだいね。話を聞かないことには…まあ、話すのは亮輔にだけで

構わないけど、何も判断できないから」母親はそう言って、紫音に「きょうは何してたの?」と聞く。

「おねえさんに、折紙教えてもらった」と、見事な六角箱を見せた。

「あらすてき」

「ごはんの後は、わたしがピカチュウの折り方教えてあげるね」紫音は葵に言い、また葵は泣きそうな顔になる。

 トイレで歯を磨いていると、父親が来て、

「ほんとにおまえじゃないのか」と言う。

「この4カ月、会ってないんだよ。妊娠2カ月か3カ月だってさ」

「…そうか。それも問題だな」

  そうなのだ。妊娠自体が茶番であってほしかったのに、妊娠はほんとらしい。とすると、だれのこどもかって話に

なるじゃないか。また気合いを入れ直して中学生を見て、母親が紫音を、おれと父親は片付けをしてから葵を

連れて家に帰る。同じ部屋に寝る気はしなかったが、おれの部屋に入るとベッドの脇に客用布団が敷いてあった。

母親は何を考えてるんだ…。居間で母親に先に風呂に入れと言われ、母親のパジャマを借りている葵。これで

ほかの男のこどもを孕んでいなければ、微笑ましい光景なんだがな。葵には穏やかに対処しているのに、彼女が

風呂に入った途端におれに厳しい目を向ける。

「何が原因なのよ」

「原因?」

「彼女が浮気したんなら、あんたにも原因がある筈よ」

「遠距離かな」

「それはつまり、うちに帰って来て塾を手伝えと言った、わたしたちのせい?」

「そうは言わないけど…」

「女ばっかりこういう目に遭う」怒っている。おれが遭わせたわけじゃねーし。間接的にはそうだって言いたいのか。

 葵、おれ、父親、母親の順で風呂に入る。出て来たときは、紫音の、むこうから持って来たランドセルがおれの

出身小学校の通学帽とともに居間に置いてあった。両親の寝室で寝ている紫音を覗き見て、また頭を撫でる。

「きょうは紫音が居てくれて、ほんと助かった」

  翌朝は5人で朝食。葵は、母親が貸すと言った服を遠慮し、昨日の汗ばんだであろう服を着ていた。母親に

連れられて紫音が初登校。父親は朝食後、居間でパソコンに向かいながら

「2年の山内、此処を強化しよう」などと呟きながら、テキストを作っていた。

  おれは葵を連れて、自分の部屋に引っ込む。

「まず、話を聞くよ」とおれはベッドに、葵は椅子に腰掛けて向かい合う。

「……ごめんなさい、沢山迷惑かけて…」

「それは最後に言ってくれる?」

「ごめん…」暫く黙ってしまう。

「…じゃあ質問させてよ。葵は手紙を後悔して処分しようとした。てことは、おれのこどもじゃないって判ってるわけ

だね?」

「うん…」

「最初はおれに自分のこどもだと思い込ませて、慰謝料でも取ろうと思ったわけ?」

「違う、亮輔が結婚してくれたらって思ったの」

「べつの男を愛したのに? そいつとは結婚したくないの?」

「…結婚は…できない。妻帯者だから…」

「…サイテーだ…」思わず呟く。「おれは代わりってわけだ」

「代わりはあっち…だと思う…」

「いずれにせよ、代わりを作ること自体サイテーなんだよ。おれが浮気とか不倫とか大きらいなの、知ってるじゃ

ねーか」黙っている。「あっちは、奥さんと別れてくんないの?」

「言ってない…」

「そいつも、おまえのことは遊びなのか?」

「たぶん…」

「サイテーだなほんとに、でもって莫迦見るのは女だけなんだよ、なんで警戒しないんだよ、避妊はしなかったの

かよ!」ちょっと興奮してしまい、一度落ち着くために大きく息を吐く。

「したよ。スキン2枚重ねて。ふたりとも妊娠は困るから…」ちいさなこどもが言い訳するように、しょんぼりした声。

「困る…ふたりとも?」おれは沸き上がる嫌悪感を抑えられない。「なんで、騙されてたとか、知らない男に無理矢理

やられて父親はわからないとか、言わないんだよ。それなら可哀想だなって、おれの子だと思い込んで父親になる

のに…」

「……」俯いてしまう。

「だいたいなんで…おれが物足りなかったのかよ、近くに居ないからって、だったら会いに来るとか来てと言うとか…」

「……」

「何考えてるのか、全然わかんねーよ」おれは葵を、殴りつけたいくらい憎らしく思って、なんで付き合っていたのか

とか、もうほんとにわからなくなる。だいたいなんで、勝手に浮気して、勝手に押し掛けて、それでどうしたいんだ。

研究室で異彩を放っていた快活な葵は、もうどこにも居ない。ただの、淫乱女だ。「おれはそこまで判ってて力に

なれるほどお人好しじゃない。出て行け、二度と顔見たくない」

  葵は静かに顔を上げておれを見る。感情の無い、放心した顔だった。帰る途中で、死ぬかもしれない。けれど

知ったことではない。

  葵は目を逸らし立ち上がる。ハンドバッグを持ち、階段を降りて行った。ドラマとかだったらここで葵は階段から

落ち流産、おれは駆け寄って、やっぱり駆け寄るくらい愛しているんだ、と自覚し再縁。なんだろうけど、葵は静かに

玄関の戸を開け出て行った。

「あれ、おかあさん帰って来た?…気のせいか…」父親の暢気な声が聞こえる。おれは無視してふて寝をする。

母親には怒られそうな気がしたので、少ししてからおれも家を出た。迷わずげんちゃんのとこに行くと、まだ一央くんは

出勤しておらず、ひとりで店の硝子を磨いていた。

「忙しいとこごめんなさい」

「おう、いいよ。まだお客さん来ないから、此処に座んな」

「どうも…」

「昨日は連絡無かったか?」

「それが…」来たと言うと、げんちゃんは飛び上がる。

「なんだって?!」そしておれは、最後まで一気に喋る。

「見殺しにするんだよ。帰り道で死ななくたって、これからひとりで育てるとかさ、辛い人生を送るのわかっていて…」

「まあ、カレシのきらいなことを知っててやったんだから、当然の報いなんじゃないか?」

「口ではそう言って、本心で軽蔑したりしてない?」

「おれが裏表無い人間だって、知ってるよな」

「うん…」

「…不思議だなあ、なんで、おれに相談するんだろ」なんとなく笑っている。「おれが亮輔くんの味方でしかないって、

わかってんじゃない?」

「…もしかして、同じことを…」

「おれは裏切られて、そのくせすがって来た女を見捨てたんだよ…」げんちゃんは店の外を見る。「後悔なんかして

いない。当然の仕打ちだと思う」

「音楽家さん…?」

「彼女は坂井に乗り換えたんだ、坂井はおれに合わせる顔が無くて逃げ出した。残された彼女にはこどもが宿って

いた。おれの子だと言い張ったけれど、計算が合わないことを指摘した。坂井は遠くの海で見つかった。遺書が

あった…全ておれへの懺悔。店を譲るから許してくれと。譲るとはよく言ったもので…自分では何もできなかった

くせにな。彼女は坂井を失ってから鬱になって実家に帰った。おれは一度も会いに行ってない。許してもいないし、

元気になってほしいとも思わない」…なんてこった。商店街一と言っていいほどの男前で好中年の、心の闇を

見た。「寧ろ、軽蔑されるのはおれのほうだ」

「軽蔑なんかしない。同志だと思うだけだ」おれはげんちゃんを真っ直ぐに見て言う。

「ご両親は責めるだろう。世間的には、自分を殺して彼女と結婚してやるのが善てもんだろう。だけどな、彼女は

一生おまえに負い目を感じながら生きるだろう。壊れて死んだほうがマシだと思わないか」

「思う」

「ほんとうに正しいことを、世の中はわかってない。親に攻められたら、塾で教えるとき以外は、此処に居たって

構わない。おれはおまえを匿う理由がある」

「ありがとう。けど大丈夫、戦う。偽善と」

「流石だ」

「将棋の時間は、また来ていい?」

「勿論、歓迎する」

 

  家に戻りながら、章太郎の言葉を思い出す。“おまえ、たまに危険思想持つよな…” 章太郎は健全なのだ。

流果さんが駿の出生をどう語ったのか知らないが…おれに言わないということは不倫かもしれない…全面的に

信じて、全面的に守るつもりなんだ。まあ、流果さんは章太郎のカノジョでありながら不倫したわけではないから、

その辺りはおれとは事情が違う。ともあれ、おれが今回迷わずげんちゃんを頼ったのに、章太郎が叔父である

げんちゃんとそんなに親しくしていないのは、きっと芯から合うわけでないから。そういうことなんだ。

 

うちに帰ると、母親が帰って来ていて居間で父親とパソコンに向かって生徒のデータを見ていた。

「お帰り。葵さんは?」

「帰った」

「えっ、そうなの?」

「よその子だけど、おれに結婚して一緒に育ててほしくて来たみたいだけど」正しくは手紙を出した動機

だけど。「自分で後悔して、やっぱりいいって」

「ほんとうに?  あんたがよその子なんて育てられないって言ったんじゃないの?」

「おれも言った」そこは隠さない。「塾忙しいし、妹もできたばっかだし」遠回しに責任を転嫁する。

「……」

「ふたりには会い辛いだろうから、帰しちゃった。今はシングルマザーなんて珍しくないし、それを保護する

手当てだってあるし、あいつ両親健在だし」

「ふたりが納得してるならいいけど…あんたは大丈夫なの?  一応失恋なんじゃないの?」

「…まあそうだね。でもいい加減愛想尽かすよ、大丈夫」そうだよ。結局はおれは被害者だ。自分を

責める必要は無い。

  塾の時間までにもう一度げんちゃんの店へ行き、将棋を刺した。一央くんと軽口を叩き、げんちゃんとは

もう葵の話、音楽家の話はしなかった。出るときに振り返ると、音楽家のつけた名前の看板、レイアウトした

店舗があった。センチメンタルにそのまま使っているのではない。げんちゃんは、なんとも思っていないのだ、と

確信する。

  塾が始まる前に、紫音は帰宅した。

「どうだった、学校」おやつを与えながら聞く。紫音は何を与えても文句を言わずに食べた。

「楽しかった、みんなよくしてくれたけど、須磨さんて友達がいっしょに帰ってくれた」

「須磨…」おれはアイス珈琲を淹れて、むかいに座る。

「名前、スマップみたいだよね」

「そうだね」笑う。しかしなんでこんな、源氏物語みたいな名前が出て来るんだ。六条さんなんて居たら

気が気ではない。呪われそうだ。あ、呪われて病死したのは葵の上か。もう関係無いや。

「…おねえちゃんは?」ドキリとする。

「おうちに帰ったよ」途中で死んでるかもしれないけどね。

「おにいちゃんと結婚しないんだ?」

「うん、しない」

「…じゃあ紫音と結婚しよ?」噎せそうになる。

「へっ?」

「妹だから、だめかな…」

「…いやそれは……この場合はなんとかなるけど…歳がね、女の子は16歳にならないと結婚できない

のね」

「年齢制限があるんだ」

「紫音が16歳になったら、おれは28歳なのね」本気とも思えないが、なんとなく計算してしまう。「結構

おじさんでしょ? それに16歳って、法律で許されてはいるけど高校生だからさ、すぐには結婚しない人の

ほうが多い。だからね、紫音が結婚したいような20歳過ぎとかになったら、おれは30過ぎて、もっとおじ

さんなわけ。それでもおれがよかったら、そのとき相談しよう。それまではべつに言ってしまったからと言って

それに縛られなくていい。大学行ったりおれなんかより大好きな人ができたりで、事情は変わる。結婚自体、

したくないかもしれないしね」

「……」一気に喋りすぎたかな。一生懸命考えている。かるーく応じて話を逸らしたほうがよかったかな。「今は

約束はできないってことね?」突然、おとなのような結論を出す。怯みを悟られないよう、落ち着いて言う。

「…少なくともあと6年、きっとそれ以上でしょ。お互いにこれから、何があるかわからないし」

「うん。死ぬかもしれないし、ここに居ないかもしれないし」どちらの話をしているのだろう。おれ? 自分? 

けれどもそういう発想をする紫音は、こちら側の人間だと思った。

「…まあ、そういうこともあるから、そのときにしか決められない」紫音は首を縦に振った。

「ありがとう、真剣に答えてくれて」10歳とは思えない発言。おれはおれで、告白された生徒たちより現段階では

ありえない年齢差や間柄でありながら、確実にうれしいのだった。このまんま清楚な中学生、高校生、大学生と

なっていったら、ジジイのくせにおれからプロポーズしちゃうかも。でもどうせ、ありえない。今は父親を亡くして寂しい

のだ。親父たちよりおれのほうが高徳に近いから。父親が恋しいだけだ。

  塾の間、紫音は宿題もして、噂では2時間の駿、昔1時間だった章太郎と違って、見てはいないがとっとと

終わらせているようだった。学校に出す前にチェックした母親が

「成績よさそうね」と先をたのしみにしていた。

 

  水曜日の朝、久しぶりにメールして章太郎をランチに誘うと、ごめん流果さんと約束しちゃった、と返って来た。

〉あ、ちょっとだけ参加させてもらえないかな。ふたりに報告したいことがあるんだ。昼飯の後のお茶とか、どう?〈と

返して、暫くしてオーケーと来た。

「なにふたりに報告って。もしかして、結婚するから式に来てくれって?」駅前のドトールで、章太郎が無邪気に

言い、流果さんはちょっと動揺している。この様子だと何も話してないな。

「反対だよ、別れた」

「えーっ」

「浮気されちゃった、で、怒って棄てた」そう言えば女性の死体発見、腹には子供、とかニュースは無い。

「おまえ竹割ったみたいな性格だもんなー。浮気とか大きらいだし。でも超元気そうに見えるんだけど、空

元気?」

「元気だよ、冷徹なくらい、もうなんとも思ってない」流果さんは信じていないのか、ちょっと悲しそう。…いや、

カノジョに同情してるのかも。なにせ胎内画像見せられて…ほんとだと思うのなら(ほんとだけど)、それから

どうしたんだろうって。

「逆にいいことあったようにも見えるし」

「妹が、超かわいくてね。ああそうだ、駿と同じ歳なんですよ」

「女の子か。しかも血縁なんでしょ、それは頭もよくてしっかりしてるんだろなー」流果さんは駿を思い浮かべて

苦笑い。

「見合いさせるか」章太郎が名案とばかりに言う。

「まあ駿ならばおれはいいと思うけど」たいてい、あのくらいの女子は男子を幼稚と思っているからなあ。というか、

駿は健全すぎて、章太郎・ぜんちゃん・棚見親子グループと紫音・おれ・げんちゃんグループで、ばっちり境目が

できている。おなじような境遇、しかも今のところまだ母子家庭の駿のほうが断然幸せそうで明るいのはなぜだ。

「学区は中学も違いそうだし、高校はまあ可能性…」無いなと思ったが「あるけど」と言っておく。「あ、でも、

ふたり、いつ結婚すんの?  蓬莱堂に住むんなら、学区同じになるじゃん」

「あーほんとだ!」章太郎が目を見開く。「いや、考えてるけど、具体的にはまだ…」流果さんが確か31歳

だから、まあ5年くらいつきあってから結婚したって今は一般的だ。でも駿の学年を考える。「来年がベストじゃ

ない?  再来年だと6年生、そのあとは中学生だよ、駿は」

「わ、そうだね。ちょっと今度、本格的に話をしよう」章太郎が言うと、流果さんはうれしそうに頷いた。

 流果さんも水曜日が休みなのか別れ際に聞くと、なんとわざわざ休んでいるらしい。愛だなあ…。確かに駿

無しでふたりきりで会うチャンスは平日昼間、店だとおやっさんがいるから定休日しか無い。夏休みは水曜日、

3人で遊んでたらしく、駅でばったり会ったときは、既にもう家族に見えた。章太郎の流果さんを見る目がハチャ

メチャ優しげで、こちらが照れてしまう。おれは、葵と居たときにあんな目をしていたのだろうか。

  盆や正月は無いのに、ゴールデンウィークとシルバーウィークはばっちり塾が休みなので、家族で温泉に行く。

おれ自身、家族旅行なんていつ以来だというかんじだが、更にしっかりしているとは言え、こどもが一緒とは緊張

する。旅行はそれはそれでたのしかった。両親は平日までに1日は休みたいらしく、旅行は短くすぐに帰宅した。

それで残りの1日、紫音が

「おにいちゃんは何するの」と聞いて来たので、

「特に何も決めてない。どっか行きたいなら、一緒にいこうか? 映画? 水族館?」

「…おとうさんたちには言ったらまずいかな…ママが、パパ死んだこと知らないと思うから、教えてあげたいんだけど」

「え、なんて? ママって…知ってるの!?」

「パパは誰にも言わないでって言うから、おとうさんたちには言ってないんだけど…おにいちゃんなら…」

「そうなんだ…とりあえず、おれも言わないから、行けるかどうか考えさせて。それには、どこに行けば会えるのか

とか、知らないといけない。教えてくれるね?」

「うん。名前は、藤原鈴音(れね)

「なんだって?!」女優だ。

「テレビのお仕事してるから、簡単には会えないの。電話とかは知らないけど、住んでるところには行ったことが

あって、駅にさえ行ければ、覚えてる。駅は、代官山」

「有名人だから、結婚できなかったのか…なんでパパと知り合えたわけ?」

「パパ、大学の先生だったから、ママがやった役に必要な何かの指導をしたらしいの。それが縁で…でも

結婚するタイミングは逃して…ママは仕事に夢中だから…」

「なるほどね…まあ、代官山なら日帰りで行けるよ。居るとは思えないけど、置き手紙くらいできるな」

「連れて行ってくれる?」

「ああ」両親には東京に連れて行くと言い、決行した。連絡先知らないなら、当然アポ無しだな。電車で

手紙を書くのを手伝い、東京へ出て、代官山へ。適当にランチしてから、紫音の記憶を辿って閑静な

住宅街へ入る。迷わずに、藤原の表札のある邸宅の前に出る。呼鈴を押そうと手を上げたそのとき、

「あら、紫音?」と声がかかる。庭のほうを見ると、藤原鈴音その人が…

「おばあちゃん」いや、おかあさんだ! 若い!

「どうしたんだい、パパは?」声を潜めて言い、おれと紫音を交互に見る。

「突然申し訳ございません、海藤高徳の従弟の亮輔です」

「あらまあ」

「実は高徳は事故で他界しまして、何も知らなかったうちの両親が、戸籍をうちに移してしまいまして…」

「ええっ」腰を抜かさんばかりに驚く。「ま、まあ、ちょっとお入りになって」女優の母はおれたちを招き入れた。

 豪邸の中に通され、恐縮する。少しして、お手伝いさんがアイスティーを持って来る。

「ちょっと、順に説明してくれる?」

「9月の上旬、海藤高徳は事故死しました。学会があって、向かう途中の交通事故でした。それで、親戚に

紫音の存在がばれました。紫音はおかあさんについては固く口止めされていたので…うちに引き取られて

きました。それで翌日、両親は養子縁組みの手続きをしてしまったのです」言いながら、これは親権を巡って

一悶着あるかもしれない、という悪い予感がした。「昨日紫音は僕だけに、ママにパパの死を伝えたいと

言いました。まだ両親には言ってませんが、とりあえず紫音の希望に添えるように…」

「今、あなたはお兄さんに当たるのですね?」突如遮られた。

「ええ、そうです」

「大学生? ご両親は何を?」

「両親は塾を経営していまして、僕は3月に大学を卒業して、そこで講師をしています」

「寧ろそのほうが、紫音のためにはいいわね。でも、鈴音は嫌がると思うわ」

「母で居たいと?」

「名乗れなくても母で居たいと思う。ほかの人をママと紫音が呼んだら、きっと発狂してしまう」

「どうせ母と名乗れないなら、このままで、会いたいと言うのなら阻止しないというのはどうでしょう」

「…わたしが決めていいのかしら…」悩んでいる。「今映画の撮影で泊まり込みで、ナーバスになって

いるから何かあっても連絡していいかも難しい状況なの。少し待っていただけるかしら」

「勿論です。紫音が手紙を書いて来たので、渡しておきます」紫音を見ると、おずおずと封筒を出した。淡い

水色の封筒は、陽当たりのよい部屋で眩しく光った。それには、新しい家族が大事にしてくれていると書かれて

いた。また会おうね、お仕事がんばってねと。ほかの母親のようにそばに居てくれない人を、紫音はどう思って

いるのだろう。

 おれたちは藤原家を出て、代官山に戻った。折角なので自由が丘に出て、服を買ってやり、両親には

限定もののお菓子を買う。遠慮する紫音に、自分好みの服をあてがえ、着てみなと試着室に押し込んで

待っている間、複雑な気分になる。葵しか付き合った相手は居ないが、彼女が服を買う場面におれが居た

記憶は無い。彼女は嗜好が出来上がっており、口出しはされたくないようだったし、おれもみっともなくなければ

何を着ていようがあまり気にとめていなかった。しかし試着室から出てきた紫音を見ると、げんちゃんの言葉が

甦る。理想の女性に育てるたのしみがあるな。今はまさにそんな感覚だった。しかし藤原鈴音が引き取ると

言い出せば、もうこういうことは無いのかもしれなかった。

 帰り道、紫音は手を繋いできた。おれと同じことを考えたのか、その手には放し難い力がこもっていた。

 げんちゃんの店の前を通って帰ると、シルバーウィークも休みなく働いていたげんちゃんが店頭に居て、おれ

たちを見てニヤリとする。挨拶して紹介する。

「キッチンブーケ作りすぎたんだ、ちょっと持って行かねー?」紫音に選ばせてくれる。紫音にひとつと、うちに

ふたつも。自分に青紫系、家に黄色系とピンク系を選んでいた。それを大事そうに持ち、もう片方の手はまた、

おれの手に戻ってきた。

 暫く、連絡先として置いてきたおれの携帯電話には、なんの連絡も無かった。

 次の水曜日、章太郎がサシでランチに誘って来た。予想通り、結婚することにしたとの報告だった。

「式は12月にね、身内だけでやろうかと。親父とげんちゃんくらいで。そこに、おまえは縁結びの友だし、招待

したいんだけど来てくんない?」

「そこにおれが入るわけ?」

「あと紫音ちゃんにも来てもらえたら、嬉しいんだけど」

「紫音?」

「洋式ならヴェール持ってもらいたいとこなんだけと、和式でやるから、活躍の場は無いんだけどさ。ふたり、どう

かなあ」断るのはへんだよな。

「いいよ、連れて行く」

「おー、ありがたし!」章太郎は喜んで、「12月の最初か次の土日、だめな日あるか?」

「おれ基準かい」このへんの有名な、大きなお宮さんを幾つか挙げ、空いているところにすると言う。空いて

なけりゃあ、飲食だけでもと。あんまり年末や年始にかかると、げんちゃんが忙しいから、そのへんにしたいと。

章太郎たちはお歳暮ラッシュだろうに。人を優先するわけだ。

「住まいはどうすんの、流果さんの仕事は?」

「うちに住む。ばあちゃんの部屋がわりと広いからおれたちの部屋、今おれの使ってる部屋が駿の部屋になる」

「おー、紫音と同じ小学校!」

「だなー。で、流果は仕事10月で辞めて、うちの売り子になる」

「てことは!」

「おれは11月から、厨房の研修」

「やった! よっ、若旦那!」

「やめてくれよ、あんこ煮るのとか、ほんとキョーフなんだから!」

 げんちゃんの店に立ち寄り、章太郎の話をする。ようやっと小倉家にも春が来るよと、げんちゃんは笑った。

あんな恋愛をしたとは思えないくらいに、屈託無く笑う。

  夜、両親も含め章太郎の結婚を報告し、紫音にご招待の話をする。

「えっ、結婚式に行くの?」

「一応、一緒に行くとは言ったんだけど、都合悪かったりやだったりしたら、断るよ。都合は、どうかな、紫音の

その辺り」母親に聞く。

「土日なら大丈夫じゃない、土曜日は学校行事あるかもしれないけど、冠婚葬祭は最優先でしょ」

「紫音、どう?  お祝いしてくれない、おれの友達」

「うん、おにいちゃんの友達なら、お祝いしたい。でも、結婚式なんて、出たことない…」

「おれも友達のは初だな、従姉のとかはあるけど。おれも初心者だし、まああのメンバーだから、粗相も粗相では

ない」

「最低限は気をつけてよ」と言いながら、「そしたら紫音にも、ドレス買わなくちゃー」と母親はうかれている。おれ

しかこどもがいなかったので、女の子の子育てをたのしんでいる。着せ換えはその最も顕著たるものだ。この前

おれが買ってやったものだから、わたしが選びたかったと悔しがってもいたし。

「主役を脅かすようなのはやめろよな」

「はいはい、わかってますよ」

 

 紫音の運動会を見に行ったり、去年まで大学生で塾の講師になるために帰郷した4月には考えられない

ような毎日だった。紫音は勉強はできるが運動はふつう、どん臭くもないがべつに活躍もしない、運動会では

目立たない生徒だった。それだけに全員リレーはヒヤヒヤもしたし、すんごい応援してしまった。あとで、おにい

ちゃんの声、聞こえたと言われる。流石にその夜は塾の授業中、紫音は事務所で机に突っ伏して寝ていた。

寝ている紫音を見つけて、父親が上着をかけてやり、頭を撫でているところに入って行ったら、バツが悪そう

だった。

「いや、解る。ほんと、どんな顔してても、何してても可愛いけど、特に寝顔はほんとに可愛い」おれは同意して、

父親と苦笑し合った。

「大事にしないとな。どんないきさつがあったか知らんが、おかあさんも居なくてさみしかったに違いない」おれは

何も言えなかった。

  母親が入って来ると、

「だめだめ、夜中におなか空いちゃうから、今食べさせないと。明日はまた、パーティーとかいろいろ忙しいから」

寝させたままなのを咎める。

「パーティー?」

「明日は亮輔、誕生日でしょ」

「あーおれ?   この歳でパーティーも無いよ」

「だって去年までは東京だったし、カノジョと過ごしていたほうがよかったろうけど」

「すみませんね、今年はひとりで」

「とにかく夕方からは空けておきなさいよ」

「明日は塾休みだっけ?」

「日曜日でしょ」受験シーズンになったら補習にするが、普段は休みなのだ。

「あそっか」べつに昼から用事は無いよ。

「紫音、起きて。ごはんだけ食べて、また寝ていいから」母親が起こすとノロノロと起きて、水道で手と顔を洗う。

半分眠りながら弁当を食べている。

「ははは、亮輔もこんなだったな」父親は笑い出す。「高校生の頃だろ」勉強を遅くまでしていると、ごはんの

ときに眠くなるのだ。小学生の頃はそんなんしてない。

「まあそうだけどね」

「もしかして、高徳とおれが似てるんじゃない?」

「ああ、そうかもな。というか、高徳はあんまり知らないけど、徳和…高徳の親父は、下手するとおれよりおまえに

近いかもな。そういう似方もあるからな」親父は卵焼きを頬張りながら言う。徳和おじさんは親父の弟。おれが

小学生のときに亡くなっちゃったからあんまり記憶無いけど、なんとなく、げんちゃんにも似てた気がする。こっち系

か。あそこは短命だな。紫音はそうでないといいが。  紫音はこちらの話を耳に入れられないくらい眠そうに、

がんばってごはんを食べていた。

 翌朝、起きたらもう母親と紫音はでかけていた。

「紫音は疲れてないのか」

「昨日塾やってる間寝てたし、大丈夫じゃないか。元気だったよ」親父はマンガのような寝転び方でテレビを

見ている。

「ならいいけど」

 昼頃帰宅したふたりと入れ違いに出かけて、なんとなく土手に行くと、駿と流果さんがフリスビーで遊んでいた。

「あー、りょうすけ!」

「あっそうか、流果さんは土日休みでしたね、今は」

「そうなんです。これから駿が休みの日はわたしたち働いてるのかと思うと、なんかこういう企画しちゃいますね」

「まあ、5年生になったら友達と遊んだりもあるだろうし」

「今、りょうすけはヒマなの?」

「まあ暇かな…」

「じゃあいっしょにフリスビーやろうぜ!」

「いや、遠慮しとくよ」

「えー、なんでえ?」

「なんかへんだから」納得していない駿と苦笑する流果さんを残し、移動した。  商店街の、章太郎たちの店の

前は人だかりができていて、話しかけるのは困難そう。これから駿は日曜、つまんないかもなー。まあ、遊んで

ばかりも居られないか。高学年だし。

  で、結局げんちゃんの店へ。

「お、きょう誕生日だろ、おめでとう」

「なんで知ってるんすか」

「さっき紫音ちゃんがお袋さんと来たよ、テーブルに飾ってお祝いするって」

「へえ」

「何してるんだ? 誕生日に忙しいのか」

「いや、暇なんですよ。こんな暇な誕生日、ここ何年か無かったかし、親に暇と思われるのもしゃくだし」げんちゃん

には、こういうことも言えちゃう。「げんちゃんは誕生日、いつ?」

「おれ、バレンタイン生まれ」笑う。

「水瓶座か、相性ばっちり。おれ天秤座」そこへ一央くんが出勤してくる。

「一央くんは双子座、ばっちりだな3人で」

「占い、いいことは信じますよねー」一央くんはにかっと笑って事務所へ行く。次の話をしようとしたら、電話が

鳴った。

「あ、じゃあまた」おれはげんちゃんの店の前を離れ、電話に出る。非通知で、最悪の誕生日になる予感が

した。「もしもし」

『海藤リョウスケさん?』

「はい、そうです」

『藤原鈴音です。紫音がお世話になっております』やっぱりだ。

「どうも…」

『今話せますか』

「はい」

『…きのう、母に話は聞きました。それで考えたのですが、10年前、駆け出しの女優だったわたしは、自分の

仕事が危ぶまれないよう、あなたの従兄と籍を入れることができず、極秘で出産し、養育は彼に任せました。

今となっては更に、過去に娘にそんな仕打ちをしたことはマイナスになるでしょう。母から聞きましたあなた方の

生活環境は紫音にとっては申し分無く、今のままのほうが紫音にはよいでしょう。戸籍についても今からどうこう

しても仕方無いでしょう。今のまま、紫音をお願いします。月30万で、養育費と口止め料ということで宜しい

かしら』

「両親には今後も言うつもりは無いし、あのふたりははじめから自分達の稼ぎで養えると思って引き取ったので、

そういったものは不要です」

『でも…』

「だれにも言わないので、ご安心ください。ただ、たまには会ってやってください、母親として」

『………』

「あんまり感情を表に出さない子ですが、あなたに伝えたいと言ったり、手紙を書いたり、確実にあなたを

います。あんなにちいさいのに、あなたの忙しさに理解を示して文句ひとつ言いません。あなたの都合で

結構ですから、そのときはお電話ください」

『…やっぱりあの人の血縁の方たちね。普通なら、そうしてもう会うなと言うか、お金を毟り取るでしょうに』声は

すすり泣いていた。『もう会わない覚悟で電話したのに』

「因みに、代官山までは2時間かかりますし、小学校にも行ってますので、連絡してすぐ会えるわけでは

ありません。それは考慮してくださいね。会えなくても、テレビや映画で、紫音に元気な仕事に一生懸命な姿を

見せてください」

『…ありがとう。宜しくお願いします』

「承知しました」電話を切り、家へ急いで帰ると、紫音と母は、おれのためにケーキを作っていた。おれが帰宅

してちょっと慌てたが、まあパーティーをするのはばれているし、顔を見合わせて笑う。紫音だけ玄関に呼んで

話すと、

「ありがとう。パパが死んだって聞いて、悲しんでいなかった?」

「悲しんでたよ」それは嘘。高徳の死については、何も言われてない。「でも紫音が元気でいてくれたら、それで

いいって。ママは忙しいから、そんなしょっちゅうは会えないけど、いつも想っているからって」嘘ばかりつく。もう

手放す覚悟で電話して来たのだ。ああいう話になっても、連絡してくれるかなんて判らない。

  紫音は全て解っているのかあまり笑わずに頷き、

「このまま此処で、おにいちゃんと家族でいいのね?」と聞いてきた。

「うん」紫音はおれをうっすらと笑みを作って見上げてから、キッチンへ戻る。まずいまずい。抱きついてしまう前で

よかった。あとで痛い想いをしないように、おれのほうは絶対に深入りしちゃいけない。

 部屋に戻り、パソコンで藤原鈴音のサイトを見る。スケジュールは多忙だった。この分だと、電話なんか来ない。

実質、この女は紫音を捨て仕事を取ったに等しい。なぜみんな責任を持てないんだ。腹立たしくなる。簡単には

説明できない事情がそれぞれあるのかもしれないが、それでもこんなやり方でいいのかと思う。

「いいよ、おれが大事にするから」と呟いて違うサイトに飛んだりしてからパソコンの電源を落とし、なんとなく

部屋の床をモップがけする。学生時代に気づいたのだが、おれはちょっとイラッとするとモップがけをしているようだ。

床がピカピカになると、苛々は消える。てことは今、ちょっとイラッとしていたのか。自分で今更気づいて笑う。

 6時頃、紫音が呼びに来た。

「わっ、誕生日なのに勉強してる」

「ただ辞書を持ってただけだよ。本棚をちょっと整理してたから。もうこれで終わり」辞書を棚に戻す。

「じゃあごはんにしよ? お料理も手伝ったんだよ」

「そりゃあたのしみだな」言いながら、これはやっぱり父親の台詞だと思う。

  この前の温泉も今…家族全員が揃う食卓、おれのために一生懸命女性陣が作ってくれた料理とケーキ、

飾られた花束、3人からのプレゼントの革の財布とカードケース、それらみんな…も、わざとらしいドラマの1コマ

みたいに思えた。おれはこんなに恵まれていていいのか。逆にうすら寂しい気持ちになるのは、なぜだ。

  紫音はこんな誕生会は初めてらしく、ごちそうもケーキも、自分も参加して作ったのにすごいねーと言って

笑われる。そうなのだ、紫音にしても駿にしても章太郎にしても、こんな思いはせずに育ってきたに違いない。

おれは申し訳なく思う反面、これからみんなこういうふうになるんだと安心するのもあった。ただひとり、げんちゃん

だけが、誕生日もひとりの夜を過ごすのだ。しかし本人は、なんてことなく。

 

  だんだんと寒くなり、葵が来たときの暑さは嘘のように思えた。あんなことは無かったんじゃないか、葵なんて

居なかったんじゃないか、くらいになっている。薄情極まりない。

  12月の第一土曜日に、おれの卒業した高校の近くの格式ある神社で、章太郎と流果さんが式を挙げた。

ふたりは無論和装、駿も袴姿でカッコよかった。おやっさんも袴で、流石和菓子屋、和にこだわっている。げん

ちゃんとおれと紫音は洋装で、精神的明暗の区切りとばっちり同じなので笑えた。紫音は赤紫のビロードの

ワンピースで、連れて歩いていて鼻が高くなる可愛らしさ。小倉家のみなさんに紹介して、おとなたちはかわ

いーっ!と叫ぶ。駿はそういうのに無頓着のようで

「かいけつゾロリって、読んだことあるか?」とか聞いてる。

「学童クラブにあったけど、読んだことないなあ」と紫音もふつうに答える。

「学童?  どこの学童?  おれ、かもめ!」

「わたし、最近引っ越して来たから…」

「そうなんだ、おれも明日引っ越すんだ」

「同じ小学校になるんだよ」とおれが言うと、

「えーっ!」と駿は大声をあげる。

「そうなんだ。まあ立て続けの転入生を同じクラスにはしないから、クラスは分かれるね」と紫音は冷静。

「そっかー。今度ゾロリ貸してやるよ、マジおもしれーから」興味あったら学童クラブで読んでると思うけどな…。

しかし紫音は流石こっちグループ、

「ありがとう」と微笑する。そしてそこで自分の愛読書、夏目漱石の『こころ』を薦めたりはしない。何も言わない

が、塾の事務所で何冊かに1回はこれを読んでるのを、おれは知っている。小4で…読めても…何度も読む

かい、と思う。

  まあそんな出逢いは置いといて、式は滞りなく終わり、6人で写真を撮る。新郎新婦の両脇にこども、後ろで

おれはぜん・げん兄弟に挟まれるおかしなポジション。

「紫音ちゃんは亮輔くんが大好きなんだなあ」いきなり隣で、げんちゃんがこっそり言ってくる。

「そ、そう見えます?」ちょっと慌ててしまう。「…おれのほうがじゃなくて?」

「きみは拒んでるね」

「………」

「この前手を繋いで歩いてたけど、きみは彼女の手を握り返していなかった。そうするならすれば的な。まあ、

面倒臭いことは面倒臭いわな。受け容れたら」

「………というか、今は年上がかっこよく見えるだろうけど、これから駿とか、同世代の男のほうが絶対によく

なるんですよ。解ってるのに、うかれて受け容れることなんかできないっす」

「おめーは素直だなあ…おれになんでも喋っちゃうんだから」

「なんでか信頼しちゃってんですよ。いつかおれは、げんちゃんみたいになるだろうし」

「誕生日もひとりぼっちで、しかもなんとも思わないような?」

「…ほんっと、よく解ってますよね…」

「はい、これで最後でーす。クイズです、きょうの新婦さんの旧姓は?」カメラマンはにこやかに聞く。

「たなみー!」

 

  あとで写真を見ると、げんちゃんも含め小倉家のみんなは笑顔で棚見のミを言っていたが、紫音は

知らないし、おれは忘れてたし、ふたりだけ`はい?´って顔をしていたので可笑しかった。

  新郎新婦も一緒に帰って来る、アットホームな結婚式。駿たちもきょうは蓬莱堂へ。明日はそこへ引っ

越すし。おれは紫音と両親の待つ家へ。げんちゃんだけ、ひとりで家に帰って行く。自分の未来図と別れて

すぐに紫音に手を繋がれると、少し複雑な気分。

  きみはおれの未来にも、側にいてくれるのだろうか。冬の夜空の下を歩きながら、母親から連絡がなくても

弱音を吐かないきみの隣で、そんなことを思ってしまうのだった。

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

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