寒月の狐
 

 


                    小林幸生 2010

 

 

 

行列の中に、彼が居る。その目がわたしを捉え、わたしは、震撼して動けなくなる。彼は無表情に目を

逸らし、ほかの者と共に去ってゆく。お囃子もだんだんと、遠ざかり、小さくなる。

 そのときわたしは、あの頃のことを洪水のように思い出した。決して忘れていたわけではないが、より

克明に、詳細に。

 

 

「克弥くんのおうちは、どんなお正月なんだい?」三日になって夫婦で訪ねると、寡黙な父が克弥にお酌をしながら

話の手綱を取った。

「うちのほうはそこそこ大きなお稲荷さんがあって、元旦の零時に狐の仮装をして練り歩く、有名な行列があるんですよ。

こどもの頃はそれを見に行って、年越しは寝ないのが恒例だったんで、今回久しぶりに家族で行こうかってなって、

志麻さんも付き合わせてしまいました」克弥が愛想よくそれに答え、母は

「テレビで見たことあるわ」と和す。

 克弥は、間近で見る行列の様子やら、こどもの頃に申し込んで行列に加わったことがあるやら、中学生からは行って

いなかったが大学生になって史学部の友人に頼まれ案内したことやらを、酒の力もあって饒舌に話した。

 和やかな風景を、壊す気にはなれなかった。言うまいと思った。

 その行列に、行方不明の弟が居たなどと。

 

 克弥は私立高校の教員なので、冬休み中も仕事をしに学校へ行くが、研修と称して大晦日から三賀日ともう三日

休みを貰っていた。ニ日までは自分の実家で過ごし、三日から五日は妻の実家で過ごす。あとの一日は、純粋に休む。

結婚して初のお正月なのに、まるで昔からのしきたりのように

「そうしない?」と言って来た。別段反対する理由も無かったので

「うん」と言った。どうせわたしも、克弥の生徒並に、要らぬほど休みがあったし。三日は昼間からお酒を飲み、四日は

母は気を遣って朝から起きていたようだが、わたしたちは午後になってようやく目覚め、しかもわたしが育った部屋から出ずに

うだうだする。

「きょうはどうすっかねー」克弥が、雑誌みたいなのを捲りながら言う。

「あれ、雑誌なんていつの間に買った? 新聞は買ってたの見たけど」

「去年買ったの持って来たんだよ。由良大学の特集だったから。こことか、きみ行ったことある?」

 

 結婚の挨拶に来た日に案内したところが幾つかあるが、それ以外を軸に、修学旅行のようなコースをあっという間に考えて

しまう。しかし日の短い1月、半日で回れるわけないか、と自分で突っ込んでいる。遅い朝食の席で、お赤飯とお吸物を口に

運びながら、克弥はその話を両親にした。

「あら、お稲荷さんはコースに入れないの?」母は自然な口調で言う。わたしは箸を止めて母を見る。

「今、なんて?」

「お稲荷さん。毎年行っていたくらいだから、よそのと比べてみたらどうかしら。一応あるのよ、うちの近所にも」

「本気で言ってるの?」わたしは母を凝視していたが、何も考えていないようだった。父も見るが、普通にお椀を空け、絶妙の

タイミングで

「おかわり」と言った。母は父のお椀を持って台所に消える。

「志麻?」克弥はわたしの動揺に気付き、覗き込んできたが、わたしが

「お稲荷さんなんか、行かないから」と言うと、きょとんとして、戻ってきた母とわたしとを見比べた。母は戻って来てから、違う話を

始めた。

 わたしが支度をしている間に克弥はリビングで両親とコースの検討をしていた。その内容が気になり、早めに支度をして部屋を

出るが、急に隣の、あの日以来入っていなかった弟の部屋が気になって、恐る恐るドアを開けた。

 …絶句した。空っぽだった。

「お母さん!」わたしは階段を駆け降り、リビングのドアを開けた。

「どうしたの、騒がしい」

「高志の部屋、なんで空っぽなの?!」

「…隣の部屋のこと? 家具はあったでしょう」母はまた、おかしなくらい普通に言う。「従妹の純ちゃん居るでしょ、あの子が

4月から由良大に通うから、間貸しするの。小坂からより便利でしょ。だから整理したのよ」

「純子が暮らすわけ? なんであの部屋を…嫌がらなかったの?」

「だって、あなたはこうやって帰って来るじゃない。だからあなたの部屋は貸さないわよ」

「高志だって帰って来るかもしれない…」思ってもみなかったことを言う。

「絢子だって、あの部屋でいいって言ったしね」

「純子は知らないかもしれないけど、絢子叔母さんは絶対に知っているのに」

「あの部屋は、最初から誰も住んでいなかったからね」父もわたしの目を見て、言い切った。

「…どういうこと?」

「タカシというのは、だれだい? 志麻」

「…なんで」わたしの視界で両親が歪んだ。熱いものが頬を伝わり、気付いたらリビングを飛び出していた。

「志麻?」呑気な両親の声と、

「おれが行きます」という克弥の声が聞こえた。

 玄関を出て、数メートルも走らないうちに、克弥に捕まる。そうだ、この人は陸上部だったのだ。

「この寒い中、コートも着ないでどこへ行くんだ」呆れたような顔で言ってから、「おれも寒い」とわたしを抱き締めてから、「コートと

お金持って来るから、此処にいるんだよ」

 わたしはおとなしく、それに従う。

 

 

 わたしの生まれ育った地域は、海も山も無い普通のちょっと田舎な街だけれど、なぜか件の由良大関係の博物館と植物園が

密集していて、前回はそれらを巡りいろんな知識を得て喜んでいた克弥は、今回も回れなかった所や遊歩道をコースに選んでいた。

「そこを回ってもいいんだけど」克弥は持って来たコートに袖を通しながら、「敢えてお稲荷さんに行ってもいいよ」と言う。

「……」わたしはちょっと黙ってから、「お稲荷さんなんか、無いのかもしれない」と、こちらをやけに優しげに見る克弥から目を逸らした。

「それはお母さんもあるって…タカシという人は居ないと言ってるみたいだけど」

「……」少し考えて、訊いてみる。「克弥はどっちを信じるの。居たか居ないか」

「今のところ、付き合いの長いほうで、志麻を信じる」

「…隠していて悪かったわ。わたし、弟が居たの。行方不明になっちゃったけど。高志っていうの。高い志なんて、大層な名前の」

「へえ…行方不明…何歳くらいで」

「十歳…かな、小学四年生。わたしは六年生だった。居なくなっちゃったのよ、わたしと一緒に居たのに」

「お稲荷さんで…?」わたしは頷いた。

「去年までは、お父さんもお母さんも、高志の話はしなかったけれど、仏壇のご先祖様に手を合わせるとき、高志はそっちに居ませんか、

なんて呟いていたのに。居なければそれでいいんです、とか。どうして帰って来ないの、とか。なのに今日はなんで…」

「やっぱりお稲荷さんに行ってみようよ」

「…そうだね」わたしは堪忍して、先に立って歩いた。四辻の先の坂を上がり、こどもの頃は少し遠く感じたその場所に、わたしたちは

すぐに辿り着く。

「わ、風情あるなあ。奥行きがあるんだね」鳥居のむこうを覗きながら、克弥は歓声を上げた。わたしを振り仰いで「もしかして、その日

以来なの?」と曖昧な笑顔になる。頷くと、手を繋いでくる。「大丈夫、おれは消えない」

 ほっとして、歩みを進めることができる。階段、そして境内。

「ここでね、よく遊んでいたの。友達とは校庭で遊ぶことのほうが多くてね、だから弟と来るのが殆ど。誰にも邪魔されずに、ふたりだけの

遊びや言葉を作って…勿論普通の遊びもしたし、あと、本で読んだ友情の誓いを真似てやってみたりして」

「仲がいいんだね」

「いっつも、おねえちゃん、おねえちゃんって、くっついて来てたわ。わたしも、友達には持てない絆、信頼を感じていた」とりあえずお参りを

する。手を合わせるときは繋いでいた手を放したので、目を閉じることができなかった。「その日も、いつものように遊んでいた。何も変わり

無い一日だった。わたしたちは、隠し鬼って呼ぶ、キーホルダーとか鉛筆とか、そういう小さいものをどちらかが隠して、もうひとりが探して、

見つけたらそれを持って追いかけて捕まえたらチェンジ、捕まらなかったら降参してやっぱりチェンジ、というのをやっていたの」

「かくれんぼではないんだ。隠れてそのまんま出て来なかったのかと思った」

「もっと小さい頃に、それに近いことがあったから怖くて、ふたりでかくれんぼはしないことにしたの。もっと大勢ならふたりで隠れたりしたけど」

「ふうん…。それで、身を隠したわけでもないのに…消えたの?」そこで風が吹き、身震いする。

「キーホルダーを見つけて…追いかけようと思って振り返ったら、居なかった。見つけるまでは見張っていて、近いとキコーン、キコーン!と

探知音を言ったりして煽るの。でも、ついさっきまでそう言ってたのに…見つけたら、声も姿も無かった…」

「不思議だね」

「一瞬、あれっ? てかんじで…それから、ずるいよ、追いかけられないじゃん!って笑って、でも探しているうちに不安になって、家に

帰っちゃったのかもと怒って、でも帰っても居なくて、暗くなってきて、お母さんと探して…見つからなかった、いくら探しても」

「神隠し?」

「みたいだった。あんまり高志がかわいいから、神様が連れて行っちゃったんじゃないかって、親戚も友達も」

「そんなにかわいかったんだ」

「そりゃあ天使みたいでね。…でも実はわたしは、彼が居なくなったことも怖かったけれど…わたしが何かしたと思われるんじゃないかと

いうことが怖くて…そればかり気にしていたわ。薄情よね、あんなに仲がよかったのに」

「…それは普通じゃないの、12歳くらいの、人からどう思われるか凄く気にする世代のこどもなんだし」さらりと受け流されて、少し楽に

なる。

 ふたりで境内をぐるりと回り、日暮れまで居たが特に何も真新しいことは無かった。あの日以来踏み入れなかった地であの日の記憶を

まざまざと思い出し、語っただけだ。

 そうして気まずかったが、実家に帰った。両親は到って普通で、母なんかは

「そろそろ洋風なごはんがいいでしょ。シチューにしようと思うんだ。手伝ってよ」なんて言う。

 夕食後、わたしの寝室の学習机の右上の引き出しを開ける。あの日隠し鬼に使ったキーホルダーは、確かにそこにあった。懐かしい、

塗装の剥げた間抜けな顔のきりん。わたしは思わず、それを自分のハンドバッグにつけた。

 

 

 翌週になり仕事が始まっても、弟のことは頭から抜けなかった。克弥は時々話題に上げるものの、だからと言って何というかんじでは

ない。ふたりとも、解決しようという雰囲気は無く…というか、この場合の解決って何だろう。今更居なくなった理由を知りたいのか、行く

末を知りたいのか、両親に彼のことを思い出させたいのか。

 勤め先の和菓子屋を出て、早番だったので外があかるいことがわかると、なんとなく、そう遠くない克弥の実家近くのお稲荷さんに

行ってみたくなった。ああいうイベントでない、昼間の社は、うちの近所のもののように静かなのであろう。なんとなくその様を見たくなり、

電車を乗り継いで行く。

 駅から少し歩く所為で、迷う。景色が違うから仕方が無いのだろうが、ようやく辿り着いたら、日が暮れかけていた。少し見たら帰ろうと

思い、急いで鳥居をくぐった。

 しかしなんと、弟が居た。わたしは息を飲んで、境内の隅で穴を掘る彼を見、彼のほうもわたしに気付く。弟はしかし、無表情に

目を逸らす。

 その様子で思い出した。行列に居た弟も、同じように目を逸らした。

「あの、あなた、―――」声をかけてしまってから、躊躇する。彼はもう一度こちらを向いて、次の言葉を待つようにじっとこちらを

見た。「ごめんなさい、池谷高志くん、…ではないわよね?」なんだかへんな言い方になってしまう。

「違うけど…」余り覇気の無い声で答え、「でもおねえちゃん」と言うので耳を疑う。「それ、どうして持ってるの?」

「えっ」しかも、ハンドバッグに付いているキーホルダーを指差す。実家から帰ってきてから、幼いかなと思って内ポケットのファスナーに

つけ直したのに、きりんが顔を出していた。

「ぼくのとおんなじ」穴の中を示すので見ると、よく見えないが、確かに同じようなかんじのキーホルダーが入っている。

「埋めちゃうの?」

「うん。夢で見たから、実験するの」淡々と話しながら、思い出したように土をかけていく。「で、なんとかタカシって、だれ? そのキー

ホルダーは、おねえちゃんはどこで買ったの?」…おねえちゃんというのは、一般的に年上の女の人に対しての総称だということに、今

気付いた。オバサンというのを遠慮して出た言葉なのだ。

「あなたにとっても似てる子が居てね、その子かなと思ったの。キーホルダーは買ったんじゃなくて、おねえちゃんのおうちにもともとあった

もので…その子と遊んだときに使ったのよ」

「じゃあ、また使うかもしれないから、埋めないほうがいいね」また使うことは無いと思ってしまう。そう思う自分にげんなりして、誤魔化す

ように質問する。

「夢で見たからって言ったわね。どんな夢だったの?」

「埋めたら育つの。実がなるんだ、おんなじキーホルダーが」

「ええっ」思わず彼の手元を覗き込む。

「やっぱりおかしいかな。でもやってみるだけやってみるんだ」

「…いや、そのタカシって子も、パンを埋めてたわよ。夢で見たわけではないけど、パンがなるんじゃないかって言って」

「そんなとこまで似てるんだ」余り笑わずに言うその顔で、行列の中に見つけた弟を思い出す。同じ子なのか、あれはまた別なのか

妙に気になって、

「ねえ、そう言えばあなた、お正月に狐の行列に入っていた?」と問う。

「へっ? ああ、…」

 そこでいきなり、最近流行っているポップスが鳴った。ポケットに手を入れようとして、手が土だらけなことに気付き、慌てている。

「よければ、持ってあげるよ」わたしは彼のポケットに無遠慮に手を突っ込み携帯電話を取り出し、通話ボタンを押し彼の耳に当てる。

「もしもし。うん、そう。わかってる、すぐ帰るから、じゃあね」目で合図をされ、切る。

「おかあさん?」ポケットに戻しながら聞く。

「うん。ありがとう」

「もう携帯持ってるんだね」

「ぼく前に、ユーカイされたことあるから、持てって」埋めたところをパンパン叩きながら、何気無く言う。

「誘拐?」

「うん、じゃあまたね」いきなり立ち上がって、走り去る。

「えっ、あ、うん」わたしは呆気に取られ、まともに挨拶できずに見送る。

 暗くなり始めた境内に残され、もう一度、その言葉を呟く。

 …誘拐…

 弟の行方が分からなくなったとき、神隠しという説のほかに誘拐も考えられたが結局身代金要求などもなかった。

「おねえちゃん!」鳥居をくぐっているときに、さっきの少年が来た。「さっきの質問だけど、あの、狐の行列に居たかって」

「ああ。それで戻ってきてくれたの?」

「うん。ぼくね、申し込んではいたんだけど、熱を出して行けなかった」

「えっ」

「すごく出たかったから残念なんだけど…また今年も申し込むよ。じゃあ、怒られちゃうから、またね」

「う、うん。ありがとう、またね」少年は振り向かず、闇に消えた。

 あれは別の子なんだ…呟きながら、あの和装の、狐メイクを施した行列の中の彼は、やはり弟ではないかと強く感じていた。

 

 さっき間違った通りを逆に辿って、時間をかけて駅へ戻った。家に着いたのは8時すぎで、夕食の支度をしていると克哉が

帰って来る。

「ごめんね、もうすぐできるから、お茶でも飲んでて」

「手伝おうか。きょう遅番?」克弥はカレンダーを見るが、そこにはわたしの早番の印がある。

「大丈夫。座っていて。あ、これだけついでに持って行ってくれる? きょう早番だったんだけどね、ちょっとお稲荷さん行って来たの。

あなたの実家のほうの」

「へえ、そりゃあ大変だったね」なんでとは訊かない。わかりきっているのだ。

「実はお正月に見たとき、行列の中に弟みたいなこどもを見つけてね」行った原因はそれではなかったが、いろいろ順立てて話す

ために、そこへ戻った。準備してごはんを食べる間に、きょうのところまで話し終えた。「でも、今更どうしたいのかしらね。自分でも

よくわからないわ。べつに嗅ぎ回りたいわけではないのよ」

「まあ純粋に、行列に似た子を見たり、実家でのご両親のことがあったりしたから、気になってるんでしょ。立て続けだからねえ。

おれは、行列の子は今日の子と同じと思うけど」

「え、なんで? 熱を出して行けなかったって」

「すごく行きたかったから、生霊が飛んじゃったんじゃない?」

「…なるほどね」超常現象については、克弥のほうが詳しい。わたしはまあ、そんなこともあるだろうくらいに信じているので、それなら

それでよい。やはり弟ではないのだ、という落胆と安堵があるのみだ。克弥は専門の歴史の中で事実あったであろうことを語るとともに、

その中での不思議についても興味深く見ていた。ナスカの地上絵なんかを見て、痺れるな〜、とか言ってるし。

「まあ実際高志くんが無事だったとしても、もうこどもの姿ではないよ、普通」なんてさらりと現実に引き戻したりするのだけれど。

塩焼きの鰤を箸で崩しながら、克弥はもう一言、「まあ志麻は、大きくなんかなってほしくないんだろうけど」と痛いところを突く。確かに、

あのときの、わたしだけを追いかけてくれた高志になら会いたい。誰かと結婚してこどもが居るなんて、考えたくない。

「出て来たとしても、おとなの高志かあ…」出て来るのだろうか、冷えた頭でそう考えながら、味噌汁を啜った。

 

 5

 

 「高志、どこにかくれてるの。かくれてたら追いかけられないじゃない、ずるいよ!」わたしはさっきまで高志が居た辺りに立ち、ぐるりと

見回した。藪の中や縁の下や階段の下を覗き込む。思い付く限り見たのに、居ない。もしかして、帰っちゃったの? 周りを目を

凝らして見ながら、家までの道を辿る。玄関を開けると、買い物から帰って来た母が、靴を脱いでいた。

「ああ、志麻。おかえり」

「おかあさん、高志帰ってない? 急に居なくなっちゃったの、どこにも居ないの」母の顔を見たら、涙が出てきた。

「あらあらどうしたの」奥から父が出てきた。

「タカシってのは、だれだい、志麻」

 

 目覚めると、暗い寝室だった。ぼんやりと、隣で克弥は安らかに眠っているのが見えた。どうやら夢を見て、そして泣いたらしい。どう

したの、と母が言うまでは記憶と同じだった。父は勤めからまだ帰って来ていなかったし、母はすぐに部屋や外を探してくれたし、そこから

この前の両親になってしまっている。

「…志麻?」克弥の声がした。

「ああごめん、起こしちゃったね」

「眠れないの? なんだよ、泣いてるのか、…大丈夫かい?」

「なんだかおかしい。今までだって、弟のことは忘れていなかったし、罪の意識と悲しみと、ずっと同じように背負ってきたのに。ここへ来て、

エスカレートしている。逆に両親は、どうして急に忘れてしまうのか、理解できない」

「高志くんに、何かあったのかなあ」克弥は静かにそう言って、目を閉じた。「例えば、今まで実は生きていたんだけど最近死んでしまって、

志麻に何か伝えたいとか。まあそのときに死んでしまったとしても、天国で何かあったとか」

「…そうか」

「いや、例えばだよ? きみはおれの話を信頼しすぎると、いつも思うね」

「そうかな? でも楽になれる思考を、いつも提示してくれているからね」

「…じゃあさ、おれが実は高志なんだと言ったら、信じちゃうの?」

「…えっ」

「…どう? きみが知っている名前や生年月日とかが嘘で、実は同じ歳でも、東京出身でもないかもしれない」

「…まさか。それは信じないよ。顔だって、全然違う」

「それは整形でなんとでも」

「やめてよ。もしそうだとしたって、両親の記憶は説明できないよ」

 そのとき、バサバサっと大きな音がした。

「!?」音のほうを見ると、薄明かりの中、本棚から無数の本が落ちているのが見えた。最後にもう1冊、バサリ。「何、地震?!」

「話が妙な方向へ行っちゃったから、怒っちゃったのかな。ごめんよ、冗談というか、あんまり志麻がおれを信じるから、例えばって話を

してみただけなんだよ。大丈夫、志麻はちゃんとわかってるよ」

「…ちょっと、だれと話してるのよ?」

「おれは見えないよ、でもたぶん、高志くんだ」慌てて弟の姿を探す。本棚、ドア、窓…しかし一向に見えない。

「…てことは、幽霊? やっぱりもう、死んでしまっているの?」

「さあ。生霊飛ばしてるかもしれないし。まあ、高志くんはきみやおれに酷いことするとは思えないし。眠いから、見てもらうのは明日に

しよう」

「えっ、何を?」

「本も明日でいいよ、おやすみ」また枕に顔を埋めて寝てしまう。

「えっ、あ、えーと…」辺りはしんとした。克弥の寝息が闇に響き始めた頃、わたしは呟いた。

「高志? 居るの?」

 何の気配も無かった。カーテンが微かに揺れた気がしたが、そう思いたいだけかもしれない。

 

 眠れない夜は、静かに更けていった。

 

 翌日は土曜日で、克弥は休みだった。わたしは眠れずに時間が来て起き出し、仕事に行く。

「今日も早番だから、4時には帰るね。夕ご飯、希望ある?」ベッドで携帯電話を見ていた克弥は、

「ねえ、上塚に来てもらわない? 高志くん居るか見てもらおうよ。もしかしたら、高志くんの話も聞けるかもしれない」と、今日は散歩

でも行こうか、みたいに普通に言う。

「上塚さんって、古文の先生?」結婚式にも来てくれた、克弥の同僚である。

「うん、あいつ見えるらしいって、前から聞いてて。おれ夕飯作るから、招待してもいい? あいつが空いてればの話だけど。やなら

いいけど、どうする?」正直、不思議なことを、`わー不思議、そんなこともあるかもね´以上にしたくないのが本音だが、高志がほんとに

居るのなら、話を聞きたい気がした。

「…そうだね。まあ、まだ誰もお招きしてなかったし、来ていただこうか」

「テキトーなことは言わないと思う。もし、こんな話を聞いて既に高志くんが逃げちゃっていたらごめんよ」

「わたしには昨日からわからないし」肩を竦める。

 職場でいつものように過ごした後、克弥からメールで

〉上塚、OK〈と来ていた。返事で上塚さんが好きであろう和菓子を聞くと、鹿の子だと言うので、買って帰る。克弥が自慢の料理を

仕込んでいる間に、案の定昼間しておいてくれなかった掃除を、軽くしておく。

 そわそわしていたが、いつの間にか6時になり、呼鈴が鳴る。

「お久しぶり、志麻さん。なんだ、もっと恐怖でやつれているのを想像してました。元気そうでよかった」

上塚さんは、ハキハキとそう言って手土産を差し出す。克弥の料理を食べる間は一通り近況を話す。食後にいただいたお煎餅と

買って来た鹿の子を日本茶でいただく。

「それはそうと」と上塚さんは言う。「居ますね、弟さんらしき人」と唐突に。

「やっぱり?」克弥が部屋を見回す。わたしもつられて見回すと、「そこですよ。志麻さんの斜め後ろ。とても優しい顔をした青年」

「青年? こどもではなく?」聞いてから斜め後ろを恐る恐る見たが、やはり何も見えない。

「僕らと同世代のおとなですよ」

「生霊かな、まだ生きている?」克弥は少し嬉しそうになる。

「いや、その区別は僕にはできない」

「少なくとも最近までは生きていたということかしら」

「その姿になるまでは、生きていたでしょう、少なくとも。どうなんだろう、生霊なのかな…。話はしてくれないかなあ、さっきから、目は

逸らされる」わたしは狐の行列のこどもを思い出す。

「昨日も克弥が眠った後に話しかけてみたけど、何も見えないし聞こえないし、だからあまり信じていなかったの」

「おとなになっていたとは、意外だったな。その可能性も考えたけど、おれは神隠しに遭った段階で、生きていて不老不死を得る

ものと…」

「それはかなり、希望的観測だね。…どうして居なくなっちゃったんだろうね」上塚さんは、わたしの斜め後ろを見て話す。少し反応を

待つ風体だったが、諦めて今までに聞いたそういう話をし始めた。わたしは斜め後ろを気にしつつも、話を聞いていた。

 暫くして上塚さんはトイレに立った。

「あいつでもわからないかー、でも霊媒師とかって、どうだろう、胡散臭いかなあ」

「…まあ、知りたくない気持ちもあるし、そこまではしなくていいよ。ありがとうね」素直に頭を下げる。 そこへ、上塚さんが戻ってきた。

「あのう、弟さんてタカシくんて言う?」

「えっ、はい」

「すご、おれ、名前は言ってないよ」

「彼の記憶が今、フラッシュバック的におれの頭に現れたみたい」

「どういう記憶ですか?」思わず前のめりになる。

「昔の志麻さんらしき女の子が探している。タカシと連呼する。どこからか隠れて見ていたけど、急にシャットダウン」

「隠れて?」

「隠された場所から、かもしれない」

「見事だねえ、小四で行方不明になった弟、としか言ってないのに、志麻から聞いた話の一部、そのものだ」

「じゃあ確かにそうみたいだ。たぶん、言葉を発せなくて…でも伝えたいことがあるみたいだ、それで記憶を僕に飛ばしてる…んだと思う。

もうおいとましようと思ったけど、もう少し、一緒に居ていいですか? タカシくんと」

「勿論。お願いします」

 今度は珈琲を淹れ、様子を窺う。上塚さんと克弥には、テレビを観ながら寛いでもらって、わたしは洗い物をする。普通にふたりで

話しながら見ているので、記憶の続きは見ていないのだろうと思っていたが、10時50分までの番組が終わったら、

「あんまりうまくいかないみたいだね。タカシくん、少し休みなよ」などと言い出した。

「なに、おれと会話しながら受けていたのか」克弥がわたしと同じ感想を抱いて、大袈裟に驚いて言う。

「さっきよりもかなり断片的にね。よかったらタカシくん、僕と一緒においでよ。言いたいことは聞くから、気が向いたら念を送りなよ。まあ、

いやでも僕はひとまず帰るよ。遅くまでお邪魔しました」最後はわたしに言う。

「とんでもない、ありがとうございます」

 玄関先で、上塚さんは

「三人の休みの合う日ってあるかな、僕、志麻さんとタカシくんが離ればなれになった神社に行って、調べたいことがあるんだけど」と言った。

わたしはカレンダーを見にリビングに戻る。

「来週の日曜日なら、ご一緒できます。ふたりは、普通にお休み?」

「だよね」ふたりは頷き合う。「ではそれまで、タカシくんの記憶を受け取っておきます」高志はもう外に居るのか、上塚さんはドアの外を

指し示した。

 

 

 

  「とんでもないことを暴いてしまうかもしれない。いいですか、志麻さん」

 翌週土曜の晩、集合場所の高速夜行バスのターミナルで、上塚さんは言った。いやな予感もしたが、

「真実なら仕方ありません」わたしは言い切り、やって来たバスに乗った。

 おとなになった高志というものは余り想像できなかったが、バスの中で見た夢に、それらしき人が出てきた。灰色のパーカー風の

セーターに藍色のコーデュロイパンツ、小さい頃にしていた服装で、少し面長になった顔を緩ませて、おねえちゃん、ただいま。と言う。

 眠りは浅く、何度も目覚めた。隣で克弥は爆睡しているけれど。全くこの人は…高志が現れた夜もすぐ寝ちゃったし、ある

種の才能だと思う。

 前の席で、缶珈琲のプルタブを引く音がする。上塚さんは起きているらしい。けれども、話しかける気にはなれなかった。`とんでも

ないこと´を聞くのはやはり怖かった。だんだん空が白んでいくのを、ただ見ていた。早朝、バスはわたしの田舎の近くの街に辿り着く。

朝日を浴びて、辺りはやけに白黒はっきりしている。

 バスを降りると、克弥は大きく伸びをしながら欠伸をして、

「駅開いてる?」とようやく聞き取れるような間延びした発音で言う。

「開いてる。えっと、始発まで20分。ベンチに座ってる? そこのカフェとかもまだやってないしね」上塚さんが先頭から振り返る。

「うちのほうの駅に、早くからやっているお店があるから、そこで朝ごはんにしますか?」わたしが言うと、ふたりは頷く。

「腹も減ってきた」克弥は缶珈琲を買い、こちらを振り返って自販機を示す。「飲む?」

「今はいいや」わたしは断り、上塚さんは飲みかけの缶を見せた。さっきより影が淡くなって白っぽい景色を見、「なんだか初めて

来た場所みたい」と呟く。

「ええ? 学生の頃からお正月ごとに帰ってるのに? ここ通るんでしょ、同じ手段だから時間も一緒なんじゃないの? あ、今年は

夕方だったか」克弥は大袈裟に驚く。

「そうなんだけど、なんかそんなふうに感じる」3人、もしくは4人だからかもしれない。

 上塚さんは黙っていた。恐らくは冷めたであろう珈琲を飲み干し、缶と書かれたゴミ箱の前に立ち、カランと音をさせて缶を捨てた。

ベンチに戻って来ずに佇んでいるので、克弥とわたしは同時にそちらを見た。こちらを見ずに、上塚さんが言う。

「…やっぱり、行くのやめませんか。お話はしますから、確かめるのは無しにして…タカシくんは僕らで供養して…」言ってしまってから、

慌ててこちらを見る。

「…やっぱり死んでしまったのか、しかも最近、その、おとなになってから?」克弥が立ち上がった。

「どんどん記憶が繋がってきた…ちょっとこれは…まずい方向に進んできた」

「でも、高志は伝えたいのでしょう? だったら知るべきじゃないかしら。わたしも、知りたくない気持ちがあったけれど、やっぱり、

どうして居なくなったのかは知りたい。死んだのなら、どうして死んだのか知りたい」

 言い切って、わたしはふたりを交互に見た。ふたりとも、似てない双子みたいに揃って困った顔をしていたが、やがて克弥が

「志麻がこう言うんだ。行こう、上塚」と言った。そのとき、始発が入線するとアナウンスが入る。上塚さんは頷き、乗車ラインの

前に立った。

 最寄りの駅で降りると、実家の前は避けて、遠回りしてお稲荷さんに行った。住職さんが掃き掃除をしていたので、とりあえず

挨拶をしてお参りをする。さっきより少し脇のほうを掃いていた住職さんに、上塚さんが近づいて行く。

「すみません、昔お世話になった者ですが、こちらには、ソマモリさんという旧家の旦那さんはよくいらっしゃいますか」わたしと克弥は

少し後ろで聞いている。

「ああ、うちの一番の檀家さんじゃな。そこに名前が書いてある」寄付金の額と名前が掘ってある石の壁を示した。巨額を寄付した

ようで、筆頭に杣森太助とある。

「よくいらっしゃいますか」もう一度問う。

「そうじゃな、わしと将棋を打つ仲じゃ、週に一度はいらっしゃるかな」

「15年前くらいから?」

「それくらいは経っておるかのう」

「ありがとうございます、わざわざ伺うのも大袈裟なんで、今度いらしたら、宜しくお伝えください。あと、ちょっと境内を見学させて

ください。僕たち、日本史とか古文とかを研究しているんで」

「大した寺ではないがの、どうぞ。あ、お名前は? 杣森さんに伝えておこう」

「どうも。上塚です」

研究のことや名前で嘘はついていなかった。住職さんが見えない裏手に来ると、

「なに、その杣森って。そいつが殺人犯?」克弥は無遠慮に囁く。

「いや、誘拐犯」上塚さんは笑いもせずにきっぱりと答え、小さな土蔵の前に立った。わたしが遊びに来ていた頃からあるが、

だいぶ古びていた。当時しっかりと閉まっていた観音扉、上塚さんが手をかけたが、やはり開かない。

「でも、こっちが開く」なんと脇の窓がすっと外れる。「あれ、そこも昔はしっかりついていたのに」

「杣森さんが趣味の彫刻を持ち込んだときに、ぶつかって外れたんだ。住職は知らない。タカシくんが手伝ったから見ている。

内緒で嵌めておいたんだ」そこから泳ぐように侵入する。

「ちょ、ちょっと、大丈夫なんですか?」わたしが咎めると、

「その窓は、外れていたことにしよう、いいね? それで異常を感じた僕が中に入ってみた、そう言うんだ」

「えっ、だれに?」

「ふたりはそこから覗いて。いいかい、よく見て」と6畳くらいの荷物だらけの古い暗い部屋の、一角を示す。様々な荷物の

中に、行李があり、脇目も振らずそれを引っ張り出す。函そのものは普通だ、ただの、古びた行李。蓋を開ける。途端に

異臭を放つ。いや違う、さっきからなんとなく厭なにおいは漂っていた、窓を外したときから。そしてそれは確信へと導かれる。

ぐるぐる巻きの布、梱包紐、端のほうに滲むどす黒い染。飛び出す黒い髪。上塚さんは無言で紐を解く。

「苦しかっただろう、かわいそうに…」

「まさか…」克弥とわたしは蒼白になった。

 

 

  「僕らは、これがだれだかわからない」悪臭が増してくる暗く狭い蔵の中で、上塚さんはきっぱりと言った。「僕は昔

お世話になった人を懐かしみ、偶然同僚の奥さんの郷里だったので一緒に訪ねてきて、偶然発見したんだ。志麻さんは、

事情を聞かれたときに、付加的に、行方不明の弟かもしれない…でもまさかね、あのときはこどもだった…と呟いてください」

上塚さんは瞬く間にふたりに指示をする。動転しているわりに頭はやけに冴えていて、わたしはその言葉をちゃんと理解して

いた。言われるままに通報し、克弥は住職を呼びに行った。110を押すだけでも手が震え、うまく伝えられなかった。

 

 「これからもっと、酷いことがわかります。タカシくんのために、しっかりお願いします」上塚さんがわたしに厳しく言った。

 そこへ克弥と住職さんが息を切らして駆けつけた。

  警察もやってきて、別々に証言を取られた。皆どこへ行ったか知らないが、わたしはドラマなどで見る取調室とはまるで

違う、会議室のようなところだったので、安心した。上塚さんのシナリオを自分の言葉で説明しながら、なぜそんなふうに言わ

なければならないのか、わかってきた。高志の霊が上塚さんに教えてくれたからわかった、なんて言っても、信じてもらえる

わけがないのだ。また、証言が違っていれば誰かが嘘をついていることになる。あそこで統一しておいてくれてよかった。

 わたしにはもうひとつ義務があった。言われた通り、弟かもしれないという話をした。しかもそのとき、不覚にも涙が出た。

刑事さんは同情の眼差しをし、

「そんなことが。お可哀想に…」と、そのときはそれで打ち切ったが、これを後で繋げてくれればと願う。泣き落としをするつもり

ではなかったので本気で自分で困惑したが、あれが高志かと思うと、涙が止まらなかった。

 昼すぎには釈放されたが、連絡先は聞かれた。上塚さんは、どうせまた呼ばれるだろうからと、近くのレストランに入る。

まあ、あまり食欲は無い。皆、無口になっていた。

 30分も経たないうちに、上塚さんの電話が鳴る。

「はい、いえ、今近くのレストランです、みんな殆ど残してますが。…あ、はい。勿論、お伺いします」切って、わたしたちに「やっ

ぱりね。僕が名前を出したから杣森さんが呼ばれて、僕について、誰だそいつはってなってるみたい。ちょっと行ってくる」と立ち

上がる。

「わたしたちは、いいんですか」

「ええ、待っててください。移動してもいいですが、メールで場所を教えてくださいね。あ、二千円置いてくから、出るなら払っ

といて。釣りは返せよ」こんなときまで、気が回る人だなあ。

「大丈夫なのか、何の世話になったと言うつもりだ?」克弥が、珍しく弱気な顔をしている。

「タカシくんの見たことを言えばいい。彼は誘拐されて、偶然だけれど志麻さんたち家族との記憶を一時失い、幸か不幸か

それからお世話になっていたんだ。25歳になるまでね」悲しい目をして言うと、警察署に戻って行く。

「記憶を失った…? だからどこの家の子かわからなくて、身代金を請求できなかったのかしら…」

「身代金は要らなかったんじゃない? はじめから。だって、金持ちなんだし」

「こどもが欲しかったのかな」

「……」克弥が怪訝な顔をして、ブルッと震えた。

「寒い?」

「いや、そうじゃなくて。まあ、誘拐は杣森さんがしたとして、殺さずに15年育ててくれたわけでしょ? じゃあ、殺したのは誰

だろう」

「あの窓は、杣森さんが壊したわけだから、あそこに隠せるのはわかっているのよ、杣森さんじゃないのかしら」

「幽霊の高志くんは、志麻のところに来たわけだから、昔の記憶もあるわけだろ? 死んで思い出したのか、生きてるうちに

思い出して、杣森さんが本当の家族でないと知って逃げようとして殺された、なら筋は通るよな」

「わたしもそう思う」

「でも上塚が、殺人犯か聞いたら頷かずに誘拐犯と言った」

 わたしたちの目の前の料理は、一向に減らない。代わりにお冷やの氷が溶け、水だけが増えていった。

 

 

 夕方、とりあえずわたしたちは東京行きの高速バスに乗る。三人とも明日は朝から仕事なのだ。

「あのときの杣森の顔を見せたかったよ。動揺しちゃってさ」さして面白くもないのに、たのしくしようと空元気で上塚さんは

言った。「なんでおまえが知ってるんだって面で」

「何言ったんだ、おまえ」克弥はげんなりしている。

「調べればすぐにわかることだよ」詳しくは語らず、そこでなぜか不機嫌そうな顔になり、「杣森のことは、ちょっと吊し上げ

たかったのもある。だけど一番大事なのは、あの死体がタカシくんだと証言してほしかったんだ。でも、あいつはそう言えば、

タカシくんの本名は知らないんだった。記憶喪失の、面倒を見ていた、ユウって呼んでいた子にすぎない。ただ、ちゃんと

手続きをして中学まで出さなかったことには、お咎めがあるだろうね」と言い捨てる。

 空いており、夜行便と違って余り寝ている人は居ないので、上塚さんは静かにではあるが通路のむこうから話し続けた。

「育ててくれても、それはしてくれなかったんですね」

「志麻さん、あんな奴に感謝したらだめですよ。もとはと言えば誘拐なんだし、あれは育てたんではなく、飼っていたとしか

言えない」

「で、杣森さんはわかったのかい、その、ユウだって」

「だいぶ腐乱していたから…たぶん、ということだけだ。まあ、調べればわかるだろう。あいつは、拾った子だとか言いやがった。

誘拐したくせに」本気で怒ってくれているらしい。「十五年前に拾った、そして志麻さんが行方不明の話をして…くれました?」

「はい」

「なら符号は揃います。タカシくんだと判明するまで時間の問題でしょう」

「…なあ、殺したのはだれなんだ?」克弥は、声を潜めて訊いた。

「…その前に、誘拐されたときの話をするよ」

 上塚さんは、ペットボトルのお茶を一口含み、天井を仰いだ。

 

 「あの一週間くらい前に、おふたりは部屋を別々にしたでしょう。まあ、小6と小4の異性のきょうだいですから、至極当たり

前なことですけど」

「はい、しました」わたしに生理が来て、両親がそうしたのだった。

「タカシくんは、ショックでした。おねえちゃんに嫌われたかと勘違いして」

「えっ、何も言ってなかったですよ。反対しなかったし、泣いたりも…」

「意志表示もできないほど、内的に悩んでいた。その一週間、志麻さんは学校の用事も忙しくてろくにタカシくんと遊べず…

やっと誘えたのが、あの日」

「そう、そうでした」

「だからタカシくんは、志麻さんを試した。隠れて、どれだけ本気で探してくれるかを」

「……」言葉を失う。

「本気で探してくれていたからそろそろ出ていこうとしたとき、杣森に見つかり、気に入られた。ハンカチで口を抑え、抱き抱え

走り去った。記憶はいつ無くなったのか不明ですが、杣森に飼われていても、はじめは嫌悪感はあったけれど、逃げてもどこへ

行けばよいかわからない、殺しはしないし寧ろ大事にしてくれる、だから、諦めて杣森に飼われていた」

「…わたしのせい、だったんだ…」

「ばかだな、年頃になったら部屋を別々にするなんて当たり前じゃないか」克弥は早口に言った。「学校のことといい、偶然が

重なったんだよ」

「志麻さん、タカシくんはあなたのせいとは思ってませんよ。自分が信用しないで試したのが原因だと自責しています」

「…ありがとう。それで…、高志は15年もそこに?」

「はい。で、杣森が出かけてひとりで居たときに、ふっと全てを思い出した。何も刺激は無いのに」

「不思議だな。で、逃げたのか」

「うん。で、行くところはひとつ。志麻さんの実家」

「ええっ、両親、会ったんですか、高志に?」

「…おかあさんがひとりのときに行って、おかあさんは、息子が生きてるなんて、信じられなかった。悪い冗談はよしてくれ、と

追い返した。夜、おとうさんの帰宅を待ってまた訪ねた。おとうさんは信じかねて、玄関先でいろいろと質問をした。確かに

面差しは似ている、しかし10歳だったこどもの、おとなの姿を見ても、騙されているとしか思えない。15年前のことを、完璧に

答えたので、じゃあそうなのかな、と家へ招き入れようとしたとき。おねえちゃんは? とタカシくんが訊いた。おとうさんは、やっ

ぱり娘が狙いなのか、と怒って、おかあさんも、何か企んで来たのね、と青冷めた。…素直に信じられないほど、帰って来る

なんて思ってもみなかったんだろうね。それで、おとうさんは、タカシくんを追い出そうと揉み合いになって、誤って殺してしまっ

たんだ」

 二の句が継げなかった…鼓動が速まり、冷や汗が背中を伝った。

 上塚さんはこちらを見ずに、そのまま続けた。

「おかあさんとふたりで、隠す場所を探した。家の中ではすぐに匂ってくるだろう。シーツでぐるぐる巻きにして、梱包用の紐で

縛って、夜中にこっそり運び出した。稲荷さんしか考えられなかったみたいだ。あそこで居なくなったのだから、あそこへ還そう。

ただ、それを繰り返していた。おとうさんは、なぜかあの窓の外れることを知っていた。そこから侵入して、適当な行李を見つけ、

仕舞う。その後、おかあさんの言動がおかしくなった。タカシくんの存在など最初から無かったかのようになっていた。おとう

さんはちゃんと覚えていたけれど、そういうことにしておこう、と呟いていた。幸いだれも見ていなかった…タカシくんの魂以外は」

 気付くと涙が滴り落ちていた。だから、行くのを辞めようと、上塚さんは言ったのだ。

「…高志くんだと信じなかったのは仕方ない。それだけ時間が経ちすぎていたのだし、きみを守りたくて憤ったわけだし。でも

死体遺棄は償うべきだね…」克弥は穏やかに言った。

「あの死体がタカシくんだとわかれば、ご両親が呼ばれる。自白するかは、おとうさんの良心にかかっている」上塚さんはまた

お茶を飲み、黙った。

 景色は夜になり、バスは東京に着いた。上塚さんとはそこで別れる。わたしは克弥が歩き出しても、ついていけなかった。

「どうしたの?」

「…わたし、あなたの家に帰ってもいいの?」

「なにそれ」

「犯罪者の娘なんだよ?」

「……」少し黙ってから、克弥はなぜか肩を組んできた。「あの話を聞いて、きみが家族にいかに大事に思われてるか、すげー

わかっちゃった。だから、おれも大事にしたいんだよねー」と、そのまま歩き出した。「そこのデパートで、アイスクリーム買って

帰ろう、でっかい入れ物のやつ。食欲無くても入りそうな、とびきりおいしそうな」 わたしは歩きながら、克弥の腕の中で

泣いた。

「…そう言えば、高志は…?」

「あれっ…見えないから、上塚が連れてって以来わかんないや。後でメールして訊いてみようか…」

 

 翌日の晩に事情聴取のときの刑事さんから連絡が入り、あれは弟だった、父が自白した、と伝えられた。

「良かった、おとうさんは正直者だったね」克弥は笑顔で言った。本当に正直者だったら、すぐに自首すると思うが、それは

克弥もわかっているだろうし、敢えては言わなかった。

 ふたりで休みをとり、また田舎に帰った。警察に行って、母に精神鑑定を受けさせ、父に面会した。

「ありがとう…わたしのために怒ってくれて。正直に言ってくれて」

 出署したあとは暮らしにくいだろうから、東京で一緒に暮らしましょう、と克弥が言ってくれた。父はこどものように泣いた。

「まさか本当に高志だったなんて…まるでわからないなんて…」

 上塚さん曰く、死体を発見するまでは一緒に居たが、そのあとは姿が見えなくなっていた、と言った。死体を発見してほし

かったみたいだから、満足して消えたのかな、よくわからないけど、と。

「おとうさんの中では、高志の人生は十歳で終わっていたんだよ、だから仕方ないよ」わたしは言葉を選んで言った。「埋葬は

しておくね。体を焼かなくちゃいけないから。帰ってきたら、一緒にお墓参りしよう」 マスコミに張られていたけれども、わたし

たちは丁重にお断りをして実家に帰った。お隣の奥さんが「たいへんね…しっかりね」と激励してくれた。こちらも、お騒がせ

しましてと頭を下げる。両親を引き取るならこの家のこととか、考えなければならないことが、沢山あった。とりあえずきょうは

休もう、明日は高志の葬儀を手配して…今まで十五年、父たちは、高志が死んだものと思っていたみたいだけれど葬儀は

しなかった、仏壇に位牌も置いていない。わたしはどこかで生きてるかも、とも思っていたので、それでよかった。しかしとうとう、

しなければいけないときが来たのだ。

 密葬にして、高志の小学校の友達を探し出して連絡したりはせずに、克弥とふたりですることにした。火葬場に予約を

入れた後で、克弥は、上塚にも来てもらおうか、と言った。休みを取って来てくれ、三人で弟を送り出した。身体が焼かれて

いる最中、ロビーで座っていたら上塚さんが

「…あ、志麻さん、そこにタカシくんが」と言った。 示されたロビーの一角、一面硝子の壁のほうを見ると、そこだけやけに光が

当たって、硝子の屈折で床にきれいな柄ができていた。光の中に、はっきりしない人の姿を見たような気がした。はっきり

しない人の声を聞いたような気がした…ありがとう、と。よく見えないけれど、わたしは立ち上がり、そちらに向かって手を

振った。

「居なくなっちゃった」上塚さんは残念そうに言った。そこへ、案内の人がやってきた。どうやら、高志がすっかり灰になって

しまったことを、伝えに来たようだった。

 

10

 

 半年経ち夏休みになって、克弥の実家に行ったら、ちょうどお稲荷さんのお祭りがあるというので、行ってみた。人混みを

掻き分け、気になるところへ来てみたら、例の、高志に似ている子が居た。

「あ、おねえちゃん、また会ったね」

「たまたま来たから、あなたのキーホルダーが気になって」

「何度も見に来てるけど、やっぱり芽は出ないよ」彼は今日も、見に来ていたらしい。「あ、なに、カレシ?」克弥に気付いて、

イシシ、と笑う。

「だんなさん」

「えー、ケッコンしてるのー? だれかのママなの?」

「…こどもはいないから、ママではないよ」

「そうなんだー」またそこで、電話の音が鳴る。「かーちゃんだ。…なんだようるさいなー。わかってるよ、ハイハイ、もう帰りますぅ

〜」途端に生意気な口調になるので、克弥とわたしは笑った。「じゃあ、かーちゃんうるさいから、帰るわ。またねー」言ってから

居なくなるまでが、やけに速い。

「かわいいね、男の子!ってかんじ」克弥は笑う。

「ああ言いながら、ちゃんと言うこと聞いてるしね」

「…うちにも、あんな子が居たらいいね、高志って名前とかで」

「ええ? それは幾らなんでも、わたしのエゴにならない?」

「いや、マジマジ」

「…克弥ってほんと、…まあ、いいけど」

「女の子だったら、なんて名前がいいかな〜」

「そうだねえ…」

 賑やかな風景の境内は、田舎のお稲荷さんのお祭りの景色に酷似していた。高志と何度も行った、一緒に金魚すくい

とかのゲームもした、綿菓子を半分こにした…わたしとはできたけれど、仲間やカノジョや奥さんと、そういうたのしいことを体験

せずに逝ってしまった。十五年の寂しい日々、そして無念の結末。本当に輪廻というものがあって、彼の魂がまた新しい

人生を送れるとしたら、救われてほしい、辺りを眺めながらそう考えていた。

 

 実際にできたこどもは男の子だったが、高志という名はつけなかった。高志には高志で居てほしかったし、うちの子にはうちの

子で居てほしかったから。けれども願わずには居られない。高志のように、心穏やかでやさしい少年であってほしいと。そして、

克弥のようなおとなになってほしいと。

 

 

                                                         了

 

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