雨上がりの即興曲

                             小林幸生 2009

 

 

五月雨からなし崩しに入梅が宣言された頃、拓実がようやく帰国し、家に拓実が居るのに、と、ますます学校へ行く

のは面倒に思う。でもなんとなく卯野さんには会いたくて殆どそのために学校へ行く。4月に勉強を教えてくれたクラス委員、

てだけだった。でもなんとなくつかず離れずに居て、カレシの話を訊いて、わたしのよくわからない恋愛観を話した。やけに

素直に。それ以来、その話は出ずとも、なんとなく落ち着く間柄、みたいなかんじだ。珍しく、クラスに近い人が居る。高校

3年の夏のはじまり。

 

千雪と共演して、学校があるので見送りに行けずに彼女がドイツに帰るその日、混んでいたバスを降りると、卯野さんが

居た。教室まで一緒に行く。今までのわたしでは考えられないことだった。しかも、だ。

「ねえ、小峯さんて、下の名前、なんだっけ」

「日南子」

「ああ、そうだ。お日さま、南。なんかあったかいかんじの。あのさ、厭でなければ、名前で呼んでもいい? 呼び捨て、ちゃん

づけ、それとも短縮バージョン、どれがいい?」

「家族は呼び捨てだな。どれでも」ちょっと嬉しく思いつつ、答える。

「うーん、…じゃあ、日南でもいい?」

「うん」

「わたしのことも名前にしなよ。呼び捨てがいいな」

「ごめん、なんていうんだっけ」

「美月(みつき)。あ、すごい。太陽と月だ」自分が太陽ってのにピンと来なかったので、ちょっと間を空けてしまう。

「…ほんとだ、そうだね。…あれ。卯野美月さん、か。いいね、卯って、うさぎ年の卯じゃない、月のうさぎみたい」

「ほんとだ、自分で気付いてなかった」笑いながら、名前で呼び合うようになってしまった!と驚く。「…日南、そう言えば、

どうにか転んだ?」

「…え、あ、えっと…」あの日以来の恋愛の話だ。錯覚しそうな人は3人も居ると話し、でもどうにも転ばないかもねと言われ

たのだ。

「一番若いのとか」わたしは耳まで熱くなってしまう。

「よく会ってるね…」

「やっぱり?! なんかそんな気がしたのよ、しかもその子でしょ?」

「卯野さ…いや、み、美月、鋭すぎ…」教室に着いてしまうと、外廊下に連れ出される。

「何回か図書館で一緒に勉強してるだけだよ、それでそのあと、マックとか、鶯堂とか行ったり」

「ぷ、真面目〜。鶯堂の甘味好きなんだ、いいね。どっちの趣味?」

「むこう。あ、わたしもかなり好きだけどね、あそこの和菓子」

「…高校生?」

「…それが…最初中学生かと思うくらい幼いんだけど、年上だったの。専門学校の1年生」

「1コ上かー。まあ、日南は年下でもどっちでもいけそうだけど。何の専門学校?」

「掘り下げるねえ。保育。幼稚園の先生になりたいんだって」

「あらまあ、すてき」

「わたしには、本人が幼稚園児かってかんじに見えなくもないんだけどね…実際、お兄さんの生徒の小学生とかと、超

仲良しだしね」元・川越家のお菓子の家に住んでいる姉妹ととか、玄関先でよく遊んでいる。半端に早く帰るときに時々

見かけた。

「お兄さんの生徒?」

「あ、言ってなかったっけ。ピアノと作曲の先生の弟なの」

「へーえ…それはかなり、転びそうだね」目をキラキラさせながらも静かなかんじで微笑む美月を見て、なんとなく千雪に

雰囲気が似ていることに気付く。だから落ち着くのか。

なんとなく、ガッカリする。千鶴に似ている先生について、太一に似ている男の子と仲良くして、千雪に似ている女の子と

仲良くしてるなんて。あのへんのメンバーに似ていれば誰でもいいのかい、と思う。

当の有真くんは、初対面のときと変わらずフニャンとしていていながら、妙に流されないマイペースさも持ち合わせた、

やさしい男の子だった。あの雰囲気は確かに、幼稚園の先生っぽい。

将来の夢もシンクロする夢の内容も、誕生日も血液型も、メールアドレスも知ることができたが、距離感は全く変わら

ない。わたしは明確に恋とは言えなくても、確実に好意は抱いていた。

付き合いたいのかなあ。また斉木先輩のときとは違うかんじで、考える。確実に、こっちは会いたいと思っている。メールが

来ても、門のところに居ても、窓のところに居ても、嬉しい。でも、こんなふうに中途半端に近くなると、これから付き合おう

ってならないのかもしれない、とも思う。相変わらず小峯日南子、とフルネームで呼ぶのはよそよそしいし。どういうつもりで

>きょうは図書館で勉強する? おれ10時頃行こうと思う。来るなら昼ごはん一緒にどう?< って誘って来るんだろう。

あのみどりの展示スペースに誘えばついて来るし。てかそもそも、なんでこの人、こんなに可愛いんだろう、とまで思う。頭を

くしゃくしゃと撫でたくなっちゃう。やっぱり前世は弟だったんじゃないか。

雨がやんでいたので長傘を持たずにレッスンに行く。帰りには降っていたので、先生に傘を貸しましょうか聞かれ、折り

畳みは持っているので大丈夫ですと言い扉を閉め、門を開けながら二階を振り仰ぐと、窓枠に腕と顎を乗せている有真

くんが見えた。手を振り合う。で、傘をさして2、3歩歩くと、拓実が居た。

「あれ、どうしたの」

「傘、持ってたのか」長傘を持って来てくれたのだ。

「えっ、ああ。ありがとう。ごめん、持ってた」並んで歩き始める。

「今の、だれ?」やっぱり見えてたか。でもさらりと訊いてくるので、こちらもさらりと受け流す。

「先生の弟。拓実がむこう行ってる間に、先生に弟が居ること知ったんだよね」と言ってから、美月と太一にしか言ってない

や、と思う。そう言えば、ふたりはなんとなく、推奨してくれているなあ。

「ふうん、小学生とか?」

「…専門学校の1年生」

「へっ? まあ、あんまよく見えなかったし」

「だろうね、暗いし。ま、小さいっちゃあ小さいけど」

「そんな歳近いんだ」

「あ、心配?」ふざける。

「そりゃ、まあね。父ですから」…マジ顔で言うし。

「あと、おねえさんが居るんだって。先生がまんなからしいけど、先生、家族の気配無いから、わかんないね」

「そうだな」少し黙ってから、「なあ日南子、ほんとは先生のこと、恋愛の意味で好きだったりする?」などと訊いてきた。

「はあ?!」

「…違うね、はいはい、ごめん」

「違うけど。なんでそう思う?」家に着いちゃったので、そのままアトリエへ。

「作曲勧められたら、すぐ受け容れるし、今の話はちょっとたのしそうだし」

「…作曲はー、ほかにやりたいことなくて、千雪の曲とか思い出して、わたしもチャレンジしてみようかと。才能無いとわかった

時点でやめるけどね」今の話云々は、黙殺してみる。

「あと、先生が新宿で女性と歩いてたの、見たから」何も言わずとも、カフェオレが出て来る。

「ありがとう。…へえ! それはスクープだね」拓実はわたしの表情を観察しながら、

「まあ、そのおねえさんかもしんないけど」と言う。

「そうだねえ、講師仲間とかもありえるけど。まあ、居てもおかしくないよね」となんてことなく言うと、

「やっぱり違うのか」と笑う。

「まあ、尊敬だろうねえ」あったかいマグを、雨で冷えた手で包む。

「…弟って、専門学生って言ったっけ?」

「…うん。保育の」

「へえ、じゃあやっぱりピアノ弾けるんだ」

「…それはー、酷い出来だけど、がんばってるらしいよ。お兄さんがあんなにうまいから、比較されるのが厭で小学生のときに

一回辞めてるんだって。わたしが絵を描けないのとおんなじ」笑う。

「おねえさんは?」

「OL、音楽関係ではない。わたしが行くような時間には、帰って来ない」

「そう。結構詳しくなったね。先生が話してくれたの?」

「…弟」一瞬弟の話から逸れたから、油断した。拓実も結構、鋭い…。

「ふうん」それ以上は何も言わず、微妙な表情で珈琲を飲む。今の15分くらいのやりとりだけで、全てバレた気がした。

 

「大丈夫だよ、きっと安心したと思うよ。まあ、少しは寂しいだろうけど」美月に話すと、また落ち着いた笑みを浮かべて、一番

言ってほしい言葉をくれる。妙にほっとして、顔がほころぶ。「ふふ、叔父さんも大切なんだね、やっぱ」最近この、外廊下、

ベランダみたいなところで話すことが多いな。手摺に寄りかかりながら、

「…美月って、おとなっぽいね。今までわたし、おとなの友達しか居なくてね。全然、ひけをとらないよ」と呟く。

「老けてる?」

「んなわけない」言いながら、わたしも斉木先輩に同じことを言ったな、と思い出す。「美月のカレシさんは、何してる人?」

「それって、年上って決めつけてない?」笑う。

「いや、…今の言い方はそうだったね。でも前、コイツって言ったね。まさかこのクラスに居たり?」

「これまた極端な」

「違うかー」

「同じ歳だよ。美高生」

「えっ、絵をやってるの?」

「ううん、版画」

「すごっ。実は叔父、絵描きなんだ」

「まぢ?! 美大出てるの? ねえ、今度会えない? 話聞きたがると思う」

「うん、いいと思うけど、油絵だからかなり違うと思うよ」

「いや、とりあえずは贅沢言わない。企画してもらっていい?」

そこで、拓実に聞いて、ふたりにアトリエに遊びに来てもらう手筈を整える。

「学校の友達なんて珍しいな。しかも、カレシ付きって」拓実は驚いている。駅まで迎えに行くと、美月はもう来ていて、

カレシと仲良さげに喋っていた。

「初めまして、甲本奈都弥(なつや)です。きょうは無理を聞いてくれて、ありがとう」流石に美月がガツンと来た相手、ちょっと

スレた風なのに好青年の細マッチョだった。

「うわ、滅茶カッコイイ!」

「盗らないでね」と言いつつ、余裕の笑顔の美月。

雨の中3人で歩いていると、むこうから雨合羽を着て自転車をこぐ有真くんが来た。

「おー、小峯日南子」

「あれ、図書館じゃなかったの」きょうもいつものようなメールが来たが、友達の接待と正直に言って、断ってしまったのだ。

美月たちに愛想よく頭を下げてから、

「うん、午前中は行ってたんだけど、これからバイト」と、合羽のフードの下からキラキラした目をこちらに向ける。

「こんな雨の中たいへんだね」

「まあ、たのしいから。じゃあまた。今度、鶯堂の夏の新製品食べに行こうね。バイバ〜イ」走り去る。手を振ってから、

後ろのふたりを振り返ると

「…ありゃあ、まずいね」と美月。

「な、何が」

「自分がオトコだって自覚が、まるで無い。あんまり期待しないか、ガッチリハッキリ自分のものにするか、日南が決めないと、

ズルズルになるよ」…や、やっぱり…。奈都弥くんは

「出た、男の評論」と笑う。

うちに着くと早速アトリエに通して、拓実が出したお茶とお持たせのお菓子で話をし、拓実や奈都弥くんの作品を見たり

した。版画は、シルクスクリーンで、やさしい色合いの、油絵とは真反対の世界だった。

「油絵みたいに、世界にひとつではないんですけど」それはそうかもしれないけど。でも、今まで出逢ったことのない色彩

だった。あとは卒業アルバムやアルバム、ふたり展のときの資料や、まだまとめてないこの前の学会の写真と資料なんかを、

拓実が見せて説明する。なんか、いつもの拓実ではないみたいに、はきはきとしていて、みんなのペースをがっちり掴んで

いた。

「学校の先生みたいだったよ」ふたりを送って帰って来てから言うと、

「あほか、それほど合わない職業は無い」と笑う。「あ、先生と言えば昨日、金森先生の弟を見たよ」

「…ふうん、どこで?」

「まあ、先生ん家の前を通ったから、居たんだけど。玄関開けっぱなしで次から次へ靴を磨いてた」

「へえ」

「ってほど長く見てないけど、置いてある靴がそんなふうだった」

「うんうん」

「まあ門の中だし、余計なことを言いそうだから話しかけなかったけど」

「余計なこと?」

「日南子を宜しくお願いしますとか、なんとか」イシシと笑う。わたしは苦笑して

「それは余計だわ、確かに」

「いいな、なんか。たのしそうだった」

「…」なんとなく笑ってしまう。映像で想像できてしまう。「自転車磨いてるときも、たのしそうだったな」そうなのだ。だから、

わたしと居てたのしそうに見えても、彼にとっては幾つもあるたのしいことのひとつであり、特別なことではないのだと言い

聞かせている自分がいる。

なんとなし、メールしてみる。

>夏の大三角が見えるのって、いつぐらい? 来月?<

すぐには返事は無い…そうだ、バイト中だった。

 

アトリエの屋根に、雨の音が響いていた。

 

>冬以外は見えるんだけど、七夕でなくて、旧七夕の8月あたりが一番きれいなんだって< 夜に

なって、メールの返事が来た。てことは、夢の場所に行くのはもっと先かあ。と思っていたら、

もう一通。>実はこの前、夢の記憶を辿って池を探してみた。やっぱりというか、無かった<

>そうなんだ< やっぱり無いのか。がっかりして、それから勉強の続きをしていると、また

メールが来た。

>先週のレッスンの後迎えに来たのが、叔父さん?< …今頃? と思いつつ

>そうだよ<と答える。

>かっこいいね<どこがじゃ。

>とりたててハンサムとは思わないけど<

>背も高いし<

>小さいのも悪くないよ< 送ってから、まずかったかな、と思う。返って来たのは

>(^^)< …ほんとに嬉しいのかなあ…。

何日か後に久しぶりに晴れて、学校から帰って来て駅から出て来ると、有真くんがロータリーで、

目立つ、きみどりの服で立っていた。

「あっ、小峯日南子、ちょっとちょっと!」でっかい声で呼ばれ、

「フルネームばれちゃうじゃない!」わたしは人差し指を口の前に立ててそちらへ行く。

「今メールしようとしてたとこ。あのね、幼稚園のとき遠足で行ったとこ、すごく似てるから、

調べてみたんだ、ここからバスで行ける」

「え? 池の話?」

「うん、で、そこ、星じゃないんだけど、蛍が居るらしいんだ。梅雨が終わったら、もう見られ

ない。今日雨が上がったから行ってみようと思うんだけど、行かない? おれが下見して来て、

またにする?」

「えー、でも梅雨明け、もうすぐだよね」

「そうなんだよ」

「…行く」わたしは祖母に捜し物、と電話をし、遅くならないようにすると言う。そしてバスへ。

20分くらい乗る。隣に座る有真くんは、濃いきみどり色の長袖Tシャツごと、窓の光を浴びて

白っぽく光る。窓の外とわたしを交互に見てたのしげにおしゃべりするこの無邪気な顔が、知ら

ないところに着いたら豹変して、殺されたりしたら、どうしよう。わたしはこの人の、何を

こんなに信じて、ついて来たのだろう。こんな数センチも空けずに隣に座るのだろう。

バスはすごい勢いで、わたしの育った家から遠退いていく。到着した場所に、知っている人は、

有真くんひとりだった。

「ここから」鞄からパソコンから印刷した地図を出して見ている。「えーと、その理容店とコン

ビニの間を通って行くと、飯沼グリーンセンター」

「あ、聞いたことある」

「うん、そこそこ有名」有真くんは、その道を入って行く。わたしは後に続く。「幼稚園の遠足で、

ここに来たらしい。小動物園や植物園があったりするから。来なかった?」

「わたしたちは確か、安西フレンドパーク」

「あ、小1で行った」

「ここは来たことないな」言っているうちに、門が見えて来た。開いているが、有真くんは右へ

塀沿いに行く。

「おれ迷子になって、気付いたら園の端に立ってた。塀の穴から、池が見えたんだよね。それが、

夢に出て来るのに似てる気がして。よくは覚えてないんだけど。確かこっち」

「蛍は居た?」

「ううん、秋だったし」塀の脇は路地で民家、だったが、そのうち薮が見えて来た。「あっ」有真

くんは薮の中に入り、すぐに戻って来て「あった、あった」と嬉しそうに言った。わたしが藪を

越えるのを手伝ってくれ、何気なく紳士だなと思い、そして余りの近さにドキドキしたが、進んで

行った。やば、心臓の音が聞こえちゃうよ…。いや、今は周りを見なくちゃ。

確かに。夢の中の池にそっくりな、白っぽい光に包まれた静かな池だ。

「ほんとだ、おんなじだね」

「うん」夢の中と同じように笑って、「グリーンセンターはここも塀の中に入れたいらしいん

だけど、個人のもので、譲らないらしいよ。でもお金を払わずに見られるんだから、おれたちは

有難い」

「その人は庶民の味方だね」

「まあ、入場料も300円ぽっちだけどね」

「そうか、安いんだ」

「市営だから。…ちょっと早すぎたか、蛍って暗さではないなあ」

そのとき、池のほうがますます白く光った。

「わあ、蛍だ」

「ほんとだ」日の当たるあかるい池に、水面の煌めきよりも更にあかるい、涙で潤んだ視界の

ような、白昼夢のような光景が現れた。見とれているうちに空は赤く染まり、そして暗くなった。

普通の、蛍の光景になる。水面には、少しだけれど、星が映る。

「昼の蛍、すごかったね…」

「この星も、いいよね…」わたしたちは暫し、放心していた。

気付くと8時半だったので、慌ててバス停に戻った。バスには運転手さんとわたしたちだけ

だった。電話しても迷惑そうではなかったが、一応、わたしのほかに家族で唯一携帯を持って

いる拓実に、あと30分くらいで帰るとメールしておく。携帯をしまって

「ごめんね」と有真くんを見ると、窓に頭をつけて眠っていた。「寝付き早っ」呟き、終点の

駅まで放ってをく。今見ている夢に、わたしは出てきているだろうか。

帰ってわたしは、拓実や祖父母に「夢に見た場所がほんとにあるか見に行っていた」と、嘘は

つかずに言う。「そういうの、作曲のインスピレーションになるかなって」というのは、思いつき。

「で、あったの?」

「似たようなところは。でも、そのものではなかった」…で、済ませてしまう。なんとなく、

誰と行ったとか、今度一緒に行こうとか、言う気に全くなれなかった。

 

「パネルシアターって、見たことある?」図書館で会うなり、有真くんは言う。

「パネル…なんて言った? なにそれ、聞いたことない」

「シアター。うちの学校では必修科目なんだけどさ、これ、ミニ版」B5くらいのふわふわの布を

貼った板に、紙のかえるがくっついていた。かえるの絵は、有真くんが動かすとコミカルに動く。

「なにこれ、どうなってるの?」顔と体、手足が別々に作ってあり、糸で留めてある。「な、

なるほどー。これで、こうか。あ、かわいー!」操り人形のようでまた違う。「摩擦だけでくっ

ついてるんだ、すごい!」

「これみたいのや、でっかい板で大きい部屋で見せたりもするんだけどね。今度これの発表会が

あって、出るんだけど見に来ない? うちの学校で入場無料」

「行きたい、いつ?」日時を聞き、手帳を見ると、バッチリだ。「やった、行ける」

友達を連れて来てもよいらしいので、美月を誘ってみる。説明すると、

「それは奈都弥(なつや)も見たいだろうなあ、聞いてみてもいい? 叔父さんも誘ったら?」

「そうだね」思いつかなかった。絵だから、興味あるかもしれない。帰って聞いてみると、

パネルシアターは知っていたけれど、日が合わない。

「そうか、保育だもんな。ひとりで行く?」

「きょう美月を誘ったら、美月は奈都弥くんを誘うって。じゃあ、3人で行くかな、あ、

奈都弥くんの都合わからないか」

「太一は? たぶん興味あるよ、朗読や芝居にも関係あるから。あのふたりが、知らないおとなが

居て厭でなけりゃ」

「芝居に関係あるの? そうか、誘ってみるか」

メールをすると、バッチリ空いていた。

>それって、例の彼?<

うっ、有真くんを見られることになるんだ!

>そう<

>何か変わった?<

>特にはべつに< と送信したとき、わたしの頭の中に、プーランクの即興曲の7番が流れた。

ちょっと前にフランスものばかりやっていて、弾いてはいないが聴いたのだ。〈雨の庭〉や

〈雨垂れ前奏曲〉、千雪と共演したヴァイオリンソナタ〈雨のうた〉など、雨とタイトルにつく

曲は流石に雨っぽいが、わたしにはこれが雨に聴こえる。

外にはまた、雨が降りだしていた。雨音は、頭の中で曲に寄り添いながら響いていた。

パネルシアターの発表会の日は、4人で行った。美月は太一のことも話していたのでニヤリと

しながら挨拶していた。相変わらずすごい愛想のよさで、太一はふたりと同じ年みたいなかんじに

なっていた。

プログラムを貰ってみると、2学年で、1学年30人居るのに5人ずつしか出なかった。どう

やら選抜メンバーらしい。すごいじゃないの! それで、プログラムの後ろに来週のピアノの選抜

メンバーの発表会が予告されていたが、そこには名前は無かった()

有真くんは5番目だった。前の人たちのは、例の大きなパネルで歌に合わせてキャラクターを

動かしたりして、技もいろいろあった。これはこどもが喜びそうだね、と言い合う。

アナウンスで、演目や内容の説明が入るのだが、有真くんのときは、「オリジナルのブラック

シアターで、おはなし」と言われた。ボードが黒いのに変えられ、何か蛍光灯みたいなのが

つけられると、彼が登場し、会釈して拍手をもらい、上のほうにいくつもの星を貼った。背伸び

していてかわいい。

「星が出てきました、夜です。このお部屋も暗くなります」と言うと、スイッチの傍に居た

学生が、部屋の電気を消す。真っ暗になり、ボードの星が光り出した。方々から、きれい、と

いう声が上がった。プログラムのタイトルに、「見上げてごらん、夜の星を」とあったので、

その歌に合わせてやるのかと思ったが、アナウンス通りおはなしで、最後にBGMでその曲が

かかっただけだった。両親を亡くした男の子が、おばあちゃんの愛情に気付かず家出して、夜の

野原で出逢った同じく家出をしてきた女の子に、同じような悩みの愚痴を聞かされ、励ますうちに、

自分もうちへ帰ろうと思う、というものだった。絵がハチャメチャかわいい。語り方も、拓実が

芝居に通じると言っただけあって、太一の台詞みたいだった。おはなしも、自分は祖母に反発を

覚えたことは無いが、境遇も似ているし、ちょっとせつなくなる。灯りがつくと、有真くんが

お辞儀をして、拍手が起こる。

客席から「すげー、あれ、1年生?」「オリジナルだって? だいたいブラックやるって…

経験者?」とか声が上がった。次の人から2年生だったが確かにレベルは落ちて、トリの人も

完成度や演技力が有真くんほどではなかった。

そして休憩、先生の見本公演。それは流石にべらぼううまいのがわかった。

「彼すごいね…」3人はわたしに言う。

「そうだねえ」と返すしかない。片付けているところに4人で会いに行くと、みんなで頭を

下げ合い、感想を言う。

「すごいよ、プロみたいだった」

「語りも、おれ負けちゃうかも」太一もお世辞でなくマジに言った。

「なんかハマっちゃって。こればっか一生懸命やってるんです」

「前からやってたの?」

「ううん、4月まで知りもしなかった」2ヶ月強で、すごすぎ。「いろんな人の観て、作り

まくって、講習会も行った。これ毎学期あるから、毎回出たいなって」いい笑顔だなあ。

あの曲が頭に流れた。まあきょうも雨降りだが、というより有真くんと会うと、彼のことを

考えると流れるのかも。ピースを見せてもらったりしてから帰る。

みんなと別れてうちへ帰る途中、有真くんからメールが来た。

>話があるんだけど、今どのへん?< うちの最寄駅の名前を返すと、>マックかどこかで待てる?<

とある。

>いいよ。まだ学校?< なんだろうと思いつつ、承諾。あれからすぐお開きになったそうで、

2本くらい後の電車に乗ってるところみたい。マックのカウンター席で待っていると、いつもの

調子で現れた。飲み物を買って来るなり

「…あのさ、あの池のこと、誰かに言った?」

「夢で見た景色を探しに行ったとは家族に言った。池のこと自体は言ってないよ」

「やっぱさあ、あの池、秘密にしない?」

「…そうする? いいよ。夢の中みたいに誰か呼ぼうとか、あんまり思わなかったし」すると

ちょっと黙ってから、

「あのね、おれ、来年も再来年もそのあとも、ずっとふたりで見たい」と言う。その言い方が

小声だけど結構いつになく鋭かったので隣に座る彼のほうを見ると、これまたいつになくマジ

面で真っ赤だった。自分の顔も、だんだん熱くなるのを感じる。

「…初めて恋なんてした。賑やかな職場からひとりの家に帰って、ひとりで生きていくん

だろうって思ってたけど、きみと逢ってからずっと、どうにかして付き合えないか、色々考えて

た。もお、ほんと好きで堪らない」…そこまで言ってくれちゃう?「そんなつもりでなく一緒に

居てくれたのはわかってるけど…きょうパネルが成功したら言おうと思ってた」なんと。そんな

つもりでないだろうと思っていたのはわたしのほうだ。

「違うよ、会いたくて会ってたんだよ。有真くんだから…。わたしも、こんなふうに思ったのは

初めてだよ。きっと恋なんてしないと思ってたのに…」なんだか言葉がすらすらと出て来る。

…これが、本心なんだな。

「えー、ほんとにー? …じゃあじゃあ、今度友達に会ったら、カレシって紹介してくれる?」

下のほうからわたしを覗き込み、ほんとに幼稚園児かってなかわいい顔をする。

「うん」…っかー、カレシかあ。

「おれもカノジョって言っていいんだよね?」う、嬉しいじゃないの。で、ちょっと顔を曇ら

せてから、「…兄ちゃんって、言っていい?」

「…あー…」わたしは悩む。「大事な時期なのにって怒られるかなあ…」

「敢えて言うことないか。聞かれたら肯定、くらいで」

「そうだね…だいたいわたしが弟を知ってる、なんて知らないんだから。心臓麻痺で死んじゃう

よ…」

「まあだいたい、普段あんま喋んないし」

「そうなんだ」

「生活時間帯かぶってないからさー、ごはんも滅多に一緒にならないよ」

「へえ」まあうちも、拓実は食卓に居ないことのほうが多いかな。…なんて考えていたら、目の前の

硝子を挟んで向こう側に、先生が見えた。こっちを見て固まっている。「…あ」いきなり、バレた

らしい。

「うわ、兄ちゃん」有真くんも気付き、硝子を挟んで対峙。

「これは、隠さないほうがいいか」わたしは椅子を降りて、外の先生のところへ行った。「こ、

こんにちは」

「こんにちは。ふたり、知り合いだったんですか」やはり驚いている。

「はい、それで…たった今、交際をすることにしました」

「はい?」そこまでは考えなかったらしく、クールな先生がかなり驚き、眼鏡がずり落ちて、

直す。弟も店から出て来て

「きょうから付き合いますんで」とかしこまって言う。先生は怪訝そうにわたしたちふたりを

見比べる。

「…はあ。そうですか」と言って、わたしに「有真をよろしくお願いします」と頭を下げる。

「せ、先生、そんな大袈裟な…」

「まあ、受験に影響無いようにお願いしますね」と今度は弟に。

「わかってるよ、日南子の不利になるようにはしたくないしね」あ、苗字がついてない、などと

余計なことを考える。

「では私はこれで」先生は駅に消えてゆく。

「あー緊張した!」有真くんのほうが言う。「なんでもキッチリしてるから、受験終わるまでだめ

とか言われるかと思った。よかった〜」改めて、隣に立つ有真くんを見る。目が合うと、とんで

もなくやさしい笑顔になる。「よろしくね。でも今まで通りでいいから。カレシだからって無理し

てくれなくていい。自然体でいこうね」

「うん」

雨は上がり、軒下の雫が日を受けてきらきらと光る。雨でもないのにやっぱり、プーランクが

頭いっぱいに拡がる。きっと、わたしの恋は、美月のようなドラマチックなのでも、千雪の

ような静かなのでもなく、そこそこ動きのある、雨が少しだけ降っているような、こんな響き

なんだろう。手をつないで道を歩きながら、そんなふうに考えた。

 

                                         

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