小林 幸生 2009
雪が降った翌日の快晴が大好きだ。並木道では、風が吹く度に木々の枝から粉雪が舞う。足元は歩き易く
なり始めているので、ブーツの踵を鳴らしながら闊歩する。そんな日曜日。緊張の朝。
結局1年休んだだけでピアノを再開した。すぐに発表会だったので猛練習、ピークのときのようには指が回ら
なかったが、そこまで速い曲ではなかったので、なんとか形になる。
客席に集合してリハーサルだが、わたしは後のほうなので始めからいるのは免除され、リハーサル半ばくらいに
行った。楽屋で靴を履き替えてから客席に行き、先生に挨拶して、最後列の席で順番を待つ。その間、曲の
ことを考えるつもりが、どうしても4列前のおとなたちの一番端の、先生の頭を見てしまっていた。
いつも通らない道をたまたま通って、あるお宅からバッハの平均律の中でもわたしが一番好きなのが聴こえて
きて、その後それを聴きたさにその道を通り続けていると、小学生か中学生くらいの女の子が丁度呼鈴を押して、
住人が戸を開けているところに遭遇した。昔の千鶴みたいなかんじだが彼女ほど刺は無く、銀縁の眼鏡が
秘書のような人で、すぐにこの人が平均律を弾いていると直感した。今まで気付かなかったけれど門扉の脇に
ピアノ教室の看板が出ていた。わたしはその日のうちに祖母に頼んで入門し、発表会があると知って参加させて
いただいたのだ。
可愛らしくユニークな千雪よりもテンションの低い、しかし熱の隠ったレッスンを受けながら…実を言うと、ピアノの
先生だしボーイッシュな千鶴を見ていたしで完全に女性だと思っていたのに、半月経ったくらいで、やっと男性だと
気付いたのだ…。だって、いただいた名刺の名前だって、金森真純(かなもりますみ)、自分のことも「私」と言うん
だもの。
聞けば先生は作曲の出身で、バリバリピアノをやっているわけではなかった。講師演奏も、自作曲と書いてあり、
タイトルもピアノかも無い。謎な男気取りかい。とツッコミたくなる。
リハーサルでまあまあ弾けたら、先生は頷いただけで何も言わない。聞くべきか迷って、結局やめにした。開演
まで祖父母を迎えに外に行ったりロビーで話したりしていたら、視線を感じてそちらを見ると、なんと元・川越家に
住んでいる姉妹だった。目が合い、ビックリして逃げてしまう。おしゃれしているところを見ると、出演者? まあ、
よその教室と合同だから、先生は違うかな。おかあさんがふたりを連れて近づいて来るので、祖父母とわたしは
立ち上がった。
「あの、突然すみません、今日1番と4番に弾く今西です。リハーサルすてきでした、ふたりとも、おねえちゃんのこと
知ってるーって言うんですが、ご近所みたいですね。今日は宜しくお願いします」
「はい、こちらこそお願いします」そして姉妹に「何度か挨拶したことあるけど、喋るのは初めてだね。小峯日南子っ
て言うの、よろしくね」こどもを相手にするのは慣れていなかったけれど、千雪がわたしたち生徒にしていたように
やってみた。おかあさんの後ろから恥ずかしそうに、まずおねえちゃんが、「今西ゆいか、北小の2年生です」と言う。
妹も負けじと、「わたしはあすな、らいねん1ねんせい!」と叫んだ。
「客席で聴いてるね、がんばろうね」
「うん!」かわいらしい姉妹は手を振って、遠くで会釈するおとうさんらしき人が居るほうへ駆けてゆく。この4人が、
今、あのお菓子の家に住んでいる。わたしは複雑に感じた。祖母に
「あなた、拓実たちとばかり付き合ってるから世話されキャラかと思ってたのに、案外おねえちゃんなのねえ」なんて
冷やかした。前の先生の真似だし、と返してから
「あの一家ね、千雪先生のおうちに引っ越して来たの。4人と、あと、いぬが居る」
「あらま」祖母の顔に些かの不安が広がる。
「大丈夫よ、無理矢理上がり込んだりしないから」わたしは先読みして言う。
予ベルが鳴る。客席に行くと、今西夫妻が金森先生と話していて、あれまやっぱり同じ先生なんだ、と思う。
こどもたちはもう舞台袖に行ったらしく、居なかった。
金森先生は服装も千鶴のようだった。いつもだが今日のセミフォーマルも黒ずくめ。
祖父母とも目が合うが、さっき挨拶したので会釈だけして、客席に着いた。千雪は千鶴に手伝ってもらって発表
会の裏方を自分でやっていたが、この合同発表会では音大の学生を雇って、任せていた。講師たちはいい場所を
キープして、聴く体制になる。うわ、緊張する!
今西姉妹はぎくしゃくと登場して、間違えても止まらずにがんばって弾いた。見たところ、おねえちゃんが意外に
テキトーな弾き方で、妹のほうが慎重。さっきの挨拶を考えると、ほんとに真逆。名前は、結花ちゃんと東菜ちゃ
ん。妹、あすななんて読めない!
なんだか興味があり、休憩後もガチで聴き、この曲を聴いてから袖へ行こうとしたその演奏者は、金森先生を
見るきっかけになった呼鈴を押した少女だった、小学6年生で、もう悲愴の3楽章なんか弾いてる! うまい…
聴くんじゃなかった。
祖父母に力無く「行って来ます」と言って、袖へ移動。音大生たちに手招きされて、椅子にかけ、前の子たちが
去って行き、あとはわたしと大人のおふたりだけになった。立ち上がる。
『10番、小峯日南子さん。ブラームス作曲3つの間奏曲より、第1番、第2番』
音大生に「がんばって」と言われ力無く笑い、ひと呼吸置いてから歩み出す。今までで一番緊張してる。客席の
ほうを向き、礼。頭を上げる瞬間、ドアを閉めている拓実が見えた。拍手の中、行けないかもと言っていたその
ときの声を思い出す。…間に合っちゃったか。
わたしは余計に複雑な気分になって、ピアノに向かい合う。
ド緊張の中、今日の発表会はわたしの10回目の舞台だとふと思った。そうしたら、千雪や千鶴に支えられて
出て来た発表会を思い出し、その度に来てくれた祖父母と拓実を思い出し、泣きそうになりながら、美しい思い
出のような第1番を弾き終える。金森先生はこの第1番を今回は前座と言った。本当に弾いてほしいのはこっち
だと持ち出した2番。静かに沸き上がる情熱、頂上での噴射も決して激しくはない…拓実みたいだ。千鶴を想う
気持ちは、きっとこの曲みたいなんだ。でもそれ、先生、なんでわたしに?
いつの間にか拍手が起こっている。わたしは椅子を降りて礼をする。拓実がドアの脇に立ったまま拍手している
のが見える。
袖に引っ込んで、急いで客席に戻ってあとのふたりを聴く。講師演奏は、連弾とかもある中、うちの先生はピアノ
独奏の自作品。チェロでも聴きたいような低音のメロディに、キラキラの高音装飾、更に深いベース、基本3ライン
の静謐な曲。戻り易いところに座ったので、終演してから祖父母のところへ行くと、拓実と太一がいた。
「おわっ、太一、なんで?!」
「電話してたとき、おまえ練習しててさ。すげーの聴こえるって言うから説明して、連れて来た、ていうか、太一のが
先に来てたけど」拓実がイシシと笑う。
「いやー、なんか、想像以上だった」太一は腕組みして、珍しくおちゃらけずに言った。
出演者25人が講師に挨拶をしに集まり始めた。順番待ち大変かなと思い音大生が袖を片付けるのを手伝っ
ていたら、案外早く先生の手が空いたらしく、拓実が呼びに来た。
「おまえの先生、千鶴みたいだな」笑っている。
「でしょー? だから最初、女性だと思った。拓実はすぐ男性だってわかった?」
「わかったよおれは」呆れている。
祖父母と先生が話しているところに行くと、先生は
「お疲れ様」と薄く笑ってこちらを見た。拓実と太一の紹介は済んでいるらしい。「聴ける限り聴いていましたね、
疲れませんでしたか?」いつもながらやけに丁寧。
「全然です、いろいろ聴けてたのしかったし」
「演奏は、本番が一番良かったですよ。ミスも少なかったし、何より気持ちが入っていました」
「…先生、1番は前座として、ですよね。2番はどうして選ばれたんですか?」
「レベル的にあっているので」
「それだけですか?」
「あとは雰囲気」
「わたしの? この人でなくて?」拓実を示す。
「へ? おれ?」
「きょう初対面ですから、それは無いですね」訝しい顔になった。「小峯さんのですよ」
「わたしも、こうなのかあ」
「少なくとも、1番ではありません」1番のほうが可愛らしい曲なのに。「次のレッスンは、3番でしたね、たのしみに
しています」先生は会釈をして、話を切った。わたしたちがお礼を言ってロビーを出るときに振り返ると、先生は、
わたしの前にレッスンしている小学生とその親と話していた。
「男前〜、川越さんみたい」歩きながら、太一が言う。
「おれたちには無い知性を感じるな。あ、いや、太一はおれたちの中ではダントツ知的だけど」いい大学を出ている
太一に、拓実が気を遣った。
「いや、知的だったら、もうちょっとあの立体パズル、スピーディーにできる筈…」拓実が太一に誕生日にあげたのを
言ってるらしい。なんだか可笑しい。仲がいいのに気遣い合っちゃって。
出口に居た今西一家に挨拶をする。
「ひなこちゃん」あすなちゃんが寄って来た。「こんど、うちにあそびにきて。ハムたろうのドールハウスであそぼうよ」
「えー、いいの?」照れ笑いをしてから、苦笑する祖母と顔を見合わせる。
「オトナの日南子さんが、そんなものよろこぶわけないでしょ。日南子さん、うち、人生ゲーム持ってるの、あの子は
飽きちゃったり計算できなかったりだけど、日南子さんなら最後までやってくれるわよね、きっとあそびに来てね」
「是非いらしてね」おかあさんもにこやかに言う。
「あ、ありがとうございます」
「まあ、あちらからなら、いいんじゃない?」祖母がこっそり言った。微笑まし気に見ている拓実と太一にも、後で
説明しないと。
外に出ると、夕焼けが広がっていた。先生と挨拶を交わしたくらいの無口な祖父が、そこでぽそりと言った。
「日南子、音が変わったな。今までは、指がよく動いて軽かった。いい意味でも悪い意味でも。今日のはなんだか、
中身があった」
わたしは
「ありがとう、ほんとに、そうかもしれないって自分でも思う」と頷く。
並木通りを歩きながら、拓実が祖父たちから離れてこっそりと
「前の発表会から今まで、いろいろあったからなあ。芸術ってほんっと、経験が出るよな。カレシできたり、大切な人
たちが傍に居なくなったり、成功したり挫折したり」
「ほんとだね。あと今回は、先生のセンスとテンションの違いが出たよね」思わず笑う。
「確かにな。千雪は、おしとやかなふりして相当能天気で軽いから、今年習っていてもブラームスは無かったな。
大人生徒はなんかブラームスの、弾いてたけど」
「あー、でもヴァイオリンだねえ」
「そうだっけ」
「プログラムの字面の記憶だけで言ったでしょ、今」笑う。「…今日の2曲目ね、拓実のイメージで弾いたんだよ」
「…2曲目…暗いほうだな。そうなん? おれって、あんなかんじ…かなあ? どっちかと言うと、千鶴じゃね?」
「…もあるね。で、先生はあれを、わたしと言う」
「だな」
「てことは、3人似た者同士」
「太一病だし」
見ると、太一は祖父母と3人で前を歩き、何が可笑しいのか腰を折ってゲラゲラ笑っている。祖父母はニコニコ
してるだけなのに。
「おとーさん、それ、ごっつおもろいですわー!」とか言ってる。大阪人でもないくせに。
「…あいつは仲間に入れられないな」拓実は噴き出して言った。
「除外、除外」
しかし意外にも、後日次の第3番を弾いたときに、太一を思い出した。2番より暗いのにだ。そうしてふと、川越
家お別れパーティーのときの太一のセリフと、それに対しての拓実の見解を思い出す。
「おれ、人前じゃ泣けないんだよね」
「影では泣いてるんじゃないかって」「あいつは痛みを知ってるよ」
そうなんだ。だから千鶴は太一が好きだったんだよね。わかる気がする。
そんなふうに思うとはつゆしらず、わたしたちはこれから稽古だという太一を見送って、駅前ロータリーに面したの
ファミレスに向かった。前を行く祖父母と拓実の長い影は、もう闇に紛れ始めていた。
了