小林幸生 2009
「リアリティ」の粗筋
本屋でバイトする平尾みのりは、よく言えば人当たりのよい、悪く言えば八方美人でマニュアル風に人とおつき
あいする大学1年生。隣のお店の女性・高宮蛍子とは普通に仲良くでしると思っているうちに、彼女の弟が
中学時代の同級生の寛大(ひろまさ)であることが判明。もうひとり同級生で寛大の元カノのカコ、加藤琴音
(ことね)とも再会し、3人で会っていると、バイト先で無断欠勤して行方不明になっていた高校生・貫井立基
(たつき)が現れ、わけありなので3人と蛍子で助けることにする。蛍子の昔の友人・砂地さんの父が経営する
旅館の板前として送り出す。その後いろいろあり、琴音と寛大はよりを戻さず、卒業して先生になったみのりは
相変わらず板前の立基の近辺に住み、つきあっている。
平尾も仙台へ行ってしまうと、またねえちゃんとふたりの静かな生活が戻って来た。気付いたら22に
なっていて、このまま死ぬまでこんなふうで居られたらいいな、と逆に思う。
5月も終わりに近づいた蒸し暑い日、夜勤明けで朝10時頃帰宅すると、ねえちゃんがダイニングで電話
していた。おれが帰って来ると通話口を手で覆って
「おかえり」と言って、また話に戻る。「あ、弟です。で、その商品の発注日ですけど…」仕事らしい話をして
いた。おれは自分の部屋に入って布団を敷いて寝た。2時過ぎに起きるとねえちゃんは出掛けていた。8時
には帰る、と書き置きがある。
8時。最近のねえちゃんの慌ただしい行動が思い出される。たまに休みがかち合って家でだらだらしたり
買い物一緒に行くかなんて話したりした後に、メールが来て
「ごめん、ちょっと出掛けて来る」と行ってしまう。
「買い出ししとこうか?」と言うと
「いい、いい。ついでにして来る。ゆっくりしてなよ」でいつも、午後のまちまちな時間に出ても、8時には
帰って来て夕飯になる。なんとなく、どこ行って何してたのなんて聞けない雰囲気。おれが居なかったら、
もっと遅く
まで帰って来ないのかも。
尾行、も考えなかったわけではない。でも逆に怖くてできなかった。ねえちゃんのことは信用していたし、
いいと思ってやってることならいいじゃないか、と思う。それにおれに来いと言わないのだから、必要とされて
いないのだと。
シャワーを浴びてトーストを昼飯として食っていると、携帯が震えてメールが来る。ねえちゃんだった。
<起きてる?>
<うん。今昼飯食ってる>すぐに電話の着信。
『食べ終わったら、お茶しに出て来ない?』
「…いいよ」心中カレシとの出会いを思い出してちょっと怯んだが、承諾して駅前のファミレスに行った。ねえ
ちゃんはひとりで座っていた。
「あれ、誰か紹介されるのかと思った」
「いや、実はそうなんだけど、逃げちゃった」
「はあ? 小姑にビビったかその男」
「女の子だよ」
「は?」ウエイトレスが来たので珈琲を頼む。
「今ヒロんとこのビルでうちの店長やってる子なんだけどね」ねえちゃんは既に、異動して同じビルには
居ない。「彼女もこの駅が最寄りでさ。引き継ぎがてら仲良くなったんだけど、最近わたしとヒロが一緒に
居るのをスーパーで見掛けて、カレシかと思ってがっかりしたんだって」
「女なのに?」
「ん? …ばかね、あんたを好きなのよ」
「あ、そうか…えっ?!」
「安全点検表を出すときに、なんかいいなって思ったんだって」
「…んなあほな…ほかにもっとかっこいいやつは、いくらでもいるだろうに」
「それはそうだけど」失礼な。「総合的な雰囲気とか、いいんじゃない。で、今日、蛍子さんのカレシってうちの
ビルの警備員さんじゃないですかって聞かれて、弟だって言ったの。なんか喜んでたから、会わせてみよう
かと」
「これまで急に出掛けたりしたのは、カレシではなかったのか」
「…何も聞かないと思ったら、言わないだけでそんなふうに考えてたんだ!」笑う。珈琲が来て、ねえちゃんも
おかわりをする。砂糖を入れてかき回しながら、心底可笑しそうなねえちゃんを見る。「あれもまあ、カナちゃん
ではあるけど…あ、その店長ね。雑貨を見に行くのにヒロ誘ってもね…ん、何?」おれの視線に気付く。
「いや、自分のことはいいのかなって」
「わたしはー」皮肉っぽく笑う。「…いいんだよ、絶対実らないんだから」おれは耳を疑う。恋愛したくないの
かと思ったら、してはいるのか。スプーンをぐるぐるし続けていた自分の手を見て、息が止まりそうになる。
かき回すのを止め、もう一度ねえちゃんを見る。
「死んだカレシのこと、忘れられないとか」と、わざとイレギュラーな予想を投げてみると、やけにすっきりした
顔をして
「んなわけないって、思ってるくせに。本当はバレてんでしょ?」今度はずっと懐疑していた名前を言う。
「…古橋(ふるはし)さん?」
「…アタリ」
おれの手は、またしつこく円を描き始めた。そうして同じような焦げ茶色の液体とそこに映る学ランの
自分を、回顧する。
そのときは流石に、もう終わりなんじゃないか、ぼんやりとそう考えた。
なんだか覚えられないような名前の病気に倒れ、叔母が入院した。医者からの説明やなんだかんだで
疲れ果てて帰宅したが、ねえちゃんはすぐに本屋に出掛け、帰って来てから眉間に皺を寄せて、その病気の
本を真剣に読んでいた。やがて
「生還率、無いに等しい。これはもう、だめかもしれない」と本を閉じて、台所に行く。後ろ姿を見て、ほっと
する。夕飯はいつになるのだろうと、ひもじくなってきたところだ。役に立たなくても、腹だけは減る。
「潮(しお)ちゃんはもう、戻ってこないのか?」
「帰りたいって言えば許可出るんじゃないかな。病院に居たってどうにもならないし」冷蔵庫を物色していた
ねえちゃんは、「これは葱だけチャーハンだな」と言う。食べる気力はあるらしい。どうやらねえちゃんには、
潮ちゃんがだめならわたしたちも死のう、という発想は無いみたいだ。
とは言え、これはどういうことだ。小学生のときに両親を亡くし、この間は勝手に寄ってきた女子にフラれ、
そして育ての親の病気。不幸中の幸いは、ねえちゃんがもう社会人てことと、もうすぐおれの義務教育が
終わるってことくらいだ。だけどまあ、ねえちゃんと一緒にだったら、この世から消えることだって、そう悪くは
ない。
部活はもともとやっていなかったし、叔母の世話には学校帰りに行けるのだが、その日は、委員会が
あった。おれをふった女も来るが、べつにそんなに構えてもいない自分に、少なからず驚いた。そう言えば
今朝、あいつがサッカー部のアイドルと登校していたけれど、おれの気持ちは穏やかなもので、こんなもん
か、と思う。無理矢理付き合わされたのになんで、という気持ちはある。おれって相当つまんねーやつなん
だろうか。…そうなんだろうな。
委員会で使われる1年6組には、まだそのクラスのやつも居たので、廊下で待っていた。やがて委員長の
平尾がやって来て、おれ、教室、廊下の順番で見て、一度中に入って黒板右上に‘図書委員会’そして日付を
書き、
「図書委員の方、入ってください」と言う。おれは入った。あとだれも来ず、そのクラスの人間は出て行ったので
教室にはふたりきりになったが、委員長は教壇に立ったまま、配るのであろうプリントを見てこちらに背を向け
ていた。加藤と仲良かったよな。おれに交際申し込んで2日でふったのは、聞いているんだろうか。端の席に
座り、外に目を遣る。おれは1年のとき、この教室のこの席に座っていたんだ。窓の外を見る角度に、懐かし
さを覚える。
そのうちに人が集まって来て、加藤も来て、委員会が始まる。図書館通信、クラスの後ろの壁に貼るものだ。
平尾の活字みたいな字が、秩序正しく並んでいる。去年までは推薦図書もタイトルだけでスカスカな新聞
だったが、恐らく全て読んだであろう要約、続きに興味を持たせる打ち切り方、すごいと思う。まあ、興味を
持ってないやつはそもそも読まないだろうけど、感想文が宿題になるときは、コレ様々だ。おれは偶然これを
貼る係をやって解ったことだけど、夏休みに感想文に困ってるやつに新聞の存在を教えたらえらく感動された。
しかし平尾のやつ、毎月毎月、なんでそんな時間があるんだ。
アンケートを実施するよう、やり方と内容の説明、図書館の利用の仕方の確認、などがあって、お開きに
なる。おれは自分のクラスに行き鞄を取り、一度うちへ帰って、ねえちゃんが用意した荷物を持って、言われた
ものを買って病院へ行く。面倒だから制服のまんまだ。
9月ならではのへんな暑さの中、ようやく辿り着くと、もう夕食の匂いが漂っていた。
「遅いよ。水買ってきてくれた?」6人部屋の一番手前で、まだ廊下を歩くおれに向かって叔母がでっかい声で
言う。
「買ってきたよ。元気ぢゃん。もう夕飯食ったの?」病室に足を踏み入れ、ほかの顔が見えた患者さんには会釈
した。
「まだ。そろそろ配膳じゃないかな」40過ぎにはとても見えないくらい元気な、父にそっくりな潮帆(しおほ)
叔母さんがたのしそうに言う。だいたいこの人は、おれらを養っているとは思えないほど、のほほんとしていた。
40なんだからもう諦めてもいいのに、おばさんと言うと怒る。未婚のプライドか。家事は大抵ねえちゃんに任せて、
チェロ弾きの仕事に専念していた。
「そこ置いといて」叔母の荷物は指差された辺りに置き、水を渡すとすぐに飲んだ。頼まれた荷物は、着替えと
楽譜と、未記入の五線紙と筆記用具、それからCDプレイヤーとCD。と、ねえちゃんのメモにあった。
「携帯って使えないんだっけ。持って来ないでよかったの」
「要らないよ、仕事するときに使うんだから、今は離れる」看護婦さんが夕食を運んで来たので会釈をする。「あ
んたは帰んなさい。蛍子とごはんを食べるんだ」
「一緒に食べるつもりで買って来たんだけど」
「だめだめ、これからどんどん、一緒に食べられなくなるんだから」
それは潮ちゃんの方が先にそうなる、と思ったが、それは飲み込んだ。
「ねえちゃんが、潮ちゃんと食べて来なって言ったんだよ」
「だめだめ、帰りな」追い返され、うちに帰る。9時頃帰って来たねえちゃんは、部屋のおれにただいまと声を
かけ、
「潮ちゃんのこと聞かせて。お茶淹れるから、こっち来てね」と台所に戻って自分用の手抜き料理を始めた。
おれが弁当を持って行きレンジにかけると、「潮ちゃんと食べなかったの?」と聞いて来る。説明すると、「で、
こんな時間まで待ってたの? いつもこれくらい遅いってわかってるのに」と笑った。いつもは潮ちゃんが居る
ようなら彼女と、自分とおれの分の夕食は朝作って行く。で、バラバラに食べるのだ。今日は潮ちゃんとおれが
病院で食べることになっていたので、何も作っていなかった。「まあ、わたしたちの絆を深めようとしてくれてる
のかな。それか実は食欲無いのか。心配かけたくなくて追い出したのかな…看護婦さんに聞いてみよう」
「なるほどそういう可能性があるか」思い切り前者だと思ったな。それに関しては、おれのほうは心配無い。
ねえちゃんだったら結婚したっていいくらいだ。戸籍上無理だけど、わはは。というのは冗談にしても、軽く
シスコン入っているのは認める。まあそれはいいんだけど。叔母の性格を考えると、空元気…かなりあり
える。「なあ、潮ちゃんが死んじゃったら、ふたりで生きていけるの?」
「わたしの収入でだめなら、生活保護を受けられると思うよ。ただ、こんな贅沢なマンションは出ないとね」
「ふうん」
「高校はできたら県立にしといてね」
「…就職する」
「えっ、遠慮しなくていいんだよ。高校くらい出ときなよ」
「別に勉強好きじゃないし。出ときたいと思ったら、通信にする」
「まあ、任せるけど。もう9月だから、受験するなら早く準備しなね」ねえちゃんは食べ続けながら言う。
それから2、3日して、潮ちゃんが帰って来た。もう病気のことは告知していて、ひとつ仕事をしたいからと
言って、退院許可を貰ったのだ。死ぬことはわかっているようだった。
「悪いがあんまり財産は遺せない。これからやる仕事でしこたま使う。まあ贅沢しなけりゃあ、蛍子の稼ぎで
やっていけるだろう。一応、わたしにもカレシみたいな相手が居て」初耳だったので、ねえちゃんとおれは顔を
見合わせた。「その人に、あんたたちのこと見守ってくれるよう頼んだけど、その人がまた頼りなくてね。まあ
大人だから何かしら役には立つだろうから、もしものときは彼に頼って、基本的には自分たちでなんとか
するんだ、いいね」年寄りか男のような口調で言う。もう、覚悟している。それがありありとわかった。ねえ
ちゃんがその人の名刺を受け取る。
ピアニストの肩書きで、神堂和宣(しんどうがずのり)という男の名前と連絡先。すげー名前、とかそっちの
ほうを話題にして、言い様の無い悲しみを回避する。
潮帆叔母の言う仕事というのは、リサイタルだった。ホールを取って、ビラを作って、レッスンに通って、神堂
さんと練習して、病院に治療を受けるのとくすりを貰うのとで行って、暫く過ごしてから、ついにリサイタルの
日を迎えた。おれの目から見れば叔母は以前と変わらず元気で、食は細くはなったが食べていたし、どこかが
痛いと言ったりすることは無かった。
「あんたたちは招待だ。いやじゃなかったらおいで」ねえちゃんは仕事帰りで遅刻するが、おれは最初から
聴けた。急なホール予約だったので、いい日取りでは無かったらしく、あんまりお客は入っていなかった。たぶん
叔母は、最後のリサイタルだと言っていないのだろう。人数を見て思う。
2時間くらいのプログラムを渾身の演奏で見事に弾きこなしていた。それこそ、鳥肌の立つような。お客は
皆、感動の渦に呑み込まれていた。いつからか入って来ていたねえちゃんと楽屋を訪ねると、叔母は横に
なっていた。楽屋の前で神堂さんが‘高宮は体調がすぐれないため、面会はできません。後日連絡させて
いただきます’と言った。お客たちは‘あら、あんなすごい演奏をしてたのに…でもあれは、魂抜けちゃうか。
お大事にね’などと言いながら帰って行く。ひとりの男性の、叔母の通う徳松総合病院の医者だと名乗って
いる声がした。大丈夫なのか聞いている。神堂さんが楽屋に入って来て先生だが会うかと聞くと、会わないと
言う。
「ご存知のようにもう長くないので、好きにさせてやりたいのです。これで死んでも、本望でしょう」ドアの外で
そう言って、やがて神堂さんだけが入って来た。
「ありがとう、和宣」潮ちゃんは穏やかに言った。「流石に疲れた」4人はタクシーで叔母のマンションに向かい、
神堂さんはタクシーを待たせて叔母を運び、そのまま帰った。あんまりおれたちには興味は無いようだった。
おれたちが居なければ、潮ちゃんと結婚したのだろうか。若そうだから、考えてないかな。
翌朝、潮ちゃんはお役目を果たして安心したのか、起き上がれなくなり、2日後に他界した。オーナー兼
管理人のおばさんが親切な人で、葬儀の手配を手伝ってくれた。音楽関係者への連絡は神堂さんにお願い
しがてら報告しようと思ったら、連絡がつかなかった。叔母の携帯電話を見て、連絡回数の多い人に電話をし、
お願いした。
「ええっ、ついこの間リサイタルだったじゃない。すごい演奏していたのに。そう言えば、楽屋に行って会えな
かったわね…」信じられないという調子で、まくしたてていた。
無事、葬儀は出せた。出棺し、潮ちゃんは紫煙となっておれたちの届かないところへ行ってしまった。疲れて
戻って来て、ずっと一緒に居てくださった管理人さんと下で別れ部屋のほうに来たら、ひとりの男性がうちの
呼鈴を押していた。
「うちに何か」ねえちゃんが聞くと、喪服に目をやり
「潮帆さんのお葬式だったんですか?」と驚いた顔をした。
「そうです」ねえちゃんが言っている間に気付いた。
「楽屋に訪ねて来たお医者さんじゃない? 声がそうだ」ねえちゃんはわからないみたいだったが、
「あ、そうです。徳松総合病院の古橋です」
「でも担当の先生は、この方ではないよ」ねえちゃんは小声でおれに言う。
「担当は小野塚ですね。私は待合室でくらいしかお会いしてません。潮帆さんにビラをいただいて、リサイ
タルに伺ってたんです。病気のことはよく存じていなかったのですが心配で、小野塚に話を聞き…このところ
通院してないと聞いたので、お電話してみましたら留守だったので伺いました」
「そうですか、ご心配おかけしました。小野塚先生には改めてご挨拶に伺います。ありがとうございました」
ねえちゃんが話をまとめて、その人も帰るしかなくなり、
「お悔やみ申し上げます」と言って去って行く。
翌日おれが先に帰って来て、引越の準備を進めていると、呼鈴が鳴った。インターホンに出ると、昨日の
古橋さんだった。なんで来るのかわからなかったが一応玄関の扉を開け、入るのは荷造り中で汚いからと
言って、立ち話にしてもらう。30になったかどうかくらいの外見のその人は、いかにも頭のよさそうな医者という
かんじではなく、うちの学校の体育教師みたいだった。
「昨日降りて行ったら管理人さんに会いましてね。きみたちのことを聞きましたよ。とても心配していた…後見
人になるべき人も行方不明なんだって。それで一晩考えたんだけど、よかったら私が後見人になります、と
言いに来たんです」名刺を差し出す。そして自宅の連絡先のメモ書き。
「はあ」
「まあ、最初の後見人さんが見つかったら辞退しますけど」
「…なんでそんなに、よくしてくださるんですか」
「…潮帆さんを大切に思うからです…かな。まあ、自分でもよくわかりません」おれは少し高い位置にあるその
人の目を見た。困ったように笑って、「お姉さんと相談してみて、困ったことがあったら連絡ください。お金のこと
でも、遠慮しないで」
こんなこどものおれにも、タメ口を聞かずに丁寧に頭を下げて帰って行く。
午前中役所に行ったりの用事をして、午後から働いて帰って来たねえちゃんに早速その話をすると、
「そんなうまい話があるかなあ」と首を傾げた。「まあ、その名刺は保管しておこう。とりあえず誰にも頼らない
方向でなんとかしたい」
「今日不動産屋さんも行ったの?」
「うん。でもあまり時間無かったから、明日もっと見てから決める。なるべく転校しないで済むところに…」また
呼鈴がなる。出ると、管理人さんだった。
「寛大くんが卒業するまでは居なさいよ。留守にしてたら、古橋さんからのメモが郵便受けに入っていてね、
あんたたちが引越の準備してるって。保証人代わります、できたら寛大くんの受験が終わるまではそのまま
で。家賃が辛いようだったら持つって」
「ええ?」
「もう部屋決めたの? 保証人は?」
「保証人?」
「その様子じゃまだだね。部屋を借りるには、保証人が要るんだよ。家賃払えないときはこの人が肩代わり
しますってね。潮帆さんの保証人は、神堂って人になっていた。ちょっと稼ぎがよろしくないから不安だったん
だけど、まあ潮帆さんがちゃんと払っていたから問題無く。そういうの、ここに居るにしても新しいところに行くと
しても、誰かに頼まないといけないんだよ」
「そうなんですか…」
「それくらいならあたしがなってやったっていいけど、もう老い先短いあたしより、あの人のほうが若いし、
お医者さんだったらお金もあるし、いいんじゃない。…それに蛍子ちゃん、気に入られたんじゃないの?
結婚したら?」
「あの人は、叔母がいいみたいですよ」
「だってそっくりじゃない」
「代わりは御免です」ピシャリと言い、「もう少し考えさせてください」と話を切る。怒っちゃうんじゃないかと
思ったら、
「そうかい? まあ、うちは居てくれていいんだからね。おやすみ」全然気にしていないかんじで下へ戻って
行く。
「あいつ、ねえちゃんが目当てなのかな」
「わたしは潮ちゃんじゃないよ」
「そりゃあそうさ」
「そんなんなら、頼らない。上司か誰かに頼むよ」その日はそれで打ち切りになる。
2日後、まだ結論が出ていないうちに、おれは偶然古橋さんに会ってしまった。急に寒くなった秋のはじめ、
入社試験の要項を取りに行ったら、その近くに居たのだ。
「あっ、寛大くん、何してるの?」今日は親しげだ。
「それはこっちのセリフですよ。お医者さんが、こんな昼間にネクタイ締めて町中に居るの、おかしくないです
か」
「転職しようと思って。俺、患者さんが死んで行く度に痛い思いして、向いてないんだと思う。潮帆さんは担当
じゃなかったのに、もうほっとけなかったし。関連会社の医療機器の会社に移るんで、今日は面接があったん
だよ」聞いているうちに、なんか涙が出ていた。
「おわっ、なんで?!」自分で驚く。
「…なんか飲む? あったかいところであったかいの」すぐそこのモスを指差す。
「いえ、おれ…」いいタイミングで、ぐ〜っとおなかが鳴る。「わっ」
「はは、なんか食べよう。元気出るよ」出入口近くのカウンターに座らされ、「きらいなものある?」と聞かれて
「いえ、ここのメニューはみんな好き…あ、自分で」財布を鞄から出す。
「その顔で注文するの?」うっすらと笑う。「いいよ、待ってて」少しして、コーンスープとミネストローネを持って
きた。「後で、海鮮かき揚げのライスバーガーとチキンバーガーとオニポテとポテトが来るから、好きなの食べ
て。スープはどっちがいい?」
「…どっちも好きなんで選んでください。いくらですか?」
「いいよ、俺が誘ったんだし。じゃあねー、ミネストローネー。なんちってー、わはは」…つられて笑う。「いかん、
四捨五入して40歳パワー全開だ」隣に座り、壁のほうを向く。
「40歳?」
「見えないでしょ? 俺、37なんよ」おれのほうを見ずに話し出す。泣いた顔だからほっとする。…もしかして、
想定内のカウンター席?「きみは俺の半分も生きてないんだよなあ」食べ物が来る。「じゃあ、せーの、で食べ
たいのふたつ指差して。せーの!」慌てて指差す。「あれ? バーガーふたついかないの? はは、うそうそ、
はい決まりー」
「いただきます…」はじめモソモソと食べていたが、隣で
「あー、やっぱモスはうめーなー」などと言いつつガツガツ食べているので、気付くとつられてバクバク食べて
いた。「ふいー、堪能したー」おれが半分しか食べていないのに、もう食べ終わっている。「ちょっと煙草吸って
来る」喫煙スペースに灰皿を持って行ってしまった。食べ続けながら、横目でそちらを見る。やっぱりカウンター
席に座って、しかも煙草を食わえてグルグル回って遊んでいる。背広の人が回っているので、周りの人が
見て、不審そうな顔をしたり笑ったりしている。
「こどもか…」目が合うと、笑顔で手をぶんぶん振るし。古橋さんは笑うと、目がギャグ漫画のニコ目になる。
おれが食べ終わる頃に戻って来る。
「珈琲飲める?」頷くと、注文しに行ってしまう。今度こそ払うと言っても聞かない。珈琲を持って戻って来て、
また隣に座る。
「泣いたりしてすみません」おれは珈琲に砂糖を入れスプーンでぐるぐるしながら言う。
「まあ、家族が死んだらねえ」
「おれは…よくわからないけどたぶん、あなたが可哀想で泣いたんですよ」
「俺が? 潮帆さんとは、付き合ってたとかではないから、可哀想に思わなくていいよ。病院で彼女をよく見掛け
ていて、いつからか最近来ないなあと思うようになって、そしたら近所の商店街でバッタリ会ったのね。少し
具合悪そうにしていたから‘大丈夫ですか’って声をかけると、途端に普通の顔になって大丈夫だと言うんだ。
‘あなたの病院の医者だから、どんな症状でも話してくれ’って言ったら、‘あ、見たことあると思った’と笑顔に
なって、ビラを1枚くれたんだ。高宮潮帆チェロリサイタル。明日なんです、よければ来てくださいって。たまたま
早く上がれたし、行ったんだよね。というわけで、彼女と話したのは実は1回きりの、希薄な関係」と言って、
珈琲を飲む。
「そんなんで? なんでそんなに…姉が目当てとかじゃないですよね」
「そんな、代わりなんてお互いに厭だよ。俺が蛍子ちゃんと結ばれることは絶対に無いだろうね。酷な出会い
方をしたなあ。まあそうでなくても、あちらは自分の倍生きてるおっさんなんか厭だろうけど」
「…失礼ですけど、結婚は?」
「してないよ。医者になるのに忙しくて、恋愛どこじゃなかった。なったらなったで、ナースとどうにかなるのは
なんか嫌で、勿論患者さんもだけど、いつの間にかこんな歳。潮帆さんにはうっすら惹かれてしまった。で、
あんな死に様。惚れないわけない」
「そんなもんですかね」
「きみは、大事な子居ないの?」
「…姉が一番大事です」
「おお、感動的だなあ。じゃあ誓うよ、後見人になったのをいいことに、蛍子ちゃんに手出しはしません。安心
して甘えてください。下手をすると、きみたちはこどもみたいなもんだ」
19くらいの若さで結婚していれば、ねえちゃんくらいのこどもも居るのだろう。そうは見えないけど。
「言っておきます」
その誓いを伝えて、そのうちにやっとねえちゃんは腰を上げる。
「絶対に迷惑をかけないので、とりあえず今のマンションの保証人になってください。家賃は管理人さんが
3月まで半額にしてくださるんで、そちらは気にしてくださらなくて結構です」と電話で言っていた。
神堂さんが後追い自殺をしていたらしきことを知ったのも、この春休みの間だった。
卒業式が済んだら部屋を探し、また古橋さんに保証人になってもらって引越をする。その部屋は1回目の
更新日が来る前に、建てつけが悪くて出ることになるが、まあたのしく暮らした。引越の度に古橋さんは
手伝ってくれた。そういうときねえちゃんはあんまり話をしないので、古橋さんはおれとばかり喋った。おれは
段々打ち解けて行ったが、特別に呼び出して会うなんてことはしなかった。
なんてこった。ねえちゃんの幸せを食い止めてしまったのは、おれだった。古橋さんに、ねえちゃんには
手出しをしないと誓わせてしまったのだ。
「利和のことは」死んだカレシの名前が出て来た。「忘れたくて付き合ってしまったから、自分が悪いと思って
いて、それ以上の感情は無い。気持ちを知られてはいないから死んだ原因に直接は関与していないけど、
わたしと付き合っていなかったらすんなり美季とうまくいって、死ぬこともなかったろうに」
「…えっ、じゃあ、ずっと?」
「7年、かな」
「最初っから?」
「最初の最初は勿論、胡散臭いとしか思ってなかったけど。あの人がヒロと会って話したことを聞いたらさ。
どうしようもないからこそ、なんだろうな。わたしを潮ちゃんの代わりにするような人なら、好きになんかならない
だろうし。自分から距離作ってるし。…ばっかみたい」あまりにへんだったのか、おれの顔を見てねえちゃんは
笑った。「そんな顔しないでよ。ヒロが結婚して出て行ったって、わたしが出ていくにしても、わたしはひとりで
大丈夫。わたしが強いのは、一番知ってるでしょ」
あの新しいレストランのあれおいしかった、なんて言うみたいな調子で、ねえちゃんは静かな熱を持って
言う。
「…おれは結婚なんかしないよ。ずっとねえちゃんと一緒に居る」
「はあ? それもどうなのかなあ」ねえちゃんは眉を八の字にして笑い、そしてふっと顔を曇らせた。「でも、結婚
しないかもね。あんた、みのりちゃんの佳さもわかんなかったくらいだし」
平尾のことは、ねえちゃんに誤解されて、きらいと言ってしまった。でも、確かに鼻につく社交家ではあるけれ
ど、言うほどきらいではなかった。少なくとも加藤よりは近い位置に居た。まあ、恋できたかと言うと、ぬくの
存在も早々に知ったし、今となっては謎だけど…ぬくと婚約中の今、これからあいつに恋するなんてことは、
おれの信条には無い。
「ねえ、チェリオ買って帰ろう。夕ごはん何にする?」ねえちゃんは元気よく立ち上がった。
夜、部屋で仰向けになって、ねえちゃんの死んだカレシと、おれが18のときに付き合ったカノジョのことを
考えた。…きょうだいで、何やってんだろなあ。
ねえちゃんにカレシができて、なぜか報告があり(おれは加藤のは会ってしまってバレたし、ねえちゃんの
カレシが死んだ半年後に教習所でできたカノジョのことも言わなかった)、わざわざ3人でメシを食ったりする。
仙台から高級ホテルでの修行をしに来た旅館の御曹司で、このへんに来る前はリゾート地の旅館でも研修
している、なるほど人当たりがよく見た目も言うこと無い好青年。の修行仲間の、人の好さそうな、ねえちゃん
より2つ上なのに年下に見える人だった。御曹司のほうも一緒に食べに行くことがあり、更にそっちのカノジョ
まで登場して、おれ無しでいいじゃんてかんじの会合になったりした。カップル2組はそれぞれも、みんなでも
仲良くやっていた。
それなのにある日、ねえちゃんのカレシと御曹司のカノジョが心中した。
御曹司から連絡を受けて、失神したねえちゃんを駅まで迎えに行って話を聞いて、4人を知っていたおれは
驚いた。ねえちゃんは喪服を着ており、カレシの実家のある鎌倉に行ったらしかった。そこで御曹司にカノ
ジョの話を聞き(彼女は重態で、一週遅れて死んだ)、倒れたらしかった。今日の話を考えると、カレシを盗ら
れたショックではなかったのか。自責、そして気持ちは知られてはいないからそれはそれで仕方が無いと思っ
たのか。
「俺が余計なことを言ったから…」御曹司は後悔していた。心中したふたりが尻尾は出していなかったのか、
気配に全く気付いていなかったのか、気付かないふりをしていたのかは今もわからないが、2日臥せった後、
ねえちゃんは普通に生活し始めた。まあそんなことがあった後に、カノジョができたなんて言えないよな。以来
そいつらの話はしていなかった。
時々、仙台に帰った御曹司とは連絡を取ったり、その後現れた2匹の迷える子羊を送りつけたりしてい
たが、そんなことの所為で、またもや御曹司との恋愛の可能性は無くなった。
おれのカノジョと言えば、やっぱり加藤と同じタイプで、見た目がよくて性格は明るく強引、物にしても人に
しても飽きたらポイする。加藤と違って、1年くらいは続いたけど。中学を出て、おれは警備会社で働き始め、
自分の好きにできるのと家に入れる金を手にすることになった。大してでかい買い物をするでもなく、貯金して
いた。18になって免許を取りに行ったのが、初めての大出費だ。そのときにできたカノジョで、それで人並みに
金を使うことになる。最後は思い切り、「ほんとにわたしたち、付き合ってるのかわかんない。つまんない」…
まあ、おれもべつにたのしくはなかった。いつも、早くうちへ帰りたかった。こっちからはデートにも誘わないし、
付き合っているとは言わないんだろうな、ああいうの。
古橋さんを忘れたくて別の男と付き合って死なせた姉、いつも強引に付き合わされやる気無くて棄てられる
弟。
そして平尾。逃した魚は大きかったような気もする。19になった、ねえちゃんがうちのビルの店舗の配属に
なったあの年。2階の本屋の安全点検表を持って来るのが、どうやらあの図書委員長だった平尾だと気付い
た。本、あの愛想だけはいっちょまえの誰も受け容れなさそうな作り笑い。絶対そうだ。どうする? 声をかける
か? いやべつに再会を果たしたいわけでもないし、加藤の近況なんか聞きたくもないし…迷っているうちに、
ねえちゃんと仲良く話してるのを見る。バレるかも…まあ、いっか。なりゆきで。とか考えているうちに‘駅で涙’
事件があり、存在がばれてしまう。なんだかんだ言ってるうちに加藤も現れ、ぬくも現れバタバタとし、加藤とも
一悶着あって、なんか忙しい、でもなんか幸せな10代最後の年が終わった。そしておれは成人した。社会人
だし、もうねえちゃんの保護下ではない筈だ。
異性のきょうだいとは不思議なものだ。こんな密閉された2DKの狭い空間にふたりで居て、どちらかがへん
な気を起こしたらおしまいになるところを、大抵のきょうだいは何も思わずに過ごす。幸いおれは性教育には
俄然興味が無い男だからいいけど、少しは興味があったとしたら、見境無くねえちゃんに行くということは
無いのだろうか。そもそもおれがだれも好きになれないのは、本当はねえちゃんが好きだからではないのか?
ねえちゃんを大事に想いながら別の女を好きになるなんて、できるんだろうか。血が繋がってないなんてことが
あったら、喜ぶんだろうか。
「寛大、寝た?」ドアの外で遠慮がちに声がした。
「いや、起きてるよ」向こう側で、ボソボソとねえちゃんは言う。
「古橋さんの件は、忘れてね。なんか、ほんとどうでもいいことだから」どうでもいい? んなあほな。
「…わかった」とりあえずそう答えて、ドアも開けず、ねえちゃんの気配が去るのを聞いていた。自分の部屋に
入ったらしき音がしたので、おれはダイニングに行って、人の連絡先がまとめて入っている引き出しを開けた。
すぐに古橋さんの2枚目の名刺とメモが見つかった。でも。…ねえちゃんが潮ちゃんの代わりになるのは、
やっぱり我慢ならなかった。それに古橋さんは、代わりにすることはないだろう。おれはそれを仕舞って、
静かに部屋へ戻った。
窓口では、安全点検表が目の前に置かれると
「お疲れ様です」と言い合うのが常だが、顔なんてろくに見ていないので、今日もいつの間にかねえちゃんの
店の名前のが来ていたときには
「例の店長だったのかな」と多少焦った。点検表の確認者名は常に店長になっているが、店長でなかった
ねえちゃんが持って来たことも多数あったので、本人とは限らない。潮田果南子という名前に、少なからず
胸が疼く。友達に潮ちゃんとかって呼ばれてるんだろうか。そう考えると、おれたちは潮ちゃんに世話になった
だけ、彼女に支配されている気がしてしまう。この店長と出掛けても8時には帰って来るねえちゃんも、だれ
かとつきあっても帰りたくて仕方ないおれも。年々そっくりになっていくねえちゃんを見て思い出し、潮という字に
敏感になる。
零時前に帰宅すると、ねえちゃんはパジャマに眼鏡で、ダイニングで新聞を読んでいた。
「お帰り。なんか飲む?」夜中なのに珈琲を所望する。おれもねえちゃんも、全然平気で眠れるのだ。洗面所で
嗽して戻って来ると、既に珈琲は入っていて、ねえちゃんはカップを差し出しながら、「明日、ヒロ6時上がりだ
ね」とカレンダーの書き込みを指差す。シフトが出ると、ねえちゃんはオレンジ、おれは緑のペンで書いておくの
だ。「まっすぐ帰って来る?」
「ああ」明日は誕生日なのだった。おれの、23回目の。
「何食べたい? 何処か行ってもいいし」
「…ホットケーキ作ってよ。主食なのにゲロ甘な、あれ」両親が事故に遭った夜に、留守番していてひもじく
なってきて、ねえちゃんが初めて作った料理だった。覚えているのだろう、曖昧に笑ってねえちゃんは
「わかった」と言う。珈琲を砂糖を入れずに一口飲む。世の中には、出逢えずに終わってしまう人が山程居て、
もしかしたら、おれを気に入ってくれたらしい潮田果南子という人も、顔を知ること無く過ぎ去ってしまうかも
しれない。そんな中で、こんなに長い時間を共有でき、死別以外の別れを予想できない相手が居るだろうか。
恋じゃなければいけないなんてことは無い。古橋さんをねえちゃんが想い続けるなら、おれはそれを甘受する。
そういうねえちゃんを、一生大切に想い続ける。恋愛かどうかなんて、どうでもいいことだから。
時計が、零時を示す。
「誕生日おめでと。じゃあ寝るか、おやすみー」明らかにこの時刻を待っていたとしか思えないような響きの
科白を残して、ねえちゃんは部屋に消えて行く。
「ありがとう」そうして、「おやすみ」
あと何度、この言葉を言えるだろうか。数えきれない回数になることを願いながら、おれは珈琲を飲み
干した。
了