小林 幸生 2009
うららかな春の午後、窓の外を見ていると、向かいにある展示スペース<lune verte>に様々な人や作品が出入りする。
わたしが見に行った絵画展は2週間やっていたりしたが、たまたま今回は短期間の展示だったようで何度も入れ替わりが
あり、上から見ているわたしには充分退屈凌ぎになった。みどり色の斬新な建物それだけでも、わたしの目をたのしませて
くれた。
拓実が教授の学会の助手でイタリヤへ行った直後だったので、太一が、公演中にも関わらず毎日欠かさず見舞に来て
くれた、寂しくない入院生活の終わりは、祖父母と主治医の先生に「明日」と告げられた。その日の夜も、ライトアップ
されたみどり色の建物が、夜の闇の中でひときわきれいに見えた。
1
退院して学校に行き始めた。クラス換えをしてすぐに入院してしまったので、というかもともとというか、つるむ友達も居ない
淡々とした1日が始まる。朝、担任の先生に復帰の挨拶に行くと
「授業の遅れのフォローを、クラス委員の卯野(うの)にお願いしてある。お互い帰宅部だろう、放課後にでも勉強を教わると
いい。まあ、おまえは芸術志望だから、単位を落とさない程度でいい」
卯野さんてどの人だっけと思いつつ教室に行くと、見知らぬ子達から
「もう耳はいいの?」とか「たいへんだったね」とか「治ってよかったね」とか声をかけられ、曖昧に笑う。教壇の座席表を見て、
卯野さんの席を確認する。今は居ない。ホームルームのときに見ると、なんとなく覚えのある、クラス委員のイメージとは
程遠いアイドル系美少女だった。
ホームルームの後、先生にこう言われたが勉強を教えてもらえるか聞くと、
「勿論喜んで!」と元気な声が帰ってきた。とりあえずその日のうちに漢文を教わる約束をする。これくらいまでなら、わたしも
大丈夫なのだ。同級生との付き合いも。このあとどうなるのか不安に思いつつ、まるでわからなくなっている授業を聞きながら
放課後を待つ。
図書室でひとりでは無理な教科を選んで教わり、続きを
「明日する?」と聞かれる。
「あ、明日はレッスンだから明後日でもいい?」
「いいよ、…なーんか、カッコいい〜。音大志望だっけね。じゃあ今日は帰ろうか。バス電? チャリ?」
「バス電」バスと電車のことを、みなそう言うのだ。
「うちも。一緒に行こ」と流す。バス停に向かいながら最寄り駅はどこかなどと話す。バスの中では、「小峯さんて、1年とき
6組、2年とき2組だったでしょ? うちいつも隣のクラスだったんだけど、なんか知ってたのよね」
「え、こんなに目立たないのに?」
「…だれともつるんでないから、ある意味目立つんだよねー」
「そ、そうなんだ」
「うちね、そういう人見ちゃうほうなの。で、なんか問題あるならお節介で更正したくなっちゃうし。小峯さんはそういうんじゃ
ないけど。無理に仲良くなりたくはないけど、話してはみたいと思ってたの。なんか、ほかの子と違う気がして」そうやって
交際を申し込んでくれた人を思い出す。それで急に、自分が入院してた病院に、その人の友達が入院していたことが頭に
甦ってきた。…もう亡くなってしまったんだろうか。
「べつに面白くもないでしょ?」苦笑すると、ニヤニヤし始める。
「ある意味、面白い」
「…卯野さんはクラス委員をやってるんだよね、偉いね。わたしは面倒に思ってしまうな。勉強もできるんでしょ?」
「あ、なんか、莫迦にしてる?」ニヤニヤしたまま言う。
「まさか」
「立候補居なくて決まらなかったから、じゃあうちがって思ったの。ホームルームの時間内に決まって良かったってかんじ」
「それでも偉いよ」
「部活や習い事してなくて暇だし」
「でも勉強もあるでしょ」
「あんまり影響無いよ、クラスどうこうする気は無いし」
「熱血ではないんだね」
「テキトー。委員会に出て報告するだけ。学級会の進行も流れでテキトーに」笑いながら言う。わたしも笑い、
「わたし、風紀委員、そんなかんじでやってた。…あ、今わたし、なんの委員なんだろ」
「居なかったから、風紀委員にされてたよ」また笑う。
「3年間風紀委員だ」
「ほんとに人気無いね、風紀委員は」
2年が委員長なので、3年になった斉木先輩は、普通の委員として委員会に参加していた。わたしは2年では降りたかっ
たのだが、じゃんけんで負けて図書委員を諦め、余っていた風紀委員になってしまったのだ。なので去年も月に一度、先輩に
会ってしまった。先輩は相変わらずにこやかに挨拶をしてくれ、そして話しかけてはこなかった。終わるというのはこういうこと
なのだと、思い知る。あんなに素敵な人を手放した後悔は、少なからずあった。でも、自分に正直に居たいのだ。わからない
ものはわからない。惜しいからといって付き合っていたら、きっと後悔しただろう。
「聞いてる?」急に現実の声がした。
「あ、ごめんね、ちょっと思い出したことがあって…」
「なに?」
「委員会のことなんだけど、べつになんでも無いの。で、なんだっけ」
「もうすぐ駅に着くよ」
2
駅で別れ、ひとり最寄り駅に着くと、もう6時だった。金森先生の家が近くなると、微かにクレメンティのソナチネが聴こえた。
きっと生徒さんだ、ゆいかちゃんかもしれない。門扉の前を通ると、玄関ドアと門扉の間に人が居た。一瞬泥棒かと思って
焦ったが、中学生くらいの男の子だった。生徒さん? いや、自転車を掃除している。あんまり見ちゃったので、目があって
しまう。
「あ、小峯日南子…さん」
「え?」知り合い? いや、覚え無いぞ。まあクラスの女子を知らないくらいだから、同じクラスでもおかしくはない。学区は
違うから、中学が一緒ではない筈だ。一瞬でぐるぐる考えているうちに、彼はまた喋り出した。
「あ、そうか。そっちはおれのこと知らないんだった、ごめんね、いきなり。おれ、金森真純の弟、有真(ゆうま)。有機野菜の
ユウに、真純のマね」有機野菜に笑ってしまう。
「弟? 先生、弟が居たんですね。発表会、見に来てたんですか?」
「ううん、金曜の8時に聴こえて来る音が好きだから、どんな人か上から玄関見たり、レッスン表で名前見たり」
「…そう、ですか…どうも」
「もっとおとなかと思う演奏だったけど、高校生だからびっくりした。暫く来てなかったね、やめたの?」
「ちょっと入院してて…明日から来ますよ、また」
「そう、良かった」先生とはまるで似ていない童顔で、顔いっぱいに笑う。「しかも自分の曲なんだってね、すごいなー」太一
くさいな、このノリ。一瞬ストーカーちっくな接近も感じたが、でも悪い気はしない、不思議な距離感だった。わたしには、そう
いう人なつこさは無い。
「いつも、金曜の8時にはおうちに居るんですか?」
「うん、大抵バイト削られる日」
「バイト…」てことは高校生なんだ。「あなたも、ピアノやってるんですか?」
「小さい頃ちょっとやって、辞めた。今また弾かないといけないこともあるけど、できたらパスしたくて…あんな偉大なピアノ弾きが
近くに居たら、普通いやんなっちゃうよ」
「わ、わかる」わたしも絵は決して描かない(笑)。ピアノの音が止まる。ノートをやる子でなければ、そろそろ出て来るだろう。
「…じゃあ、また」
「うん、またねー」手の振り方まで、太一くさい。ほんと、うっかりすると、このシチュエーションは…惚れてまうやろー!(笑)
相手がわたしでよかったね。
うちに帰って携帯電話を見ると、太一からメールが来ていた。
>学校、大丈夫だった?< …この気の遣いよう。あなたが千鶴に言った言葉を知らなかったら、危うく惚れちゃうとこだよ。
>授業も問題無し! クラス委員の女子が勉強教えてくれたから、来週には遅れた分取り返すよ! 心配ありがとう< と
返す。きっと、よかった、と返して来るだろう。電話、点滅。ほうら、思った通り。普通ならそこで終わりにするが、もう一度
返信。
>今日、太一みたいな人に会ったよ< と。
>おれみたいな? どんな?<
>やたら愛想がよくて、だれも受け容れなさそうな人< そう打ってから、やめた。>ご想像にお任せします(笑)<
>なんだよそれ〜、気になる!< それは無視…。夕飯に呼ばれて階下へ降りた。2週間が過ぎた。学校では卯野さんと
喋るようになり、レッスンに通う。耳に出来物ができて手術したとき、ぶっちゃけ作曲へ進路を決めた途端だったし拒否
反応かもと思ったけど、やはりまた作りたくなる、弾きたくなる。先生のおうちはわりと広い一戸建てなのに、わたしは今まで
漠然と、先生しか住んでいないと思っていたらしい。急に、2階で誰か聴いてると思うと、緊張するようになった。そして
門扉を閉めるときに2階を見てしまう。この2回は、窓から顔を出して、手を降る人がいた。次に卯野さんに勉強を教わって
遅くなった日は玄関の前に居なかったので、まだ3回しか会っていない上喋ったのは1回だが、なんだか小さい頃からそうして
いたみたいだった。んなわけはない。ピアノの先生だって千雪だったし。
その上最近、毎日同じ夢を見る。最初に会った日の自転車を磨いている有真くんが、立ち上がって「さあできた」と言う。
わたしを後ろに乗せて坂道もぐんぐん走って、見たことの無い池のほとりで降りる。みるみる暗くなり、星が、夏の大三角が
水面に映る。幻想的で涙が出そう。拓実にも見せたいから、次は一緒に連れて来てもいい? と言う。あと、千鶴も
千雪も、太一も。いいよ、みんなで見よう、兄ちゃんも呼んであげようか。じゃあ、おじいちゃんもおばあちゃんも。有真くんは
笑って頷き、そしてまた池を眺める。
お互いに、ふたりきりがいいとは言わないし思わないし、何も色っぽいことは無いのだけど、なんで有真くんなんだろう、
はじめから拓実でもいいじゃないか、と思う。それに斉木先輩と付き合うかも、というときのようなドキドキは皆無だ。なん
だろう、前世はきょうだいだったとか?
不思議に思いながら、学校へ行く。バスで卯野さんに会った。用意していたプレゼントを渡す。
「あ、ちょうどよかった。これ、勉強教えてくれたお礼、よかったら使って」
「わ、まじ? ありがとう! 開けていい?」
「どうぞどうぞ」まだそんなに混んでいないので、開けて見ている。
「わ、コムサの…髪留め? やったー、コムサ好き、ありがとう!」期待以上の反応。「これなら学校もデートも大丈夫ね」
「そうだね」
「カレシに小峯さんの話をしたら、ウケてた。これ、小峯さんからだって言おう」
「へ? なんでウケるの?」
「3年間風紀委員とか」
「…ああ…それは笑うかもね。というか、カレシいるんだね。まあ、そりゃ居るか」
「そりゃって」笑う。「小峯さんは?」
「居るように見える? わたしは恋もしたことなくてさー」なぜか正直に言う。
「…実は、男の人と一緒のとこ、見たことあるんだけど、違うんだ?」
「えっ、ど、どこで?」
「…池袋」やば、斉木先輩かな。「3月くらいだったかな、大学生みたいな人と」
「…3月…」なら斉木先輩のわけない。「…たぶんそれ、叔父だわ。34歳だけどね」
「えっ、そんなトシだったかな」
「自覚が無いから若く見えるのよね」
「…叔父さんに片想い…いや、恋もしたことないって今言ったね」
「叔父を含め、錯覚しそうな人は何人か居るんだけど」なんでわたし、こんなに正直なんだろ?「よくわからなくて。
卯野さんは、カレシさんのこと好きだとわかったとき、どんなかんじだった?」
「はじめなんとも思ってなかったんだけど、こいつだってわかった瞬間に、世界がばーっと明るくなった。目から鱗が剥がれた
かんじ」
「へー、すごいな…」
「…錯覚しそうなのって、どんな子?」
「子、 ていうか、まあまず叔父、家族だから落ち着くし、なんでもツーカーだし。でも彼には好きな人が居て、でもギラ
ギラしてなくて。その恋もうまくいってほしいとか思ってて」
「それはやっぱ、家族かなあ。それか冷めてるだけかな。あとは?」
「叔父の友達で、気遣い半端じゃなくてだれにでもやさしいんだけど、その人も恋愛って解らないって、誰も受け容れてない
ような。もうひとりはね、その人の若い版みたいなので、まあ同じように。こっちは、前世できょうだいだったかも、みたいな」
「ぷ、やっぱ面白いわ、小峯さん。…うちから見たら、やっぱ冷めてるね。どう転んでもおかしくないけど、転ばないかも」
転ばないかも、か。・・・苦笑するしかなかった。
3
4月も下旬になる。3月に手紙を書くと季節の挨拶で「孟春の候」と書くけれど、わたしには、「猛春」と
いう字をあてて、今頃の気候に思えてならない。そんな「猛春」な晩、千雪からメールが来た。
>耳の調子はどう? 5月最後の日曜日に東京でミニライブやるんだけど、よかったらわたしの伴奏やってくれない
かな。曲見てから決めてくれてもいいよ。入試の準備とか忙しかったら、断ってくれていいし< ・・・とりあえず曲を
教えてと返しつつ、
>いつ日本に来るの?< と聞く。
>実はもう千鶴のとこに居るの(笑)、法事とかあって来たの。その日までは居るから<ということなので、千鶴も交えて
会う約束をし、そのとき楽譜を見せてもらうことにした。
伴奏をやったりしていいか先生にメールで一応相談すると、案の定
>数やレベルにもよりますけど、レッスンで見ますから持っていらっしゃい。最悪、やめておいたほうがいいって言うかも
しれませんが< との返事。
ゴールデン・ウィークに入って、昭和の日に昼頃千鶴の部屋に遊びに行くと、千雪がおひるを作って待っていた。
千鶴と3人で食べ、音楽の話をする。
「ブラームスのヴァイオリンソナタ1番と、前座で歌曲の<わが恋は緑>をヴァイオリンでやろうと思うの」CDをかけて
くれ、楽譜をよこす。みどり色の袖の腕で受け取り、呟く。
「わが恋は緑…」タイトル、ぶあーっと拡がる伴奏、1本に伸びる歌声が、卯野さんの恋愛確信の話に繋がった。
「はじめなんとも思ってなかったんだけど、こいつだってわかった瞬間に、世界がばーっと明るくなった。目から鱗が
剥がれたかんじ」というのは、こうなんだ、きっと。
「…千雪がゲオルクに決めたとき、こんなかんじだったの?」
「…は? なに、イキナリ」目を見開いて、そして照れたように笑う。「…ううん、わたしは、雪が肩に落ちてきた、
みたいなかんじだったな。もっと静か」それを聞くと、なんだか胸が熱くなった。「…どうして? 恋したくなった?」
「…ううん、やっぱりよくわからなくて」千鶴を見ると、こちらを見ながら珈琲を啜っていた。目が合うとちょっと怯んだ
顔になり、そして視線を逸らす。千鶴も少なくとも一度は、経験したことだ。「…なんでみんな、恋できるんだろ。
全然手に入れたくなくても、そんな気持ちくらい解ったっていいのに」
とりあえず楽譜も貰って帰る。その足で、レッスン終わったばかりだし早めに相談しようかと、先生がいらっしゃる
か、電話してみた。
『はいー、金森です』…有真くんだ。
「あ、あの、小峯です、真純先生はご在宅ですか」
『あー小峯日南子』レッスン表で名前知ったらしいけど、そのまんま呼んでるな。『兄ちゃん今日は長野で本番、
明日の午後まで帰らないよ』
「…そうですか、ありがとうございました。またにします」
『待って。今、どこに居るの?』
「駅」
『どっか行くとこ?』
「帰るとこ」
『じゃあさ、…あ、いいややっぱ』
「…なに?」
『夏になってからのほうがいいから、きょうはいいや、ねえ、この携帯の番号…うちの電話って番号出るんだけど、
控えていい?』
「い、いいよ」
『じゃあ夏に電話する』
「ずいぶん先だね」笑う。
『今でもいいけど』なにこれ、作戦なの? 苦笑して答えずにいると、『じゃあ、北口の松泉書店で立ち読みでも
してて、すぐ行くから』話が決まっている。
「へっ?」
『じゃあ、後でね』切れる。ちょっとなに、だれもOKなんてしてないんですがね! でも来て居ないんじゃ可哀想…
って、そう思うの、計算してるわけ? てか、なんなの、この慣れは。
本屋さんの中へは入らずに、店頭の雑誌を見るともなく見る。なんだか不安になってしまう。斉木先輩との
初めての約束のときもそうなんだけど、からかわれているだけで、来ないんじゃないかと思ってしまう。その上今回は
有真くんの存在自体妄想で、ほんとは居なくて、恋をしたくて、もしくは太一では手に入らないから似ている人なら
と、都合のいいことを勝手に想像してるんじゃないかとまで、考えてしまう。だって先生は、弟が居るなんて言った
ことがない。
しかし雑誌を換えようと閉じたとき、
「お待たせー」と現れた。「やっぱりマックでも行かない? あ、私服初めて。みどり色、おれ一番好きなんだ。へー、
似合うねー」無邪気に喋りまくる中学生みたいな顔を見ていたら、急に苛ついて、
「あなたね」と結構キツい口調で言ってしまい、周りに見られてるのを感じて、雑誌をもとの場所に戻して店から少し
離れ、ロータリーのほうに行く。
「ちょっと、どうしたの? なんで怒ってんの?」
「なんでって」振り返って見ると、ぽかんとしていて、またそれが怒りに拍車をかける。「それはこっちのセリフなんです
けど。なんで、そんなにお気軽なの? 幼稚園児が、きょうの自分や相手のスケジュールや、相手や周りがどう
思うか考えずに遊びの約束しちゃうみたいな、そういうのなんにも考えないのって、どうかと思う」
言ってしまってから、こういうの、ノリが悪いっていうんじゃないか、と思う。目をパチクリさせて反駁しないその顔は、
今度はわたしに何を言われても肝心なところ以外決して怒らない拓実の顔にも見える。でも次の瞬間には、ナニ
意識しちゃってんの? おまえなんか恋愛対象としてなんて誘わねえって言うかもしれない。ところが出て来た
言葉は
「…都合を聞かなかったのは悪かった、ごめんね」だったので、拍子抜け。やけに素直に謝るし、しかも「ごめん
`ね´」って…こどもみたいだし、しょげた顔だし、この人ほんとに幼稚園児なんじゃないかと思う。無垢というかなんと
いうか。
「なんかこのまま電話切っちゃったり帰しちゃったりするのはつまんないなって。ずっと、あそこに連れて行きたいとか、
ゆっくり話したいなとか思っていたから」…ずっとって程、会ってから経ったか?「今日は時間無い? …そんな気分
じゃないかな」
「……」なんだか、怒る気は失せてくる…。
「あのさ、おれ、誰でも彼でもこんなふうに誘ったりしないからね」
「へっ?」こ、これってもしや…ドキリとする。
「夢によく出てきて、なんか気が合う気がしたから、現実でもそうじゃないかって」わたしは最初の誘いを思い出して、
躊躇いながら言う。
「…ねえ、夏になったらって…もしかして…」
「星が映る池」ふたりの声がハモると、表情がまた明るくなる。
「なんで知ってんの、きみもあの夢見てるの?」
「…毎日見る」
「シンクロしてるって、すごくない?」わたしの言った話に合わせているのではなく、同時に言ったことだ。すごいと思うと
同時に、本当にこれが現実なのかわからなくなる。これも夢なのか、それとも都合のいい妄想の続きなのか。「やっ
ぱり、最初からおれ、何かあるんじゃないかと思ったんだよ。前世で双子とかさ、そう思わない?」わたしが戸惑って
いるのを見て、話をやめる。「ごめんね、ちゃんと仕切り直すよ、会いたくなったら、都合聞く。電話するから。じゃあ
ね」本屋さんのほうに戻り、停めてあった自転車に飛び乗って帰って行く。
残されたわたしは、まだ夢か現実かわからないところに浮遊していた。
4
太一が怪我をして入院していると千鶴に聞いて、見舞いに行く。わたしと同じ病院だった。舞台のセットを
運んでいて、すっ転んだらしい。セットは粉々、本人は骨折。
「なにやってんだか」
「わはは、派手にやらかしちゃった」買って来た ふる屋古賀音庵の喜備良だんごとお茶を差し出す。甘味好きの
太一は、かなり嬉しそうに食べる。
「太一の奥さんは肥満になりそうだね」
「奥さん? 結婚どころか恋愛もしそうにないよ、今後も」
「ほんとに? 川越姉妹もそうだけど、劇団にも、あんなに魅力的な女性が居て、会社にだってきっと居るでしょ?
なんとも思わないんだ?」
「連れて帰りたいとかって、無いね。おれ、みんなでワイワイか、ひとりか、どっちかが好きみたい。だれかと付き合う
と、なんか普段見せない部分も抉り合う、みたいな…あ、ごめん、夢を壊すね」
「手遅れよ。実はわたしも、恋愛できない体質みたいなの」
「まだ決められないでしょ、17歳で」笑う。「おれはもう、35だし。クラスにいい人、居ないんだ。あれは? あの、
かっこいい先生。ピアノの」
「金森先生? まあ、素敵だけど、能力がすごすぎてそういう対象にはちょっと。むこうから見たらわたしは、てんで
こどもだろうし」こどもと言って、あの童顔を思い出す。思わず「…前にメールで、太一に似てる人に会ったって言った
じゃない?」と口にしてしまい、シマッタ、と思い、焦った顔になってしまった。
「なに、今の慌てよう。それって内緒の話なの?」
「…わたしとは正反対だから、なんか目につくわけよ…」堪忍して、なんとなく全部話してしまう。妄想かもしれないっ
てとこまで。太一の代わりかと思ったことだけ伏せた。
「妄想だったらどうもしようが無いけど、きらいではなさそうだし、行けるとこまで行ってみたら? やっぱり違うかー、
って思ったら、正直に謝ればいいじゃない。きっと彼もおんなじだと思うよ。だからもしかしたら、やっぱり違うわって
言われる可能性もあるけど。そしたらその、ひとりを大事に想う気持ちもわかるんじゃない?」
「…太一にそう言われるとは思わなかったな」
「なんて言うと思った?」
「そのままでいいんじゃない、とか」
「まあ、それもそうだけど」もう1本お団子をつまみ上げて、嬉しそうにかじりつく。「あの風紀委員長さんだって同じ
だったんだよ、それでいいって言ってくれたのに。今度も同じようになっていいのか、よく考えてみなよ。多分拓実も
同じように言うと思うよ。相談してみたら?」
なんと。拓実に言うなんて、太一に以上に考えられない。やはり娘が父親に恋愛の話はできないって一般論は
正しいのだな。というか、今わたしは、太一に同意してほしかったのかも。しょーがないよねー、恋愛なんてわっかん
ないんだから。とかなんとか。それで、あの日ついて行かなかったことを正当化したり、来てくれたのにすぐ帰した
罪悪感を軽くしたりしたかったのかも。「まあでも、踏み出したら幸せなことも、泣かずにはいられないこともあるから、
覚悟はしたほうがいいけど」太一はお茶を啜りながら言う。
「…泣かずには…?」
「今、おれキマッてた? この前のおっさん役のセリフを捻ってみた!」
…太一は芝居の中で恋愛を経験する。わたしが観た舞台で、女性を抱き締めもしたし、愛の言葉を口にした
こともある。恋愛したことないって知った後も、それはちゃんと、真実の出来事のようにわたしに届いた。実際に
わからなくても、だ。すごいわ。
わたしは帰って、わからないながらも〈わが恋は緑〉を弾いた。先生にはメールでやっていいと言われていたので、
練習を始めたのだ。最近作曲のスパイスのために、フランスものばかり弾いていたので、この重い響きは懐かし
かった。なんとなく、千鶴は何も言わなかったけれど間奏曲ではなく、こっちだったんじゃないかとも思う。あのときの
表情は、聞くなよ、ではなく、だからだったのかもしれない。
その日から、わたしが入院したときの仕返しに、毎日太一に甘いものを届けたが、もう恋愛の話はしなかった。
憲法記念の日の夕方、練習していて気付かなかった着信に、知らない携帯電話の番号があった。メッセージを
聞くと、有真くんで、また電話するとあった。夜8時頃電話してみると、今度はむこうが出られず。メッセージは残さず
切る。番号を登録させてもらう。名前に「金森有真」と入れ、他の項目、なんにも入れられないんだなと思う。
自宅電話はまあ、先生と同じだから知っているけど。
せめて着信音を設定しようと、プリインストールの音楽を見てみる。グリーンという文字が目につく。〈グリーンスリー
ブス〉…確か、みどり色の袖の服を着た女の子に片想いしてる男の子側の想いが歌詞の、どこかの国の民謡。
オルゴールの音できれいだったが、勘違い女になりそうだから却下。
その真下にあった〈ツァラトゥストラかく語りき〉にして、勉強していると、9時過ぎて、鳴った、鳴った。笑っちゃう
くらい壮大な音楽が。途端にこの音にしたことを後悔するが、とりあえず出る。
「はい」
『あえっと、有真だけど…』
「さっきごめんなさい、出られなくて」
『いや、おれのほうも。…あのね、明日なんだけど、午後空いてる? 楽譜の書き方教えてほしいんだ』
「楽譜? いい先生が近くに居るのに?」
『兄ちゃんは逆にやなんだよね。てまあ、口実なんだけど…あ、でも楽譜書かなくちゃいけないのは本当。
だめ?』
口実って。…なんでよ、なんか、顔が弛む。そんなのだったらいくらでも教えるけど。それに。
…みどり好きの人に、あの建物を見せたいと思った。聞きたいことが山程あった。
深呼吸して、言う。
「うん、会おう。明日、みどりの日に」
了