小林幸生 1998
名前を呼ばれて振り返ると、育ての親のエーフェ・シュミットと共に、見知らぬ男性が立っており、にこやかに英語で
こう言った。
「はじめまして、第20期宇宙保全団総指揮官、オーラフ・アレンスキーです。あなたを団員に任命いたします」
「え、えーっ?!」わたしは挨拶も忘れ、驚愕した。「エーフェくらいの医者でないと…それにまだわたしは未成年で…」
「うん、英語も堪能なようですな。大丈夫、大丈夫。年齢なんか関係無い、要は腕前です」彼が目を向けたのは、
わたしがたった今作成したクローンの患者だった。
1
それが午前中の話で、エーフェが腰痛を理由に辞退して、わたしを推薦したと聞きながらボン中央病院の目の
前のカフェでおひるを食べ、午後ふたりでスーパーで買い物をしているところで既に写真を撮られ、夕方には号外や
ニュース速報でわたしの顔と名前が出ていた。
宇宙保全団最終メンバー、異例の最年少、直系日本人、前野恵(まえのめぐむ)、16歳!
「2ポイントで話題性大だからなあ」エーフェは面白そうに言う。
「なにそれー!」しかも思い切り、ニュースのコメンテーターが、小学生にしか見えないのに医師免許を取得している、
と言っている。すみませんねーってかんじだ。窓の外に、記者らしき人も張っている。「ひえー、芸能人じゃないんだから…」
露骨に厭な顔をしたら、エーフェはニヤリとして、外に出て行った。えっと思っている間に、記者たちは去って行った。
「なんて言ったの?」戻って来たエーフェに聞くと、
「団員記者会見でしか、お話することはありませんって。わたしが団員になったときも言ったの。あのときほんとにそう
したから、きょうのところは諦めたんだわ」
「エーフェが?」
「わたしの最年少記録、あなたが更新したのよ。当時はわたしがアイドルだったわ。明日の登下校時は群がられると
思うけど、送り迎えするから。学校でも、補欠だからよくわからない、で通してね」なんてことないように言う。
「はあ?」
翌日以降暫く、エーフェの言った通りになり、言われた通りにしていた。そのうちに団員のジャンル毎の顔合わせと
記者会見の日になった。初めてメディアに登場したわたしは、大注目されてしまったが、ろくなこと喋れなかった。
「なんだかいつの間にか決まっていて…精一杯役に立つよう働いて来ます」局を出るときはいろんな番組から出演
依頼があり驚愕するも、全て断る。
お迎えのエーフェと共に、異様に美しい女性ふたりがいた。モデルのようにすっと立ち、まさに花を背負っているように
輝いており、髪の長いほうがわたしを視界に認めて顔いっぱいに笑う。
「うきゃー、かっっわいー!」そしてハグして来る。
「…エ、エーフェ、助けて…」窒息しそうになり、悶える。
「エーレン、旦那との不仲説が恵のせいみたいになるから、やめんかい」ふざけて美女の頭をはたく真似をするエーフェ。
「わはは、どっちも若い子好きかー」美女は顔に似合わず、エーフェとコンビの漫才をしている。「宜しくメグヒェン、
わたし、オーラフ・アレンスキーの妻のエーレン。言語研究室主任なの。調査に一緒に行くわ。名前で呼んでいい
のよ、エーフェの代わりと思ってね」どうやらエーフェと同世代らしい。
「そうでしたか、宜しくお願いいたします」頭を下げる。
「ヤパーナリン(日本女性)!」笑う。
「こちらは、あなたとルームメイトになるマルグリット・ル=ブラン」金髪をベリーショートにした碧眼の女性を示す。
「はじめまして、気質研究室所属のル=ブランです」こちらはエーレンよりだいぶ若く、性格にも温度差を感じる。
「宜しくお願いいたします、前野恵です」
「彼女は歳が近いから、話も合うんじゃない」エーレンが言うと、
「まさか…わたしは成人してます、全然近くないですよ」と真っ向否定された。
「ギリギリ20歳で成人面されても」エーレンは笑う。
「大学生…ですか?」
「そう。ま、わたしも補欠で決まったんだけど。じゃ、わたしは生放送があるんで。また」
「おーそうだった」去ってから、「あの子はあんな媚びない顔して、お天気おねーさんだから」と言われる。
「へー!」
「恵はテレビ見ないからねえ。結構な有名人よ」日曜日の夕方と夜にこの局、他局で毎朝気象予報士としてテレビに
出ているらしい。調査に行くので交代する、きょうが最終日、夜の放送をギリギリ見られた。あとで聞いたら視聴率は
異常に高かったらしい、つまりは人気のお天気おねーさんなのに、本人はいたってクールに、飄々と今後の空模様を
語っていた。
それから宇宙飛行訓練や講習を受け、出発まで瞬く間に過ぎていった。
2
愈々出発の日がやってきた。開催式が8時から…なのに寝坊をして、車で送ってもらうより速そうなので通学用
スクーターをかっ飛ばしてギリギリセーフ、宇宙開発局ボン支局の医学研究室で宇宙服仕様の制服に着替え、
式典会場に滑り込むとやはりカメラのフラッシュがすごかった…嗚呼、もっと余裕で颯爽と現れたかった。式典では
送り出す宇宙開発局ワシントン本局の局長、ボン支局の局長、行ってくる側の保全団総指揮官の挨拶と続き、
積荷タイムになった。大きなものはもう入れてあるが、昨日まで使っていたものや、普段局に居ないわたしみたいな人が
荷物を宇宙船に入れるのだ。打ち上げも時間をかけてイベント的にやる。
自分の荷物はそう無いのでその間に、建物と塀の間に停めたスクーターをちゃんと駐輪場に停めようと行くと、
エーレンが金髪の青年と向かい合っていた。一瞬、お邪魔?!と思ったが、エーレンのほうで気づいた。
「あら、メグヒェン、おはよう」慌てるでもなく、にこやかに言ってから、「だからあなたは、ちゃんと自覚を持ちなさい。
さっさと準備していらっしゃい! 普通なら降板だからね!」と青年のほうに言い、建物のほうに戻って行く。
なんと。怒っていたのだ。わたしにはそんな素振りは見せず、最後に手まで振られた。
「あちゃー、恥ずかしいところ見られちゃったな」青年は頭を掻きながらわたしに言う。「きみ、前野恵さんでしょう?
僕はオスカー・クラーク。エーレンの秘書なのに、遅刻しちゃったー」
「え、えー、大丈夫なんですか?!」
「ちょっとヤバい」と言いながら笑っている…。「じゃー制服にも着替えなきゃなんで、またねー」手を振ってエーレンの
去ったほうへ。
スクーターを停めて彼らとは逆のほうへ。医学研究室は別棟なのだ。それから暫くして召集がかかり、愈々乗り
込む。何度も訓練で乗り込んだロケットの中は、ボン支局の内部をコンパクトにしたような1階…医学、技術、
地質、気質学などの研究室が並び、医務室がある。2階は浴室や食堂、3階が宿泊する部屋と資料室、
4階は運動不足防止にジム、それからミーティング用の部屋が小分けにしたり大部屋として使ったりできるように
なっていた。ロケットとは違ってその向きを変えずに飛ぶため、発射用のアクションは下から、飛行用のアクションは
後ろからと工夫されたことで、大がかりな調査ができるようになったのだが、わたしが生まれるより前のことだ。現在は
植民星の開発も進み、リゾートになっているので、宇宙旅行もお金持ちはできる時代だが、わたしは初の宇宙。窓の
外はいつも夜、そんなかんじだ。開発局としては20回目の調査だから、最初は発見などもあったものの最近は
わりと調べ尽くして、太陽系周辺の安全性を維持するための調査になっている。各研究室は主任と秘書を含め
世界各国から選ばれた10人ずつ乗り込ませているが、噂通り医師は10人では足らなかった。初日から船酔いで
気分が悪くなる者続出、落ち着いた頃に怪我人の連続、なんだそうで。やはり初日、交代で昼ごはんを食べに
食堂へ行く。わたしは下っぱなんで勿論最後、医務室を出たのはボン時間で3時だった。意外にも、部屋に荷物を
置きに行ったときに会ったきりのル=ブランさんが居て、
「あ、こっちいらっしゃいよ」と声をかけてくれた。「大学の先輩が一緒なんだけど、いい?」荷物だけ置いて居なくなって
いるその人の席を示す。
「はい、お邪魔します。ル=ブランさんも遅いんですね、おひる」
「マルグリットで結構。しょっぱな故障があって、技師に来てもらったりしててさ。あ、ごはん無くなっちゃうから行って
来なよ」初対面のときより砕けて話してくれたのでこちらも笑顔になり、ごはんを取りに行く。一応いろいろ選べて、
シーフードパスタを受け取って戻る。なんと、さっきの空席に座っていたのは、クラーク氏だった。
「あれ、ルームメイトって、きみなんだ。さっきはどうも」
「どうも。大学の先輩後輩なんですか」マルグリットの隣に座る。
「僕は卒業したけどね」
「なに、ふたり知ってたの」
「駐車場で会ってね。あ、食べなよ、冷めるよ」
「あ、はい」
「でも学部も違うから、ボン支局で知り合っ…あ、ニックだ、おーい!」クラーク氏が呼んだのは、彼と同じ歳くらいの、
見たことがないタイプの美しさの青年だった。エーレンのようなゲルマン系、マルグリットのようなパリジェンヌ系の美女は
まあ、居る。クラーク氏もマルグリットのおにいさんと言われればそう思うくらい整っているが、やはりヨーロピアンだし。
男の人でこれだけ美しいと言えて、しかも、黒い艶やかな髪は東洋系には幾らでもいるが褐色の肌、緑色の瞳は
わたしには初めての出逢いだ。
「はじめまして。此処いいですか?」頷くとその人はわたしの前の席に荷物を置き、「とりあえず食事を。あとで自己
紹介させてください」カウンターに行ってしまう。
「あ、恵が見とれてる」マルグリットに指摘されて、慌てて否定する。
「いや、あの、あーゆーかんじの方、初めてで」
「あーゆー?」いかん、これは人種差別なのか?
「まーねー、だから言われちゃうのよ総官」マルグリットは可笑しそうに言う。「総官もエーレンも、若い子好きよねえ。
まあだから、恵もわたしも採用してもらえたんだけど」
「え?」話が見えない。
「あいつ、オーラフの秘書、男娼との噂もある」はあ?!
「勿論、そんな事実は無いから親友のこの人が冗談で言えるんだけど」にしたって男娼って…。そんな話をしてるとは
知らずに、彼がトレイを手に戻って来る。
「あ、カレー?」クラーク氏がからかうように言う。「もう、これしかなかったんだよ…」一度座り、わたしのほうに「改め
まして、ニコラス・フリード、技師です」と言った。
「前野恵、医師です」頭を下げる。
「このふたりとは、なんで? ル=ブランさんとお友達ですか?」と言いながら、カレーの中の肉をクラークさんの
オムライスの皿に乗せている。
「此処で同室なんです…お肉きらいなんですか?」
「きらいというか…」
「こいつのおかあさん、直系インド人なの」クラークさんは笑う。「だから食べたことがない!」
「いや、あるよ。おとなになってから。でもおいしくなかったし…べつに宗教は、僕は関係無いんですがね」
「へー」
「まあでも、何かしら食べられてよかった」ほっとしたように時計を見た。もう4時近い。技師さんたちも忙しそうだ。
どうやらマルグリットは、クラーク氏を通してフリード氏を知っていたみたいで、親しげに喋っていた。その優しげな
瞳は、あたたかな声は、時折わたしにも向けられ、なんだかすごく懐かしい気持ちになった。茶色だったから違うはず
なのに、父に目許や笑い方や声が似ているのかも。
翌日からも、忙しく医務室や怪我人の出た場所で働いていた。患者さんは、はじめ興味深げにわたしを見て、
そして不安そうになるが、気にせずに治療をする。わたしはわりと、包帯を巻くのが速くてきれいらしく、そこから信頼を
得ていった。主任がわたしに怪我の手当てばかりさせたのは、きっとそういう理由だ。此処では皆砕けていて、主任や
前主任なども自分を名前呼び捨てで呼ばせ、わたしのことも恵とかメグヒェンとか呼んだ。
「恵、機具庫に行ってくれる、肋骨折ったかもだって。一応充て木を持って行って。インカムも持って行ってね、往診
梯子してもらうかもしれないから」
そこへ伺った帰りに、廊下でマルグリットに会う。
「恵、居た居た。いいものあげるわよ」部屋でもお互いバタンキューでろくに喋っていないのだが、昼間こういうところや
食堂で会うと元気だ。
「何を?」
「資料室のパソコンで過去のデータ引っ張り出してたら、偶然開いちゃったの、技術研究室の技師のデータ。こっそり
コピーして来た」な、なんと、フリード氏の履歴書だった。写真入り。
「な、なんでこんなの開けちゃうの、個人情報漏れまくりじゃない!」
「ほかの人には興味無いから、もうしないわよ。偶然だから、もう開け方も解らないし。まあまあ、お礼は要らないから。
後でゆっくり読みな」颯爽と去ってゆく。
「てか、そんなんじゃないってー」もうわたしの声は届かない。こんなん持ってるの、バレたらまずいじゃない。ファイルに入れ
かけ、思い直し小さく折り畳んで名札ケースの裏側に入れ、医務室に戻った。
休憩から戻るとき、ちょっと部屋に寄りひとりきりになって、初めてその紙のことを思い出し、広げて見た。興味、
無くはない。あー写真も折れちゃった…。此処へ来て初めて、肌の色が茶色や黒の方にお会いするに到ったが、
それまでは機会が無かったので、やはり見慣れないかんじだ。写真のフリード氏は、無表情にこちら(カメラのほう)を
見ているが、どこか悲しそうにも見える。
ニコラス・シオン・フリード、24歳。ボン大学在学中から開発局にて補助員として働き、そのまま研究室に就職。
父親:ジェイク・アスキー・フリード。アメリカ生まれのイギリス系の工員
母親:カマーラ・アルヴィーダ。直系インド人、慈善家
生地:インド、カルカッタ
学歴:ペンシルバニア州立ホライズン小学校、及び中学校。(特記:2歳で父方の親族の死を機に家族で渡米。
7歳のときに両親は離婚、母親はインドに帰り、友人たちと医療施設の運営を始める。中学校卒業時父親は
ワシントンに職を定め転居)
州立ニュープリンス高等学校に1年間在学。(特記:父親が事故で死別、父親の上司グスタフ・アレンスキーが
養父となる)2年次より私立ジェニアス高等学校に編入。(特記:グスタフの弟オーラフに教育を委ねられ、ドイツに
渡る)
ボン大学で電機工学を専門に学ぶ。
なんとなく、自分にも重なる部分があり、涙が出そうになる。わたしは両親と日本で暮らしていたが、事故死、
母の友人エーフェが引き取ってくれて、ここまでの教育を受けさせてくれたのだ。
わたしは紙をまた丁寧に畳んで、名札に仕舞った。
3
研究室は隣だが、フリード氏には初日以来全く会っていない。総官のほうは医務室の常連で、毎日ベガという
東洋医学に長けた青年医師に腰痛のためお灸してもらっている。またへんな噂が立たないか心配だ。それとこの前
肋骨を折った剃髪の直系中国人、西王鯨(シー・ワンキン)。彼は男性最年少19歳なのに、体は最も大きいため、
しょっちゅういろんなところにぶつかっては治療を受けていた。放っておいてもよさそうな怪我でも来る(笑)。きょうは
わたしが包帯を巻く。
「肋骨は痛みませんか。明後日またレントゲンを撮る予定でしたね。くれぐれも無理はしないでくださいね」主任も
言葉丁寧に全く心配していなさそうに言う。そこで内線が鳴り、ほかに誰も居なかったので主任が出る。「了解。恵、
西さんのはもう終わる? ボイラー室で誰か倒れたそうだ。行って応急処置を」
「はい、今…」
「ボイラー室!?」いきなり西さんが立ち上がった。「教授だ! 恵先生、速く!」辛うじて応急セットを手にしたと
ころで連れて行かれる。
伺うと、ちいさな老人が
「王鯨、何を慌てておる?」と振り返った。
「あれ、お怪我は?」
「連絡したのがわしじゃ。倒れたのはこちらじゃよ」少し奥で、マルグリットがのびていた。
「マルグリット!」わたしは駆け寄った。
「ああ、恵…悪いわね。梯子登ってて、急にぎっくり腰が来て、落ちたのよ」
「落ちたんじゃったか」
「見たところ怪我はしてないわね。医務室で横になったほうが」
「あ、じゃあ僕運びましょう」西さんがさっさと抱き抱えて医務室に戻ってしまう。
「あらら…」
「いいのう、若いもんは。そして大きいもんは」ご老人が笑っている。
「あ、はじめまして、前野です」
「はい、はじめまして。最年少と最年長の対面じゃの。わしはトゥルム・モント。技術研究室の主任じゃよ。お天気
おねーさんの次は世界のアイドルが現れおったな」可笑しそうに言う。
「アイドルって…。マルグリットは、どうして此処に?」
「わしが王鯨とする筈の作業を、あいつが医務室に行ったもんでひとりでやっていたから、手伝ってくれたんじゃよ。
作業は終わらせないとな。終わったら見舞うから、彼女の診察、宜しく頼んだぞ」笑ってはいるが、追い出された。
まあ、忙しい医師に気を遣ったんだろうが。
医務室に戻る途中、戻って来る西さんにすれ違う。
「あ、恵先生、治療ありがとう、持ち場に戻るから。またー」肋骨折れてるのに、走っている。
「走ったりしないで、お大事に! あ、西さん、マルグリットをありがとうございました」
「王鯨って呼んでー」ふざけてオネエ風に言っている。
医務室に戻ると、主任はパソコンに向かい、マルグリットが横になっているだけで、ほかに誰もおらずしんとしていた。
主任に会釈してから
「マルグリット…」と肩を叩いてみると、シーツの中からムンクの叫びみたいな顔が出て来る。「わ、ど、どうした
の!?」
「いろいろとショックが。まとまったら今度話すわ」そしてまたシーツを被ってしまう。呼鈴が鳴り、自動ドアが開く。
「失礼、こちらに総官は」フリード氏が入って来たので、思わず名札に入っている紙を思い出し、飛び上がらん
ばかりに驚く。
「い、いえ」
「さっきまでいらしたんだけどね」主任が半笑いで言う。「またインカム持ち歩いてないんだ」
「絶対わざとですよね」フリード氏は苦笑して、わたしにも笑いかけて出て行く。顔が熱くなる。主任にバレないよう
背を向けて
「総官って、可愛いですよね」と言う。
「確かに…って、16歳に言われちゃうかー」また呼鈴が鳴り、フリード氏が戻ってきた。
「シュルツ主任、あなたも会議に出られますよね? 急がれたほうが」
「あっ、主任会議か!」慌てて立ち上がり、白衣を脱ぎ捨てファイルを持って出て行く。「医務室番のジョルジュが
戻って来ないな、恵、ちょっと居てくれ。何かあったらインカムで。おれは持って行くからね!」
…主任もかなり可愛い。
マルグリットは夕方まで医務室で寝ていた。仕事は無いのかと思ったら、非番の日だったらしい。わたしはその翌日、
きょうだ。週に一度、働いてはいけない日があるのだが、実際なってみて解った。暇なのだ。だからマルグリットは
ボイラー室で作業する人を手伝ったり、夕方まで医務室に居たりしたわけだ。
「なるへそ…」資料室も浴室のスパもすぐに飽きてしまい、ジムで少し長居できたが疲れ、結局午後は部屋で寝て
いた。せめてマルグリットと同じ日だったら、おしゃべりでだいぶ時間が削れたのになあ。
夕方起き出して食堂に行くと、エーレンとクラーク氏が食事していた。
「メグヒェン、機内生活には慣れた?」
「お陰さまで」
「よかったこと。ごはん貰ったら、此処にいらっしゃいよ」相変わらず美しすぎる言語研究室主任。秘書をからかったり
表情も豊かで、素敵だ。
夜部屋に帰れば、これまた何を悩んでいるのか、憂鬱そうな美女が居る。
「はー、わたしの周りはきれいな人ばっかりだわ」
「なに、わたしのこと?」そこにはちゃんと反応して、マルグリットはにかっと笑う。「恵はこれからでしょ、きれいになるよ。
まあ、きれいなだけがいいわけじゃないけどさ」
「うん、そうだね」
「恵は性格も真っ直ぐでいいし、手に職あるからカッコイイ面もあるし、これからきっとモテるよー」
「ま、まさかー」そんなのとは無縁なのだ。
「ニコラスくんだって、夢じゃない!」
「あっ、そうだ、そんなんじゃないからって言わなきゃと思っていたのよ」
「あの紙は捨てたの?」
「…そんなんでなくても、悪いから捨てられない」からかわれるのを予想して、説明くさくなる。
「どこへ大事に仕舞ったのかな?」
「…見つかったら、資料悪用の罪を被せられるから、たぶん見つからないところに」
「まあ、見つかったら正直に、やったのはマルグリットだって言いなさいね。なんかあの人、誤解してるんですーって」
「演技派だなあ」
「読んでますます好きになった?」
「…なんか、わたしと生い立ちが似ていた」
「へー」
「でも知ってるのへんだし、その話はできないよね」苦笑する。
「これは、運命を感じるな」
「はあ?」
「それで此処で出逢ったわけでしょ。なんか、感じるよ」わたしは答えずに、ベットの上の段に上がった。「ねえ、
知ってる? 医師とか通訳とか、ハウスキーピングの人とか、食堂の人とか、外と関係無い人も多分に協力的に
この船に乗ってるでしょ」
「うん? そうね、それが?」
「わたしたちは大気とかを観測しに出て行くじゃん。不平等だから、そういう人たちのために観覧会があるのよ」全然
話が変わっていたが、それは飛び付くに値するものだった。
「へー、知らなかった、やったー!」
「地球周辺、金星、水星と回ったから明日は月に行くのね。たぶん明日は調査して、明後日は観覧会になると
思うよ。地球を外から見るの、たのしみだね」
「たのしみー!」
わくわくしたせいか、昼間寝てしまったせいか、眠れない夜が明けた。マルグリットの言う通り、主任を通して
希望者を募る紙を回された。無論わたしは、意気揚々と名前を書いた。
4、
今回初参加者が少なかったせいか、割合に希望は少なく、観覧は3グループに分けるだけで済むということだった。小型
ロケットの収容人数と、残って働く人の負担などが考慮され、一回ではやらないのだ。
メンバーを見て驚く。わたしは第3便で、運転士がフリード氏、案内役はまた別に居て、案内されるのがマル
グリット、西王鯨、オスカー・クラーク、わたし、あと食堂のおばさまふたりだった。
「あらら、知ってる人、多し!」研究室に貼り出されたプリントを見て呟くと、主任が
「気質研究室が組んだからねえ。きっとお茶目なお天気おねーさんの差金だね」と言う。
「マルグリットが…」
「気質研究室は、大気が発生してないと判った途端に暇になるからねえ。羨ましいよ」それでこういうの組むのを
やらされるんだ。しかしいいんかい、こんな面子。嬉しいやら心苦しいやら。
マルグリットの予想よりは1日遅れて、その日が来た。
診察などは切り上げて、行ったことも無かった車庫に案内される。そこから、小型の潜水艦みたいな乗り物に
乗って、月に着陸するのだ。宇宙船自体は旋回していて、調査をする人たちもこのように降りているらしい。運転席に
フリード氏、助手席に案内係の地質研究室のアガタ氏という男性、その後ろにわたしとマルグリット、食堂の女性
ふたり、クラーク氏と西王鯨がふたりずつで着席し、連れて行かれた。わたしはフリード氏の真後ろで、頭がシートの
上から見えるので、ニヤニヤしながらこちらを見ているマルグリットを睨む。しかしわたしは食堂の女性たちに話しかけ
られまくり、前を向いている余裕は無かった。その話に前と後ろの男性陣が入ってきて、和やかに船を離れた。着地
して飛び出さんばかりのクラーク氏は案内のアガタ氏に制され、絶対に8人離れないように言われる。無重力の中を
歩いて行くのに、シューズに工夫を施してはあるが、使い方を誤ると危険な目に遭う、もしものときのために傍に居なさい、
というわけだ。制服の上に更に宇宙仕様のジャケットを着てその靴を履き、酸素ボンベを取り付けてアガタ氏の後に続く。
わたしがうまく歩けているか、みんなが心配してくれるので、恥ずかしいくらいだった。
やがて、地球が見えた。瑠璃色の地球とはよく言ったもので、ほんとうに青緑色で白い雲の柄があり、美しかった。
意図していなかったのに、わたしはフリード氏の隣に居て、
「きれいですね、われわれの星は」と言われたときは、なんとも言えぬ気持ちになった。わたしはおそらく相当に涙目に
なりながら、頷くしかできなかった。
暫くアガタ氏の説明を受けながら散策をし、潜水艦に戻った。
「ホームシックにならなかった?」マルグリットに言われて苦笑する。わたしのふるさとは東京なのだが、8歳までしか
居なかったからあまり記憶が無い。しかしエーフェと暮らしているベルリンは、ふるさとなのだろうか。名字も前野のまま、
エーフェは母を名乗らない。お世話になっている感覚ばかりで、ホームシックになるとはとても思えない。でもたぶん、
マルグリットはベルリンを、エーフェを懐かしく思わないかと言ったのではなく、地球についてだけを言ったのだろう。
「地球に生まれてよかったー」と言ってみると、
「なんか嘘っぽーい」当のマルグリットがゲラゲラ笑う。みんなもつられて笑って、宇宙船に戻った。
その後は太陽系のほかの惑星を巡り、元太陽系の冥王星近くの植民星にある地球管理のリゾート地にも立ち
寄ったらしいが、そのときに、船に乗って初めてのクローン施術があった。
呼ばれて行ってみると、「今冷凍保存してある死体は、気質研究室の中堅トニオ・アレグリ、リゾートのホテル
マンがゴミを宇宙に捨てていたので現行犯摘発し、暴れられて運悪く亡くなってしまいました。可能なら、死亡では
なく負傷という形で生還させたい。やっていただけますか」主任の態度が恭しく居心地悪かったが、断る理由も無く
いつも通り承諾した。細胞がなるべく死なないようスピーディーに施術する。5分で、新しいアレグリ氏が出来上がり、
死んだという記憶の部分だけ洗脳した。心配して駆け付けていた彼の婚約者、言語研究室のロザリア・ディエゴにも
その話はしない。彼は怪我をし、わたしによって治ったのだと思っている。
「見事だ」主任が言う。「できる人は、きみの師匠エーフェをはじめ何人か知っているが、これだけ速く正確なのは、
見たことが無い。きみはきっと、世界を救う神になる」
「そんな大袈裟な…」わたしはいつものように砕けてみたが、主任はほんとうに心酔してしまったようで恭しい態度は
変わらず、なんとなく寂しくなる。
でもなんで、隠さなければならないのだろう。言われて崇められたいわけではない。あなたはオリジナルではない、
死んだ者のコピーなのだと言うのは、非道徳的なのか。ならばなぜ、それをするのか。クローンをしている事実を知って
いるのは、総官と主任だけだと思う。彼らが秘書や奥さんなどに言っていなければ、ほんとに限られたメンバーしか
知らない事実。わたしは宇宙がパノラマ的に見える大きな窓のあるところで寄り添うクローンと婚約者を見た。
「わたしは、あのふたりを騙している…」思わず呟いて、慌てて口を塞ぐ。しかしふたりの世界に居る彼らには、
わたしの声は届きはしなかった。
疑問に思いつつも、その後3人クローンにした。そうして大怪我を負った4人が全てわたしの手で生還したことは
医学研究室は勿論、機内でも話題になっていく。神業外科医、と渾名をつけられ、知らない人にも声をかけられた。
みな全く知らないのか、逆に全て知っているのか、どうやって、などは気味が悪いほどに尋ねないのだ。
「すごいじゃん、恵」マルグリットは無邪気に喜ぶ。「10人の中で最も凄腕だって専らの評判よ」
「たまたまね」
「主任がそういう大怪我の人を任せるんだから、そもそもそうなんよ。そうよ、そもそも16歳で此処に居る自体が
そうなのよ」わたしが余りに無反応なので、マルグリットはその話をやめる。「だけど何でも免許が何歳でも取れるように
なったってのは、世界的飛躍よね。まあ、運転免許は身長制限があるけど。今のところ、小学生お天気キャスターも
ポカをやってないから、廃止にはなりそうもない。わたしはいいことだと思う。ガンガン勉強して、ガンガン出世するのよ」
「うん、わたしもそれはいいと思う」確かにそれは思う。両親を失ったときみたいな気持ちになりたくなくて医学を
勉強した。クローンも、たまたまエーフェがエキスパートだったからだけでなく、その目的に最も近い場所にあるもの
だと思ったから学んだ。免許を取って、不安そうになる周囲に認められたくて、ますます勤勉になった。すごい勢いで
目的に近づいて来ている。
それなのに疑問に思う。不安になる。
間もなく地球に帰るという日、マルグリットは食堂で一緒になって、
「ねえねえ、葡萄好き? うちの実家が栽培してるんだけど、到着を見計らって送ったって電子レターが来てたのよ。
帰ったら、うちに遊びに来ない?」
「へー、農園なの? すてき! うん、行きたい。じゃあマルグリットは、ひとり暮らしなの?」
「うん。実家はワインの名産地、独居はビールの名産地」
「20歳だっけ、もう飲めるんだね」現在、地球規約で飲酒は18歳からになっている。「好きそう」
「うん、大好き。でも一番は、日本酒なの」
「へー!」
「行くことがあれば、お土産よろしくね」
「あればね?」無いのだ。何人だってくらいに。だいたい、機内では英語が公用語だが、フランス国籍のマルグリットとは
ドイツ語で喋る。何人だ、わたしたちは。とツッコみたくなる。それくらい、いろんな国の人がいろんな場所に集っている。
直系も既に稀有だ。例えばわたしが直系に拘るなら、結婚相手に直系の日本人を探さなければいけない。今のところ
会ったことはないし、マルグリットがからかうようにフリード氏に今後首ったけになるんだとしたら、こどもはもう直系では
なくなる。そちらのほうが、あたりまえの社会なのだ。
ともあれ、マルグリットとは帰還後も続きそうで嬉しい。
わたしたちは約束の日を定め、メールアドレスを交換した。
5
愈々帰還の日がやって来た。エーフェからの電子ビデオレターだと、またイベント的に待ち受けているらしく、総官からも
式典に出ると聞いているので、出発のときの逆バージョンなのだと認識した。
着陸した宇宙船は歓迎され、報道陣の間を抜けて式典会場に行った。すごいフラッシュで、クラクラする。会場では
判っていることの報告があり、やはり死者は0となっていた。
休暇として2日空けて、3日後に研究室別にミーティングと記者会見。なので、群がる報道陣には
「記者会見でまた」と言い、下手なことは言わずに退散する。迎えに来てくれたエーフェの車に乗り、帰宅してから、
スクーターが局に置いたままになっていることに気づく。
「休み明け、送って行くから帰りはスクーターにしなさいよ。お疲れさま、寝る? 何か食べたい?」エーフェは
相変わらずやさしい。
「いっぱい話したいことがある。聞いて!」
「あらあら、元気ねえ」
月から地球を見たことなどを話す。しかし一番大事な話ができない。わたしが迷う限り、うまく話はできそうもない。
そう思い、後回しにしてしまうのだった。
翌日は流石に1日寝ていて、2日目の休みはマルグリットのところへ遊びに行った。朝っぱらからエーフェとケーキを
焼き、それを水平に保ちながら歩いて、待ち合わせの私鉄駅前へ。そこへ車で迎えに来てくれるのだ。
「10時半待ち合わせで既に11時…仕事以外ではルーズと噂の南ヨーロッパの気質かいな」普通なら、いい天気の
爽やかな秋の空気を深呼吸しながら穏やかに待てるのだが、前野恵だとバレるのか、遠巻きに見ている人の視線と、
ほんとにちちゃーい、などとの声を感知しながら、居心地悪く立っていた。わたしは右手でケーキを水平に保ち、
左手で携帯PCの端末を出して、着信無しを確認し、待ち合わせ10時半で合ってる?とメールしてみる。それから
5分くらいして、目の前に小型の黄色のシトローエンが停まった。
「お待たせ、恵!」
「シトローエン! ルパン三世かと思った」助手席に乗れと言われ乗り込み…「あれ?」後部座席に、窮屈そうに
座る西王鯨。
「おはよー」
「お、おはようございます」
「ごめん、急遽誘った」マルグリットはイシシ、と笑う。
「そうなんだ」ケーキ、きっちり2個とかにしなくてよかった。
「なんでって突っ込まないの」
「…なんで?」
「理想と全然違うんだけど、やっぱり好きだなーって思って、今朝ケルン大学の寮に押し掛けたの」
「へっ? マルグリットが?」
「うん。でね、居てくれりゃあ良かったのに不在でさ。管理人さんが教えてくれたところに押し掛けて」
「驚いたよ、いきなり拳法の道場に来て叫ぶから」
「へっ? 好きだって叫んだの?」
「うん。もう、マスコミに人気お天気キャスター、玉砕!って書かれるの覚悟で」
「ひゃー! で、でも、ついて来たってことは?!」
「おれはもともと、こーゆーハチャメチャな女性好きだし、月を一緒に歩いたときから気になってたから。喜んで!
みたいな」
「わー、おめでとう、マルグリット!」
「悩んでいたのはこのことよ。理想はこんな筈じゃない!て」
「そんなに違うんだ。でも、もしかして、わたしお邪魔だったり…」
「なーに言ってるのよ、もともと恵との約束でしょ! あ、あーっ!」急に路肩に車を停めて、車を出て追い越した
停車中の旧型のローバーミニのほうに行く。なんと、ミニの脇にフリード氏が立って携帯PCに繋いだイヤホンマイクで
電話していた。
「あ、此処、エッセンか。ニコラス先輩、このへんなんだよな」西さんは呟く。そう言えば履歴書にあったが、見たとは
言えない。
フリード氏はマルグリットに気づいて電話を切り、話してこちらを見て更に驚く。そこへ、オスカー・クラークが来て
ワオ!となる。
「なに、おれの誕生日におまえが呼んでくれたのか!?」クラーク氏がフリード氏に感動的な視線を向けるが、
「え、誕生日なの?」マルグリットの正直な受け答えで、がっくりして笑われる。
「誕生日だから、男同士ムサイけど飯でもってなって、待ち合わせてて」フリード氏は、西さんとわたしのほうを見て
言う。
「月の再現みたいですね、このメンバー」
「ほんと、食堂のおばちゃんたちやアガタさんも居たりして」西さんは周囲を見回す。
「ねえ、わたしたちは、うちに葡萄が届いたから、うちで食べようってなってるの、先輩たちも来ます? ついでに誕生会
してあげるわよ」
「ついでだとお?」
「それは悪くない? 確かマドモワゼルはひとり暮らし…」フリード氏は遠慮がちに言う。
「あら、みんな一緒だから構わないわよ。仕送りも無しに住んでる豪邸、自慢してあげちゃう」
「この人数誘えるってことは入れるってこと? すごいよね」わたしは今更、感心した。
「いらっしゃいよ、作るのは辞めて、買い出ししながら行けば早いし!」
結局、フリード氏がクラーク氏を乗せてマルグリットの車を追い掛け、マルグリット宅に行った。途中スーパーで
買い出ししたとき、クラーク氏に、そう言えばなぜ3人で愉快な企画をしたのか聞かれた。
「実はボクたち、きょうから仲良しなんでーす!」
「えーっ!」クラーク氏は目玉が飛び出んばかりに驚き、フリード氏は
「へ〜」と言っている。
「わたしは邪魔者なんです」苦笑して言うと、クラーク氏は
「いや、邪魔なのはおれでしょ」と言う。…げっ、もしやクラーク氏も誤解している?! 否定すると大事になりそうな
気がして、わからないふりをして黙殺する。買い物を終え、マルグリット宅に到着。高級マンションの12階、しかも
下の階は8戸入る面積の半分が1部屋だった。あかるい陽光をとれる大窓のリビング、その外はひろいバルコニー。
「すごいねー、わたし、ふたりでこれくらいの家に住んでるよ」驚く。
「エーフェ女史は質素だからなあ。稼ぎはわたしなんてもんじゃないでしょうに」
買ってきた食材を並べ、パーティーになる。これからの夢の話、学校での、職場での事件、噂話、いろいろと
話した。
しかしいつの間にかワインも出ていて、フリード氏以外酔っ払ってしまう。というか、上機嫌だなあと思っているうちに
眠ってしまったのだ。
「ちょっとちょっと、マルグリット!」揺するが
「あと5分ー」と起きない。
「ふたりは強そうなのになあ。オスカーはもともと強くはないけど」
「えっ、お酒の話ですか?」フリード氏の呟きに妙な反応をしてしまう。
「ほかに何だと思うんですか」笑う。「まあ、ル=ブラン嬢は、オスカーよりあらゆる意味で強そうですけど」
「フリードさんは全然酔わないんですね」
「僕は飲んでないですよ、これは最初のレモネードです」グラスを上げる。「車ですから」
「あっ!」マルグリット、帰りも送ってくれるって言ってたのに…。
「前野さんは僕が送りますから大丈夫ですよ。このふたりは、起きていたら送ってもいいけど。運ぶのは無理」静かに
笑う。そうなのだ、この人はいつも、言葉も笑い声も、全て静かなのだ。まるで、やんちゃな少年時代なんて無かった
みたいに。
「い、いえ、あの、帰り方を教えてくだされば…あ、いえ、調べますので…」
「まあ遠慮しないでください。僕も帰るのですから」
結局夕方まで3人は起きず、わたしとフリード氏は食器などを勝手に片付けて、目覚まし時計を朝5時にセット
して、オートロックだろうから外からは鍵をかけずに出て来た。申し訳無いけれども送らせてしまう。しかもベルリンまで
来てくださった。
「ほんとにすみません、ありがとうございました」頭を下げる。
「いいえ、また明日、局で」にこやかに言って、車を出した。わたしは見えなくなるまで見送ってしまう。 …なんて
いうか…紳士だな。砕けてはくれない。たぶん、クラーク氏の前ではこんなかんじではない。まあ、わたしになんて
興味無いんだろうけど。また明日なんて言ったけど、研究室が違うから会えるかなんかわからない。
その夜は、妄想の夢を見た。翌朝のミーティングと記者会見に行くとき、フリード氏が迎えに来てくれるのだ。ど、
どうしたんですか?!と言うと、また明日と言ったじゃないですかとニッコリして、会いたかったと抱き締めてくれちゃうのだ
…ありえなーい。
目が覚めて、虚しすぎる、と呟き、支度をする。明日から学校へ行くのできょう寄るつもりで、その荷物とを詰めて
おいた鞄を持って出ようとしたその時、隠し持って来た名札を返さないといけないのだったと気づいて、どこかに隠そうと
思ったが部屋に置いていくのも不安で、とりあえず鞄に仕舞う。エーフェが約束通り送ってくれて、帰りはスクーターで
帰るよう念を押され、別れた。研究室に向かって歩いていると、後ろからマルグリットが追い掛けて来た。
「恵、昨日はごめん、めざましありがとう」
「あ、よかった。間に合ったね」
「あのふたりは朝帰りする余裕すらあったわよ、一度家に帰ってまた来るって。恵は? もしかして…」
「フリード氏が送ってくださったんだけど。期待するようなことは何も無いからね」
「まあそうでしょうね。思うんだけど、無関心よね。他人に。まあ、これからよ、ガンバレ!」
「だーから…」
「ねえ、きょうおひる一緒に食べようよ」
「うん、喜んで。食堂集合?」約束して別れ、医学研究室へ。
なんとなく、騒がしい気がする。
「おはようございます、どうかしたんですか?」
「ああ! 来た、恵が来たよ、総官!」主任が叫ぶ。総官? どうして医学研究室に?
どろりとした汗が、背中を伝う。また明日―――フリード氏の声が頭に響く。
「ニコラスを…ニコラスを頼む、恵!」総官がしがみついてくる。「私の片腕が…今朝、来る途中で…」
「早くこちらに、準備はできている」主任に腕を引かれ、局内簡易施術室に入れられる。そこには、止血され、
冷凍保存されたフリード氏が横たわっていた。怪我はひどいものだった。顔だけ傷ついていないから、逆に完全に
フリード氏だと判り、気が遠くなる。わたしは床にへたりこんだ。立っていられない。どうしよう…わたしがクローンしな
ければ、この人は死ぬ。普通の治療では、明らかに無理だ。その上、四肢の細胞はもう機能していないだろう。
クローンしたとして、きっと義足、義手は免れない。
とりあえず冷凍してあるから、すぐには死なないが、モタモタしていると凍死する。死んだ細胞が増えたら、クローン
してもどんどんオリジナルとは程遠くなる。優秀な技師でも紳士でもなくなる。だができるだけ近くしたとしても、それは
あのニコラス・シオン・フリードではない。
「わたしにはできない!」寝台を叩き、操作台のほうへ向き直った。だけれども総官やクラークさんが泣く姿も脳裡を
掠め、動けなくなる。どうしたらいいのだ、どうしたら…!
…わたしは施術を始めた。いろいろと細工をして、合併症を引き起こさせ、わざと失敗をする。つまり、
殺した―――。
心拍数が0になった音が、部屋に鳴り響く。同時に、わたしの目から涙が落ちた。
「そうか…合併症…」総官と主任は肩を落とした。「きみでだめなら、だめということさ。最善を尽くしてくれた、あり
がとう」総官は出て行く。
「みんなはミーティングしてるけど、どうする? 休むかい?」主任は気遣い、「報告書だけもらえれば、処理しておく
よ」と言ってくれた。
「…すみません、お願いします」涙が止まらず、とてもみんなの前には行けなかった。主任はわたしの肩を叩いて
研究室に行く。わたしは医務室のベッドに腰掛け、声を殺して泣いた。
暫くそうしながら、考えた。手も足も使えないで、技師はできない。それで生きて、だれかの世話に…ご両親も
居ないのに? 総官のおにいさんはアメリカだし、総官が保護者になるのか? でも成人しているから、わたし
だったらエーフェに当たる人はもう居ないかもしれない。それに総官夫妻のお忙しさでは、無理だろう。
「これでよかったと、思うしかない」わたしは涙を拭う。
医務室のドアがノックされ、マルグリットが顔を出した。
「聞いたわ。大丈夫?」
「…うん、ありがとう」
「きょうはランチなんて気分ではないよね?」
「うん、ごめんなさい、またにしてもらえる?」
「わかった、いつでもなんでも付き合うから、電話するんだよ?」
「ありがとう、マルグリット」笑顔を作り、ドアを閉める。外から、どうだった? と、クラーク氏と西さんの声がする。
親友を殺したのに心配させてしまい、本当に申し訳無いと思う。マルグリットの答えは聞こえず、足音は遠ざ
かった。
6
これから、どうしたらいいんだろう―――。わたしは、頭を抱えた。そのとき突然、トゥルム・モント技師の顔を思い
出した。局の長老。内線電話を手にし、技術研究室に電話した。
「すみません、医学研究室の前野です。トゥルム・モント氏はもう帰られましたか?」
『いえ、まだいらっしゃいますよ。お待ちください』
「お願いします」間も無く、懐かしい響きの声が聞こえた。
『代わりましたよ、お若い方。何かわしに用事かの?』
「あの、突然すみませんが、お時間いただけないでしょうか。面会を…おうかがいしたいことがあります」
『おやおや何じゃろう、15分後には体が空くからの、20分後に応接室でよいかの?』
「ありがとうございます」『もし部屋が取れなかったら連絡するから、今暫くそこにおってな。今、どこじゃ?』
「医務室です」
『あいわかった。では、とりあえずは20分後にな』技師は電話を切る。それから、部屋はわたしが取るべきだった
か?と後悔。
主任がみえて、心配してくださった。
「長く医者をやっていると、患者を救えないときもある。家族に恨まれたりもする。しかし最善を尽くしてもどうにも
ならないこともある。胸を張って、できることはやったと言うんだ。医者はみんな、そうやって乗り越えて行くんだよ」
「はい…ありがとうございます」
「ゆっくり休んでな。私は出張で飛行機の時間があるから、これで。今回はありがとう、また一緒に仕事をしよう」
「ありがとうございました」わたしは頭を下げる。
15分経ったので、顔を洗って移動する。医学研究室に居る人に挨拶をして、技術研究室の脇の応接室へ。
モント氏はもういらしていた。
「すみません、お忙しいのに。部屋も、わたしが取るべきで…」
「いや、主任という役職のほうが取り易いからいいんじゃよ。まあかけなさい」見かけたことのない女性が、飲み物を
持ってきてくださる。置くとすぐに出て行った。「珈琲だと興奮してしまうじゃろうから、レモネードにしてもらったが、
おきらいではないかの?」
「レモネード…」早速涙が出てしまう。
「おやおや、辛かったんじゃの。うまくいかなかったのは初めてかの?」
「はい、初めてですし――実は、わざと失敗したんです。クローンを作るのが、わたしの役目でした、だけど…本物で
ない人を作ることに疑問を抱いていたところで、それにクローンにしたところで、義手義足は免れない怪我でした、
生かしておいて幸せかも疑問で…悩んでいる暇がない、時間との勝負の中、決断しました。合併症を死因になる
よう、細工をしました。つまり、わたしが殺したんです」
「…ちょっと待ちなされ、お嬢さん、クローンができるのかいな」
「はい。口止めされてませんが、なんとなく機密的に扱われていました。今回の保全調査の死者0というのは嘘で、
正しくはクローン化4人です」
「できる者が居るらしいとは聞いておったが、それはエーフェのことじゃったのか、それでそなたに伝わり。倫理的には、
わしは反対じゃが、エーフェも家族を失ってそなたに会うまでひとりだったからの、そういう気持ちを人に味わわせたく
なくてとか、そういう理由があったのじゃろう。一概に悪いこととは言えまい。今のそなたの考えは、きっとわしと同じ
なのだろう。それとは知らなかったろうに、わしに話すのはなぜじゃ?」
「長いこと技師でいらして、疑問を持ったことはないのかうかがいたくて」
「確かに長い!」笑う。「22で開発局に入り、40で主任になり、きょう退職したんじゃから」
「えっ、きょう?」
「この8月で定年じゃったが、今回の調査までということで少し延期になったのじゃ。もう80じゃから、休ませてくれと
いうかんじでの」
「80歳なんですか?」
「ああそうじゃ、そなたの5倍じゃの。そしてつまり、局に尽くして58年」
「すごい。その間、仕事が厭になったりしませんでしたか」
「仕事は好きじゃったが、自分の無能さに辞めたくなったときは何度もある」
「でも、辞めはしなかったのですね」
技師は静かに笑みを作り、語り始めた。
「昔、ドレスデンに、ひとりの修理工がおっての。腕が立ち評判がよかった。しかし彼は背が低うて。こどもの頃はよく
いじめられていて、大人になっても仕事以外では全く卑下されておった。けれども40を過ぎて諦めていた頃、理解
してくれる女性が現れ、結婚できた。そのうちにこどもができてな、こどもには高い背を祈り、塔(トゥルム)という名を
つけた。しかし彼もまた、ちいさかった。やはり器用な手を持っていたので、技師になった。開発もやったが、どちらかと
いうと修理系の技師に。彼は仕事がうまくいかなくても辞めなかった。壊れたものたちが、彼に助けてと言ったからじゃ。
勿論その後もうまくいかないときはあった。しかしものは、次から次へ壊れていく。あたらしいものも、古いものも。
頑丈なものも、どんなに精密に作られたものも。丁寧に扱っていても」そこでひとつ、息を吐いた。「医師も、人間を
修理するのだな。しかも、取り換えはきかない、だれかにとっては無二の存在のもの。クローンで慰めるのも、ひとつの
手じゃろう。そなたはどうするかの? やはりそなたの腕を待っているものたちは、たくさんおるじゃろう」技師は立ち
上がった。「カップはそのうちリゲルが提げに来る、そのままお帰りなさい。それでは達者での、わしの所在は局内で
公開しておるから、また何かあったら遠慮無く話しに来なされ」
座っているわたしの肩に手を乗せ、頷いて出て行かれた。
「あ、ありがとうございます!」慌てて立ち上がり、頭を下げてそれだけ言う。お疲れ様も、お元気でも言う暇は無く、
ドアは閉まった。廊下から今度は、エーレンと総官の声。
「恵と話したって…辞めたいなんて言ってませんでしたか?」
「さあ、辞めたいとは言っとらん。あとは本人に任せなさい、エーフェならともかく、他人は口出ししたらいかん」3人の
声と足音が遠ざかる。
「…だけど一体、どうしたら…」
そのとき、立ち上がったときに傾いだ鞄が、ばさっと落ちた。返していない名札が、フリード氏の履歴書が入った
まま飛び出して来た。わたしは硬直し、そして震える手でそれを持ち上げた。ちょうど表に見えていたのは―――
“離婚後カルカッタに戻り、友人と医療施設を運営”
フリード氏のおかあさんのことだった。稲妻に撃たれたように、わたしは荷物をまとめて応接室を出た。スクーターに
飛び乗って、銀行に寄り通帳に貯金残高を記載し、エーフェのもとに帰った。
「おかえり。何度も電話したのよ」エーフェはわたしを迎え入れ、心配そうに言った。
「あっ、パソコン見なかった、ごめんなさい。あの、エーフェ…」
「記者会見に出ていなかったから、心配して電話したのよ。エーレンが電話くれて、事情は聞いたわ」
「クローンに失敗したって言ってた?」
「ええ。あ、エーレンはね。記者会見では体調不良になっていたわ」
「そう…」
「なんでわざと失敗したの?」わたしはエーフェを見上げた。「いえ、責めてるんじゃないのよ? 何か理由があったん
じゃないかって」
「わざと…どうしてそう思うの?」
「あなたの施術を見てきて、不可能が無いくらい正確だからよ」
「…流石師匠…そうなの、わざとなの。どうしても、クローンしたくない人だったの。わたし、あの人を愛していたかも
しれない。更に、境遇が似ているの。しかも、エーフェみたいな存在は成人したせいか居ないの。もう手足はどうにも
ならなかった。クローンして、機能しない四肢で、あの人はどうするの、かつて優秀な技師だったのに、もう戻れない。
きっと辛い目に遭う」
「あらまあ…」
「それでね、エーフェ。折角教えてもらったんだけど、クローンはもう、やりたくないの。自然な治癒の手助けだけを
したいの。ごめんなさい、わたしも両親を亡くして、あんな想いはしたくなくてがんばって覚えたけど…」
「うん、それもわかるわよ、恵」
「とりあえずは、わたしが殺した人のおかあさんに、懺悔をして、できたら其処で働きたいの。この貯金で、移住なんて
できるかしら。インドなんだけど…」
「えっ、インドなの?」わたしはフリード氏の履歴書を見せた。
「もう亡くなっているかもしれないし、許してもらえないかもしれないけど」黙って履歴書を見ていたエーフェは、顔を
上げた。
「残念ながら、亡くなってるわね。8年前に」
「えっ、知ってるの?」
「やっぱりあなたは、龍太郎と瑞季のこどもね。あの人たちとあなたが遭った事故は、インドへ行くため空港に向かって
いたときだったのよ」
「え…ほんとに? 事故に遭わなければ、わたし、インドに行ってたの?」
「ええ。しかもね、カルカッタの医療施設に呼ばれたから、経営していた病院を友人に譲ってまで、行こうとしていた。
呼んだのはこの、カマーラさんと施設を運営していた方。カマーラさんが亡くなって、人員の調整補充をしていたところ
だったの。事故で亡くなったから前野夫妻は行けないと連絡したのはわたしだったから、事情は知ってる。ニコラス
くんがそういう方の息子とは知らなかったわ。しかもなに、彼も8年前にドイツに来たのね。ご両親が夫婦で同じ年に
亡くなってるのもだけど、あなたと彼も同じ時期に同じ国に来たのね、妙な偶然。やっぱり運命、なんじゃない」
「…だけど、もう居ないのよ。わたしが殺したから」
「そんなふうに考えるのはやめなさい、事故で、もう死んでいたのよ。奇蹟を起こせなかっただけよ」
「でもわざと…」
「クローンでなくたって、医療に携わる者はみんなそんな目に遭う。厭なら医師を辞めなさい。続けるなら、この施設の
連絡先を教える」
「エーフェ…」
「それから、医師であろうとなかろうと、あなたが20歳になるまでは、インドとドイツで離れようと面倒を見る義務が
あるからね、どこに居ても仕送りと手紙のやりとりはさせてもらうわよ」どこまでも、エーフェはやさしい人だった。「まあ、
今回の調査であなたも金持ちになるけどね。すごい額がそのうち此処に足されて」
「え、お給料なんか出るの?」
「………出ないと思ってたの?」
現実は思うようにはいかないもので、施設のほうはわたしに来てもらえたら本当に助かると言ってくれたのに、
高校くらいは出ないと今後困るかもしれない、という周囲の意見に負け、半年待ち、2年の前期で単位を全て
取って、飛び級で卒業した。翌年の春にようやっとインド入りをする。どこから情報が漏れたのか、新聞に「調査から
半年、両親の遺志を継ぎ、慈善事業に医療面で貢献するため、飛び級卒業。単身インドへ」などと素晴らしい
解釈で書かれていた。単身とは言っても、エーフェがついて来ると聞かなくて、施設まで来てくれ、何日かして帰国
したんだけど。
何もかもが、最先端技術の開発局とは違っていた。此処の設備ではクローンはできないので、要求されることも
無い。自然の中で、不便なこともあったが、やがて慣れた。持ってきた携帯PCは使えたし、まるで未開なわけでは
なく、過ごし易かった。こちらに来る前に会ったマルグリットは、見送りに来てくれた上に泣いてくれちゃったりして、
驚愕した。初めて会ったときのことを考えると、すごい変化だ。そしてインドに行くのをからかわなかった。だから着いて
最初のメールは、学校でつるんでいた友達より先に彼女にしたが、返信は1週間後だった。読めない人だなあ。
それから瞬く間に月日が過ぎ、わたしも段々と、見た目で不安にさせることの無いおとなの医師になっていった。
7
一度もドイツに帰らないまま7年が過ぎた。
突然マルグリットがメールで、訪ねたいと言って来たので、何かと思ったら、西さんと結婚して、新婚旅行として
この辺りを回るので、ついでに会えないかということだった。まだスケジュールは組んでいないから、わたしの都合に
合わせると。祝辞とシフト調整を待つようにという返事をして、その辺りの日程を見てみた。休み1日とかぶっている。
お見舞用宿泊施設があり、職員面会にも使えるので、利用するか聞いたり、何度かメールをやりとりして、更に
クラーク氏も半年くらい前に結婚しており夫婦で来たいということで、招くことになった。
初日はわたしは仕事で、昼休みを狙って彼らがやって来る予定になっていた。施設の前にタクシーが停まる音が
して、見に行くとマルグリットが降りて来たところだった。
「あ、恵ー!」ショートカットだった髪はパーマのボブになり、相変わらずきれいだった。走り寄ると、ハグされ「相変わらず
可愛いわね、オカッパで!」と叫ばれる。
「ほんとだ、変わんないー」降りて来た西さんとクラーク氏が笑う。
「あ、こっち、妻です」クラーク氏の後ろから、小柄な女性が現れる。
「あれ、日本人ですか?」
「はい、久美・クラークです、初めまして」
「初めまして、前野恵です」まだ20歳前らしく、若々しかった。
「先輩、若い日本人好きだよねー」西さんが呟き、クラーク氏は慌てて止める。それはちょっと、わたしが赤らむべき
真相だったのかもしれないが、奥さんも聞こえなくて、え?と言っているし、平和に過ごそうと思い、わたしも聞こえ
ないふりをした。
「久美は、オルガニストなのよ。こんなちっちゃいのに、教会で、でっっっかいオルガン弾いてるの」
「すごい、芸術家なんですね。あ、とりあえずチェックインを。おひるは食べた?」
「まだ」
「じゃあ、食堂で一緒に食べましょう。この建物が宿泊所。中で予約と照合して、荷物を置いたら此処に戻って
来て。そしたら食堂に行きましょう」
「………」みんなが黙っているので
「どうしたの」と聞くと、
「いや、落ち着いて…たけどね、もともと16のわりには。でも更に…貫禄すら感じる」マルグリットが感心したように
言う。
「ええ? 服のせいじゃない?」身長は変わり無いし、粗食で痩せたので、貫禄とは程遠い。質素な修道服の
せいだと思う。マルグリットの家に遊びに行ったときなんか、膝丈デニムスカートにパーカーにスニーカーだったから
ね…。
「いや、やっぱ経験値貯めてレベルアップしてんのよ」
「ゲームか!」
その日は昼ごはんの後は観光に行くと言うので、わたしは仕事に戻り、患者さんが絶えず夜まで忙しかったので
会わずに、メールで明日、と約束した。翌朝は休みなので、一緒に朝のおつとめ(礼拝)に出てから、市場や観光
地に行ったりする。実は住んでいながら観光どころか街に出たことが殆ど無く、数日前に休みが一緒だった同僚に
付き合ってもらって服を買いに行ったくらいだった。ほんとに働きに来ているかんじで、休みは部屋で休んでいたのだ。
近くのカフェでおいしいチャイを飲み、本屋さんで本や便箋や文具を買うくらい…われながら遊び欲が無くて笑える。
結局4人がガイドブックを見て案内してくれたようなものだ。夕食も珍しく外で食べる。
翌日から何日かはわたしは仕事だったので、好きに遊んでもらう。一度、施設の高いとこらから街の一望が見渡せる
ので、そこだけは案内し、一緒に夕焼けを見た。
「去年、教授が亡くなったんだよ」西さんが夕焼けを見ながら言う。
「えっ、トゥルム・モント技師が?」
「おれ、臨終に立ち会えたんだけど最後までしっかりしていらしてね。恵は忙しいだろうし遠いから、葬儀には呼ば
ないでいいっておっしゃって。いつかインドに行ったら、渡してほしいって、預かって来たものがあるんだ。今、宿泊所に
あるけど、帰りに渡すね」
「そうなんですか、ありがとう。技師は、どうされたの?」
「膵臓癌」
「そうか…あれは医療が進んでも発見が遅いし、治せない…」
「教授は幸せそうに息を引き取ったよ」
「それはよかった」
「理想的な人生だったよねー、御老公は」クラーク氏も頷いている。
「お嫁さんは来なかったけど、王鯨みたいなでっかいこどもみたいな存在は居たし」
「ほんとにねー」
そうなのだ、トゥルム技師みたいな人は、クローンする必要が無いほど満たされた死に方であり。これが理想的だと
思う。
彼らがインドを出るときにいただいた、トゥルム技師からの遺産は、置き時計だった。ミケランジェロのピエタのような
形で、マリア様はキリストではなく、時計を抱いている、大理石づくりの高価そうなものだった。時計は止まっていた。
「こんな高そうなもの、いただいちゃっていいの」
「おれに返されても困るからね、持って行ってよ」西さんはさっさとわたしに渡して、手を引っ込めた。
「では、いただいちゃいます」
「じゃあ、また来るからね。元気で!」
「皆さんも」4人はタクシーに乗り込み、空港へ向かった。
部屋に帰り、時計をしげしげと眺める。直せるのかな、と時計を弄ってみる。技師が直せなかったのなら、わたしには
無理だろう。と考えて、総官の言葉を思い出す。
「きみでだめなら、だめってことさ」
その途端に、時計部分が外れた。びくっとして、手を離す。机の上に文字盤が転がる。
「あっ…」時計が抜け落ちたところに、紙が挟まっていた。今は英語で暮らしているので懐かしく思えるドイツ語の、
流れるような文字で、
`親愛なる恵
無理に治さなくてもよいものも、世の中にはある。脱け殻そのものが価値を持つことも、不在そのものが価値を
持つことも、そなたが一番よく解っているはず 永遠にきみの友人、トゥルム´
涙が出た。技師と交わした言葉、フリード氏やエーフェと交わした言葉のひとつひとつが甦り、意味を持って
わたしの胸に響いた。
だからと言って、治すことが無意味とも思えない。できることはするのだ。
わたしは手紙と時計をもとに戻し、机に飾った。止まったまま。
針の示す時間を見ると、偶然なのか、トゥルム技師がわざとそうしたのか、10時27分、フリード氏の死亡時刻だった。
胸の痛みを甘受し、そっと時計を撫でる。
わたしが彼に触れられたのは、あの施術が最初で最後だった。弔いにも出ず、墓参りもしない。そんな愛があるかと
自分でも思うが、道を示してくれたことに感謝して、その道を歩み続けるのだ。
たったひとり、彼の代わりは求めずに。
了