小林幸生 2010
入院してアルバイトを休んでいたのを思い出し、復帰したのは夏休みに入ってからだった。受験に影響無い
ように、入るのは少し少なくしたけれど、また、ブラックで飲めないけれども大好きな珈琲のいい香りに包まれて
過ごす時間が増えた。午前中有真くんと図書館で勉強して、おひるを食べて、別々に有真くんはアルバイト、
わたしは一度帰宅して練習してから、そのままうちに居るかアルバイト、というパターンが定着して来た。殆ど毎日
会っている…同世代で負担でないとは、カレシになってくれて正解なのである。
夏期講習を受けたりはひとりだが、旧七夕の8月7日には約束して夏の大三角を見るキャンプに参加したり、
プラネタリウムも行ったりして過ごした。
元・川越家に住む小さな姉妹の妹・東菜(あすな)ちゃんのほうに捕まって、おうちにお邪魔したのは、その家の
銀木犀の香りを嗅ぎたくなって久しぶりに前を通った日だった。学校の帰りに前を通ると、妹といぬに見つかって、
ふたり(笑)にばふばふと飛び付かれた。現・今西家であるお菓子の家に導かれると、お母さんとわたしはお互いに
頭を下げ、「ご迷惑でなければ」と言い合う。
居間では姉・結花(ゆいか)ちゃんが宿題をしていた。
「誰かと思ったら! やっと来てくれたのね」発表会の度におうちに誘ってくれるのだが、その誘い方や、今の台詞
なんて、やけに欧米文学訳文調でなんか笑ってしまう。面白い子だな。「待ってね、今宿題を片付けるから。
東菜、先に遊ばないでよ」
「まあゆっくりおやつにするから、追い付けばいいじゃない。日南子さん、たまたまタルトタタンを作ったので、召し
上がって。お嫌いじゃない?」
「大好きです、ありがとうございます」たまたまタルトタタンを作るって一体…その上、紅茶はどれがいいかしらと、
三國屋の缶の紅茶葉をいくつも並べたトレイを見せてくれる。お母さんがこんな雰囲気だから、結花ちゃんが
上品になるのだな。こどもだから気になるだけなのだ。お嬢さん学校では普通かも。まあ、彼女たちはわたしの
後輩、北小だけど。
紅茶を選んでいると、外でいぬが哭いた。
「あっ、ユーレイだ!」東菜ちゃんが外へ飛び出す。
「幽霊?」
「あらあら、ちょっと失礼」お母さんが玄関に行く。さっきのわたしと同じようなやりとり…あれ、この声…なんと、
東菜ちゃんに引っ張られて、有真くんが居間に顔を出した。
「あれっ、なんで?」ハモって、笑う。
「あら、知ってるの? まあ、金森先生の生徒さんだものね」お母さんが後ろから。「…あらー、ヘンゼルとグレーテル
みたい!」
わたしと有真くんを見て、嬉しそうに言う。「この家、お菓子の家みたいでしょう、買うときからそう呼んでてね、だから
そう見えちゃうのかしらー」
「きょうだいー」有真くんはニッコニッコしてわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「コラー」
「…え? あらまあ、もしかして、きょうだいどころじゃなかったりする?」お母さんが飛び上がらんばかりに喜ぶ。
「はいっ、おれたち、付き合ってます!」有真くんは挙手して宣言する。
「きゃーすてき! 似合うー!」お、お母さん…。
「つきあうって、なーに?」1年生の東菜ちゃんはキョトンとする。
「うといわねー、東菜。今や幼稚園生だって付き合う時代だというのに」
「なによ、おねえちゃんはしってるの?」
「おたがいが…おたがいっていうのは、有真さんは日南子さんが、日南子さんは有真さんがってことね。何よりも
一番たいせつってことよ」結花ちゃんは堂々と言い放つ。…ちょっと…感動した。形容詞か動詞か判らなくなりそう
だが、でも、いい説明だ。
「そうそう」有真くんが腕組みして頷くので、わたしは、ひたすら照れるのみ。
「あら、素直ー」お母さん、拍手。
「そうなんだー」東菜ちゃんは、わかったような、わからないような。
「お互いってところがポイントなんだよ。こっちだけが大切に思っててもだめだし、あ、あとお互いにそう思っていても、
伝えなくちゃだめ。つきあえないの」幼稚園の先生モードで、諭す有真くん。本当にそうだなあ。お母さんも
「深いわー、10代でこんな語れちゃうのね」と頷いている。あなたの娘の感動的な言葉も、9歳の語りなんすけど!
結局、誰も誕生日ではないが「バースデーブレンド」という紅茶でタルトタタンをいただく。太一のでおいしいのに
慣れていても、やっぱりおいしい。
「くーっおいしい!」と、また有真くんと同じポーズでハモる。
落ち着いて周囲を見てみると、川越姉妹が住んでいた頃の家具は、千鶴が持って行ったか廃棄したからしい
のに、雰囲気が損なわれていなかった。ピアノはアップライトになったが、大体同じ場所、同じウオールナッツ色の
楽器。この家を買うくらいなのだから、趣味が同じかんじなのだろう。けれども、あの姉妹は居ないのだ。代わりに
小さい姉妹が、籠城を責めるようにタルトタタンを食べていた。
おやつが終わると、東菜ちゃん+有真くん、結花ちゃん+わたしのチームで、遊び対決をした。ミニボーリング、
トランプ、ラビリンス、人生ゲーム。
6時になってしまい、慌てておいとました。
「また来てねー」
「遊んでくれてありがとう」可愛いなあ。ふたりで並んで歩きながら、有真くんが話し出す。
「初めてだったんだね。おれより家近いから、とっくに行ってるような気がしてた。ほんとあの家、歓待ムードだよね」
「ほんとだねえ。…実はさ、家の中にはもう数えきれないくらい入ってるんだ。前にあのおうちに住んでた人に、ピアノ
習ってたの。2年前まで」
「へー、そうなんだ」左右に分かれる道に来たが、「送る」と右に来てくれた。
「まえはあの家の前を通って駅に行ってたんだけど、そこに前の先生が居ない辛さもあって有真くん家の前を通る
ように
なって、はじめ先生のピアノが聴こえてきて、それが聴きたくてあっちに道を換えてね、今は門の中で有真くんが
自転車を磨いてないかと…」そこまで言って、きゃー何言ってるの?!と思って口をつぐむ。
「やーだー、照れるじゃないのー」オカマ言葉になってるので笑う。
「まあだから、あんまり通らなくなってたんだけど、たまたま通ったら捕まったの。あの家族になってから初めて中に
入った。でも、大事に暮らしてくれていて、嬉しい」
「あれは傷つけたくはならないね、大事にしちゃうよ」
帰りに玄関のところであったことを思い出す。結花ちゃんがわたしを捕まえて、
「よかった恋敵じゃなくて。わたし、先生が好きなの。日南子さんは狙ってないなら、ひとりライバルが減ったわ」と
言った。「東菜はもしかしたら、有真さん好きかもしれないけど」
そうだねえ、ユーレイと呼んで慕って、初恋には最適かもな…ごめん、東菜ちゃん。しかし結花ちゃんは先生を
選ぶあたり、やっぱり欧米文学キャラのこども。貴公子がお好き。
これは女同士の内緒話なので、有真くんにも言うまい。家の前に到着。
「ありがとう、ユーレイくん」ふざけてみる。
「全くこどもの発想てのはね! まあ、おれも兄ちゃんのこと鱒ずしとか言ってたけど」
「ひええ、先生が鱒ずし! でもおいしいんだよね、あれ」
「うん、大好き。よくも悪くも興味があるものが、そういうとき出て来るんだよねー。うっかり大好物を悪態に使って、
好きなんだねー、みたいな」
「有真くんもお兄ちゃん好きなんだね」
「うん。キッチリしてるから、時々うるさいなーって思うけど、基本的には憧れちゃってる」からかったつもりなのに、
この人、ほんとに素直だな。「話終わらないね、またにしよう」
「うん、送ってくれてありがとう、またね」去って行く有真くんと手を振り合いながら、最近の彼のテーマ曲が変わって
きたことに気付く。同じプーランクだけど、〈バディナージュ〉という曲で、莫迦げたものって意味らしいが、わたしに
とってはそうではなくて、思わずニンマリしちゃうような、微笑ましさ、可愛らしさ、ウキウキするようなところのある曲。
見えている限りの彼そのものだなあと思う。見ている限りの、という考えに、我ながら笑ってしまう。太一的
「人当たりのよさを支える痛みの経験値」を想定してなのだろう。有真くんは、どうなんだろう。
家に入って出来上がっていた夕食を並べるのを手伝っていると、拓実が食卓に現れた。
「アトリエに居たの?」
「帰って来て、アトリエに荷物置いてから来た。今、先生の弟に会ったよ」
「ああ、送ってくれたの」アトリエに荷物置いてから来たのなら、丁度通りですれ違うくらいか。
「おれのこと知らないと思ったから挨拶すべきか迷ってたら、むこうからしてきた。こんばんはーって、めっさ笑顔で」
「雨でお迎え来てくれたとき、2階から見てて、後であれ叔父さん?って聞かれたから。よく覚えてるな。今度
ちゃんと紹介するね。てか、もう何か話した?」
「いや、挨拶だけ」
「誰の話?」
「あ、おばあちゃんに言ってなかったね。ピアノの先生、弟が居てね、保育の専門学校の1年生なんだけど」
「へえ、弟さん。保育のってことは、保育士になりたい子なの?」
「そう。それでね、付き合うことにしたの、わたし」内緒にはしたくないし、さりげなく言ってみたが、どう来るかな。
「ええっ? あなたにカレシ?」笑顔だ。ほっとする。
「まあ、殆ど友達か、きょうだいみたいなんだけど」
「すごくかんじのいい子だよ。日南子と雰囲気の色が同じで」拓実が太鼓判を押してくれる。「保育の勉強も
がんばっているみたいだし」
「あらー、そりゃあよかったわ。今度うちに連れていらっしゃい」
「おれ、パネルシアター観たいから、またそういうのあったら呼んでくれな」おお、ふたりとも賛成ムード。祖父も来て
ごはんタイムになる。久しぶりの、全員でのごはんだ。
「日南子にカレシができたんですって。拓実も推薦の、いい子みたいよ」と祖母が祖父に早速伝える。
「ほう!」嬉しそう。
「心配してたのよね、友達や好きな人の話がさっぱり出ないから」…や、やっぱりね。「最近はお友達も居るみたい
だし、安心したわー。でも、拓実は寂しくなるわね」祖母はからかうように言う。
「べつに、カレシできたり嫁に行ったりは、はじめから想定内だから」拓実はすまして言う。
「カレシできたって、家族は大事にするからね」慌てて口を挟む。「むこうもそうだし」
「おまえは立派になったなあ」祖父が感心して言う。拓実も泣き真似をする。
そして気になった。ご両親の話って、聞いたことが無い。いらっしゃるのかな、それかもう亡くなっているのか。
きょうだいの話はしょっちゅうするのに。なんとなく、パネルシアターのお話の中身、保育士になりたがること、そのへん
から、死別しているんじゃないかと思われた。
9月の終わりに試演会があった。先生に合同発表会の講師仲間で試演会をやるから、出ないかと言われて
いたのだ、みんな音大卒の先生方でひとりお子ちゃまでひええ、っつかんじだった。都心のスタジオで、トップバッター
として、ショパンのエチュード、バッハの平均律、ベートーヴェンのソナタ、自作品を1曲ずつ弾く。超長い、すみま
せん。先生方はメモを取っていて、何かと思ったら感想をくださった。有難すぎる! 残りは聴いても帰ってもいいと
言われていたが、無論聴いていく。ピアノあり、楽器あり、声楽ありでハチャメチャたのしい、ためになる! 金森
先生も自作品だったが、きょうはヴィオラのための幻想曲、伴奏で出演されていた。千鶴が弾いていた楽器、ヴィ
オラ。泣き咽ぶような、低いラインのメロディー、ものすごい技巧。
片付けをして、最後に皆さんにお礼を言い、先生に感想とお礼を言い、先においとまする。多分先生方は反省
会とかあるだろうし。
思い立って池袋に出て、HMVに寄る。ヴィオラの曲を物色。試聴になっているのはヴァイオリンばかりで、聴け
ない。どうしようかなあ…と迷って、千鶴にメールしてみた。幸いすぐに返事が来る。
>私の好みになっちゃうけどね。ヒンデミットなんかはヴィオラの曲を書いてくれてるけどあんまり面白くはなくて、たぶん
日南子の好みでもないんじゃないかという癖がある。ブラームスなんかは好きだろうけど、クラリネットソナタをヴィオラ
ソナタとして演奏させたりして、現在でもよく取り上げらるけど、あの3つとも名曲であるヴァイオリンソナタを知って
しまっていると、なんだかイマイチ。ヴィオラは合奏向きで地味なので、あまり取り上げられた歴史が無い。但しヴィ
オラでの独奏を弾きたい人、聴きたい人はやはり大勢いるものだから、ヴァイオリンの曲をヴィオラで弾いたもの
なら沢山出ているし、好みだと思う。ヴァイオリンほど華やかではないけど、味わい深くて。プレイヤーはCDになって
いる人なら大体大丈夫、曲のお薦めは、バッハのパルティータやシャコンヌ、ヘンデルの組曲、テレマンのコンチェル
ト、パガニーニのカプリス等々…<
売り物を吟味して、
>やっぱり手堅く、バッハ。パルティータもシャコンヌも入ってるのあったから買う。ありがとう!<と返す。
駅に戻り電車を待っていると、
「小峯さん」と声をかけられた。金森先生だ。
「あれっ、もうお開きなんですか?」
「私は予定があって抜けて来たのですが、それが無くなってしまいましてね。まっすぐ帰ろうかと」
「そうですか」なんとなく、電車を一緒に待つ。「先生、ヴィオラの曲を買っちゃいました」ジャケットを見せる。
「いい趣味ですね。うちにもいくつかあるので、今度貸します」ちょっと嬉しそうな顔になった。
「いいんですか、ありがとうございます」電車が来て乗り込み、ドアの前に立つ。
「…レッスンでは努めて有真の話をしないようにしていましたが」そ、そう言えばバレてるんだった、バレた後最初の
レッスンで話題にならなかったから安心してしまっていた。
「も、もしかして、反対ですか?」
「まさか。お互いにいい影響を与え合っているので、寧ろ、今後ともお願いしますってことです。小峯さんが教室に
来てから有真、人との距離の取り方を解ってきた気がします。あれが金曜日はアルバイトを休んでいることは
わかっていました。この前驚いたのは、ふたりがもう知り合いで、しかも交際しているということで、いつかは、とおそらく
予測はしていました。小峯さんはあれを受け容れてくれると。人に気ばっかり遣って近くなれば傷つく、傷つける、
難しい子供でした。大きくなって、一定の距離を置いて踏み込まないことでやり過ごしてきたみたいですが、
ようやく、近くなれる人が現れたんです」
「…賑やかな職場から、ひとりの家に帰るんだと思っていた、そう言ってました」
「まさにそういう暮らしぶりでした、人当たりはいいんだけれど、決して踏み込まない、受け容れない、当たり障りの
無い生き方を貫くのかと思っていました」
「…先生、失礼ですけど、ご両親は…」
「健在ですよ」答えてから「でもそれを聞くのはなぜですか」と聞き返す。
「有真くんは、お兄さんお姉さんの話はするのに、ご両親の話はしないなあ、と。あと、パネルシアターの作品で、
両親と他界したこどもが出てきて」
「そうですか。…なんとなく、気付いてしまうのですね。知っていていただいたほうがいいかもしれません」先生は
窓の外を見て呟くようにおっしゃる。「あれは、血の繋がりだけで言えば、本当は私の従弟なんです。母の妹の
子供でしたが、父親はわかりません、母親は他界しました。それでうちで引き取りました。物心ついてからうちに
来たので、本人も知ってます。私たちは本当の家族と思っているし、そんな区別をした覚えもありませんが、それで
自分の居場所を確保するために気を遣うようになったのでしょう。幼稚園や低学年の頃は、私の身贔屓かもしれ
ませんが、友達にも無神経なのやら、有真の親切を利用しようと威張るのやら恵まれずに、よく喧嘩になって
先生を困らせていました。それで償いか、そういう子供を救うためにか、保育士になろうとしていますね」
「ご両親と仲は良いんですか」
「まあ、当たり障り無く。彼は私と姉を兄ちゃん姉ちゃんと呼びますが、その前に`いとこの´を感じてしまいます。
たぶんそのつもりで深入りをせず、あなたにもいとこの兄、姉として話すのでしょう。両親については、父さん母さんと
呼ぶけれど、きっとまだ伯父伯母。あまり話題にならないかもしれませんね。実際両親にそんなに面白いエピソー
ドはありませんし」
「途中は違いますけど、結果、わたしと同じです。わたしも公園デビューとかなかったらしいし、みんなと同世代の
母親が居ないから親子で友達の家に行き来したりしないで、高校3年生までなっちゃいましたので、祖母と叔父は
悪かったと言います。まあ、わたしは好きでひとりで居たんですがね。有真くんが現れて、やっと叔父とその仲間で
ない、同じ目線の人と話せるようになったんです。おとなと話すほうが楽じゃないですか、だから、同世代と向き合う
のは避けてしたんです。わたしは有真くんに救われたんですよ。あ、ただひとつ違いますよ、有真くん金曜日はアル
バイト削られるって言ってましたよ」
「あれはまたそんなふうに言って。シフト希望表、置きっぱなしのを見たんですが、いつも金曜日はバツでしたよ」
「えっ…」
「そうそう、喧嘩はよくないと気付いてからは、やりきれない気持ちを靴や自転車やキッチンやバスルームを泣き
ながら力任せに磨いて紛らわせたりしてたんですが、このところ磨いているときは鼻歌が出たりして。あと最近
気付いたんですが、小峯さんからのメールの着信音は、グリーンスリーブス、あなたはよく緑色の服を着てますよね」
「……」
「話し方とか仕種とか、時々小峯さんみたいなときもあるし」
「……」
「だから、今後とも宜しくお願いします」電車が駅に着く。駅を出て「私は本を買って行きます」と本屋さんに
向かおうとする先生の顔に空白ができた。そして苦笑する。視線のほうを見ると、スタバから有真くんと拓実が
出てきたところで、
わたしたちに気付き、ふたりして
「あれっ」と言う。
「今、先生たちの試演会に出していただいた帰りなんだ。ふたりは偶然会ったの?」
「おれが入って行ったら居たから、隣いいですかって言って…」拓実が少しバツが悪そうに説明。これは、先生
みたいにわたしの生い立ちを話したな。有真くんも察したらしく苦笑したが、
「拓実さんにフィナンシェごちそうになっちゃった」とだけ言う。
「それはすみません」
「いやいやあれくらい。日南子、まっすぐ帰るのか? おれは本屋に寄って行くから」
「あ、私もです」先生が言って、ふたりは連れ立って本屋に入る。「小峯さん、お疲れ様」
「ありがとうございました」
「あれはあのあと、おれたちを肴に珈琲かお酒を一杯いかがですか、だな」有真くんはふたりを見送る。「送るよ、
おれも帰る」拓実が本屋に行くと言ったのは、気を遣ったな。
「…なんか、へんなの」わたしは歩き出した有真くんに追い付いて、そして初めてこちらから手を握った。有真くんは
ちょっとびっくりして、そしてみるみる赤くなってから、しっかりと握り返してくれたりして。わたしもたぶん、真っ赤だと
思う。
先生との話は、敢えて話さない。拓実と話したことも、敢えて聞かない。有真くんも、月が真上に浮かんだ空を
見「秋は星も好きなのいっぱいあるけど、月がすごいんだよな。星は冬のほうがいいし。冬の大三角とか」とだけ
言った。
一緒に月を見上げながら考える。
両親が居なくて不幸だったことは何も無い。祖母たちが代わりを果たしてくれたし、拓実とその友達たちは欠け
換えが無い。新しい家族には感謝して大事に思っているに違いないけれども、足りなかったパズルのピースが
見つかるみたいに、有真くんと出逢った。有真くんも、そうなのかな。格別不幸ではなく、うまく回せている生活の
歯車の中で、昼のあかるい池に蛍が光るみたいな、静かな驚きで…?
わたしの頭には先生の幻想曲みたいな雰囲気の、知らないけれども懐かしいイメージを呼び醒ます曲が
流れた。
―――書き付けたい。これからきみと過ごして鳴る既製でない自分だけの曲を、あるがままに、溢れる限り。
了