小林幸生 2007
あめしずく・黄昏の夢のおはなし
小説家・石倉翠は、姉・藍の家の離れに住むことになる。藍の家によく招かれる那由多は、唯一の家族の兄・幾多が行方不明で
彼の借金を返すべく苦労していたが、翠が肩代わりをし、藍の家に住むことになる。幾多は新聞記者だったが外国でテロの取材を
していて何かの事件に巻き込まれ、記憶を失い日本に居た。彼の世話をしていた女性は、彼を亡き夫の賢児として扱い、丁重に
軟禁していたが、彼女が藍からの仕事の依頼で庭に出入りしたり、黙って外出した賢児が翠や那由多に会ったりして、真相が判る。
今度のクリスマス休暇はなゆちゃんが一緒だと思うと、たのしみでならない。軽いボストンバッグを持って、ニヤニヤしながら電車に
乗り込む。しかもうちに帰る前に、おばあちゃんの家に連れて行くのだ。ちょっとした小旅行。
車窓から景色を見送りながら、なゆちゃんを思い出す。
夏に帰省したら知らぬ間に実家に住んでいた、ふたつ歳上のおねえさん。童顔だから同じ歳くらいに感じるが、やはり性根は家庭
事情からいろいろ苦労していることもあり、寛容で落ち着いていて、おとなっぽいと思う。静かで善良で、秋の日差しみたいにわたしの
胸に温度を与え、適温を保つ、あったかい雰囲気。はじめは警戒心を見せないよう努めながらわたしに接し、そしてほっこりと笑って
くれた。一緒にお茶したり喋ったり、出掛けたり、黙って読書したり、みんなとごはんを食べたりする間、その温度は変わらなかった。
ひとりで眠るときに冷めてゆく胸のうちに気づいて、大きく息を吐くこともあった。彼女は那由多といい、億よりも兆よりも多い数で、母が
それを説明しながら紹介する。正反対のわたしの唯という名前を聞いてなゆちゃんは、
「あなたただひとりを大切に思って、つけた名前かな」と言った。時々閃光が走るようなことを言う。母が、叔父と叔母が色の名前
なのに、どうして色の名前をつけてくれなかったのかと卑屈になっていたが、そんなふうに救ってくれる。学校で会う茜、葵、紫音、萌を
羨むことが無くなった。
学校で友達と表面的にしか付き合えないわたしが、粘着してしまいそうななゆちゃん。まあ、普段は大した頻度でもないメールの
やりとりくらいだけど。
待ち合わせの六笠(むつかさ)駅に着き、なゆちゃんを探す。しかしなゆちゃんより前に、見覚えある姿を発見。ベンチに腰掛け、
改札を出て来る人の波を、目深に被った野球帽の下から無表情に見ているのは。
「あれっ、なんで翠くん?」
「おかえり」叔父だった。30歳には見えないその容姿を見て、唐突に思い出してしまった。そう言えば夏に帰省したときは、この人に
見た目似た人と付き合ってたんだっけ。すっかり忘れていた。
「なゆちゃんは?」
「御不浄」
「あーハイハイ、トイレね。で、なんで翠くん? まさか付き添いとか? 不要なんですけど!」大好きなのに、憎まれ口を叩いてしまう。
怒ったかな、と心配になって見ると、
「人形をね、届けてって頼まれたのね。だから一緒に行くけど、僕は今日のうちに帰るから」と淡々と言う。
「あ、新作? 後で見せてもらお」翠くんの足許に、大きな箱がある。
「通知票は預かって行くから」
「げっ、やめてよ、自分で持って行く!」
「はは、冗談だよ」…笑った。やっぱ、いいなあ、翠くんは。初恋とも言い切れないけど、確実にわたしは、この人を広い意味で好き
なのだ。というか、この感情は、なゆちゃんと居るときの気持ちに似ている。そうだ、なゆちゃんとこの人は、かなり似ているのだ。
「お待たせしました、おかえり、唯ちゃん」
「なゆちゃん!」思わずハグしてしまう。「会いたかったー!」
「僕を見つけたときと、だいぶ反応違うんですけど」翠くんが呆れている。
「翠くんにもハグしてあげよーか」
「いらん」立ち上がり、人形の箱を持って先を行く。してって言われてもできないけどさ。少し待ってから来たバスに乗り込む。「僕は
徹夜明けだから寝てく。着いたら起こしてね」と言ってふたり掛けの席に座り、隣には箱を置いてしまう。わたしとなゆちゃんは、一番
後ろに広々と座ることにする。バスには、わたしたち3人と赤ちゃんを連れた女性しか居なかった。
「まさか此処へ来るまでも、なゆちゃんほったらかして寝てたの?」
「ううん、気を遣って起きててくれた」ほっとするが、それは単になゆちゃんとの貴重な時間を大事にしただけか? と勘繰る。夏に
会ったときは、なんとなく翠くんはなゆちゃんを好き? みたいに思ったので。
「…翠くんとどんな話するの?」ちょっと気になって聞く。
「兄の話が殆ど…あ、今回は兄も居るの、ごめんね」
「なんで謝るの?」
「だって、唯ちゃんの家なのに」
「わたしの、ていうかおかあさんのね。だし、いいんじゃない、賑やかで」本当は少し不安だ。知らない男の人が同居なんて。でも
なゆちゃんのおにいちゃんなら、いい人に決まっている。「でもほんと、見つかってよかったねえ」
「ありがとう」そしてまた、ほっこりと笑う。なんかこっちも嬉しくなる。
バスが走り出してから、悪戯心が起こって
「寝顔見てやろ」と前のほうに移動する。
「えー?」なゆちゃんはびっくりしている。翠くんの席の通路挟んで隣に座るが、予想したのか、野球帽を顔にすっぽり被せて眠って
おり、顔は見えなかった。
母の弟。あまり喋らないけれども沈黙も楽しむような人で、パソコンの前だと饒舌になる。実家に居た頃は読んだこともなかった
この人の本は、わたしの寮の部屋には全部ある。どれもこれも、翠くんだなあ、てかんじだ。わたしが寮に入ってからうちの離れに引っ
越して来たので、それまでは頻繁に会っていたわけじゃないけれど、ずっと好ましく思っていて、でも恋をしていたという確信にまでは
至らず、でもわたしにとっては男性の基準であり、これ以上であってもこれ以下であってもだめらしい。いつでも周囲の男子たちをこの
人と比べてしまう。そしてたいてい、自然消滅。最近まで付き合っていた相手も、結局翠くんに似ていた。夏はまあ、その人と付き
合っていたというのもあるけど、その頃翠くんがなゆちゃんに恋しているんじゃないかと思っていた。それでも失恋の痛みを感じないの
だから、恋ではないのだろう。なゆちゃんは翠くんに対しては感謝ばかりで恋愛感情無さそうで、可哀想になっちゃうのみ。
なゆちゃんにゼスチャーで見えないと説明すると、また笑顔。
あー幸せ。
窓からの陽を受けてキラキラしている翠くんの髪を見て、一番後ろの席でわたしと自分の荷物に挟まれちょこんと座るなゆちゃんと
笑い合って。向かう先は大好きなおじいちゃんおばあちゃんの家。そのあとも大好きな実家。うちが好きすぎてこりゃいかんと出たという
のに、寮になんか帰りたくなくなっちゃう。
で、唐突に気付く。そうなんだ、わたしは'なんとなく'が好きなのだ。だから付き合った彼のこともなんとなくしか好きになれず、フラれても
傷つかないし、さっきまで忘れていたくらいなのだ。
後ろの席には戻らずに、その席で明るい窓の外に目を遣る。淡い赤と黄の葉っぱを何枚かぶら下げただけの桜の樹に縁取られた
道を、バスは進んで行く。桜並木を抜け、団地、スーパーがあって、そして目的地の商店街。
石倉珈琲と看板があるこの珈琲豆の店が、おじいちゃんおばあちゃんのお店で、1階に豆を売り端のほうに珈琲を飲めるカウンターが
あり、2階3階が住居になっている。翠くんが扉を開けて
「ただいま」と言うと、珈琲の香りが漂う。おばあちゃんが
「おかえりっ! あらっ、あなたが那由多ちゃん? はじめまして。唯ちゃん、よく来たわね」と元気に言い、おじいちゃんは奥でにこにこ
して手を振る。「まず荷物起きに3階へ行きなさい、翠、案内してあげて。
「藍の部屋でいいの?」
「とりあえずね。後で、ひとりは真白の部屋に移ってもいいからね」
「同じ部屋がいい!」わたしは即答して、翠くんに続いて階段を上がる。うちの赤毛のアンのビデオに出てきたみたいな家とだいぶ違うし
古いけど、清潔そうでかなり居心地がいい。なゆちゃんに「あ、寝るときは別がいい?」と聞くと、
「折角だから一緒に寝ようか」と笑顔。やったー、夜は語り合うぞ!
翠くんはほんとにすぐ帰るのか、荷物を、それから人形の箱を2階の踊場に置いて、そのまま上に行き、3つ並んだドアの右側のを
開けてくれる。
「唯は勝手知ったるだよな、ハンガーとか出してやってね」と入らずに左のドアへ消える。見ていたらすぐに出て来て、わたしに「やっぱ
此処にあった、探してたんだよ」と何かの本を見せた。翠くんの部屋も前に見せてもらったが、持ち出したのかほぼ何も無かったのに、
本はあったんだ。心を読むように
「押し入れの段ボールは本がいっぱいなんだよね、暇だったら読んでいいよ。て、暇なんか無いか」と笑う。
「わたしくらいのときに読んだ本?」
「小学生の頃から大学まで。気に入ってるのは持ってっちゃったから、いいの無いかもしれないけど」
「へえ、今回でなくとも借りるかも」
「どうぞ」
「…わたしが本読むのか疑問に思ってるでしょ」
「いや? 夏休みにふたりが庭で読んでたの知ってるし」
「石倉翠なんて、全部持ってるんだよ」
「ええっ?!」
「寮にあるの。わたしは『東方水園』が好き。漢文の読み下し文を読んでる気分だった」
「そ、そう、それはどうも…」真っ赤になって階段を降りて行く。わたしが部屋に入らないので、なゆちゃんもドアの前に立ちんぼだった。
「あーごめんね、コートかけよう」ハンガーを渡す。「翠くんの本、読んだことある? 今回は持って来なかったけど、春休みに持って
来ようか?」
「2冊は持ってるの。1ケ月に1冊買うことにしてて。わたしも翠さんには言ってないけど」
「あ、そうなんだ。じゃあ揃えたいかな」
「そうだねえ」曖昧に笑う。なんだ、ちょっとは翠くんに興味あるんだ。よかったよかった。
「唯ちゃん、なゆちゃん、2階へいらっしゃい、おやつにしましょう」おばあちゃんが下から呼ぶ。
「はーい、ねえねえ、あれ作ってくれた?」
「勿論、あれを作りましたよ」あれとは。おばあちゃんのおやつはどれも美味しいけど、特に好きなのがあるのだ。
2階の居間の卓袱台に、てんこ盛りになっているのは! まさに! 生地に苺ジャムを練り込んでシマシマになっているドーナッツ!
きょうはチョコバージョンもある。
おじいちゃんに店番をお願いして上がって来てくれたおばあちゃんは、勿論珈琲を淹れて、なゆちゃんにはカフェオレにするか訊いて、
全員ブラックになる。ドーナッツにこれがいいんだよねーなどと言いながら、ぱくぱく食べてしまう。翠くんはチョコのを1コ食べ終えて珈琲を
飲み干すと、席を立った。
「じゃあ僕はこれで。ごちそうさま」流しに食器を置くと、脇にあったコートと鞄を持って下へ行ってしまう。
「気をつけてねー」あっさりしているなあ。おばあちゃんは慣れているのか気にせず、話を続けた。喋ったり人形を見せてもらったりして、
おばあちゃんが仕事に戻ってからは、なゆちゃんと母の置きっぱなしのアルバムを見たりして、夕食の時間になった。あれだけおやつを
食べたからおなかが空いていなかったが、おいしいので食べてしまう。おなかパンパンだ。お店は閉めて来たのでおじいちゃんも一緒で、
夜は4人でトランプをして、明日の予定を立ててから、順番にお風呂に入って母の部屋へ。
わたしの後から入ったなゆちゃんが、パジャマになって来たのは10時だった。
「あ、おふとんありがとう」並べて敷いておいた。「はー、なんか、落ち着くね此処は」湯冷めしないようふとんに入っていたので、「電気
もう消す?」と聞いてきた。
「うん、消して、寝ながら話そう。眠くなったらもう寝ようと言うか、返事が無くなったら寝る、でいい?」
「ん、そうしよう」笑う。
「…実は最近、カレシにフラれてね」これを話そうなんて微塵も思ってなかったのに、出て来たのがこの話だった。
「そうなの?」
「それが全然傷ついてなくて…こんなんで大丈夫かなあ、と思うわけ」
「悩みはそっちなんだ」笑っている。
「寮の近くに住んでる大学生でね、いぬを散歩させてて、後で聞いたらおかあさん居ないらしくて小学生の頃から家事をしてるらしいん
だけど、スーパーで買い物するときは前に繋いでるわけ。本人より先にいぬと仲良くなって、夏休みの少し前に付き合うことになったん
だけど、11月くらいから彼が忙しくなってね、12月に入ってから正直に言うわけよ。幼なじみの女の子が、もともと体が弱くて、秋くらい
からますます酷くなっちゃって入院したんだって。お見舞いが忙しかったわけよ。きみと遊びに行ったりする心の余裕が無い、きみと彼女を
比べることはできないけどって。ほっといても大丈夫そうなほうを捨てるんだ? わたしが病弱ならよかったの? とか、思わなかったわけ
じゃないけど、なんかすとんと納得しちゃってさ。ふうんって別れた」
「…ちょっと話逸れるけど、唯ちゃんは翠さんが好きなんだと思ってたから、カレシが居たとは、意外」
「うん、翠くんに似てたけどね」笑う。「まあ、翠くんは基本ていうか、基準? 男子を見るときは、自然と比べてるよね」
「あ、わかる。わたし、兄がそんなかんじ」
「ふたりきりの家族だったんだっけ、そりゃあ余計にかな」
「うん。育ての親になるわけじゃない、やっぱり頼りになるし、やさしいしね。テロの取材しててなんか陥れられてね、借金させられて
ちょっとわたしが酷い目に遭っちゃったけど、まあ正統な理由だったんだろうし、兄の所為とは思えないんだ。あ、さっきのお人形、
兄がモデルなんだよ」
「へっ、そうなの?」女の子人形だったぞ? 今流行の女の子っぽい男なのか?「似てる?」
「全然」声が笑っている。「藍さんも、全然違っちゃったって言ってる」そうなんだ、まあ、翠くんもモデルにしてもいいくらい中性的だけど
ね。
「…ねえ、翠くんはどう?」紛れて聞いてみる。
「翠さん……」暫く沈黙してから、「わたしも大好きだけど…なんていうか、おとなだよね」とようやく言う。これは駄目ってこと?
横を見るが、暗くてよく見えない。わたしが翠くんに恋してないと判ったから、これから変わるかな。「翠さんとわたし、唯ちゃんと兄が
うまくいったら、ずうっとこのままで居られるかもね。なんて、安直すぎるかー」お茶らけた声が返ってきた。
「会ってもいないからなんとも言えないけど、確かに同感だわ」寝返りを打って、小さく笑う。
「でも、わたしもさ、高校生のとき、つまんないってフラれて、そうなんだって納得した。たぶんちゃんと好きだったんだろうと自分では思う
けど、いいんじゃない、恋愛にのめりこまないとか、しないとかの人が居たって」
「確かに。まあ、バランスよく好き合える人も居るかもしれないしね。どうしてもすぐ結婚したいわけじゃないし、いいやいいや、やっぱり」
「うん、そうだよ」声が笑っている。それからまだまだ話をして、わたしのほうが先に意識が無くなった。
翌日は祖父母はほうっておいてくれてごはんのときだけ会い、なゆちゃんとふたりで喋ったり、わたしは宿題をしたりなゆちゃんは本を
読んだりした。寮や学校と違って、此処や母の家はなんだか時間の流れが違う気がする。たのしいのも何か内面的で、きゃらきゃらして
いない。確実に、母は祖母の家の雰囲気を作ってしまった。わたしはそれが好きで、だから学校に馴染めない。べつにいじめも派閥も
無いし特にクラスがうるさいわけでもないんだけど、なんとなく落ち着かない。クラスメイトたちみたいに、先生や交歓会で会う男子に
盛り上がれない。格好つけてるわけじゃない。なんだかだめなんだ。翠くん云々以前の問題で、比較するどころかちっともそういう目で
見られない。やっとそうかなって思えた大学生には、すぐフラれるし傷つかないし。なゆちゃんには「いいやいいや」と言ったけれど、やはり
そういう自分に凹む。
その翌日はお店が定休の曜日だったので、おばあちゃんが近所の菜園とパン工房を見せに連れ出してくれた。菜園はわたしも
小学生の頃一度見させてもらったが、なかなか見せてくれないらしいパン屋さんが承諾してくれたのは、おじいちゃんがお店のカウン
ターで食べる用に、此処のパンを少し入荷し始めたからだった。なゆちゃんがうちに越して来たときに通勤の都合上コンビニを辞めて
近くのパン屋さんに切り換え、焼いたり売ったりしているという話から、パン工房を見せる計画に至ったのだそう。
「社会科見学みたーい!」わたしは喜んで、髪が入らないようにかぶらされる帽子を受け取る。
弟子入りしたばかりの中卒だという女の子と、教えているおじさんのスピードと出来映えはまるで違う。おじさんの手付きには見とれて
しまう。でも女の子もすごい。15歳で、1日5種×60コのパンと20本の食パンを成形し焼いているのだそうな。おひるはその子を
誘って4人で食べ、そういう話を聞いたのだ。その子は家が大嫌いで出て来た。そういう話を聞いていたら、わたしの寮生活は贅沢
なのかなと思ってしまう。
それで、菜園を見ているときに、なんとなくおばあちゃんに胸のうちを話した。うちが好きすぎるという贅沢の罪悪感はなゆちゃんに
対してもで、なゆちゃんが少し先へ行ったときに話し出した。結構すぐに、なゆちゃんはわたしとおばあちゃんが話していることに気付いた
けれど、流石はなゆちゃん、邪魔をしないようにだろう、こちらから離れてオーナーの話を聞いたり、野菜を見たりしてくれている。
「あらっ、おかしい。おかあさんとおんなじね」間髪置かずおばあちゃんは言い、高らかに笑った。
「え、何が?」
「大学からだけど、独り暮らしになるようなところを選んだ理由は、うちを離れたいからなんて言ってね。そりゃみんなびっくりしたのよ。
そんなに嫌われてたんだ!って。でも続いた言葉は、楽すぎて駄目になる、風呂に浸かってるみたいな幸せはだめなんだって」
「へーえ」
「それから泊まりには来るけど、長期で帰ってきたりしないのよね。あなたを生むときなんて、甘えてくれてもよかったのに」なんと。同じこと
考えてたんだ。なんだか今すぐにでも母と話したかった。人形を始めた理由とかも、聞きたいことが山程ある。
「…翠くんと真白ちゃんは、何か言って出て行った? あ、真白ちゃんは結婚するまで此処に居たんだっけ」
「そうそう。真白は流石末っ子よね。大好きって言っちゃうし、離れようともしない。一回理興くんとふたり暮らししたけど、すぐお姉ちゃん
とこに住んじゃうし」
「確かに!」
「翠はなんにも言わないけどね。真白の、学校も家も大好き!てのとは根本的に質が違う。翠は学校、つまんなそうに行ったって
皆勤賞だし」
「らしい〜」ゲラゲラ笑ってしまう。
「で、今藍の家の離れに住んでるって、絶妙の距離感よね。中間子ってかんじ」おばあちゃんはけれども、大事そうに話す。「あなたは
ひとりっ子だから、下にいるのとはまた違うけど長女じゃない? 藍みたいなとこ、たくさんあるわね。まあその前に親子だからなのかしら
ね」
「うん、同じこと考えてたとは、びっくりした」
「あなたを送り出したときは、満足してたんじゃないかしら。まあ、外の世界も経験して、たまにはうんと甘えに帰りなさいよ。おかあさんは
解ってるから、安心してさ」
「うん」
「それにしても、あの子はいい子ね」なゆちゃんのほうを示し、静かに言う。「しっかりしてる。謙虚で気を遣えて、質素で飾り気無くて。
どんなふうに育てられたのかしら」
「そうだよねー」お兄ちゃんが育てたって知っているのかな、それとも普通におかあさんとかを考えてる? わたしは敢えては言わずに、
なゆちゃんの後ろ姿を見つめる。また一緒に歩いて、たくさん喋る。無意識に、手なんか繋いじゃったりして。
もう1日居て、なゆちゃんとわたしは母の家へ。おじいちゃんとおばあちゃんはお正月にうちに来るから、少しのお別れ。バスと電車で、
うちの最寄り駅へ。昨日の晩、翠くんにメールして迎えに来てと言ったが、返事が無かった。無理なのか。でもいつもちゃんと返事
くれるのにな。となゆちゃんに話しながら、駅へ降り立つ。
「あれっ」なゆちゃんが声を上げる。「翠さんでなく、幾くんだ」
「誰、イクくんて」目の前のベンチに、この前の翠くんみたいに野球帽を被ってこちらを見ていた男性が、立ち上がる。
「おっかえりー」そしてわたしに「初めまして、臼倉幾多です」と名乗った。
「兄だよ」なゆちゃんが付け足し、ようやっと繋がる。
「あー!」
「皆さんにはお世話になっちゃって」
「ど、どーも」びっくりした。元新聞記者、翠くんじゃないけど文を書いて、今はホテルマン、きっちり礼儀正しいイメージ、だからもっと
なよっとしてる人を想像した。しかも似てないとは言え、女の子人形のモデルだ。なのに目の前にいるのは。きょうりゅう、みたいだった。
なゆちゃんに目鼻は似てなくもないけど、なにしろがっしりしているのだ。山男風なファッションだし。
「翠さんに言われて、来てみた」
「お休みだったの?」
「うん」なゆちゃんと仲良く話し始め、すんごい優しい目になる。うお、いきなり入っていけないぞこれは。と思っていると、幾多さんは
こちらをぐるりと向いて、
「あ、荷物持ちますよ」とわたしのボストンバッグを持ち上げた。と思ったら、ダダダッと走り去ってしまう!
「え、あ、ちょっ…」慌てると、柱の影から
「ごめん、ブラックだった?」と苦笑して出て来る。
「またやってる」なゆちゃんは呆れたふうに言って、ゆっくりと歩き出す。
「えっと…」ジョークか…。いくつだよこの人。
そのまま鞄を持ってくれて、先を歩き出す。家までの道は、幾多さんが先を行き、後ろをなゆちゃんとふたりで歩く。時々話に入って
くる幾多さんは、絶妙に面白い…。
向こうからトランクを転がした、白いダウンの女性が歩いて来る。
「あっ」幾多さんが声を上げ、「こんにちは」と言う。
「…どうも」幾多さんは後ろ姿だから表情は見えないが、女性のほうは硬い表情で、にこりともしない。
「旅行ですか?」
「いえ、イギリスにガーデニングの勉強をしに。もう此処には帰らないの」
「そうなんですか。…お元気で」恋愛経験乏しいわたしにも、何かあったなとわかるやりとり。何も言わずに行ってしまう女性を見送り、
振り返ったがすぐにわたしの視線に気付き、
「記憶無かったときに、世話してくれた人」と指差した。なゆちゃんは、無言で幾多さんを見てる。「じゃあ、行こっか」見られてるからか、
にっこりする。
辛いくせに、笑うんだ…なぜかちょっとむかっと来た。なんで笑うのよ、余計辛いじゃない。
なゆちゃんが気に行っていると話していた大きな樹のある家の前を通ったとき、雨が降り出した。結構な降りになる。
「おわ、傘持ってるか?」わたしたちは鞄を探る。「いや、もうまずい、走ろう!」わたしたちの背中を押して、走り出した。
「わ、待って」なゆちゃんがわたしに行こうと合図して走り出す。わたしも慌てて追いかける。
背中を押されたとき、なんだか涙が出そうになった。さっきの女性とはもう会えないかもしれない。辛いのに、こんなに気を遣って。
可哀想なのもあるけど、この不快感は。翠くんとは似ても似つかない、優しさの示し方も全然違う。なのになんだか。
…なんだかなんだよ。
3人、既にびしょびしょだ。先頭で時々振り返るびしょ濡れの笑顔を追いかけているわたしたちも、手遅れなくらい濡れている。
なんだか可笑しくなり、3人で笑いながら走った。走って、母の待っている家へ向かう。話したいことがいっぱいあった。うちが大好きな
こと。同じ気持ちで離れたこと。それから。と、幾多さんと目が合って考える。
それから、今確信したばかりの恋のことも。
了