リアリティ 


                                                   小林幸生 2008

 

 

・1・

 

 街路樹の間を通り抜けて、バスは駅に向かう。わたしは窓から手元の本に目を戻して、続きを読み始める。

「やだ、ソレほんとに送ったの?」

 頭のてっぺんのほうから、突然甲高い声が耳に届いた。声のほうを見ると、女子高生が前のほうを陣取って、

ふたりが座り、周りを3人で取り囲んでいた。わたしは本を読み続けるふりをして、というか、読み続けたかったが

彼女たちの声が押し寄せて来て、それを聞くしかないみたいなかんじになって聞いていた。

「だってほんとのことなんて、絶対言えないじゃん」

「まあねえ…」

「だって、マジうざい。8月にカレシと浴衣で花火行ったって話するから、社交辞令で写メ撮ったんなら送ってって

言ったら、ほんとに送って来るんだよ、しかもカレシとツーショ。見たくないってえの」

「それは言えないわな」

「だから、超羨ましい〜って送っておいた」

「ウソツキー!」みんなでケラケラ笑っている。

 性格悪いな、と思いつつ、ついさっきわたしも同じようなことをやって来たことを考え苦笑した。

 まあ、そうやって社会は成り立っているのだ。この女子高生は正しい。そう思っちゃうもんは仕方ないし、わざわざ

波風立てる必要など無い。

 バスが大木原(おおきはら)駅前で停まり、彼女たちもわたしも降りた。そのままマックへ入る彼女たちを追い越し

て、駅の中に入る。ほんとうは、こうやって歩いているときも本を読みたいのだけれど、一度階段から落ちそうになって

から流石に我慢している。続きが気になりつつ裏から駅ビルに入り、ロッカーに荷物を置き、指定のエプロンをつけ

る。

「あ、おはようございます!」休憩中の隣の雑貨店のおねえさんとトイレで会い、挨拶を交わす。明らかに年上だし

前からお隣で働いている人だし、わたしはちょっと後輩モードを作って「今日も最後までなんですか?」と聞いたり

する。

「そうなの、どっちが早く金庫に着くか競争ね!」と、おねえさんはふざけて言い、先にお店に戻っていく。わたしも

アルバイト先の本屋さんに入る。既に働いていた社員さんや上がるアルバイトさんたちに挨拶してから、お店を

一巡してレジに入った。

「あ、新刊が平積みになってる。どんなの出たんだろ」遠目に店先を見て、お客さんがレジに持って来るその新刊

やらほかの品物やらをチェックして、また次の読書計画を立ててしまう。殆どお客さんの目を見ずに、本ばかり見て

いる。読めなくても、たのしくて仕方がない。わたしは本が大好きだ―――。

 閉店間際に、さっきの女子高生たちが店内に入って来た。いや、似ているだけで違うかもしれない。どれもこれも

同じに見えてしまう。それで、さっきの会話を思い出してしまう。

「いや、正しくはない。それを友達との話題にした時点で、あの子は間違ってしまった」 

 エラソーにそう批判しながら、立ち読みをする彼女たちをちょっと見てから目を逸らし、レジ点検の用意をする。

アルバイトをして、生活や勉強に関わること以外は自分で負担しようと思ったのは、本の中の好ましい人物が

そうしていたからだった。疚しい感情が湧き上がろうと排他的な気分になろうと、周りとうまくやっていこうと思ったのも

そう。いじめに遭わないようにうまく立ち回るコツを教えてくれたのも本。わたしは読んだことでできていると言っても

過言では無い人間。

 但し勉強の内容や、アルバイトのレジ締めの方法などは本には出ていない。そこは登場人物以外から学ばな

ければいけなかった。そういう意味でも、わたしは本の外側に居る自覚があったし、また本の中の人に決して

出逢えないということも理解していた。

 閉店の音楽が鳴り、女子高生たちが慌ただしく雑誌を買って出て行き、何人かが実用書を吟味しつつ決まら

なかったのかそのまま出て行って、お店が閉まった。とりあえずシャッターを下ろし、中の片づけが始まる、わたしは

レジ担当なので、そのまま金種確認に突入。無事計算が合い、精算業務をして、もうひとつの既に閉めたレジの

お金と今のレジのお金の納金バッグ、そして安全点検表を持って夜間金庫へ。処理して隣の防災センターへ行く

と、

「ふふふ、勝ったー」と隣のおねえさんが点検表を出しながら言う。

「うわ、早っ!」大袈裟に驚いて見せて、わたしも点検表を出し守衛さんに「おつかれさまでした」と言い、一緒に

店舗に戻った。話すことは、いろいろ。1階にできたアイスクリーム屋さんのこと、休憩のときに行ったパスタ屋さんの

こと、変わったお客さんのこと。わたしはこの人をよく知らない。そんなに突っ込んだ質問はしない。セミロングの髪を

おろしたり上げたり日々変えながら、淡い色の服を着て濃い緑のお店のエプロンをつけ、雑貨を売っている。マニ

キュアはしていない。化粧はナチュラル。きっと派手なものはきらい。地味系だが美人だ。ここから私鉄で3駅目の

ところから通っている社員さんで、この4月に大きなターミナル駅のデパートの店舗から異動になって、ここに来た。

勤務時間はシフトでまちまち。それくらい。実は名前も、いつも名札を見てしまう。すぐ忘れてしまうのだ。外で会っ

たら判るだろうか。わたしのつきあいの範囲は狭いけれど、本の内容と並行してリアルの世界があるので、必要

最小限しか人の顔と名前を覚えていない。

 お店に戻って来て、おねえさんは自分の店のほうへ入って行く。後姿を見送り、すてきな人なんだよね。きっと、

小さい頃からみんなに可愛がられて、たのしい子供時代を過ごして、そのまんま大人になったんだろうな。ムカつく

こととかあってもきっと、寝たら忘れちゃうようなことくらいで。

 勝手にそんなことを考えながら自分も店に戻り、金庫の鍵を返して社員さんより先に失敬する。

 無事今日も終わった。4時間働いたから、3600円。支出は、お昼に800円のみ。よし、黒字だ!

 

 部屋の中で雨音を聴きながら本を読むのは大好きだけれど、出掛けるとなると微妙だ。

さらさらと振る雨を、傘をささないで全身で受け止めていいのなら好きだけど、両親の家に住んでいてそれは

だめに決まっている。傘を忘れたときにそれをやっているところを迎えに来た母に見られ、ひどく怒られた。しかも

今日は、さらさら、どころではない。夏みたいに裸足でサンダルで出掛けられる気候でもないし。

 小降りになったところを見計らって、早めにうちを出る。早く着いたら本を読んでいればよい。電車の中でも、

勿論読書。けれどもこれがうっかり、昨日内容予測しないで気分で買った本がすごく泣けちゃうもので、電車の中

だというのにボロボロと泣いてしまった。慌てて本を鞄にしまって、涙を落ち着かせ、大木原で降りる。

 雑踏でだれかと体当たりしたら、また涙が出て来てしまった。

「…大丈夫ですか?」

「えっ、あっ、これはー…」慌てて涙を拭い相手を見ると、同じ年くらいの男だったので警戒して逃げ出してしまった。

あー最悪、泣き顔なんて、家族にだって見られたくない。

 駅ビルのトイレに駆け込んで顔を洗う。幸いそんなひどい顔ではなく、鼻が赤くなっているだけだった。ふう。気を

取り直して、別の軽そうな本も買っていたのでそれを読みに通路のベンチに行く。そして時間が来たのでバイトへ。

今日は、品出し、品揃え、レジ補助係だった。台車に乗っている新着の段ボール箱のほうへ歩いて行く時、隣の

雑貨屋さんからおねえさんが顔を出した。

「あ、来た来た。みのりちゃん、大丈夫?」

「おはようございます。大丈夫って?」

「うちの弟が、みのりちゃんが泣いてるの見たって言うから」

「は?」

「自分で聞いたら? 弟だってわかれば怪しくないから逃げないでしょ」

「あ!」おねえさんの後方数メートル先に立っていたのは、さっきぶつかった人だった。

顔は覚えていないが、グレイのパーカーが同じだ。急に話をふられて、バツが悪そうな顔だ。「あの、あれは実は

読んでいた本がー」慌ててわたしは両手をばたばたと振って否定した。

「ほら、こっち来なさいよ」手を引かれてやっとこちらへ来た。

「ならいいんだけど…」ボソボソと言う。

「…あの、なんでぶつかったのがわたしだって…」

「ここの防災センターで働いてるのよ」

「へー、窓口にも居ますか? 会ったことあるかもしれませんね」ちょっと普通のモードに戻って話せた。

「あるもある。水曜日、わたしとあそこで会って話してたとき、窓口だったよ」

「なら紹介してくださいよ!」苦笑して、それからまじまじと弟さんを見るけれども、てんで見覚えがない。おねえ

さんが地味ながらもすてきな人なのに、弟は地味地味で特徴が無いのだ。これは覚えない。

「まああんまり同じ職場…建物だけだけど、

同じところできょうだいで働いてるってのも公表してないからさ。さっき本屋さんの前で私服でウロウロしてるから、どう

したの?って聞いたら、マジ驚いて、喋ってると思ったら隣だったのか!なんて言うのよ。わたしなーんにも知らなかっ

たんだけど、それにみのりちゃんも気づいてなかったみたいだけど、ふたり、中学校のクラスメイトなんだって」

「ええー?!」店頭ででっかい声を出してしまう。 

「だからヒロマサは知ってたんだって。窓口で声をかけようと思うと、いつもわたしが話しかけちゃうって」

「ええと」おねえさんの名札を確認。「高宮(たかみや)ヒロマサくん?」やばい、全然覚えてない。

「…覚えてないでしょ」まあそうだろうねと

いった口調で、本人。しかし。

「…あれ、高宮って…ちょっと待って、ヒロマサってどんな字?」

「寛大」

「じゃあきっとそうだ! カンタだと思ってた、太いって字で」

「知ってたの?」おねえさんが意外そうにこちらを覗きこむ。

「はい。3年生とき、6組の図書委員だったでしょう? わたしもだから」

「同じクラスの同じ委員?」

「あ、すみません、わたしは4組の図書委員でした」そして1組の委員だった、2年生のとき同級だったカコの初恋の

人だ。相談を受けたんだ。彼女の口から、高宮って名前を何度も聞いたんだった。

「図書委員なんてやってたんだ、あんたが。意外! みのりちゃんは想像通り」

 そのときも、なんだか印象の無い子だなあと思って、なんで彼女が好きになったのか理解できなかった。そして

大して協力もしない内に彼女は別の男子に告白されてつきあい始めたので、相談も終わりになった。彼女の口

から出て来るのは、ノリくんて名前に変わった。そのうちに、高宮の顔も何も忘れてしまった、たぶん委員会では

毎回会っていたんだろうけど。

「平尾(ひらお)は今、大学生? これが本職ではないよね」急に話し出したのでちょっとびっくりした。体つきは華奢

だけれど、声は低くてもっと大柄のように聞こえた。

「うん、これはアルバイト」

「ねえ、今わたしたちは仕事中だからさ」おねえさんがうちの店内を気にして見て、話を遮った。「…みのりちゃんは

最後まで?」

「はい」

「待ってるから一緒に帰らない? もしよければごはんでも。急に行ったらおうちの人困るかな。帰るだけでも。

あんた質問はそのときにしなさいよ」

「7時間も待ってろってのかよ」まだ2時で、お店が閉まるのは9時なのだ。

「あ、今日って夜勤?」

「いや、夜勤明け」

「じゃあ一回寝てきなさいよ。わたしもラストまでだから」

「待ってるからって…自分じゃないのかよ」

「いや、たいてい金庫に行くのはわたしが勝つからね!」トクイ気に言うおねえさんを見て、呆れて笑っている弟。

なんかいいなあ、きょうだいって。「ごはんは無理かな」

「連絡すれば大丈夫です、よくあることですから」苦笑してみせて、おねえさんとわたしはロッカー室で待ち合わせて

仕事に戻る。

「勝手に約束しやがって」という弟の声も聞こえて来たが、まあいい。彼がドタキャンしたって構わない。おねえさんと

約束したことが、自分で思っていた以上に嬉しかった。

 その日、お店ではちょっとトラブルがあった。5時から来る筈の高校生バイトくんが、無断欠勤した。5時に上がる

主婦のパートさんが帰れなくて怒っていたら、6時上がりの社員さんがラストまで居てくれることになったので無事

解決したけれど、そのパートさんが、普段では考えられないような勢いで怒ったので、ちょっとしたトラブルになったの

だ。何もあんなに怒らなくてもなあ。てか、無断欠勤て。ケイタイは通じないらしく、単に忘れているだけかもしれない

けど、そのへんはきっちりやってほしい。まあ、間違えは誰にでもあるから仕方無いか…。

 その来なかった高校生は、レジに一緒に入るとやたら話しかけて来るので、私語厳禁だからどうしたものかと

思ったけれど、社員さんはみな好意的で「仲いいね」としか言われず、叱られなかった。まあ此処だけでの仲、

しかもわたしも本の登場人物から学んだマニュアル対応だったけれどもね。

「うちの店の番号、着信に残るだろうから、そのうち電話してくるだろ」代わってくれた社員さんは、のんびり構えて

いたが、閉店まで電話は無かった。「こりゃ明日は出勤かなあ」休みになっていた別の社員さんがちょっとイラっと

したように言っていた。

 やっぱり金庫へ行くのは少し負けて、雑貨屋のおねえさんと防災センターで会った後一度それぞれのお店へ

戻ってから、ロッカーで再会した。

「面倒臭くないや」急な用事とかは面倒に思ってしまうわたしが、おねえさんとの約束はなんだか嬉しい。弟も一緒

なのが嬉しいのかもと自問自答してみるが、居なくても結構、という結論に達し、その疑問は却下。うちに電話して

許可を得ると、意気揚々と帰り支度をした。

 カンタは一度家に帰って5時間ほど寝てから戻って来て、待ち合わせの改札口で待っていた。パーカーが緑色に

なっている。

「夕ごはん、大丈夫だって。駅ビル戻る? 上は11時までやってるし。それか、外に出る? 電車に乗って行っ

ちゃうとお店閉まっちゃうかな」おねえさんがふたりを交互に見ながら言う。

「任せた」カンタはつまらなそうだ。

「高宮さんいつもおひる、中で食べてるんでしょう? 外にしませんか? どこか行ってみたいところありますか?」

「そうだねえ。外はよく知らないんだけど、ここからバスで通学しているみのりちゃんはオススメ知ってる?」

「マックくらいしか入ったことない…」

「まあ行ってみて決めよう。ヒロマサ、食べたいの希望無いの?」

「辛くなけりゃなんでも」

「高宮、辛いの苦手なんだ」

「…みのりちゃん、ふたりとも名前でいいよ。わたしはケイコね」

「おお」名前許可が出た、一気にお近づきモードだ。「…じゃあ、ケイコさん。字はどんなのなんですか?」

「蛍の子」歩きながら話す。

「えっ、もしや夏生まれ? 意外!」

「ううん、3月なの。卒業式シーズンで、蛍の光。母はヒロにヒカルって名前つけようとしたんだけど、蛍光灯みたい

だからやめろって父が」思わず笑う。

「で、なんで寛大って字になったの?」カンタのほうを見るが、彼はずっと後ろを歩いていて聞いていないので、

おねえさんが答える。

「祖父がカンに助けるでカンスケ、父がダイでマサル。両方貰ったんだって」

「なるほど…」まあ、タカミヤヒカルなんて皇室マニアっぽいから、今の時代、これでよかったんでは?

「みのりちゃんはいい名前だねえ」

「ありがとうございます」実は気に入っている。男の子だと思ったからミノルにするはずだったのに女の子だったから

安直にみのりなんだけど、まあそれは置いておき、小説の登場人物っぽい名前なのでいいのだ。

 そう言っているうちに手頃なお好み焼き屋さんを見つけて入り、食べた。だいたい蛍子さんとわたしで喋り、カンタは

質問には答えるがたいてい聞いていなかった。さっき店頭で質問が続きそうだったから食事会になったというのに。

蛍子さんにさっきふたりとも名前でいいみたいに言われたけれど、いきなり元同級生を名前で呼ぶには抵抗があり、

ねえ、としか言えなかった。

「えっ、じゃあ高校行かないですぐ今のところに就職したの?」なぜか3大珍味を食べたことがあるかって話になり、

カンタが4月に勤続3年の賞を貰ってそれが御食事券だったので、高級ホテルで蛍子さんと全種食べたという話

から発覚し、わたしは相当驚いた。高卒の友達はまあまあ居るけれど、中卒は初めてだった。卒業するとき話題に

ならなかったし。

「うちね、もう両親他界してるの」蛍子さんが事も無げに言い乍ら、お好み焼きをぱくぱく食べた。「高校くらい

出してやったのに、通信でいいって。で、ガードマンてみんなすぐ辞めちゃうらしいんだ。バイトでなら続く人もいる

けど、社員では」

「…ふたりで暮らしてるんですか?」

「うん」そして蛍子さんはすぐに賞の話に戻る。「わたしも高卒なんだけど、今年勤続5年の賞を貰ったの。なんと

バスタオル1枚。ショボイでしょ?」

「ずいぶんな差ですね」笑ってみたが、ちょっとショックだった。なんの障害も無く大学に通っているわたしって、恵まれ

ているんだなあ。本の中でなら、そんなかんじの境遇の人は出てくるけれど、実際には居なかった。そういうのは本の

中だけだと思っていた。小説に書けるような境遇も事件も縁の無いわたしは、ただ驚くしか無かった。

 蛍子さんが大学進学を辞めた5年前。その頃ご両親は亡くなったんだろうか。ふたりとも一遍に、それともおかあ

さんはもっと早かったり? 5年前って、中1。その頃頼れる親を亡くすって、どんなことなのだろう。わたしには見当も

つかない。

 小説の中でなら、助けてくれる人が現れようと陥れる人が現れようと、そのままのたれ死のうと、わたしの気持ちは

揺れるけれど実際にはどうってことない。所詮作り話なのだから。でも。現実にそうなってしまったら。

今日帰ったら両親が死んでいて、親戚に引き取ってもらえなかったら。わたしはきょうだいも居ない、ひとりぼっちの

わたしは、どうしたらいいのだろう。「了」と書けば終わり、そんなわけにはいかない。

 そして、寝れば忘れる悩み事しか知らないだろうと、蛍子さんを見下したことを、心底詫びた。そんなかんじだった

のは、わたしのほうだ。

「加藤とは、まだ仲いいの?」駅に向かうとき、行きとは違ってすぐ後ろに居たカンタが、今頃話しかけてきた。

「え? ああ、カコ。全然。進路は別でね、文通してたんだけど止まっちゃった」

「止めたのは加藤でしょ」

「正解。よく覚えてるね、同級生のこと」

「そりゃあ、最後の学生生活だから。たのしかったし」

「…うん、中学、たのしかったよね」

「加藤さんて、琴音(ことね)ちゃん?」

「蛍子さんまで知ってる?」

「2日でフラれた初カノだからね」

「ええっ」

「なんで言うんだよ!」

 …今日ふたつめのショック。カコ、2日でもつきあったんだ。なんで言ってくれなかったんだろ。

 

 まただ。知らない番号からの電話。出られるときでも、知らない番号だと警戒して出ないけれど、何回も履歴に

残るのが同じ番号なので、間違ってませんかと出てみようかと思う。でもかかって来るのはタイミング悪く、いつも

講義中とか、蛍子さんと電車に乗っていてたりとか、サイレントにしていて気付かないときだ。蛍子さんが先に、

カンタが中学生のときに住んでいたわたしたちの町よりも2駅手前で降りて、ケイタイを見ると不在着信になって

いたりする。今日で何回目だろう。殆ど毎日だ。

 蛍子さんとは、ふたりともラストまでだと一緒に帰るようになった。なんだか話していてたのしいのだ。たぶんあの

鷹揚さは、苦労を乗り越えて出て来た余裕なのだろう。食事はあれきりだったけれど、アドレスの交換もして、

明日いますかー?などとやりとりしている。本の虫、当たり障りのない人付き合い魔のわたしには珍しいスピードで

近くなってきている。カンタは相変わらずで、窓口に居たらわたしは

「おう、おつかれー」なんて親しげに言ってみるのだけれど、視線を外して顎をちょっと突き出して、挨拶のつもり

らしい動作をするだけだった。ガードマン姿の彼はなんだか印象が違く、あの縁無しの眼鏡が無ければますます

判明し難い。名札を確認して挨拶を砕けさせる。

 それはさておき、電話だ。でもこちらからかける気にはならず、やっぱりそのまま鞄にしまって、あと1駅半、読書を

する。

「平尾さん」突然声をかけられ、びっくりして振り向くと、社員の若林(わかばやし)さんが立っていた。「きみん家、

こっちのほうだったんだ」

「はい、次なんです」あんまり遅番をしないので会うことは無いが、今日はさっきまで一緒に仕事をしており、

わたしは先に店を出たのだった。もう電車に乗ったんだ。まあ、わたしは蛍子さんと喋り乍ら歩いていたからな。

若林さんは30半ばくらいの初婚の男性である。アルバイトの女子はみんな、奥さんが居るの判っているけれど

キャーキャー言っている。そんなにいいかなあ、と悪いけれど思ってしまっていた。顔はスッキリ醤油風味で、まあ

まあだけれど芸能人にはなれそうもない程度で、背が高いだけではないかと思うが。いっぱい一緒に仕事して

いる子は、やさしいと言っているので、そこは高ポイントなのだろう。「若林さんもこっちのほうだったんですね」

「いや正反対なの。今日は友達の新居に呼ばれてて。奥さん同士が親友でね、旦那さんとも気が合っちゃって。

奥さんは先に行ってるんだけど、豪華な料理作っててくれるって」

「それはたのしそうですね」相変わらずわたしは、そうでもないのに心底そう思っているように話してしまう。

あの「羨ましい!」の女子高生みたいに。電車がわたしの最寄駅に着く。「あ、では。おつかれさまでした!」

「ハイおつかれー」

 そう言えば今日は、若林さんは高校生バイトくんの穴埋めで遅番だった。本当はもっと早くお友達の家に行ける

はずだったんじゃ。ちょっと同情する。今月いっぱいのシフトは決まってしまっている。おうちのほうにも電話が繋がら

ないらしく、どうしちゃったんだろうねえと噂をするが、結局放置。そのままみんな、忘れて行ってしまうんだ。

あの高校生。名前何だっけ。あの子、カノジョの話とか揚々としていたくせに、わたしがしゃがんでレジ袋を整えて

いたらイキナリ頭を撫でてきたことあったっけ。年上じゃないみたい、かわいいとか言って。何言ってんだか、と口端で

笑っておいたけれど、わたしとしては胸でも触られたみたいな嫌悪感があった。それこそ芸能人にでもなれそうな

くらい二枚目で、本屋バイトをするようには見えない、文学少年にはとても見えない、かと言ってスポーツマンでも

チャラ男でもない、どんな子なのか想像もつかない存在。本の中の人に当て嵌めようとしてもだめだった。彼に

何があったんだろう。わたしには起きえない事件にでも巻き込まれたのか。

急に、頭に着信履歴の数字の羅列が思い浮かんだ。勿論覚えてはいないけれど、090から始まる朧気な

数列。

改札を出てから、ケイタイを見てみる。電話もメイルも着信は無かったのでほっとする。彼、だろうか。でも、

彼はわたしの番号は知らないはず。

 翌日アルバイトに行き、店裏の事務所のタイムカードのある机の、電話の脇にある従業員の電話番号表を

そっと出して見た。ついてしまっているボールペンの跡や折れ目は、見慣れた場所にあり、盗まれて新しいのに

なったということは無さそうだ。だけど、こうやってわたしが悠々と見られるということは、書き写すことはできる。

 でもまさかな。彼が逃亡したとして、わたしには何の関係も無い。電話してくる理由なんか無いはずだ。

 最近番号を教え合ってわたしが登録し忘れている人は居ないか。股聞き的にわたしの番号を知ってしまった

人は居ないか考えてみる。

カンタ? いや、蛍子さんにはアドレスしか教えていないし、カンタが窓口に居た日にも履歴はあった。

その日もバイトが終わり暫くしたら着信があった。そのときは電車の中だけれど、ひとりだったので出ようと思えば

出られた。でも怖くて、通話ボタンを押すことはできない。切断され、履歴を見てみるとやはり同じ番号だった。

しまった、バイト先の番号表で、あの高校生の番号を見てくればよかった。違っていればこんなに不安になることも

ないのに。

頭を撫でられた感覚が蘇る。悪寒がして、ケイタイを落としそうになる。

 でも、きっとなんでもないんだ。わたしには事件は起こらない、今までこんなに平穏な人生だったのだから。自分に

言い聞かせるようにそう考え、唾液を呑み込んだ。

 次にバイトに入った日には、事務所に人が居て、表を見ることができなかった。

「平尾さん、ちょっと籤引いてくれる」店長が箱を差し出す。

「何ですか? これ」

「7階にアミューズメントタウンが完成したんだよ。で、プレイベントで、この建物の従業員をご招待。このお店には

2枚しか来なかったんだ。籤引きにしてみた。引く順は僕に会った順番だけどね」

「もうできたんですか! わあ、いいな。よし、当たれ!」手を勢いよく箱に突っ込んでみる。「…おお、当たった!」

アタリと書いた紙が出て来る。

「おめでとう! あとひとりは誰になるかなあ! 一緒に行ってもいいし、別々に行ってもいいんだからね。後で貼り

出しておくから見てね」

「はい、ありがとうございます!」これくらいが、わたしの事件なのだ。しかしこのバイト先のだれでもわたしはマニュアル

対応しかしていないので、サシでは行けないなあと思っていたら。よりによって閉店後事務所の掲示板にあったのは

若林さんの名前だった。妻帯者とアミューズメントタウンに出かけられるかー!

 蛍子さんどうだったかな、と思っていると、若林さんがやって来て

「平尾さん、一生のお願い! 招待券、恵んで!」と拝んで頭を下げた。

「へ?」

「奥さんとデートしたいんだ」

「…いいですよ」惜しげも無くあげてしまう。めっさ感謝されて悪い気もせず、ロッカールームに退散した。

「みのーりちゃん」今日お休みのはずの蛍子さんが居る。

「あれ、どうしたんですか」

「昨日のお金が合わないってことで、飛んで来たんだけど、大丈夫だったの。だからついでに一緒に帰れたらと思っ

て」

「大丈夫でしたか、よかったですね」

「ねえねえ、本屋さんは招待券ってどうしたの? アミューズメントタウンの」

「ああ、あれ」

「わたしたちはじゃんけんで決めて、勝っちゃったの。うちなぜか1枚だったのよね。そんなとこひとりで行っても面白く

ないじゃん。みのりちゃんも持ってたらなあと思って」

「えーっ! なんでそうなるかなあ」殆ど泣きそうになって、倒れる真似をする。

「うん? どうしたの?」説明をする。蛍子さん持ってるかなと思ったところまで、説明する。「あちゃー。お金払っても

入れてくれないよねえ。あ、それか寛大!」速攻家に電話している。受話器から漏れて来るカンタの声は、よく聞き

取れないけれどもなんだか怒っているみたいだった。

「なんで喧嘩腰なんですか?」電話を切った蛍子さんに聞いてみる。「あーえっと、あっちが。蛍子さんは普通でした

けど」

「寝てたからじゃない? まあ、常に機嫌悪いよあの子は。基本的には静かだけど。愛想悪いっていうか」

「ガードマンって不規則でたいへんですね」

「これを機会に転職を勧めているのだけど」

「これを機会?」

「てかあの子、招待券の、その上7階の存在まで知らないんだけど。ほんとに此処を管理してくれているのか?!

って思う」

「寝ボケてじゃなくて?」

「あれは素だったよ。まあ、これはいいや。オープンしたら、お金出して行かない?」

「そうですねー…」

「じゃあわたしもお店の子にあげよっと」

 

 何日か経った日の夜。また着信。メールだったのでほっとする。見ると、蛍子さんだった。

『招待券、ヒロが2枚ゲットして来た! こんなこともあろうかと、わたしはまだお店の子にあげてなかったの! よかっ

たら3人で行こうよ!』

 なんと。なんでひとりで2枚も貰える人が居るかな! まあいいや、というわけで行くことに。

 当日、シフトを調整してもらって3人とも5時上がり仕事を終えて7階へ。7階も9時で閉まってしまうので、閉店

まで働けないのだ。

 何人招待したんだろってくらい、混んでいた。並び乍ら

「招待券ありがとね。なんで2枚も貰えたのか不思議だけど」とカンタに言うと、

「シフト調整するのが面倒だったから、主任がみんなの許可を得て、今日5時上がりになってた人に2枚ずつ

くれたわけ。チミたちみたいな小さい店は1店で2枚くらいしか貰えないだろうけど、うちは大手だから」ふざけて大きく

出たみたいだった。とりあえずウケてなるほどねーとか言っておいてから、笑っていいところだったのか謎に思う。イマ

イチ解り辛いな。

「あれっ、平尾さん」若林さんが、奥さんを連れてアトラクションから出て来た。「この子、うちのバイトさん」奥さんに

わたしを紹介する。「おまえに招待券譲ってくれたんだけど…なんで入れたの?」

「よそのお店の余りをいただいて」

「あー、お隣の!」蛍子さんを見て会釈。それからわたしに「ごめんね、やっぱり来たかったんだね。でもよかった、

きみも来られて。本当にありがとう」と言い、去って行った。

「うちのじゃないんだけどな」蛍子さんは苦笑。

「…おっとこまえ〜」カンタがぼそっと言っているので、今日はよく喋るなあと思ってそちらを見ると目が合い、蛍子

さんに聞こえないように声を落として「あれ、実は意中の人だったりする?」と聞いてきた。

「なんでやねん」

「だって招待券あげちゃうくらいだし」

「普通、そうなら邪魔しない?」

「いや、貢献する人も居るし」

「まっさか、そこまでお人好しではない」真っ向否定して、ふと、そうならよかったと思う。誰にでも好かれるイケ

メン?のやさしい上司。奥さんを大事にしているその姿を追い続けて、自爆。嗚呼、なんて美しい物語。わたし

にはそういうの、ほんとに無いからなあ…。

 いくつかアトラクションに参加し、おなかが空いて来たのでごはんにすることにした。どこもいっぱいだったがファースト

フードとファミレスの合いの子みたいなお店で席を見つけ、蛍子さんが注文に行ってくれた。わたしはセルフサー

ビスの水を注ぎに行き、カンタは荷物番をした。水にも行列ができていて、無くなったりしたので時間がかかり戻って

みると、もう蛍子さんは飲み物だけを持って戻って来ていた。それをテーブルに置きながら、

「今日わたし御遠慮すべきだったかもねえ」なんて言っているのが聞こえた。

「なんか勘違いしてない?」カンタは慌てるでも怒るでもなく言っている。「おれはどっちかと言うと、平尾みたいなの、

きらい。八方美人で、本当に考えてること言ってるのか、全然わかんない」

「でも泣いてたとき心配して、お店まで来てたじゃない」

「泣くように見えないから、驚いただけ。でも本の内容でなんでしょ。実際のことで泣くなんてこと、ないんじゃない」

 …マイった。全問正解ですよ、カンタ。そしてそう言われても、べつにこちらもきみを好きなわけではないから、どう

でもいい。わたしは遠回りをしてゆっくり席に戻った。

「おまたせー、混んでたなあ」

「ちょうどハンバーガーも来たよ」蛍子さんはこちらを見ずに、遠回りしている間に来たバーガーを差し出す。顔は

一応、笑顔になっている。わたしは何も聞いていないふりで、

「あ、ちょうどテリヤキな気分だったんです、ありがとうございます!」とかぶりついた。

カンタはさっきまでのテンションはどこへやら、またいつもの無愛想に戻っていた。そうされればされるほど、わたしは

トーン高めに喋ってしまうのだった。

 ちょっとぎくしゃくしたまま電車も一緒に乗って、先にふたりが降りて、わたしは大きな溜息を吐く。蛍子さんもそう

だよねーとか思っちゃったかな。それはちょっとキツイな。ようやく、マニュアルな付き合い方をしないでいいかんじの

人に出会えたのに…。珍しく人間関係に不安を抱く。

カンタめ。考えても人に言ったらいけないことってのが、世の中にはあるんだぞ。あの女子高生と一緒でないか。

わたしはへんなところに毒づいて、電車に揺られていた。

    

 

・2・ 

目の前に、彼女が立っている。普通に本を売って、ありがとうございましたと言うと、突然名前を呼ばれた。顔を

上げてみると、そこには懐かしい顔があった。

「うっそ、カコ!?」

「みのりぃ、元気? やっぱり本に囲まれて生きているね」

「ひゃー、会うの卒業式以来だよねえ」

「あはは、ごめん。手紙は止めちゃったからね」そこで次のお客さんが来たので、カコはちょっと脇に避ける。きれいに

なってるけど、基本パーツは変わらない。気取ってるかんじではないがファッショナブルで、モデルでもやってそうな、

ちょっと人目を引くかんじだった。接客し終わると「ねえ、何時に終わるの? バイト。よかったらお茶かごはんしよう

よ」

「閉店までー。9時過ぎちゃうよ」

「なんだ、それくらい。待ってたら大丈夫? デート?」

「無い、無い。ほんとに待てるの?」

「じゃあそのへんで遊んでる。9時過ぎに改札でいい?」

「うん。ごめんね」

「だいじょぶよ。じゃあまた後で」

「あ、カコ」

「うん?」

「窓口に居るか判らないけど、高宮が防災センターで働いてるよ」

「えっ、高宮って、高宮寛大?」

「そう。普通の通路に面してるから、行ってみたら? 1階の、スタバとかエレベーターホールとかの辺り」

「行く行く、絶対行ってみる。ありがと、またね」意気揚々と出て行く。2日でフッたわりには食い付きがいいな。

しかもわたしに内緒にしていたことは全然気にしていないらしい。カコらしいって言やそうなんだけど。

 バイトの続きをして、就業と共にうちに連絡し、9時20分には改札へ。案の定、カコは居なかった。構内の

洋菓子屋さんの脇で突っ立っていると、30分くらいになって、カコがやって来た。なんとカンタが一緒である。

「もう引っかけて来たの」笑いながら言うと、カンタが

「笑いごとか。人の仕事先をチクるな」と相変わらず無愛想に言う。

「まさに受付に居たのよ。全然変わってないから逆にビックリよ」

「そっちはどこの化粧オバケかと思ったよ」

「わたし邪魔だったから帰るけど」

「何言ってんだよ」

「さっき、今度お茶しようよって言ったら、ふたりじゃ厭だって言うのよ? 信じらんない。9時過ぎにみのりと待ち

合わせしてるって言ったら、それならいいって言うから連れて来たのよ。だから帰っちゃだめ」

「何時上がりだったの?」

「ちょうど、9時だった」

「なるへそ」カコって昔からこういう運がいいのだ。

「さあて、ごはん食べる? お茶だけにするかな?」

「ごはん食べたい、おなか空い…」そこまで言った時、洋菓子屋さんを挟んで対峙し、わたしを凝視する人と目が

合った。

 息を飲む。彼だ。

なんとなくヒヤリとして、周りの雑音も耳に入らないほど動揺した。彼はわたしの前に歩み寄って来た。

「…ひさしぶり」髪が伸びて、セミショートの女の子みたいになっていた。もともと細かったけれど、更に痩せた

みたいだ。もう秋も深まって来ているのに薄手のシャツの所為もあるかも。

「知り合い?」カコがわたしを覗き込み、わたしの態度にちょっと不審そうな顔をする。

「どうしたの? なんで此処に? バイトは辞めちゃったの?」わたしは立て続けに質問する。彼はそれには答えず、

「どうして電話に出てくれないの?」と言った。やっぱり彼だったんだ。無断欠勤から約1か月、殆ど毎日着信は

あった。

「あなただったの? 知らない番号には出ないことにしているから」疑ったとは露ほども思われないように大袈裟に

驚いて見せ、次いで質問するが、「わたしの番号なんで…」そこまでで遮って彼は

「事務所にあんなに大っぴらに置いてあるじゃないですか」そこで笑顔を作る。なんでそこで笑うのか、解らない。

それを書き写すという、疚しいことをしたという気持ちを隠すため?

「お店から電話行かなかった? 繋がらないって言ってたけど、電話、使えるの?」

「金があるうちに機種変したから、もうあの番号じゃない。…ねえ、どうしていつもそんなにご尤もなことばっかり言う

の? もうちょっと、本当に思ってること言わない?」

「…なに、本当にって」カンタの言葉を思い出して、この子も同じように思ってるのかとちょっと警戒する。

「なんでわたしに電話するの?とかさ」

「…なんでわたしに電話するの?」あほらしくなってきて、そのまんまリピートしてみる。

「解ってくれそうだったから。表向きだけかもしれないけど、あなた、今まで会った人の中で一番やさしいから」

「……」

「けどそれも、本当じゃなかった? 時々疑いたくなっちゃうんだよねえ。この人当たりの好さ、作ってるのかなあって」

「こうありたいと思う人間像には近づこうと思ってるけど? それがそう見えるんなら仕方ない」

「ねえ、用が無いなら連れて行くよ?」カコがちょっと苛々したように、わたしの腕を掴んで彼に言う。

「あります」ちらっとカコを見て、そしてカンタをあからさまに見てからわたしのほうに向き直った。「あなたのところ、行っ

ちゃダメ?」

「わたしのところって?」

「家に決まってるでしょ。居候させてくれないかな。あっちのほうは、できる限り我慢するから」

「あっちって?」

「解ってるくせにぃ」たぶんこんなときでもわたしは、笑ってまではいなくても、怒っていない顔をしているのだろう。

彼は「ね? いいでしょ?」と甘えたように上目遣いでこちらを見る。心の中のわたしは、一歩後ずさりをしている。

「ちょっと何言ってるの、あんた」カコが代わりに怒ってくれてしまう。

「両親居るんだけど」またわたしはご尤もなことを言う。

「えっ、ウソ、ひとり暮らしでしょ?」

「実家だよ」

「浪(なみ)さんと根本(ねもと)さんが言ってたのに」

「彼女たちとわたしは、殆ど話したことないから、想像じゃないのかな」

「そんなあ。お父さんがいいって言うわけない。おれ、どこへ行ったらいいんだろう…」

大きな目から涙が滴り落ちた。

 …嗚呼、面倒臭いなあ。そう思いつつ、

「一体、何があったの」と聞いてしまう自分が憎たらしい。そう考えている間に、彼はフラフラと倒れ込んだ。「え、

ちょっと! どうしたの?!」

「…って…」

「なに?」

「腹…減ってもうだめ…」

 

 流石のカコも可哀想に思ったのか、カンタに手を貸させて、無理矢理歩かせて駅ビルのレストランに入った。

適当に頼んで食べさせると、少し元気になってきた。

「ふいー。幸せー。ありがとう、やっぱりあなたはやさしいなあ」

「わたしと言うより、この人がね」カコを指す。「もしかして、お金無いの?」

「持ってたの、使い果たしちゃった。またなんかバイト探さないと…」と言いながら、あっと言う間に眠りに落ちて

しまった。

「ひょえ、今の一瞬の間に寝ちゃった」

「ねえ、この子、何? 元カレとか?」

「違う違う。バイトが一緒だった子で…」と

仕事の合間にちょっと話しただけとか、無断欠勤以来会ってないとか、説明した。…やーばいなあ。ここの支払い

くらいまではいいとしてもそれから先、どうする。一万円くらいあげてもう二度と姿を見せるなって言ったって、また

こうやってせびりに来るかもしれない。うちに泊めてやって、親を証人に、働いたら使った分返させるか。事情なんて

どうであれ、これからどうするかばかり考えていた。でもなんだか親には言いたくなかった。

「ねえちゃんが、そういう奴の世話したことある。今は立派に働いてるみたいだけど、そういうふうにならないかな。

聞いてみる?」

カンタが意外にも協力的なことを言ってくれたので、蛍子さんに電話してもらってみる。今日は非番で、おうちに

居るらしい。

「とりあえず話を聞きたいから、来るって」「うわあ、おねえさん久し振りだなあ」

「…そう言えばカコ、高宮と付き合ったんだって? 何も言ってくれなかったね」

「言わなかったっけ」

「すぐ終わったしな」カンタが自虐的に言うのでちょっと笑ってから、

「ごめんね。せっかくの再会なのに、違う話題になっちゃって」と謝る。

「みのりの所為ではないじゃん」

「ねえちゃん来るまではそっちの話しようぜ、加藤、今何やってんの? 学生?」

 流石に元カノの近況は気になるらしく、カンタが饒舌だ。なんとカコはほんとにモデルだそうで、高校生のときに

雑誌のオーディションにうかり、卒業と同時に本格的にやっているのだという。

「これでも時々はそのへんで‘琴音さんですか?’って声かけられるのに。あんたたち、疎すぎ! 高宮は中学

出てすぐここなの? みのりは高校が荻女(オギジョ)だったよね、それから?」

 などと話しているうちに、蛍子さんが来た。

「あれっ、琴音ちゃん? すてきになっちゃって」蛍子さんはカンタが言わなかったのかカコにびっくりして、ひとしきり

挨拶を交わしてから寝ている彼を見て「あー、覚えてる、覚えてる。話したことはないけどねえ」と言った。アトラク

ションタウンご招待以来で会う蛍子さんは、わたしにも普通だ。やっぱり大人が来ると、こういう事件が起こった

ときには安心する。あ、そう言えばわたし、本になりそうな事件に巻き込まれているのかもしれない。

お店は混んでいたので、彼を起こしてレストランを出て珈琲を飲みに行く。なんと支払はカンタがしてくれた。

流石は社会人男性!と、こんなときだけ思う。

 カフェもどこもいっぱいだったが、蛍子さんが穴場を知っていて、奇跡的に5人で座れた。彼は戸惑いながらついて

来た。注文して席に座るといきなり蛍子さんは、

「まあ、あの人を紹介してもいいんだけど、事情によるね。まず聞かせてよ。はい、まず自己紹介」と話を進めた。

「あえっと、貫井立基(ぬくいたつき)と言います」あ、そうだった、そんな名前。「家は石ノ巻(いしのまき)団地で、

学校は聖陽館(せいようかん)高校、今2年です」大人が居る所為か超カタくなっている。

「ええ? 家もガッコも遠くない?」蛍子さんは驚く。わたしはその話をレジで聞いたときに高校の場所は知らな

かったので、高校が近いのだと思っていた。

「祖母の入院してた病院が近いんでよく使う駅で。本屋さん寄ったらこの人が居て」

「はい? わたし?」わたしは急に指差されて動転する。

「バイト募集してたから、応募してみたんです」はあ?! それはほんとの話? それとも作り話? だってカノジョの

話してたじゃない?

「…遠いのに」蛍子さんは同情の眼差し。信じているのかふりなのか、よく判らない。

「で、バイトしてるときだけは幸せだったんですけど、今月祖母が死んで、もともと冷え切ってた家族親戚がすった

もんだで家出してたわけです」

「おうちも電話通じないって言ってたけど」

口を挟むと

「ああ…」と声を落とす。「おれの関係の番号がディスプレイに出ても、出ないんじゃないですか。おれが出て行ったら

嬉しいだろうし」

「だれが?」

「両親と兄」

「…そっか。それできみは、家を出てどうしたいの。自立?」

「まあ、そうですね」

「で、とりあえずやさしそうな女の子のところへ行くわけだ」貫井くんはちょっとムッとした顔をしたが、何も言わなかった。

でも蛍子さんは、貫井くんの話に反発は覚えなかったらしく、次の提案をした。「このへんで自立したいの? 自立

するまで居候するとして、両親の居てもみのりちゃんのところがどうしてもいいんだったら、お願いしてみてもいいんじゃ

ない? 大人が居るのが面倒だったら、うるさい大人は居ないからうちでもまあいいし。でもバイト先にも迷惑かけ

たんなら、もっと離れたほうがいいかもしれないね。そしたら遠くに住んでる友達を紹介する」貫井くんが考えている

間に、わたしは蛍子さんに

「いろいろな手だてがするすると出て来ますね」と囁いた。

「前に同じようなことがあってね。そのとき考えた選択肢はすぐに出て来る。でも、逃げているだけでいいのかって

話もあるよね。ただ、その、前の子のお父さんは暴力癖あったから、あのままじゃ死んでた。逃げて正解。そういう

事情は汲んであげないと。貫井くんはそこまで追い詰められているようには見えないけど、まあほっとくほどでもない」

 本の中でなら主人公はひとりで解決していくものだが、現実はそうもいかない。そんなときはわたしも迷わず蛍子

さんに頼ってしまうだろう。まあ、カンタが居るのは厭だけれど。それ以前に、うちは親子3人仲良くやっているから

問題無いけど。そんなに、うまくやっていくって難しいことなんだろうか。

「…その、お友達ってどこにいらっしゃるんですか」貫井くんが顔を上げた。

「仙台」蛍子さんはブレンドを啜り乍ら言う。

「その、暴力お父さんから逃げた子はそこへ行ったんですか? それで今は?」

「そこは旅館なんだけど、資金ができるまで住み込みで板前をやってたのね。で、そのまま続けるか迷ったみたい

だけど結局は出て、今は帯広で一人暮らしをして、割烹に勤めている」

「おれもできますかね」

「大丈夫じゃない? また逃げなければ」蛍子さんの言い方は、意地悪とか突き放したとか、そんなかんじでは

なかった。しかし軽く言っているわりには相当の重みがあった。

「……」また黙り込み、沈黙が支配する。

「どっちかと喋ってみる? 事情変わってたら頼れないから、わたしの友達のほうかな。出られるかな」蛍子さんは

ケイタイを出してメールを打ち始める。送信すると「もう一杯飲もう」とカウンターへ行き、アメリカンを注文していた。

「でもあなたから離れてしまうのは厭だな」やけにマジ面で言ってくるので

「カノジョ居なかったっけ」と平静を装って言ってみる。

「中学んときの元カノの話を、今みたいにしちゃっただけ」それについては悪びれた様子も無い。価値観が違うのか、

なんだか噛み合わない。蛍子さんの携帯が震え、本人も戻って来た。アメリカンを飲み乍らメールを読み、

ちょっと外へ出て電話を始める。少しして貫井くんを呼び、外で話をさせた。先に戻って来た蛍子さんに「ほんと

ありがとうございます。助かります」

「だよねー。今度バーガーキングで御馳走してね」とふざけて言っている。蛍子さんも外面がいいのか、とりあえず

今まで通りで、カンタの言ったように思っているようには見えないので安心する。

「あの子、みのりのこと好きなのかー」カコがたのしそうに言っている。聞こえないふりをしているとそのうち

「ありがとうございました」と貫井くんが戻って来て、ケータイを蛍子さんに返した。

「どうだった?」

「来たかったら来てもいいって言ってくれました。条件は、家族に行方を言うことって。

向こうが知りたくなくても、メモを置いて来ることって」

「流石だな」

「家賃食費なんかは給料天引きだから、そのへんは困らない」わたしに笑顔で言う。これはちょっと、いいかんじで

まとまりそうだった。流石は蛍子さん、そして蛍子さんのお友達。

「今日はうちへいらっしゃいよ」蛍子さんが貫井くんに言った。「みのりちゃんのお父さんには、説明し難いでしょ」

「はあ…そうさせてください」とんとんと話がまとまる。明日休みのカンタは一日世話をすることに決定するし、

ふたりに借りができてしまった。カコとは

「また仕切り直そうね」とメアドの交換をして別れた。

 

 日付けが変わるか変わらないかのうちに、蛍子さんからメールが来る。

『ネットで予約したら、たっちゃん()明日の夜行で仙台に行けることになったよ。寛大が切符代払った。こちらには

こちらの生活もあるし、見送りまでで護送はしない。ちゃんと逃げずに友達のところで働いてくれるのを信じようと

思います。明日の夜ってバイトかな? 20時03分発なんだけど、見送りに行ける? あと、みのりちゃんのアド

レス知りたいって言ってるけど教えていい?』

明日は非番だったので、カンタと見送りに行くことになった。便宜上カンタとも、そして貫井くんとも、蛍子さんを

介して連絡先を交換する。残念ながら蛍子さんは遅番だ。

その日貫井くんからはメールは来なかったし、わたしも蛍子さんのメール文面にあった貫井くんのアドレスは登録

だけしておいたが、カンタには金銭的な負担をさせてしまったのでお詫びを入れおいた。仙台まで、電車ナビで

検索したら、六千円くらいはする。カンタはそれについては触れず、『おれもメールしようと思ってたとこ。明日の

待ち合わせだけど、彩ノ宮(さいのみや)駅の8番線でもいい? それだったら7時50分』とだけ来た。

『OK。ホームのどのへん?』

『とりあえず先頭、乗る場所に不都合だったらまたメールするか会ってから移動な』

 メールだとなんでこんなに意思疎通がスムーズなんだろうか。不思議に思いつつ了解と返して、言葉の往復が

終わる。

 しんとした部屋で、蛍子さんのメールの言葉が蘇る。

‘こちらにはこちらの生活もあるし、見送りまでで護送はしない。ちゃんと逃げずに友達のところで働いてくれるのを

信じようと思います’

 …そうでないこともありえるなんて、本の中では知っていたけれど、現実には思いもしなかった。カフェで話がまと

まってきたときは、これで絶対にうまくいく、と楽観的に見ていた。そのまま切符売って逃げちゃうことだってありえる。

なんせ無断欠勤して勝手に本屋バイトを辞められる子なんだ。

 だけど、蛍子さんの開示してくれた道を行かず、ほかにあの子にどんな選択肢があるのだろう。余程人の世話に

なるとか板前という職業が厭でなければ、飛び付く話だ。それで全てうまくいってほしい。本になりそうな事件に

なんて、わたしはやっぱり巻き込まれたくない。何の問題も起こさず平穏に過ごしていきたいのだ。そのために、

いくらでもいい顔をする。カンタになんと思われようと。

 なんだかへんなモード入ってしまってなかなか寝付けないまま、日付は貫井くんの出発日へと移った。

 「ほんとうに、ありがとうございました。

寛大さんお金貯まったら、返しに来ます」貫井くんは神妙に頭を下げた。

「くれてやると言いたいところだが、顔見せに来るついでに、返してちょんまげ」逆にカンタはおちゃらけている。

もうすぐ9時だというのにホームにはまだだいぶ人がいる。電車が入線して来て、ホームの人たちは吸い込まれる

ように中に入って行く。3人でその様子を見ていたが、やがて貫井くんが

「平尾さん」と言った。

「うん、元気でね」

「うんって…おれまだ何も言ってないんですけど」カンタが脇で噴き出している。「ほんとうに感謝してます」

「わたしは何もやってない気がするんだけどね…」レストランに連れて行こうと言い出したのはカコ。連れて行った

のは、ごはんを御馳走したのは、蛍子さんを呼んだのは、カプチーノを御馳走したのは、切符を買ったのは

カンタ。新しい道を開いたのは、蛍子さん。

「繋いでくれたのは、明らかに平尾さんですよ。離れ離れは寂しいけど、メールします。お金貯めて会いに来ます。

それまでフリーで

いてくださいね。寛大さんも、手出さないでくださいね」冗談だか本気だかわからない口調で言いやがる。

「出さない、出さない」カンタも真っ向否定だし。

発車ベルが鳴る。貫井くんは荷物を持って

電車に乗り、デッキで手を振った。

「元気でがんばれよー」

「また会おうねー」

「ありがとうー」扉が閉まり、電車が動き出した。カンタは走る真似をして、しかもスローモーションで転ぶ真似、

そして待ってくれと言わんばかりに片手をあげて残された人を演じた。電車は走り去った。

「案外剽軽者なんだね」わたしは後から見ていたが、至極冷静に声をかけてしまう。

「さ、帰るか」何事も無かったように歩き始める。「ねえちゃんと大木原の駅で待ち合わせして飯食ってくんだけど

平尾来る?」

「あー、今日は帰る。外食続いているので」

「じゃあ途中までな」階段を上がって、別のホームへ。

電車を待つ間、またいつものカンタに戻ってしまったので、やはりきらわれているんだなあ、と思う。しかしなんと

なく、こちらは言葉がするすると出て来て話しかけると、長い答えは返って来た。

「前の子って、高宮は知ってるの?」

「前の子?」

「仙台で板前して、今は帯広で自立したっていう…」

「ああ、おれの職場のやつだったから」

「やっぱりああいうふうに出発した? さみしそうではあったけど、あんまり緊張感は無いよね貫井くん」

「うーん、もうちょっとビクビクしたかんじだったな。まあ、親に虐待されて・・・もともとビクついてる犬みたいなやつだった

から、新しい土地へ行く不安でかはわからないけど」

「世代差かもしれないしね」

「今の若者は物怖じしないからな」ふたりして、ふたつしか年下でないことも承知の上、論じてしまう。

「仙台の世話してくれる人は、蛍子さんと同世代なの? もう、旅館で知り合いを雇う権限もあるくらい出世してる

のかなあ、と思ったんだけど」

「同い年だけど、オーナーの息子だからね。

昔こっちに住んでた。おれも知ってるけど、

いい人だったな」

「…ふうん」元カレかな。そういうのって、聞かないほうがいいのかなあ。

「カレシとかではないけど」心を読むように、カンタは付け足した。「あの人がにいちゃんだったらおれも嬉しいけどな」

「…蛍子さんて…」詰まる。

「カレシ? 居ないと思うよ。なんにも言わないけど。おれが20歳になるまでは結婚しないとか、危なっかしいことは

しないとか決めてるっぽくない? そういうとこ、ほんと律儀だからあの人。べつにカレシんとこ行って帰らない日が

あったって、こっちは夜勤とかしてるんだから気にしないのに」

「まあ物理的にはそうだけど、寂しい想いさせないようにじゃない?」

「そうかもね」まんざらでもなさそうにカンタはちょっと笑う。「でも、恋愛はもうしないようにも見える」

「蛍子さん? 22…だったよね、決めるには早くない?」やっと電車が来て乗り込む。反対側のドアの前に立って、

ちょっと沈黙してから

「仲好さそうだから敢えて言っとくけど、言ったの内緒ね。その仙台の人のカノジョと、ねえちゃんのカレシが心中

しちゃってね。2年くらい前かな。仙台の人はこっちの料亭で修業してたんだけど、実家に帰ってすぐだったな。

考えられないくらい、4人はうまくやっていたのにね。それ以来ねえちゃんはべつに変わってないけど、明らかに

男性と近くなるのを拒んでる雰囲気がある」

「心中…」

「自殺って罪だよね。残された人は、ああすればよかった、こうしていたらこうだったかも、と、ずうっと‘もしも’を

想定して苦しみ続ける。あっちが人のカレシカノジョを奪略したってそうなっちゃうんだよ。一生ねえちゃんと

仙台の人はそれで苦しみ続けて、きっと彼らが結ばれる可能性はゼロ」

「酷い話だな…」

「だからおれは、どんなに辛いことがあっても自殺はしない」

「わたしも、やめとこ」

「うん。そうしてくれ。普通に死んだって少しはそう思うのに、自殺だと尚更だ。まあだから、カレシ居ないのを

可哀想に思っても、紹介したりしなくていいからね」

「かしこまりました」わざと神妙に言って、

窓の外を見た。夜の街が後ろへ流れてゆく。

貫井くんが目指した街と反対方向に、わたしたちは向かっている。彼は新しい街で、かつて蛍子さんと同じ傷を

舐めた大人の男性だけを頼りに歩み始める。全然違う世界で生きていく。いろいろと不快な思いもさせられた

けれども、もう応援態勢に入っていた。逃げないで乗り切っていってほしいと、心から思った。

 

 

・3・ 

 

貫井くんが旅立った翌朝出掛けに、携帯のメール着信音が鳴る。

<仙台の旅館に着きました。とりあえず砂辺さんが報告しようと、一緒に撮ってくれました。また連絡します。ぬく>

蛍子さんとカンタとわたし宛ての一斉メールだった。その御曹司さんは、砂辺さんと言うのか。そしてこんな顔を

しているのか。なるほどカンタが、あの人がお兄さんになってくれたらと言ったように、蛍子さんとお似合いなかんじが

する、好青年だった。ダウンとシャツをグリーン系で統一し、旅館の跡継ぎらしい愛想よさを持っていた。貫井くんも

安心しきったような

表情で…やはり緊張感が皆無なのはなぜなんだろう? まあそれはいいとして、

<無事着いたんだね、よかった。報告たのしみにしてます>と、これまた一斉メールで返しておく。

昼間見たら、蛍子さんとカンタも、同じように一斉メールでがんばれーとか書いて送っていた。2日後に、始まった

仕事や生活の報告メールが来て、みんなで返信する。貫井くんは、メールだと丁度よい簡潔さと人なつこさで、

一緒にバイトしていたときよりも印象がよくなった。一斉メールにしてくれるしな。

と思った途端に、バスで大学から駅へ向かうときに携帯が震え、貫井くんからメールが来て、見ると送信相手は

わたしだけだった。

<会いたいです>それしか書いてないあたり、すごいリアルに言われたみたいに感じて、首から顔から耳から、熱く

なった。暫く悩んだ末、<みんなで会いに行くよ>と返し、返事は無かったのでほっとする。こんなこと、言えちゃうん

だなあ…メールだからかな…わたしは言えないし、もしかしたら誰に対しても思わないかもしれないというのに。

携帯を仕舞いながらバスを降りて、すっかり冬っぽくなってきた道を駅に向かっていると、途中のスタバから蛍子

さんが出て来た。

「あっ」同時に声を上げる。なんと、男の人が一緒に居る。

「みのりちゃん、学校からの帰り? あ、この子、職場お隣のお店のバイトさんで、みのりちゃん」わたしを男性に紹介

する。「たまたま、寛大の中学校の同級生だったんですよ」30代くらいに見えるスーツの男性が

「へー、すごい偶然だね」と驚く。てことは、カンタのことも知っているのか。

「この人は、わたしたちのマンションの契約保証人の古橋さん。今、サインいただいたところ」大事な話を随分詳しく

話すなあってことと、マンションに保証人なんてものが要るのかということとに驚いていると、

「叔母の知り合いだから、なっていただいたの」と更に説明した。「みのりちゃん、すぐバイト? ロッカールーム行く

なら一緒に行かない?」

「あっ、ええ…」実はまだ時間があったが、ロッカールームのベンチで時間を潰してもいいか、とか、ぐるぐる考えている

うちに、

「ではありがとうございました、ごちそうさまでした」と蛍子さんは男性に頭を下げた。

「ああ、またね。何かあったら連絡するんだよ?」男性は駅の中に入って行く。…よ、良かったのかな?

「あ、半端な時間だね。まだ早かった?」

「ええまあ…でもいいんです、はじめから、ベンチで本読むつもりでしたから。蛍子さんもしかして休憩時間?」

「うん。まあ、まだ時間はあるんだけど」

この様子だと、すぐに離れたがるし敬語だし、カレシでないことは確定だな。カンタの言う通り、男性との距離を

置きたがっているのは、本当かも。

「じゃあベンチでお喋りでもします? デライトでも寄って」

「そうしよ、そうしよ」

ロッカールームと休憩室の間にある、従業員の間でデライトと呼ばれる、JTの自販機で紙コップの珈琲を買って

いると、丁度カンタが来た。制服だが帽子は手に持っている。「あらま、きょうだい揃って休憩なんだ」思わず笑う。

「あんまりきょうだいって言うなよ」カンタは周りを気にする。

「別にいいと思うけどな」蛍子さんとわたしは肩を竦める。結局3人で休憩室に入り、テーブルを囲む。

「たっちゃん、がんばってるね」蛍子さんが3人に共通の話題だからか、貫井くんのことを話し出す。わたしはさっきの

メールを思い出し、少し焦る。

「だれもたっちゃんなんて呼んでないらしいじゃないか。ぬくでいいよ、ぬくで。本人も書いてたし」

「ぬくって、温いかんじがする渾名ですね」

「あの子、ぬくってかんじじゃないしー」蛍子さんは反論。

「確かに」それには同感。

「タツキってかんじでもないな」

「どんな字面だっけ」

「立ち上がるの立つ、に、基」

「うん違うな!」笑う。

「じゃああいつがアイドルの卵だとして、なんて芸名にして売り出す?」カンタはなんだかたのしそうだ。

「如月瞬!」蛍子さんの一声。

「宝塚かよ!」カンタのすかさずのツッコミに、噴き出しそうになる。このふたり、夕ごはんの度にこんな会話してそう

だな。「平尾は?」

「えっと、白石悠貴、とか? 今呼んでる小説の主人公の名前なんだけどね。因みに字面は、悠久のユウに、

貴族のキ」

「ほうほう」

「いいね」

「じゃあこれから、悠貴くんと呼ぼうか」

「単にだれかと間違えたと思われるだけだね」一頻り笑ったところで、蛍子さんが立ち上がる。

「おっと、時間だ。あ、寛大、古橋さんにサイン貰ったから。明日更新して来る」

「あ? ああ、宜しく」

「じゃ、みのりちゃん、後でね」紙コップを捨てながら出て行く。手を振り合う。

「帰ってからでもいいことを」カンタは不思議そうに見送っている。なんとなく、蛍子さんはこの話を終わりにしたそうに

見えた。古橋さんのこと、きらいなのかな。保証人になってくれるから、仕方無く会ってるみたいだ。「平尾、加藤

からメール来た?」

「うん、一往復した」やはり元カノは気になるか。

「また会うのか?」

「なに、混ぜてほしい?」わたしはからかってみたが、カンタは

「いや、いい」と言っただけで話は続かなくなる。さっきのテンションはどこへやら。

「あ、わたしもロッカー寄ってから行かないと。じゃあまたね」不穏な空気に気付かないフリをして、立ち上がる。

・・・そうだ。こいつはわたしをきらいなんだった。蛍子さんの前だとたのしそうなくせに、やなかんじだな。出口で振り

返ると、カンタはもう携帯を見ていた。

次の週、クリスマスディスプレイ満載のケーキ屋さんに寄り、小さめのデコレーションケーキを予約した。

「クリスマスプレートとか、お付けしますか?」と聞かれ、

「あ、いえ、誕生日おめでとうとか、ありますか?」

「はい、お名前お入れしますか?」

名前は旦那でもないのにへんだし、おかあさん、とか言うのは恥ずかしかったので断り、蝋燭も40代なので

4本にしておく。そう言えば、プレゼントを買うときもクリスマス包装にするか聞かれたな。12月生まれだといっしょく

たにされそうだ。

駅に戻ると、目の前を横切って走る人にぶつかりそうになる。

「すみま…あ、平尾」カンタだった。

「何慌ててる? 蛍子さんがどうかした?」

「いや、違う。ごめん、今まともに喋れん、またな!」走ってきたせいかなんだか、真っ赤な顔をして、改札に消えて

行く。

カコにでも偶然会って、いや、そんな純情な小学生じゃあるまいし。ホームに行くと電車は出たところで、きっと

カンタはそれに乗っただろうと思い、ちょっと安心して次のを待つ。イルミネーションもクリスマス装飾で、きれいだ

なあと思いつつゆっくり眺めた。

家に着いたと同時に携帯が震え、カンタから

<みっともないところ見せた、すまん>とのメイル。喋れんとか、すまんとか、あんたは頑固親父か。返信ボタンを

押して打ち始めようとしたが、何を書くか思いつかず考えるのも面倒で、善人モードは辞めて返事をしなかった。

そのまま学校のノートをまとめていると、またカンタからメールが来て、

<明日の夜、メシ食えない? 加藤も一緒>とある。なんだそりゃ。

<ふたりで行ったら? より戻せるかもよ>

<誰が戻したいなんて言ったよ!>

<じゃあ約束するなよ…。電池無くなるから、またね>そして電源を切ってしまう。しかし勉強には集中できず、

鬱々といろんなことを考える。

…あのふたり、アドレス交換してなかったよね。わたしとカコは赤外線で送り合ってたけど、カンタとはしていな

かった。後で偶然会ったか、でなきゃどちらかが押し掛けた…カンタの職場に? カコは実家に住んでるみたいから

知っててそっちに? …まあいいよ、関係無い。ふたりがうまくいったらそれなり嬉しいし。

でもなんか、わたしにもっとオープンにするか、全く内緒でもっと形になってから驚かせるか、どっちかにしてくれ…。

「また会うのか?」カンタの声が甦る。あのときには約束は決まっていて、わたしとは約束があるのか、またはその日に

わたしも来るのか、確かめたかったんだろう。カコはわたしに何も言わないってことは、ふたりがよかったんだろうが。 

翌朝起きて電源を入れたら、新着メールは皆無だった。電源切る必要無かったし…学校の後バイトはあった

ので会わないようにロッカーからお店までは気を遣った。暫くして私服のカンタが通路から店の中を覗いているのが

見えたが、商品整理をしていたわたしは思わず棚の影に隠れた。お客様にへんな目で見られつつも頑なにそこで

こっそり通路を見る…ほんとになんなんだ。カンタが見えなくなったのでまた普通に仕事をし始めると、蛍子さんが

目の前に居た。

「わっ」

「ごめんごめん、100円玉の棒金があったら、換えてほしくて」

「あ、聞いてみます」レジに行く。カンタにわたしが居たと言わないでとは言えずに、蛍子さんを送り出してしまった。

「みのりちゃん」店頭に蛍子さんが戻って来る。

「寛大がさっき探してたけど、会えた?」

「…いえ、今日は見てませんが」咄嗟に嘘をつく。

「わたしはすぐに会えたのに、運の無いやつ。今携帯はロッカーだから、また来るのを待つか」蛍子さんは踵を返して

自分の店に戻る。また来るって? 

しかしまたもや、不安に思ったのも取り越し苦労、来やしないし。

レジを閉めて防災センターに行くとき少し構えたが、カコとごはんの約束をするくらいだし、私服でウロウロしてた

し、非番だよな、と思い安心して行った。案の定窓口は違う人で、おつかれさまですと言いながら点検表を出す。

一度店に寄って鍵を返し、タイムカードを押してロッカーへ。今日は蛍子さんは早番で、もう居ない。携帯を見る

と、蛍子さんではなくカンタからメールが来ていた。

<加藤とのメシは、やめにした。それとは別に相談がある。6階レストラン街の噴水の脇に居る。>…閉店時間が

送信時間。どうしてこういう、紛らわしいことをする? わたしをきらいな癖に。この展開は、逆に見えるではないか。

小説とか漫画では、そうなんだ。まさかそんなのの当事者になるとは。しかも、本当はきらわれているって、どういう

ことだ。わたしはなんとなく頭に来て、きらいならきらいと言え! 誘うな!と言うために、6階へ行った。

しかしまたしても、噴水の縁にはやつの姿は無かった。あいつ、どうしてくれよう!     

周囲を見回すと、ラーメン屋さんのディスプレイの前からこちらを振り返って見ていた。

「あ、来た来た。此処にしようぜ」とさっさと入って行ってしまう。コラコラ!「ふたりです、煙草は吸いません」とか

言ってるし!

「ちょっと!」

「早く来いよ」暖簾のむこうから。

「ああっ?!」もう見えない。「ちょっと待ちなさいよ!」意外にすぐ傍の席に居るし。

「えーと、タンメンと半チャーハン。おまえは?」

「醤油とんこつ、煮たまご入れてください」はっ、つい、メニューも見ずにいつものを頼んでしまう。

「あれっ、よく来るのか?」

「この階では一番来る。…てか、あんたね。人の都合も聞かんと…」

「そんなら違う店にすりゃよかったか」

「そうでなくて!」

「おまえ、俺のこときらいじゃないとするじゃん」水を飲みながら、さらりと言い出す。

「何、なんの話…」

「で、恋愛ではない意味でまあ好きだとするじゃん。例えばの話ね」

「はあ」

「俺がラブホとか誘ったら来る?」…わたしは立ち上がって

「帰る」と行きかけた。

「あほか、例えばだ。誰が誘うか!」袖を引っ張られ、また席に着く。

「…何が言いたい…」

「普通行かない、と言ってほしい」

「答えを言うなよ…まあ、わたしは行かない。恋愛の意味で好きでないなら、行かない」

「だよなあ」

「行く子も居るかもしれないけど」

「軽いよ」

「あと、好きになるかもしれないと思うくらいなら行くって子もいるかも」

「あ、それは定義ではない」

「…カコに誘われたの?」厭な予感に顔をしかめながら聞く。

「…加藤には知らないふりしてくれな。此処は奢るから」

「なんの取引だよ…まあ、知ってるなんて言えないよ。カコはなんで誘うかな。あんたのこと好きなの?」

「…あいつ、ほいほい気が変わるから、信用できない」…カンタははっきり肯定しなかったが、なんとなく、たぶん

好きだと言われたのだろうと判る。

「やっぱ好みなんだねえ、どこがいいんだか」

「うるせー」

「高宮は、きらいじゃないが恋愛の意味では好きでない、ていうわけ?」

「だから行かなかった、逃げて来た」…ああ、あのときだから赤かったのか。ごはんならいいでしょって言うから、もう

一度約束したけど、おまえに言われて辞めた」注文の品が来る。「まず食おう、のびる」

平日の9時過ぎだからか、店内は空いていた。普段は休日の11時半くらいとか、休憩がほかの人とかぶったら

来る。ひとりではラーメン屋さんは入れないので、マックやカフェ・ド・クリエに行く。12時を過ぎるととても入れない

ので買ったものを休憩室で食べたりするし、そんなに来るわけではないが、なんだか不思議なかんじがした。目の

前に居るのは同僚でなく、カンタなのだ。端から見たらカップルに見えるんだろうか。でも実はきらわれているのだ。

そう言えばサシでごはんは初めてだ。

「中学のときも、カコが付き合おうって言ったの?」わたしは食べながら、チャーハンにラーメンに忙しく食べている

カンタに訊いた。

「うん」もごもごと口の中のものを飲み込んでから、「正直俺、2年で同じクラスだった、図書委員会で会うだけの

あいつをそういう目で見てなかったから断ったんだけど、無理矢理」

「カコが高宮を狙ってたのは知ってるんだけど、そのへん言わなかったんだよねー」

「植村と付き合い出したときは聞いた?」

「うん。告白された、付き合うって、その日のうちに」

「植村のことは自慢したかったのかね。サッカー部のアイドルだし。俺だと自慢はできない」

「そのへんは解らないけど…スイッチしたのは手応えが無かったからじゃないかと、今では思う」

「ああそうかも。ねえちゃんも、偶然会ってカノジョできたのバレたんだけど、自己紹介までしたのに2日後には居なく

なってたから、そういうことじゃないかって」

「今度はどうなんだろねえ。因みにそれからカノジョは居た?」

「ひとり。教習所通ってたときにやたら話しかけて来る女子がいて、1年くらい付き合ったかなあ」

「…それも告白されたわけ?」今実は、居ないよ、と言われる気がしていたのだが、意外な答えに驚愕した。しかも

告白された、に頷いていやがる。知らなかった、モテるんだ。「へー、罪な男」

「いや、すぐに手に入りそうってだけだよ。まあ罪は罪なんだろうな、俺たぶん、彼女のこと好きじゃなかった」

「…はあ?」

「恋愛って、よくわかんない。愛着はあったから続いたんだろうけど、フラれたときは寂しくなったけど、なんか、大事に

してたモノを失したくらいの痛手で、すぐになんでもなくなる」…それは家庭環境とかそういう問題でかも、と思ったが

よくわからないので、言葉を飲み込む。「おまえはどうよ、ぬくみたいに慕ってくれる年下もいっぱい居そうだし、年上

にも、特におじさんとかに可愛がられそうじゃない? ブイブイ言わせてんじゃないのー?」

「なんにも無いよ」ラーメンに戻る。

「無くていいとか思ってるだろ」手が止まる。図星だ。「慕っても可愛がっても、近寄るなオーラ出てるから、それ

以上になれないで泣いてる男は居ると思うけど」

「…いや、単にモテないだけだって。カコみたいに可愛くないし」誤魔化して、食べ続ける。

「まあ、別に相方居なくたって、今は女でもピンで生きていける」

「芸人か」またチャーハンを崩し始めたカンタを盗み見ると、顔はやはり蛍子さんに似てるなあ、と思う。地味だけど、

整っているのだ。蛍子さんほどすぐに、きれいな人、とは思えないけど悪くない。しかし、今も喋ってはくれるけど、

あの休憩室で3人で話したときみたいなたのしさは、皆無だ。普通の女の子には、もの足りないのかもしれない。

だから、寄って来た子が離れて行く。しかもこいつ、なんとも思ってないし。あんた一生そんな調子だよ。…わたしも

な。来てしまえばいいのだけれど、約束も、思い立ってのお誘いも、甚だしく面倒臭いのだ。そんなオーラは、きっと

出てる。貫井くんもわたしの表面的な人のよさには少なからず疑問に思っていたわけだし。

 食べ終わり、会計のときに払わせてくれないので

「ろくに相談に乗ってないよ」と言うが

「口止め料。次は割勘な」と言う。次もあるのか? へんに勘繰ってしまう。一応ごちそうさまと言って、電車も途中

まで一緒で、別れたらもう11時を過ぎていた。…そうなのだ。今日だって、まとめなくちゃいけないノートがあったし、

電車で本も読みたかったし、誰かと一緒に過ごすと、自分がどんどん削られる気がするのだ。ほんとうはそんなこと

考えたらいけないんだろうが、どうしても思ってしまう。わたしってきっと、すごい自己中心的なんだろう。厭な人間

なんだ。

高宮が降りてそんなことを考えていたが、少しでも本を読みたくて鞄を開けたが、携帯が点滅してるのが見えて

取り出す。…やばっ、うちから2回着信があった。連絡し忘れた。わたしは駅に着くとすぐに、電話を入れた。

「おかあさん、ごめん、言うの忘れてた。今駅だから」母は、怒っていたというよりは心配していたようで、安堵した

声で気をつけてとしか言わなかった。家に帰るとダイニングテーブルには何も乗っていなかったが、冷蔵庫にひとり

分の夕ごはんのおかずがラップして残っていた…嗚呼…わたしは母の後ろ姿に、ごめんなさいと呟いた。風呂から

上がって来た父は、

「おっ、不良娘、帰って来たな。うっかりもあるだろうが、ちゃんと連絡しろよ」と言う。わたしが夜遊びをしたり、わざと

連絡しなかったりなんてことは、まるで考えていないようだ。

12月になって、学校でもふたり連れをよく見掛けるようになった頃、

<年末年始、休みが取れました。高宮家に滞在します。初詣、一緒に行ってくれませんか? ぬく>貫井くん

からメールが来た。わたしはバスの中で携帯を落としそうになる。どうしよう、みんなと行こうよ、ではだめなのかな。

終点まで目一杯悩んだ後、蛍子さんに相談メールを投げてみる。すぐに返事が来る。

<べつにカレシカノジョでなきゃふたりで会っちゃいけないわけでもなし(状況に寄るけど)、行ってみたら? みのり

ちゃんに、誤解されて嫌な人が居れば別だけど>…そう来たか…まあ、カンタとごはん食べた感覚で…って、あれは

約束ではなくて流れだけど…。まあ悲しくも断る理由が何も無いので、蛍子さんにはお礼を、貫井くんには

<うん、行こうか>と返した。速攻、

<うわあ、ありがとうございます! 楽しみにしてます! ぬく>と返って来た。あー、そんなに喜ばないで…。

夜になって、夕食後に部屋に戻ると蛍子さんからメールが来ていた。

<雇い人からメール来たよ、たっちゃん、すごい張り切って仕事してるってさ。片想いの人と初詣の約束したって。

可愛いねえ>か、片想いってえ…力抜けちゃうよ。そこでまたメール着信。カコだ。カンタとの対話から数週間、どう

したかな。

<明日オフなの。会わない? 空いてる時間ある?>例によって面倒な気もしたが、カンタのことをまた言わない

のか意地悪な興味が勝って、

<学校は午前だけ。夜は、母が誕生日だから帰りたいけど、バイトも休んだし、その間は暇だよ>

<じゃあランチしよ。大木原に何時頃着く?>などとやりとりし、ランチの約束をした。

貫井くんを拾った洋菓子店の脇での待ち合わせに、数分遅れてやって来たカコは、真っ白なコートから赤系の

チェックのスカートを覗かせ、ロングブーツを鳴らして駆け寄って来た。雑誌のモデルそのものだった。「お待たせ、

何食べたい?」

「うーん、洋食。オムライスでもパスタでもいいんだけど」

「おっけー、こっち口にアフタみたいなお店できたの知ってる? 行かない?」

「知らないや、行こう行こう。忙しいだろうに、よく知ってるね」

「最近よく来てたから」カンタと? どうも勘繰ってしまう。「仕事行くとき乗り換えで使う駅だし」

お店はカコの好きそうな、お洒落な雰囲気だった。雑貨屋さんとカフェで、メニューもお洒落だ。わたしはオムライス、

カコはドリアを注文する。ウエイトレスが去るといきなり

「あのね、高宮にフラれちゃった」とか言うから、わたしは飲みかけた水を噴き出しそうになる。カコもカンタも、前

置きが無さすぎる。

「そりゃまた急展開なニュースで…」

「やっぱり再会して再燃して、アタックしてフラれた。もっと落ち着け!って言われた」申し訳無いけど、爆笑する。

「それ、的を射てるよね。なんか、テンポは合わない気がする。攻めたらビビりそうじゃない。カコって性急な気が

するんだけど、ああいう自分から動かないのイラっと来ない? リードしてくれないかんじするじゃない」言いながら、

自分であれっと思う。最初そう思っていたけど、なんか違うな。

「わたし、自分が仕切りたいからああいうのが好きなの。でもわたし、威嚇的だよね」カコはそう思っているのか、否定

しない。

「威嚇的って…」笑う。「仕事上、もっといいかんじの人居るんじゃない?」

「ああいうのがいいのに、ああいうのは現場に居ないからねえ」

「ああいうのは、確かに芸能人には居ないだろうなあ」

「まあまたああいうのを探すわ。忙しくても、ああいうのを誘ったり連れ回したりするのは、別の活力でさ。仕事も

恋してるほうがたのしい」ふたりして、ああいうの、を連発する。

「面倒臭くない?」

「やだ、婆くさいこと言わないでよ。なんか、よく知らないけど蛍子さんとみのりって、そういうかんじよね。勿体無い。

高宮に聞いたけど、貫井くんも一斉メール送って来て、あんた返すのも一斉なんだって? サシでやりとりしなよー」

笑っている。サシメールもしてるが、内容を考えて言わないことにした。食べながら貫井くんや高宮きょうだいの話を

して、買い物につきあって、夕方別れた。「今度は言えてよかった。言っておくけど、中学のときのも内緒にしてた

わけではないからね。なんか色々と次から次で、話したいことがいっぱいあるから、全部言えてないのよ。まあ今は

毎日会えなくてもメールあるしね。カレシできたら写メるから。じゃあね!」…なんと。気にしていたとは露ほども

思っていなかった。いいなあ、ああいう、何の計算もせずに思った通りに生きているのは。

例のケーキを受け取って電車に乗ると、もう5時半だ混み始めていたがドア脇をキープして、ケーキ箱を潰さない

ように抱えたとき、後ろの手摺に捕まっていた男性に肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、父だった。

「焦ったー、今日は早いね」

「特別な日だからな」とプレゼントの包みを少し持ち上げる。父は自分の誕生日はともかく、母のとわたしの誕生

日、そして結婚記念日はキッチリ定時で上がって来る。母も今日は普通の夕食にするが、父とわたしの誕生日と

結婚記念日は、ゴージャスなごはんにする。きっと今頃は、今年も忘れないでくれてるかしらとドキドキしながら、

平静を装って待っている。わたしたちも朝は何も言わずに、夜はケーキとプレゼントで覚えてるよとアピールする。

なんだかこそばゆい、うちのやり方。しかしもうこれ以外は考えられない。

駅からの道、父に母とはお見合いだったのか聞いてみる。

「なんだ、知らなかったのか? 職場で知り合ったんだよ。なんかテンポとか、距離の取り方とかが合うんでいい

なあ、と思って誘ってみたら、ちょうどおかあさんもそろそろ結婚考えなくちゃと思ってたところらしくて。トントン拍子に

ゴールイン」

「へえ、やっぱりテンポとタイミングとバランスは大事なんだね。小説に出てた」

「まさにそれだね。おとうさんもそう思う。…なんだ? みのりも結婚を意識し出したか」

「やめてよ、それ以前に付き合うどころか恋もできてないんですけど!」

「ほんとか? 19にもなって情けないなあ」

そうしてうちに着くと、ささやかなお祝いが始まった。

 

クリスマスはなんの関係も無く過ごして、大学やバイトの仲間と忘年会をしているうちに、27日になった。

わたしは31日までバイトがあるが、今日からお休みの貫井くんは、午前中発の飛行機で帰って来る。迎えに行け

る、たまたま休みだったのはカンタだけで、蛍子さんとわたしは、貫井くんの近寄れない場所で働いていた。

夜は4人で会う約束をしていたので、仕事上がりに蛍子さんと待ち合わせて、蛍子さんたちの最寄り駅前の

ファミレスへ向かう。店頭で

「あ、ここですか」などと言っていると、

「平尾さん!」と貫井くんが駆け寄って来て、いきなり抱きつかれた。

「うわっ、ちょ、ちょっと貫井くん?!」じたばたしていると、横断歩道を渡ってカンタが曖昧に笑いながら近寄って

来るが、素通りして蛍子さんのほうに行ってしまう。

「先入ってるからな。ごゆっくり」扉を開けたらしくカランカラン、パタンと音がした。道行く人に見られつつ、力任せな

貫井くんに

「ちょっと、ろくに顔も見てないんだけど」と言うと、素直に離れた。久しぶりに見る彼は、なんだかいいかんじで成長

していて、同じ年くらいに見えた。

「会いたかった、ほんと、それだけがほんと辛かった…」そんなこと言われたこともないし、そんなふうに目を潤ませて

じっと見られることもないし、調子狂いまくりだ。

「そっ、そりゃあどうも…いや、元気そうで良かった」と目を逸らして言うのが精一杯。「入ろうか…」さっさと扉を開け

てしまう。

「はい」こどもみたいに返事をして、ついて来る。ウェイターに待ち合わせでと言って、蛍子さんたちを探す。奥の

ほうのブースに座っていて…蛍子さんの隣を、カンタがキープしてしまっている。あんたねえ…貫井くんと並んで座る

ことに抵抗を覚えながらも、蛍子さんの前に座る。お待たせして…と言いながらコートを畳み、鞄の上に置く。

メニューを見ていた蛍子さんは、顔を上げて貫井くんにお帰りと言う。

仕事の話を色々聞き出し、大層真面目に働いているらしいことが解った。今までとは人が変わったみたいに

しっかりして、親許を離れて自分で生きていくってすごいことなんだなあ、と思った。

「春はこっちから行こうぜ。ぬくの働いてるところ見なくちゃ」カンタはこちらを見ながら言う。完全にくっつけようモード

だな。先に自分をなんとかしろってえの!

11時を回ったので、わたしはおいとますることにした。そのとき、カンタが貫井くんに目で合図するのが見えて

しまった。

「改札まで送ります」貫井くんが立ち上がる。まあ、立ってくれないとわたしが出られないので、送るためにわざわざ

かは判らないが。

「…いいよ」わたしは貫井くんではなくカンタを見て言う。「すぐそこだから。初詣の件は、31日にメールするね」最後

だけ貫井くんに視線を戻して、食事代金を置いて出口へ行った。

「…ばーか」蛍子さんの声が聞こえて、扉が閉まった。わたしに言うわけはなく、100パー、カンタにだ。

 

翌日職場で蛍子さんに会うと、

「昨日はうちのヒロバカが不快な真似してごめんね」と言って来た。

「蛍子さん、やっぱり解ってましたか」

「逆効果だって注意しといたから。昨日はいろいろ作戦立ててたみたいでね。まあ、この2ケ月、男同士メールで

語り合ってたみたいだから、どうにかしてあげたくなっちゃったみたいなんだ…悪く思わないでやって。あ、あとあの

ハグは貫井くんの衝動で、寛大もやるなあって言ってたから、作戦ではないみたいよ」思い出しただけで赤面して、

話を逸らす。

「…貫井くん、借金は返したんですか? えと、寛大くんに」

「ああ、返したみたいよ。その上で飛行機代とか払って来るんだから、やっぱり稼いだんだなあ…」先を言いかけて

口をつぐんでいる。自分は弟のような過失は避けたい、と言わんばかりだ。

閉店後防災センターへ行くと、窓口はカンタだった。

「あれっ、仕事なんだ」

「シフト決まってから、ぬくが来るの聞いたし」何を言いたいのか解ったみたいだ。「おまえも働き過ぎなんじゃねー

の?」何が

言いたいかはすぐに解るが、解らないふりをする。

「そうだね、帰って寝よ」わたしは店に戻った。…暇してるのかなと気になった。しかし翌日は休みだったにも関わら

ず、メールもしなかった。へんに期待させても…いやもう初詣約束した時点でまずいのか。ああ、どうしたらいいんだ。

はっきりと断るほうが親切なのか。一歩も家から出ずに過ごす。母とうち中をはちゃめちゃ掃除して、ふたりで悦に

入っていた。

31日に出勤して早番で上がったときに、なんとなくだるいのでまっすぐ帰って熱を測ってみると、なんと39度も

あった。や、やば! キャンセルなんてしていいんだろか。でも実際、これで人混みを歩き回るのは無理じゃ…。

これは正直に謝り、誠意を見せるしかないかな。37度まで下がっていたら行くけれど、近場にしてほしい、でも

うつすかも、下がってなかったらアルバイト休みの三賀日のうちに仕切り直し、4日に貫井くんが発つまでになんとか

したい、という旨を伝えた。

すぐに返事が来て、

<だめなら残念ですけどガマンします。お大事に。また明日、10時頃メールします。あったかくしてよく眠ってください

ね。 ぬく>

少しほっとして、くすりを飲んで眠った。

翌朝は8度6分だった…メールでお断りを入れ、両親は心配しながら近所の神社に初詣に出掛けて行った。

時計の音しかしないような静かな時間を過ごし、午後になって両親が帰って来た音がする。部屋のドアを開けて

母が

「ただいま。破魔矢、机に置いておくね」と入って来た。

「ありがとう」

「お見舞いが来てるんだけど、入れていい? リビングに来る?」

「へっ?!」も、もしかして…。

「駅前で男の子ふたりが‘あ、今日って元旦じゃないか’って話してるの聞こえてきて、面白いなあと思って聞いて

たら、なんかあなたのお見舞いに来たらしくて、おうちの人に迷惑だから帰ろうってなったみたいだから、どうぞって

連れて来ちゃった」

「ズバリ…あのふたりか…」ガックリして「…女の人は居なかった?」と聞く。

「居ないわよ」そりゃそうか、蛍子さん居たら、元旦に家族持ちを訪ねるなんて、するわけないか。しかし、あっ

今日は元旦かって…。トイレ以外出歩く元気は無かったが、部屋に入れるのは抵抗があり、リビングに行くと言う

が、実際ふらふらだったので、母が

「呼んで来るから寝てなさい」と言って出て行った。ふとんを鼻まで被る。「どうぞ」ダイニングの椅子を持ったふたりが

入って来た。

「平尾さん…ごめんなさい、急に来て」

「元旦に、悪い…」ふたりともバツが悪そうにして、その椅子をベッドの脇に置き座った。

「うち…探すつもりだったの?」

「住所録は持ってたから、それ見て、相田ん家から近いかなって」目星はついていたとは言え、なんつー世話

好き…。

「熱は、変わらず、ですか?」

「朝測ったきり」母がお茶を持って入って来る。

「高宮くんたちは、おひる食べた?」

「あ、はい。大丈夫です」

「みのりは? 朝スープ飲んだきりだけど、おなか空かないの?」

「…いい」貫井くんの同情的な視線を感じる。

「そう、おなか空いたら呼んでね。じゃ、ごゆっくり」

「いただきます」母が出ていくと、少し沈黙した。高宮にはおかあさん居ないし、貫井くんの話にはおかあさんが出て

きたことはなく、居ないかもしれないし、なんとなく申し訳無く思う。

「…すごい本ですね」貫井くんが、本棚…というより壁一面を見る。梯子つきで本棚を作ってもらったのだ。優に

千冊はあるだろう。しかも気に入った一部だけ残したので、読んだ数はこんなものではない。「本屋さんでバイトする

わけだ」

「中学のときも図書委員だしな」

「ひょえー、徹底してる。ちょっと見せてもらっていいですか」

「…どうぞ」

「ありがとうございます」貫井くんは立ち上がり、本棚を見て、わーとか、あーとか言っている。ちらりとカンタを見ると、

興味無さそうにお茶を啜っている。わたしの視線に気付き、ぐっとなって噎せた。

「俺も見せてもらお」本棚のほうへ行く。

「平尾さん、一番好きな本てどれですか?」枕元に来た貫井くんが言う。

「…選べないよ」苦笑。

「じゃあじゃあ、俺が読むべき本は」

「…えー?」少し考えるが、出て来ない、というか思考力が無い。「考えておく」

「絶対読みますから」

「ぬくが本読んでる姿、想像できねー」

「寛大さんこそー」笑う。

そしてもう少しだけ本を見てから、ふたりは帰って行った。父は何も言わなかったが、母に散々からかわれた。鋭い

ことに

「貫井くんってほう、あなたのこと好きなのかしらー」なんて言う。黙殺しておいたけど。

夜には食欲も出て来て熱も7度になる。3日には埋め合わせができてしまいそうだ。

2日にメールしてみると、初詣を待ってくれてまだ行っていないそうなんで、3日に行くことにした。約束の場所に

行くと、貫井くんはもう来ていて、わたしを見つけると笑顔で手を振った。わかった、この子、よくポスターの出てる

ゲームのCG画の主人公に似ているんだ、あんなにがっちりはしてないけど。それを言うと

「えー、あんなにかっこよくないですよ」と真っ向否定。自分のかっこよさに気づいてないのだろうか? そして「ほん

とに大丈夫ですか?」と心配そうな顔をする。

「うん、もう平熱」昼餉を食べてから電車で目当ての神社に行き、御神籤を引いてくくりつけ、それからバイト先とは

正反対のほうの繁華街に出てお店を回ったりした。意外にも余り気を遣わずに色々話せた。やはりバイトをして

いたときとは違っていたし、今日はあんまり熱い想いを感じなかったので普通でいられた。

「じゃあ、明日は送りに行ないけど」電車を先に降りるわたしは、停車前にまとめに入った。「これお見舞いのお礼。

お薦めの本。元気でね。またいつか」

「あっ、ちょ、ちょっと待って」電車が停まって降りかけたわたしに、「俺も渡したいものが」とリュックサックからロフトの

包みを出し、差し出す。

「ええっ、なんで」

「またメールします」

「あ、うん」発車ベルが鳴るので、貰って降りる。「わたしもする」

「平尾さん…」ドアが閉まる。手を振る姿が硝子越しになり、遠ざかる。顔はせつなげで、捨てられた犬のよう。

わたしも手を振った。

…っかー。なんかなんか、デートだったなあ。ヤバいことしてないか、わたし。罪悪感に悩みつつ帰宅し、貰った

ものを見ると、皮のブックカバーだった。ちゃんと手紙つき。

‘もう、いいの持ってるかもしれないけど。今日のお礼と記念に。また会いたいです。ぬく’…なんだかじわんと来た。

なんとも思わないわけではないらしい。

とりあえずお礼メールをし、本読みますという返事が来る。それを読み終えた頃にもう一通、追記と題したメールが来る。

<あなたの家族の方やおうちを見て、あなたがどうしてそんなに優しいのかわかりました。俺に今日付き合ってくれた

のも、そのやさしさの一部でしかないことはわかっています。それでも構いません。あなたが存在してくれるだけで、

救われます>

「なんなのこの子は…」涙目になる。文豪の小説の言葉に負けない、すごい言葉を知っている。

それに返そうとした言葉はあまりにも陳腐で、全て消して‘ありがとう’だけにした。

翌日は正午から閉店までのシフトだったわたしは、早めのおひるを食べてからお店に行った。タイムカードを押す

ためにお店を通り抜けていくとき、若林さんたちがたまっていたので新年の挨拶をする。

「お、今年も宜しく。店長今、スペシャルゲストと話してるよ」

「はあ。入っていいんですか?」

「入んな入んな」まさか社長?と思いつつノックをして入ると、なんと貫井くんが居た。

「あれっ?!」頗る照れくさそうに、貫井くんがにっこりする。

「なんか家庭でいろいろあったらしくて、今仙台に居るんだって」店長が、わたしは知らないふりで話をする。「わざ

わざお詫びに来てくれたんだよ」机の上には、菓子折が置いてある。

「ご迷惑をおかけしました」

「えっ、わたしは全然」

「見違えちゃったよね。頼り甲斐ありそうな、好青年になっちゃって」わたしは頷いた。店長と話が続きそうだったの

で、タイムカードを押してお店に出た。商品整理をしつつ隣を覗くと、ちょうど蛍子さんが顔を出した。

「あ、来た来た。体大丈夫? 今日休みかと思った。来てるでしょ?」

「大丈夫です、12時からです、来てますね」順々に答えて、笑う。「蛍子さんが、謝りに行きなって言ってくれたん

ですか?」

「いや、自分からよ。昨日の夜、わたしたちに相談して来たの。こういうこときっちりしてないと、嫌われますよねって」

「…へ?」

「よく解ってるんじゃない? みのりちゃんのこと」

「それでってのも、どうかと思いますけど…」とか言いつつも、顔が紅潮する。

「まあ、そういうところから定まっていくんじゃない。価値観て」まあ、わたしの本が見本てのもそうだ。「デートはどう

だったの?」

「…たのしかったです」自然と言っていた。

「ほんとー」蛍子さんは一瞬驚いてから、笑顔になる。「今日わたしがお見送りなの。同じお店なら代わってあげる

のに」

「あれ、寛大くんは?」

「仕事。夜窓口だってさ」

「はあ」店内が賑やかになって、見ると貫井くんが出て来て若林さんたちに挨拶していた。で、こちらに来る。思わず

手が出る。

「えらいやん」わたしは貫井くんの頭を撫でてしまう。蛍子さんも貫井くんもびっくりしている。というか、わたしが一番

びっくりだ。貫井くんも赤くなって、

「じゃ、一回戻ります」と蛍子さんに言う。わたしに別れの挨拶をして、去って行く。蛍子さんはニヤリと笑って、またねーと

だけ言う。わたしは

赤い顔のまま、仕事を始めた。

 

仙台の学校の先生になったわたしは、彼の職場兼住居の旅館の近くに住むことにした。この3年強、わたしは

寧ろ彼の言葉に支えられ続け、傍に居たいとまで思うようになったのだ。

高宮きょうだいは相変わらずで、蛍子さんは異動になったが同じ会社に居てかんじのいい雑貨店員、カンタは

あの駅ビルの防災センターでやる気の無い警備員。本人からは何も言われないが、カンタの話だと、最近蛍子

さんは休日に、メールの着信の直後に出掛けたり、ちょっと怪しいらしい。カンタはどうなんだか、貫井くんも気にして

いる。

カコはモデルで活躍しつつ、お笑い芸人の中でもちょっと二枚目でおとなしそうな人と入籍、たのしそうに過ごして

いるのがメールからうかがえる。

小説にしか出て来ないようないろんなことが現実の事件として重ね重ね降りかかった、19になったばかりのあの

秋冬のことは、忘れない。心の友とも言えるあのメンバーと、みんな一緒に過ごすことはもう二度と無いかもしれ

ない。わたしは本の中の人のようになるべく取り繕いながら生きて来て、逆に無自我的な疑惑も抱いていたが、

その辺りも引っくるめて全てを認めてくれた人と、これからも理想の自分を追い続ける。かつて貫井くんが努めて

変わったように。

いいと思える方向に、確実に、少しずつ。

                 

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