小林 幸生 2007
物書きの仕事をしつつもアルバイトに明け暮れ、そちらに通い易い住まいを探してしまっている自分が居る。何やってん
だかなあ、と思うけれども、実際は印税よりもその収入の方が上なのだ。
ついこの間叔父の葬儀があって、久しぶりに会った姉の藍に何気無く話したら、夫に先立たれた彼女の家に離れが
あるので来ないかと言われた。最初はもう、家族とのつきあいも面倒になっていて、誰かと一緒に住むなんて考えられない
くらいひとりの生活に慣れてしまっていたので断ろうとも思ったけれど、誘ったり誘われたりしなければ行き来の無いことや、
その所在地が意外に自分に都合のよい場所であることが判って、そこへ越すことに決めた。
姉の家は、久しく訪ねていなかったこの数年の間に隣の敷地も買い取って、庭付きの、赤毛のアンのグリーンゲイブルズを
2階建てにしたような大きな家に改築してあった。僕の住む場所は、庭の端に姉のアトリエ用に作られたものだったが結局
行くのが面倒で倉庫と化している、プレハブだった。僕のために改装までしてくれると言う。母屋には姉と、いつの間にか入り
込んでいた妹夫婦と1匹の日本猫が住んでいて、寮生活をしている高校生の姪…姉の娘が休暇に帰って来るらしい。
引っ越す前に改装や家賃の相談も兼ねて一度行ってみたが、なかなかいいところだった。
「翠(すい)が居てくれたら、安心だね」妹の真白(ましろ)の言葉に、姉は
「会う度にひょろひょろになっていくわね…あんまり頼りにならないかも」と笑った。
それからひと月経った5月の終わりに、離れに引っ越しをした。翌日から雨になり、入梅の宣言がされた。
都心には車で1時間の郊外なので、裏手は森だった。窓からは雨に揺れる葉が窺え静かな時間が流れ、なかなか
創作意欲に刺激的だった。熱い珈琲を傍らにパソコンに向かい、食事はたいてい外食だけれど時々姉たちに招かれ、
ほどよい距離関係の生活に慣れていった。
6月に入ったばかりのその日は、駅近くで編集者と打合せをし、帰って来たのが午後2時くらいだった。雨を隔てて、
姉が母屋の窓から通る声を放った。
「翠、甘いものまだ好き? ズコットを作ったのよ、いらっしゃいよ」
「ああうん…行く」
「どうぞ」そのまま顔を引っ込め、玄関の扉を開けた。「珈琲でいいでしょ?」いいでしょも何も、この家に紅茶や日本茶は
無いのだった。
「確認するまでもなし」僕のところも珈琲しか置いていない。このきょうだいは、珈琲で育ったのだ。なにせ実家の両親は、
珈琲豆店のオーナー。
玄関でひとしきり ねことじゃれてからダイニングに行くと、知らない少女がズコットを切り分けていた。
「あれ、お客さんだったら遠慮したのに」挨拶もせずに、僕はそんなふうに言った。
「まあ、もう家族みたいなものだから」キッチンから姉の声がした。「ミュウを触ったなら、こっちで手を洗いなさい」こどもに言う
ように、姉は言う。
「はいよ」キッチンに行くと、姉は
「どう、あの子。狙ってもいいわよ」なんて言っている。
「まるでこどもじゃないか」
「歳の差なんて、関係無いわよ」
「それにしたって犯罪めいてる」手を洗い、皿に乗せられていたズコットを椅子の前に僕が運び始めると、少女は礼を
言い乍らナイフをキッチンに戻しに行き、珈琲を持った姉と共に戻って来て、3人で席に着く。
「雫(しずく)ちゃん、こっち、弟。翠っていうの。詩人の土井晩翠のスイ。知ってる?」
「はい、えっと、羽の下に卒業の卒でしたっけ」雫と呼ばれた少女は、頷いて言う。
「そうそう。翠、こちらは雫ちゃん。真白の友達の妹」
「どうも」高校1年生くらいなのに、なんでこんな平日昼間に此処に居るんだ? と、思っても聞けなかった。幼く見える
だけでもう大学生で、たまたま講義の無い日なのか?
「じゃあ、食べましょうか」姉が大袈裟に言い、雫と僕はいただきますと言って食べ始めた。
「へえ、こんなふうに広告出すんだ」僕は脇へどけられた紙を見て言った。
「それはホームページなのよ、確認のために刷ってみただけ。理興(さとおき)がやってくれるのよ」IT企業に勤める義理の
弟には、容易い作業だろう。姉の作品の人形たちの、写真と名前が出ている。
「高っ! こんなの買う人居るんだ」
「こんなのって何」睨まれる。
「ああごめんごめん、いやね、こういう、必需品でなくて、嗜好品じゃない、そういうのにこんなにお金かけるんだね、買う
人は」
「それを言ったら、あなたの本だって同じよ」
「文庫本だったら、何百円しか…」と言いながら、その人形のうちのひとつに目を奪われる。和装の、唐傘をさした人形が
居た。ほかはドレスなので、かなり目立つ。
「あら、どれか気に入った? 家族割引は3割かな、消費税も抜いたげるよ」
「僕が買うわけないでしょ。着物のなんて作るんだなって思っただけ」
「あら、雫ちゃんのことね」
「へ?」黙っている雫を見る。
「この雫ちゃんがモデルなのよ」言われてみれば似てるかもしれない。よく見ると、写真の下に'雫 shizuku'と書いて
あった。「たまに着物のも作ってるよ。今プリントアウトした中には、この子だけかな。なかなか似てるでしょ? 実は
気に入ってて、売れなきゃ売れないで嬉しいかもって。そうだ、本物見ない?」
「…いいよ」
「何、その即答! いいじゃないたまには。いらっしゃいよ」姉はさっさと2階へ上がって行くので、仕方無くついて行くと、
厚いカーテンをしと湿度調節をした部屋に、びっしりと人形が居た。正直ちょっと、気色悪い…。「この子が雫ちゃん」
「でかっ」身長40センチくらい? もっとある?
「あの値段の理由、解るでしょ。材料だって特別なもの使うわけだし」
「まあね。でもこんなでかいの、広い家にでも住んでないと買えないよね」
「広い家でさみしく暮らしている人が買うのかしら。孫を亡くしたおばあさんとか」
「……」
「なーに見つめてるの、ほんとに気に入っちゃったんじゃない?」
「違うっつーの。藍は、そういう人を慰めるために作っているのかなって」
「んな偽善的なことしないわよ。さっきのも、思い付いただけ」
「そう」
「…翠、あなたさあ、あっちじゃないわよね」遠慮がちに言い出す。
「あっちって?」思想の右左のことかと思った。今までの話と何の関係が?
「ゲイじゃないわよね?」
「はあ?!」思わず後ろを振り返るが、雫はついて来ていなかった。
「真白や理興と話してたんだけど…あなたって結婚もしないし、カノジョ居たことなんかあった?」
「…どーゆー発想だ」怒るを通り越して、可笑しい。
「みんな心配なのよ。物書きでちゃんと食べて行けるのかも」
「やだなあ、ちゃんと家賃払うから、見ててよ」アルバイトのお金でね、と心の中で付け加える。
「で、どうなの」
「ゲイではない」大真面目に言っている自分が可笑しい。
「二次元の女の子にしか興味無いとか?」
「二次元て?」
「こーゆー、パンフレットや雑誌に出てるとか、テレビに出てるとか」
「こーゆーって…人形で言わないでくれる?」
「だってなんか、雫ちゃんを見る目がなんか違うし」
「なんで人形…」なんかと言いそうになり、口ごもる。「どっちかと言うと、テレビに出てるような子はきらい。悪いけど、普通に
恋愛もしてきたよ。今はひとりだけど」
「そう?」疑わしい目。
「そうだよ。何年も一緒に住んでなかったのに、カノジョ居なかったなんて決めないでくれる?」
「…そっか、ごめんね、降りましょうか」雫という人形をもとの場所に戻す。なんだかこの人形は、伏目がちで元気がなさ
そうだ。人形なのだから不細工に作るわけないし美形なんだけど、なんとなく暗い。階段を2段ほど降りてから、姉は振り
返る。
「なんで別れちゃったの?」
「カノジョと? そりゃあ藍にだって、別れたカレシくらい居るでしょ、べつになんでってほど特別なことじゃない」
「まあね」前を向いて、下に着いてダイニングに入る前にまた振り返る。「ねえ、今ひとりなら、こっちの雫ちゃん、本気で
考えてみない?」答えずにいると「合うと思うんだよねえ」と、独り言のように言った。
あほらしいのでろくに話もせずズコットをたいらげ、さっさと離れに戻った。
けれども意外にも、パソコンに向かっていると人形の雫の顔が思い出される。僕はエクスプローラーを起動して、姉の
サイトを検索した。人形・雫は、居た。さっきの紙と同じ配置のサイトに、悲しそうな顔で佇んでいる。雫ばかりでなく、
姉の作品はどれも無表情か悲しげだった。例えばさっきの姉の顧客妄想、孫を亡くしたご老人が買い求めても、明るい
気持ちにはとてもなれないシロモノだ。けれどもこの前の葬儀のときも、注文の人形を発送しなくちゃいけないから帰る、と
言っていた。注文は入って来ているのだ。買う人は、どんな気持ちで人形を買うのだろう。
そして、人間・雫も同様に、悲しげな子だった。さっきも姉の言葉に笑うだけで喋っていない。黒い髪は肩までのスト
レート、色も抜いていないし顔も服も地味。あの人形を見ていなければ、もう顔も忘れそう。
その日の晩、昼間会った編集の人から確認の電話が入って話しているときに、真白が訪ねてきた。電話しているのを
見るとドアの外に出るが、まだ気配がある。電話を切ってからドアを開けると、仕事帰り風の服装妹は、いきなり謝ってきた。
「ゲイなんて疑ったりして、悪かった」
「別に」
「それでね…ねえ、ちょっと長い話になるかも。入っていい?」
「長いの?」露骨に嫌な顔をするが、構わず入って来る。
「珈琲でいいよ」
「珈琲しか無いし」仕方無く淹れてやる。
「ありがと。今度はさあ、翠の童貞説が上がっててね」
「…また何を話しているわけ? きみらは」怒る気も失せる。
「よかったら、雫ちゃんにお願いしてみない?」
「…何を?」
「オトコになるのをよ」
「ちょっと待て、どうしてそうなるんだ」
「まだオトコになってないことは、否定しないの?」
「そーゆー話、するかな、普通」
「なんか想像できないんだけど」
「想像できるってーのもおかしいと思う」
「それはそうか。はっきり答えなさいよ。どうなの、30になった翠くん、あなたは経験済みですか?!」大袈裟なジェスチャーで
こちらをビシリと指差す。
「…カノジョと続かないのは、その所為」堪忍して白状する。「どうやら不能みたい。というか、性欲が全然無い」
「……」ぽかんとしている。「そんな男、居るんだ!」
「でも全然困ってないから! 以上!」話を打ち切ろうとして、自分の空の珈琲カップを持って立ち上がる。
「いや、でもそれ、困ってないって…ヤバいよ、藍もわたしももう、石倉じゃなくなってるんだよ。従兄弟も居ないじゃん、石倉
家が無くなっちゃうよ」
「へえ、そんなこと気にしてるんだ! 藍ならともかく、真白が?」
「あのさあ」呆れたようにこちらを見ている。「真面目な翠には受け容れ難いかもしれないけど、雫ちゃんはお仕事だから丁度
いい…」
「交尾するのが?」遮る。
「エゲツナイ言い方しないでよ」
「なんでそんなこと仕事に…」
「本人に聞きなさいよ。やっぱりちょっと、やめさせようとは思ってるけど、お客が翠なら問題無い」
「真白は聞いてないのか? そんなことしてる子と、どういう関係なんだよ?」
「そんなことかもしれないけど、彼女を悪く言わないでよ。事情も聞かないでそんな言い方しないで。藍も理興も、彼女が
大好きなのよ。友達の妹なんだけど、ほら、文化祭の打ち合わせとかでよくうちに来てたグループの、幾多(いくた)、外国で
新聞記者してるって話、したよね」
「ああ、あのへんな名前の」
「わたしたちだって、充分へんよ」
「妹にそんな仕事させて、何やってんだよ、そいつは」
「行方不明。テロの取材してたから、もしかしたら、ねえ」
「……」
「ご両親も居ない。だから仕方無いのよ」
「それにしたって…」
「一度呼んでみてよ」
「べつに困ってないってば。なんでそんな、デリヘルみたいな真似しなくちゃいけないんだよ」
「うん、まさにそうよ。デリヘル」
「真っ平だよ、女を買うとか、そういうの、許せないし、できないものはできない」
「お金は藍が出すから、翠が買うんじゃないのよ。明日呼ぶからね、居るでしょ?」
「勝手に決めるなって」
「明日ね! ごちそうさま!」空のカップをこちらへ押し付け、出て行ってしまう。雨の庭を横切って、母屋に駆けてゆく。
「おい!」…べつにいいんだけど、口止めしなかった。これから3人で、僕の不能の話で持ちきりだ。明日、幾多の妹が
来たって、絶対に部屋に入れない。無意味だけれど今から鍵をかけて、ベッドに潜り込んだ。
翌日は朝から、酷い嵐だった。目覚めたら、人形も人間も、雫のことはすっかり忘れていて、すごい風雨の中アルバイトに
行き、暇で早めに帰され夕方帰宅し、門をくぐって真白に呼び止められて、初めて思い出した。
「ねえねえ、デリヘル呼ぶのは辞めにしたよ。ただ夕ごはんに招いたんだけど、一緒に食べようよ。理興も居て、翠とごはん
食べたいってさ」
「ほんとに?」疑わしい目で妹を見ていたと思うが、雨であまりお互いの顔は見えない。
「こっち来てから、彼とまだごはん食べてないでしょ? たのしみにしてるよ」
「なら行く」不能の男として眺め回されるのは覚悟して、一度離れに荷物を置いてから伺う。母屋に入ると、姉は玄関で
電話中で、義弟とダイニングで挨拶をしているうちに電話を切り、こちらへ来た。
「残念、雫ちゃん、電車止まってるから今日は来ないって。みなさんに宜しくだって」
「がっかりした?」真白が無邪気に聞いてくる。敢えて黙殺していると、
「じゃあ、いただきましょうか!」と理興くんがさして残念でもなさそうに、僕を席につかせた。姉が自分で育てた水菜を
冷しゃぶと一緒にサラダにしたのがおいしかった。ほかのものもカフェのごはんみたいにお洒落でおいしい。ちゃんとこうやって
家事をする姉が再婚しないことのほうが、僕のことより気がかりだが、まあ余計なことは言わない。雫の話が出るまでもなく
ほかに話題がたくさんあり、尽きない話をタイムアップで切り上げて、零時前に退散した。自分のところに戻ってシャワーを
浴びて、風雨の音を聞きながら横になった。窓ガラスがガタガタ言って、少しの間寝付かれなかったが、やがて眠りに落ちて
いった。
暫くして、鍵がかかる、いや、開く音がした気がして、目を覚ました。壁際を向いて横になっていたので寝返りをうって
暗い部屋のほうを見るが、人が居る様子は無い。乗り出して玄関を見る。…人形が立っている。和装の、陰りのある
表情の、雫。濡れた唐傘を閉じて手に持っていた。
「…雫?」
「はい。そのままで聞いてください…お願いに来たんです。彼女をきらわないで。救ってあげて」
「彼女って…」
次の瞬間、腕に温もりを感じてそちらを見ると、人間の雫がベッドの脇に座っている。
「ええっ?!」
「ご、ごめんなさい、びっくりさせて…」
「……ほんもの」
「はい、人間の雫です」時計を見て午前2時だと知る。
「こんな時間にこんなところに居るなんて、自分が何してるか解ってるの?」声を荒げて、Tシャツの上からだが触れられた
ままの手を払い除けた。「僕はあなたを呼んでいません」
「…でも」
「姉たちは夕ごはんに招待しただけと言っていたし、それが嘘で本当は仕事として呼んでいたんだとしても、僕は必要として
いません、帰ってください」棘のある言い方になってしまう。仕方無い。こんな時間でなくても、人の部屋に許可無く入って
来るほうが悪い。
「…ごめんなさい…」泣きそうな顔になって、玄関に行く。よく見ると、浴衣だった。姉たちの差し金? 何の余興だ。その
まま傘もささずに出て行くので、
「あ、ちょっと…」と声をかける。結構降ってる音がしてるぞ? 一度閉まりかけたドアを開けるが、もう雫は見当たらなかった。
母屋には灯りがついていない。あっちから来たんじゃないのか? 門のほうも見てみるが、誰も居ない。腑に落ちないまま
部屋に戻り、また横になる。雨が屋根に当たる音を聞きながら、不思議に思いながら眠った。
目が覚めると雨は上がっていて、窓から朝日が差していた。…全部夢だったんじゃないかと思えてきた。けれど着替えて
珈琲を淹れているとき、ふと玄関に見慣れない洋傘が立て掛けてあるのに気付く。淡い水色地にチェック柄、銀の持ち
手も細身なので女性もののようだ。見覚えも無いし、雫の傘だと思われ…でもあんな雨の中出て行けば、傘を忘れる
なんてことはない? 演出かボケなのか? しかも、パソコンのキーボードの上に、中島通善の版画の絵葉書がある。
川辺の蛍。文具店で見ていいなと思ったがその日は買わなかった。なんで此処に? 裏表見て、何も書いてないのを
確めてからキーボードとディスプレイの間に立てる。なんだろうこれは…。玄関に目を遣ると、女物の傘がまだ雫を滴らせ
ながら、所在無げに置かれていた。
それはそのままに、駅前のカフェて打合せをして昼頃戻って来ると、真白が
「翠、おひるまだだったら食べて行かない?」と母屋から声をかけてきた。
「…買ってきたから、いい」コンビニ弁当の袋を見せる。
「それ明日にして、こっち来たら? ひつまぶしだよ、好きだったよね?」食い下がるので厭な予感がして、
「ほかにお客が居るなら遠慮するよ」と言うと、妹はニヤリとした。図星なのか、疑い深いなあと呆れているのか。ようわからん。
「じゃあ持って行こうか」
「面倒臭いから、いいよ」さっさと離れに行きかけ、さっきまで晴れていた空がどんよりとしてポツリと来て、思い出した。「そう
だ、誰かこっちに来た? 玄関に傘があったんだけど。見覚えの無いやつ」
「あら」妹は驚いて「ちょっと待って。昨日、雫ちゃん傘を無くしたらしいんだ」ギクリとする。中に消えた妹の代わりに、雫が
窓辺にやって来た。浴衣ではなく、青鼠色のカットソーだった。
「傘を、見せていただきに伺ってもいいですか? 中には入りませんから」来てもいいとは言いたくなかったが、持って来て
あげるのもへんだし、迷ったが
「どうぞ」と言った。素早く玄関から出て来た雫を後ろに、小雨になったので急ぎ足で離れに行き、玄関の内側から傘を
取り、外側で…軒下で傘を見せる。
「…わたしのです。どうして此処に?」
「…昨日あなたが来た気がしたのですが、来てませんよね?」みるみる雫の顔が、耳や首まで赤くなっていくのが判った。
「いえ…あの…」暫く様子を見ていたが、何かがおかしい。この子ほんとに、デリヘルなんてできてるのか? それかまさか、
多重人格?
「よくわからないのですが、でも確実に、仕事はさせてないですよ」
「…伺った覚えはありません」赤い顔のまま、静かだが強い口調で言う。
「そうですか…では気のせいですね」
「……」傘を不思議そうに見ている。
「まあともかく、あなたのならお持ちください」
「…ありがとうございます」差し出すと受け取り、むこうを向いて傘をさした。
「ちょっと、聞きたいことがあります」彼女のむこう側、母屋に人影が無いことを確認しつつ、呼び止める。「本当に、やって
いるんですか? その…デリヘル…」雫はこちらを向き、一呼吸置いてから、頷いた。「どうしてそんなことを…ほかにいくら
だって仕事はあるでしょう。多少不景気ですけど、居酒屋だってコンビニだって、深夜や早朝なら時給も少しいいし」
「…朝、コンビニで働いてます。この3月に高校を卒業して、大学へ行く予定でした。両親はとうに他界していて、兄に
育ててもらったんですが、最近は取材で海外に行っていることが多くて…兄が知らぬ間に借金をしていて…連絡がつかず、
金融会社の人にデリヘルをするように言われたんです。まだお客がついたことはありませんが、ビラには名前と顔写真が出て
います」こんなに喋れるんだってくらい一気に喋って、それからこちらを見た。「だからやっていることに違いはありません」
「幾多くんは、どうしたの? 大丈夫なの?」本人の心配より兄かよ、と言いながら思う。行方不明だからというより先に、
借金するような何かがあったのかという観点で心配した。
「わかりません」と言う顔は、悲しそうでも寂しそうでもなかった。一切の感情が、無いように思えた。ほかの頼れる親戚とかは、
居ないのか?
「ご両親の遺した家に住んでいるんですか? それとももう…」
「兄とそこに暮らしていたんですが、金融会社の嫌がらせもあって、出ました。もともと賃貸で、うちのものでないんで、取られ
たというかんじではないのですが、兄が帰ってきたら、わたしの居場所がわかるかどうか…」
「じゃあ今は、ひとりで借りている部屋に?」頷いている。そりゃあ普通にバイトしてたら貯まらない筈だ。
「…その借金は、いくらなんですか」
「……」
「いくらですか?」もう一度。
「…200…あ、利子を入れて250万円です」
「…それっぽっち?!」
「それっぽっちなんですか? 250万が」怪訝そうな顔の雫を見て、なんだか胸がキリキリと痛む。高校出たばかりの女の
子には、途方も無い額なんだろう。僕は彼女を置いて離れの中へ入り、引き出しからカードを持って出て来る。不思議
そうな顔になってこちらを見たままの雫に、カードを突きつける。
「ここに300万入ってます。暗証番号は5108、コトバです」
「えっでも…」
「頼むから、その仕事は辞めてください。学資までは出してあげられないけど、あなたにだって毎日をたのしむ権利があるはず
です。まるで払えない額ならともかく、幸いここにこれがある。今すぐこれで支払いをしてください」
「そんな、できません」
「いつまでもお客が来ないとは限らない、それでもいいんですか?」ギクリとした。「そしてまだ未成年なんだから、藍の家で暮ら
したらどうです、収入が安定するまで、大人の傍に居たほうがいい。藍には僕からもお願いしますから。だから、早く行って」
「翠さん…」ドアを閉める。暫く気配を感じたが、やがて足音が遠のいた。
嘘かもしれない。そう思う自分もいながら、後悔はしていなかった。例え彼女があのお金を持って逃げ、もう二度とこの家に
現れなかったとしても、これでいいんだ。人形の雫が言った、救ってあげてという言葉に、従っただけだった。
こうやって、男は騙されてしまうのかもしれない。
「あなた、雫ちゃんに300万円もあげたんだって?」数日後、姉が呆れたように言った。
「なんで知ってるの」どうでもいいことを聞き返す。
「雫ちゃんが相談の電話を。翠の提案、うちで暮らすようにってことも言われたって」
「ああ、勝手にごめん。そういう話になったら、僕からもお願いするつもりだった。大丈夫でしょ?」
「まあ、大丈夫だけど…あなたの軽はずみな行動が理解できないだけ。そのまんま帰って来なかったらどうするの?」
「いいんだよ、あげたんだから。戻って来ないなら、それは仕方ない」
「……」
「勿論、境遇の話は嘘かもしれないって考えたよ。でもね、誰にでも大金あげちゃうほど軽くはないよ、僕は」
「彼女は特別だってこと?」驚いている。
「どっちかというと、藍の人形のほうかな」
「あら、そうなの?」
「莫迦みたいって言われるかもしれないけどね、あの人形に、彼女のことを頼まれるって夢を見たんだ」なんだかよくわから
なかったけれど、面倒なので夢ということにしてしまう。「それで彼女が来てもいないのに、傘がうちにあってね」
「それは真白に聞いたわ」
「不思議でしょ? それを取りに来たときに話を聞けたわけだし、導きだと思う」
「……」
「だから責任の一端は、藍にもあるんだからね」冗談めかして言う。「彼女が僕の行動を気味悪く思っても、莫迦みたいと
思っても、感謝してくれても、どうでもいいんだ。帰って来たら、そこから先は…どこまで関わるかはそれから考える」
「そう」安堵したように、姉は息を吐いた。「ずっとそうやって、騙されてきたのかと思った」
「またそうやって…」呆れてしまう。「過去の恋愛に繋げるのは辞めてくれる? 僕はそういうの、逆に冷淡なほうだよ。昔は
実際、あげるほどの金なんか無かったし」
それからの平穏な日々はやがて夏になって、暑い盛りのある朝、真白が離れのドアをすごい勢いでノックした。
「翠! 母屋に早くいらっしゃいよ、雫ちゃんが来た!」まだ寝ていたので、ドアを開けずにあとで行くと言って、珈琲を1杯
飲んで着替えてから母屋に行く。
「やっと来た!」真白の罵声を浴びながら、居間に入って行くと、そこには梅雨のときと少しも変わらない雫が、ねこを抱えて
ソファに腰掛けていた。僕に気付くと立ち上がる。思わず僕は、
「お帰り」と言っていた。雫は涙目になって、
「ありがとうございます、迷っていたんですけど、指名が入ってやっぱり怖くなって、言われた通りにしてしまいました。それで
今日、こちらに住まわせていただきたくて、お願いに来ました。お金は…徐々に返させてください」僕をまっすぐに見て、
カードを返して来る。「使ってない分は、そのまま入ってます」
「…そうですか。では、そうしてください」なんとなく、少し笑顔になってしまう。雫は瞳を涙でいっぱいにして、
「ほんとうにありがとうございます」と頭を下げた。
「やっぱりお似合いなんですけどー」真白が余計なことを言うので、もう雫の傍を離れた。
「雫ちゃん、おなか空いてない? パスタだったら、10分くらいでできるわよ」藍が彼女を座らせる。
「あの、できたら」雫は遠慮がちに藍を見上げ、真白や僕を見た。「本名、那由多(なゆた)って言うんです。雫はその…
デリヘルの源氏名なんで、本名で呼んでいただいてもいいですか?」
「そうだっけ」真白が素頓狂な声を出す。あの広告で見つけて再会したから、あれが名前だと思っちゃった。幾多の妹で、
那由多か…」
「250万円がきっかけで、那由多の金額でも買えないようないい子がうちに来たわね」と藍が言う。そうだ、那由多は億や
兆よりも多い数。何を思って、ご両親はこどもたちに幾多や那由多と名付けたのだろう。珈琲豆を売っているうちの両親が、
僕らに色の名前をつけたのと、何か共通点があるのだろうか。
その日、人形の雫を久しぶりに見た。夏の浴衣に衣装を替えられ、静かに人形の部屋に座っていた。
「こちらも名前を変えようかしら、那由多に」姉が余りにも芸が無いことを言うのでそう言うと、「じゃあ何かいい案ある?
小説家の石倉翠さん」と聞いてくる。
「そうだねえ…」脳裏にはすぐに、通善の版画の絵はがきが浮かび上がった。「蛍火、とかさ」
「…いいじゃない」
蛍火に改名したら、その人形はすぐに売れてしまった。売れたら第2号を作る姉が、蛍火に限ってはもう作らなかった。
姉のもとには、蛍火は居ない。けれどもほんものの那由多のほうは、アルバイトをしながら姉の家で暮らす。僕は絵はがきの
ある部屋で、毎日パソコンを叩いている。毎日、門を出入りする那由多を窓から見送りながら。
了