ソリタリー 

 


                                               小林幸生 2009

 

 

「リアリティ」の粗筋

本屋でバイトする平尾みのりは、よく言えば人当たりのよい、悪く言えば八方美人でマニュアル風に人とおつき

あいする大学1年生。隣のお店の女性・高宮蛍子とは普通に仲良くできると思っているうちに、彼女の弟が

中学時代の同級生の寛大(ひろまさ)であることが判明。もうひとり同級生で寛大の元カノのカコ、加藤琴音

(ことね)とも再会し、3人で会っていると、バイト先で無断欠勤して行方不明になっていた高校生・貫井立基

(たつき)が現れ、わけありなので3人と蛍子で助けることにする。蛍子の昔の友人・砂地さんの父が経営する

旅館の板前として送り出す。その後いろいろあり、琴音と寛大はよりを戻さず、卒業して先生になったみのりは

相変わらず板前の立基の近辺に住み、つきあっている。

 

 

 

 年に一度、暮れから正月にかけての滞在以外で新幹線に乗るのは、仙台に行って以来初めての

ことだ。夏前半の上りはこんなに楽に切符が取れるものなんだと、時間や席を選ぶ権利に些か驚く。

先生をしているみのりは、学校が夏休みでも出勤することのほうが多いけれど、今回はまとめての

休みを申請したので、一緒だった。指定の座席を見つけて荷物を棚に上げて座ると、本屋でアルバイト

していた大学1年のときそのままの眼差しで、こちらを見ながら言う。

「あー緊張するね」と紅潮する顔を両手で挟んでいる。「ぬっくんはほんとに変わらないよね。アガるとかって

無いの?」と苦笑する。

「してるよ勿論」

「全然見えない!」カノジョのご両親にお嬢さんをくださいと言うのに、緊張しない奴がどこに居る? 「…

ぬっくん家は、本当に行かないでいいの?」初めてそう聞いて来たけれど、みのりのほうは何度も練習した

台詞のように、然り気無さを装った言い方をした。

「うん、いい」

「そっか」これでもう、みのりはこの話をしないだろう。「例の籍の件は、聞かれると思うけど、いいの?

 断ってもいいんだよ」みのりはひとりっ子なので、ご両親が婿養子希望なのだ。まあ、平尾の名前を

残したい、くらいの意味らしいけど。

「寧ろ貫井を名乗らなくて済むなら、有難いけど。遺産目当てと思われないかな」

「あっちから言い出したんだがら思わないんじゃない?」

「まあ、みのりの両親だしね」

「…ぬっくんて呼ぶの、もしかして厭だった?」

「それは別に。ずっと渾名は‘ぬく’だったし」そう言ったら、曖昧に笑われ、「ん? なに?」と問う。

「ぬっくんを好きになったのは、メールの署名が決め手だったんだよ」

「へっ?」

「ぬくという署名のメールがね、勿論メールの内容もだけどね、じわんとあったかい気持ちにさせてくれたから」

「なんと」へんな驚き方をしたので、みのりは思い切り笑い、それから真面目な顔で

「だからこれからも、平尾立基くんになってもね、‘ぬっくん'と呼びたいと思ってたの。厭なら辞めるけど」

「いや、いいよ勿論。おれもみのりの‘ぬっくん’を聞くと、胸がじわんとする。付き合い始めてすぐの頃

だよね、そう呼んでいいか聞いてきて。‘わたしのことは、みのりって呼んだら?’てのも嬉しかったけど」

まあ実は、平尾さんに貫井くんと呼ばれるのも、それはそれでこそばゆくて好きだった。要するに

何でも嬉しいわけだ。

「あれは言うの、すごく緊張してたんだよ」

「みのりはすぐ顔に出るから、判ったよ。おれは顔に出ないだけ。初めてみのりって呼んだときは、緊張

してたんだよ」

「ほんとにー? 全然見えないんですけど!」

発車ベルが鳴り、新幹線が動き出す。

「…ちょっと寝てもいいかな? 昨日まで朝番続きで。みのりは研修の準備とかで疲れてない?」

「そうだね、じゃあ寝よう。おやすみ」

みのりは窓のほうに頭を寄りかからせて、間も無く寝息を立て始めた。…おれなんかより数倍眠かった

くせに…。

おれと居ると大好きな本も読まないし、電話もサイレントにして取り出しもしないし、眠くたって寝ない

し。やさしいったらない。ほんとはじめから、この人なら何でも許してくれそうな気がした。だからストーカー

紛いな真似もしてしまい、お世話になる計画も立てた。けれどもなんとなく合わせられてしまうだけで、

あんまり好き勝手に振り回すと嫌われるであろうことは、判ってきた。自分の目で見ても、寛大さんや

蛍子さんというフィルターを通しても。気付かなかったらそのまんま嫌われて、今隣に居ることはなかったと

思う。実際一緒にバイトしていた頃は実はおれのことは苦手だったらしい。そしておれのほうは、苦手と

されていることなんて微塵も感じない。それだけ合わせられるのは凄いことだと思う。

みのりにはもうひとつ凄いことがあり、それは、人のコンプレックスをプラス思考で解釈することだ。

例えばこの姓、自分では忌み嫌う、厭な思い出満載なこの姓でしかありえないこの渾名が、好きになった

決め手とか言ってのける。

ぬっくんて、ごはんの食べ方きれいだよね、と誉めてくれたこともあった。少しでもこぼしたり音を立てたら

続きを食べさせてもらえない、二番目の母の厳しい目のお陰だ。

そしてこの顔。ファイナル・ファンタジーのクラウドに似てない?と言った。それまでおれは、この顔が大

きらいだった。本当の母を棄てた、女にだらしのないやさ男に日に日にそっくりになる、この顔が。ゲームは

やったことないが、絵と名前くらい知っている。クラウドなら大歓迎だ。

こうやってこの人は、この先もおれを救い続けるだろう。おれのほうは、彼女が無理をしないように、先

回りして眠らせたりするくらいしかできない。なんだかフェアじゃない。

それにうちのことは殆ど話していない。きっとこの先も、むこうからは聞いて来ない。嘘はついていない

けれど秘密があるのは確かだ。みのりがいいと言っても、ご両親に話せと言われるだろうか。

そのときのためにか、おれは眠らず無意識に、みのりに会うまでの苦い記憶を辿り始めた。

 

   *****

 

あのやさ男に棄てられて、当時のおれから見ても無頓着でお気楽な母は、女手ひとつでおれを育て

始めた。保育園の送り迎えなんかも絶対に時間通り来ないから、よく覚えている。そして運がよかったのか

悪かったのか、おれが小学校に上がる直前の春休みには、再婚話をまとめていた。友達と同じ小学校に

行くと思い込んでいたので少なからずショックではあったけれど、母が居なければ生きて行けそうになかった

ので、大して駄々をこねずに従った。乗り気でないまま引っ越し、新しい町の小学校に入学した。知ら

ない子ばかりだったが運好く初日に気の合う友達を見つけて、学校はそれなりに楽しかった。

新しい父にはこどもが居なくて、忙しいのとこどもが余り好きではないらしいのとで、余り相手にはされな

かった。祖母、つまり彼の母が同居で、自分の孫のように可愛がってくれ、母も働くのを辞めたので1年

間、かなり幸せだった。けれども母が急死した。原因不明の心臓麻痺で、間も無く父が再婚したので、

母が殺されたんではないかと疑わざるをえなかった。それについての真相は、未だに判らない。新しい母

には息子がふたり、シンデレラの話よろしく継母と継兄…長男のほうが、理不尽な仕打ちをしてきた。

すぐ上の兄は、やつらがおれに折檻をするときは無表情に見ているだけで助けてくれようとはしなかったが、

ふたりきりになるとやさしかった。一緒に遊んでくれ、隠れておやつも分けてくれた。やつらが現れそうになると

ぱっと離れてしまう。おれは自然とうちでは味方を探さないことにした。祖母は変わらずやさしかったけれど

も、次男を見て、おれに味方するのはヤバいことなんじゃないかと思って、やつらが居ないときにしか話し

かけなかった。幸いやつらは、祖母の前では理不尽なことはしなかったので、たいていは食いっぱぐれる

ことはなかった。無作法なことをすると、教育的に怒っているふりで、残りを取り上げたけれど。

そんな生活が続き…おれが小5の夏、二番目の母もまた、心臓麻痺で急死した。長男が高2、

次男は中2だった。おれは父を疑ったが、今回は再婚しなかった。それから祖母が家事をしたが無理を

したのか、臥せってしまうことが多くなった。長男が一番早く帰るおれに家事をしろと言い、かなり頑張っ

たがいつも文句を言い、次男と外食に行ってしまう日もあった。そのうちもともと病弱だった次男も学校を

休むようになった。長男は

「自分の母親も俺達の母さんも殺したのはおまえで、婆ちゃんも光路(こうじ)も殺そうとしている」と言い

始めた。おれは初めて言い返した。

「殺すんなら、なんでおまえを残す必要がある? この家で一番消えてほしいのは、おまえだ。後から来た

くせに、でかい面すんな」静かに言ったのが不気味だったのか、長男はそれからおれに絡まず、三食外で

食べるようになった。洗濯などはおれにやらせていたけれど。

それで問題が終わらないのが、貫井家だ。

ある日曜日、祖母も次男も自室で寝ていて、昼ごはんをそれぞれの部屋に運び、次男は置いてきた

だけで祖母には食べさせて、ついていた。そして食器を提げに次男の部屋に寄ると、次男は一口も食べ

た様子が無く、次男までも不味い飯は食えないと言うのかと思って、怯みながら

「光路にいさん、食べたくないの?」と聞いてみたら、

「ちょっと苦しくてね」と、寝たまま白い顔をこちらに向けた。「…立基、手を貸して」ベッドから左手を伸ば

してきたので両手でそれを取った。

「大丈夫?」

「…ありがとう、安心する…」おそらく心配そうな顔をして、黙って見ていると、「おまえはおれが憎いだろう

ね。庇ってもやれない意気地無しだから」懺悔するように言い、少し手を引っ張ったので、おれはしゃ

がんだ。

「そんなことはないよ」

「おれはおまえが大好きなんだよ」左手はおれの手を握ったまま、体を傾けて右手でおれの頬に触れた。

その手は温かかった。可愛がってくれた祖母ですら、あまり触れないほうだったので、そうやって触れられる

と、本当に大事にされているみたいな心地好さが身体を貫いて、涙が溢れた。「可哀想に…おれの

大事な立基…」彼の右手はおれの髪や頬を撫で、ますます涙が止まらなくなった。やがて彼はおいで、と

言っておれをベッドに招き入れた。おれはなぜか言われるままに温かい褥に入り、身体中をやさしく撫で

られながら泣き続けた。そのうちに服も脱がされ彼の手があらゆる場所に触れても、何もおかしいとは思わ

なかった。それくらい、人の温もりに餓えていたのかもしれない。そしてその行為の意味が、まるで解って

いなかった。

それから時折招かれるままに応じ、やれることは全てするようになってしまった。

次男はなんとか進級卒業したものの高校生にはなれず、ずっとうちで寝ていた。おれは中学に上がっ

た。

それまでに性教育のビデオを観せられたり、説明を受けたりしたがそれは曖昧で、自分が次男として

いる行為がそれに似通ったものとは全く考えておらず、家族とは本来そういうことをするものだと思い込んで

いた。

中1の秋に、開校記念日なのに間違えて登校してしまった日があった。同じ間違えをするやつは居る

もので、同じクラスのそこそこ仲のいい滝本という男子と会い、お互いの失敗を笑い合った。途中まで

一緒に帰ったが、別れ際にそいつが

「なあ、うちに寄って行かないか。昼飯食ってから帰ったって、半ドンだったって言えばいいじゃん。うち、

母ちゃんもパートに出てるし、誰も居ないんだ。いいもん見せてやるよ」

家事をするにしてもなんら支障は無かったし、普段友達と遊ぶことができなかったので、喜んで応じた。

コンビニで昼飯と飲み物を調達して、9時頃に中学生がフラフラしてるから店員に怪しい目で見られる

と、滝本がわざと「開校記念日なのに行っちゃって、ばっかみたいだな、おれたち!」と言うのが可笑し

かった。それで、そいつの家へ行った。飲み物を飲みながら居間で待っていると、

「まずこれだ」と、一度2階へ行ってビデオテープを持って来た。「兄ちゃんの部屋で見つけた」勝手に

きょうだいの部屋に入るのもたまげたが、持って来たものにも目玉が飛び出そうだった。

画面の中で、奇妙な声を上げながら裸の男女が絡み合っている。

「な、何これ…」

「エロビデオに決まってんじゃん、やっぱ初めてだろ? すげーよなあ、女ってこうなんだな。気持ちいいのか

なあ」なんの脈略も無くいろんな組み合わせが出て来て、荒々しい獣のようになっているので、人間じゃ

ないみたいだった。不快な感触を残して終わった。「…あんま興味無い?」気を遣ってそいつはおれの

様子を窺う。

「いやなんか、びっくりして…」説明できないモヤモヤが、胸に残っている。滝本は手際よくビデオを引き

抜いて、今度は雑誌を広げた。

「これはちょっと、社会勉強なんだけどさ。おれは断然女の子のほうがいいし、こっちに走ることはないと

思うんだけど。これ、姉ちゃんの部屋にあったんだけど、女ってこーゆー、男同士の見るの好きらしいぜ」

 それは所謂ホモ雑誌だった。男同士の官能小説、漫画、セクシーな男の写真。その漫画での絡み

合いは、さっきのビデオと違って静止画だったし男同士だし、初めて自分と次男に重なった。

「男同士だと、ケツの穴に入れるらしいぜ」滝本は自分で言って、いやな顔をした。

「…えっ、じゃあ女は…」

「保健で習ったじゃん。膣って穴があるんだよ、女には」

「ああ、ボロくそだった、あの試験。…おれ実は曖昧に言われるとよく解んないんだけどさ、そのとき保健の

先生が言ってた、精子と卵子が出会うって…」

「ほんとぼかすよな、大人って」滝本は雑誌をめくりながら言う。「セックスすんだよ、さっきのビデオみたいに」

「じゃあ、あれはこどもを作ってんの?」

「…まあ本来の目的はそうなんだけど、あれは気持ちいいからやるんだよ。だから、結婚してないカップル

なんかは、ガキができちゃ困るから、薬局とかでスキン買ってきて避妊するんだ。先生ふうに言やあ、

精子と卵子が出逢わないように、細工するんだよ」滝本の知識には舌を巻いたが、ようやくおれの中で

保健で習ったことが具体的に解ってきた。

「…男同士って、こどもを作るためじゃないよね…」ホモ雑誌を見ながら言う。

「卵子が無いんだから、こどもはできないだろ。あれはまさに、気持ちいいからやるんだよ」

「男のカップルで?」

「そう、稀に男を好きになる男が居るんだよ。女同士もあるらしいけどな」

「…家族ではしないよな」

「やめてくれよ、近親相姦の上にホモかよっ。こんな最終的なことまで兄貴とすんの、想像できない、

チューだってキモい!」爆笑している。

「…だよね」泣きたい気分だった。本来なら、結婚したいような好きな女とすべきことを、おれは次男と

やっているのだ。「…なんか、気持ち悪くなってきた」

「えっ、大丈夫かよ。ぬく、案外潔癖症なんだな」

昼飯は置いて来て、おれは家路を辿る。けれども家には次男が寝ていることを思い出し、なんだか

帰りたくなくなった。

べつに無理強いされたわけじゃない。だけど、解ってたら、恐らく応じなかった。たぶん次男のことは、

恋愛の意味では好きではない。血が繋がっていなくたって、たぶん違う。

 おれにはそのとき、きっと好きなんであろう女子が居たんだ。

 

 同級生の、水沢明日香。小学校から一緒だったが初めて同じクラスになった、足の悪い発達不全の

女子。それだから同情なのかもしれないけど、髪や肌や眼の色素の薄さ、折れそうに細い手足、そんなに

大きくないおれでも見下ろせる背丈、そんなふうなのが可憐だった。でも雰囲気はと言えば、同じ歳には

見えないくらいに大人っぽい。足を引き摺って歩く姿は、醜いどころか、逆に彼女の強さを感じ、何か

惹かれた。小学校のときの私服は清潔そうなブラウスに質のよさそうなジャンパースカート、冬は

お母さんの手編み風のカーディガン、これまた高そうなコートに身を包んでいて好ましかったし、中学の

制服も少し大きめなのが可愛らしい。あまり一緒に遊べないからであろうが女子とつるんでおらず、たい

ていひとりなのに寂しそうではなく、勿論ほかの女子のように男子に険悪に絡むことも媚びることもなく、

用事があって話しかけるときには、意を決したように呼ぶのが初々しい。ろくに話したことはないが、

惹かれるのは事実だ。

彼女と、次男とみたいなことをしたいかと言われれば、よくわからないというのが正直なところだけれど、

それはおれが男として未完成だからだろう。触れてはいけない脆さもあるからか。

でもなんとなく、水沢のような存在がありながら次男とあんなことをし続けるのは間違った気がしたし、

やはり男同士、そして家族なのにと一度思ったら、もうできない。

次男は朝夕の食事を運ぶとき提げるときは触れて来ない。恐らく長男が居る可能性が高い時間

だからだろう。平日昼飯は朝飯と一緒にパンと飲み物を置いて来るし、とりあえず次の土曜日までは

大丈夫だ。土日も朝飯と一緒に置いて来るか…今日はひとまず図書館にでも行くかな。でも、学ランの

まま友達に会ってしまうのは恥ずかしいか…いろいろ考えて、一度家に帰って服を替えよう、次男に気

付かれないうちに家を出よう、と決めた。しかし家に入って2階に上がり、自分の部屋のドアを開けようと

したら、廊下の奥のほうに次男が立っていたので驚いた。自分の部屋の前だ。トイレやらで出たりするし、

彼は相当具合が悪くなければいつの間にかシャワーを浴びていたりもするので、部屋から出ていること

自体は普通のことだったが。相変わらず青白いけれど、おれを見てやはり驚いた顔は、多少調子がよさ

そうだった。

「立基、学校は?」

「…今日は開校記念日だったのに、間違って行っちゃった。ちょうど来た友達と話してたんだけど、図書

館に行こうって話になって」まあこれくらいなら、という範囲で嘘をついた。

「開校…そうだったっけ」壁に手をつきながら、ゆっくり歩いて来た。2階のトイレは、おれの部屋の脇だ。

すぐ近くに来たときに消え入りそうな微笑で「立基」と手を伸ばしてきたので、思わずおれは身構えてしまっ

た。次男は少し動きを止めてから、おれの頭を撫でた。「気をつけて行っておいで」

そうしてゆっくりとトイレに入る姿が、視界の端に入った。ちゃんとは見られなかった。  

着替えを済ませ、次男が自室に帰った音を確認してから、勉強道具を詰めたリュックサックを背負い、

買い出しできる金を1階のキッチンから出して家を出、帰ったのは夕方だった。祖母に挨拶してから軽く

掃除をして、3人分夕食を作り、まず次男に飯を運んだ。ドアの前で深呼吸し、ノックしてドアを開ける。

「兄さん、ごはんだよ」わざとドアを閉めずに中へ入ると、次男は眠っていた。整った、性格は悪かったが

きれいではあったあの母親譲りの顔に、少し長めの髪がかかっていた。「置いて行くね」サイドテーブルの

朝飯昼飯のトレイと交換する。

腕を捕まれた気がして後退りするが、実際には捕まれていなかった。ほっとして、そして一瞬後には

ゾクリとした。その寝顔に、死の影が降りていた。

「光路兄さん?!」咄嗟に体を揺すぶった。冷たく重かった。

気配に振り返ると、開け放したドアのところに、祖母が立っていた。さっきまで横になって弱々しく笑って

いた祖母と同じ人には見えないくらい、しゃんとしていた。

「助かる可能性も無いことも無いから、まず救急車を呼んで、お父さんと栄路に電話をおし」

おれはすぐに1階に降りて、居間で電話をした。父と長男は携帯電話を持っているんだろうが、番号を

教えてもらっていなかったので、会社と大学にかけた。父は呼び出されて捕まったが、長男はすでに出た

らしく、捕まらなかった。父には携帯の番号を聞いて、病院に着いたら電話すると言ってみたが、宜しくなと

言われただけで、すぐ出るとか、そういう言葉は無かった。祖母には、長男が帰ったときのために残って

もらい、おれは救急車に同乗した。

結局次男は助からず、病院の霊安室に父や長男が現れたのは、翌朝になってからだった。 

父は医師に話を聞いてから葬儀屋を手配。今日密葬にするから先に帰って学ランに着替えているよう

言われた。長男と共にタクシーで帰宅。長男は不機嫌に黙りこくっていた。 タクシーを降りて、やっと

口を開く。

「何が起こっているんだ? おまえは怪しいが、おれを置いて光路を殺さないんだったな? 何か知りも

しないのか? なんで3人とも心臓麻痺なんだ?」

おれは耳を疑った。

「…心臓麻痺?」そう言えば、医師はおれには「手を尽くしましたが」としか言わなかった。

長男はおれの返事を待たずに家に入った。おれも後に続いた。長男は真っ直ぐに階段を上がって

行き、奥の次男の部屋に入った。

「なあ立基、この部屋の中だけで穏やかに暮らしていたあいつが、なんで病気による衰弱とかでなく心臓

麻痺で死ぬんだ?」階段を上がり終えたところに居るおれに向かって、でかい声で言う。長男の体越しに

おれが置いたままにした夕食のトレイ、脇にどけた朝昼のトレイが見えた。朝飯も昼飯も全部食べている。

「わかんない…」おれが拒否反応したせいで自殺したならまだ解る。だけど、心臓麻痺って…? 

「まあいい、着替えて居間で待ってろ」長男は自分の部屋に消える。学ランに着替えてから祖母の部屋を

覗くと、横になったまま

「ああ立基、ご苦労さん。あたしは葬儀はご遠慮するよ」と辛そうに言った。

長男が後ろからおれを呼んだ。

「ちょっとこれ、見てくれ」ダイニングのテーブルの上の紙を示したので、そちらへ行く。その間に長男は

祖母に行くかどうかを尋ねていた。

‘きみを失うくらいなら、生きている意味は無い’

紙には、そう書かれていた。B5のレポート用紙の真ん中辺りに赤いボールペンで、次男の、大人の

女みたいな文字。

「…これは、どこに? 夕食の支度をしたときはここに無かったけど」平静を装って、長男に聞く。

「今、光路の部屋から持って来た。机の上にあった。気付かなかったか? あと、心当たり無いか? 

だれか女から電話かかってくるとか。まさか女に会いに行ったりは、ないよな」

「たぶん出掛けてない。電話も…取り次いだこと無いな…」次男には友達も居なかったのだろうか。それは

まあいいとして、これはおれのことを言ったのだろうか。よく見なかったけど、昨日の朝、机の上には何も

無かったと思う。夕食のときは見る暇は無かった。タイミング的に、おれが図書館やスーパーに居た時間に

書いたのであれば、やはりおれのせい…?

「遺書かもしれないな、親父に見せてみよう」

葬儀埋葬の手配を済ませて来た父に、長男は紙を見せているようだった。おれは次男の部屋に

トレイを取りに行くふりをして入り、机の引き出しなどを軽く物色した。ほかにおれとのことを書いていない

か、心配になったのだ。大丈夫そうだ。彼との関係がバレたら疑われるだろうし、滝本の家の雑誌の人の

ように思われるのは厭だったし、黙っていることにした。

食器を流しに置いていると、長男が父の部屋から退散して来て、

「医者が心臓麻痺だと言うのだからそうだろう、だと。彼は瞑想癖があったから、なんて、光路のことなん

にも知らないくせに!」と怒っていた。今更同意して仲間になんかなりたくなかったので無言で居ると、

苦々しい顔になって「世話をしていたくせに、なんにも知らないやつも居るしな!」と悪態をついてソファに

どかりと座った。

「今、タクシーを呼んだ。出られるか」喪服を着た父が来て、玄関にさっさと行ってしまう。…この人は

どうして、おれの母や長男たちの母親と結婚したのだろう、と疑問に思いながらついて行った。

学校を無断欠席したので、帰ると留守番電話に担任からと滝本からメッセージが入っていた。滝本は

あれ(恐らくビデオと雑誌のこと)のせいかと心配していたので、すぐに電話して誤解を解き、学校には

翌日になって連絡してそのまま休んだ。何もする気力が無く、祖母に朝食を出して片付けた後、部屋で

寝ていた。長男は元気なもので、おれが洗い物をしているうちに出かけて行った。

昼になって、おれは心臓麻痺の原因になるものは無いかと、次男の部屋に忍び込んだ。けれどもゴミ

箱は空だったし、手がかりは無かった。そして、次男の部屋を出た瞬間、冷や汗が出た。ゴミは、おれが

始末している。先週の木曜日に出してから今日で一週間、何も捨てない週なんて今まで無かった。誰か

が、証拠を消そうとした?

おれは昼飯を用意して祖母の部屋へ行く。そしていつものように食べさせながら、

「ねえおばあちゃん、光路兄さんの部屋のゴミ箱、中身捨ててくれてないよね」と聞いてみた。

「2階へなんか行けないよ」弱々しく言う。

「えっ? …おれが、兄さんが死んでいるのを発見したときは、どうやって上がって来たの?」

「…いつだって? 2階なんて、もう何年も行っていないよ」

「…救急車を呼べとか、父さんに電話しろとかって…」

「…あたしが言ったのかい?」おれは必死で首を縦に振る。「…いや、きっとそれは、あたしの娘…勤

(つとむ)の姉さんだ。あんったの伯母ってことになるね。嫁ぎ先で立基がうちに来たくらいのときに死んだ。

原因不明の心臓麻痺でね、でも勤は忙しくて葬式に出なかった。それから同じように、あんたの母さんや

栄路たちの母さん、そして光路が死んだ」空気が凍りついた。確かに、祖母だと思ったけれど、よくは見て

いない。

「伯母の呪い? この家の人は、みんなそのように死ぬの? でも救急車を呼べなんて…」混乱しまくる。

「安心おし、立基と栄路は大丈夫だ。可哀想だけど、勤が大事にしていないから」

「え、でも、光路兄さんだって…」

「幸か不幸か、勤は二番目の妻が死んだ後、光路だけ大事にしたんだよ。似ているからか、どういう

風の吹き回しか、夜中に自分の寝室に連れ込んだりしてね。隣の部屋のことだ、よくわかる。嫌がる

ようなら助けてあげるつもりだったけれど、光路は受け容れていたからわたしは何も言わなかった。だが

無気力になって学校へ行かなくなったのは、きっとそのせいだ」

「…なんてことを…」今のおれには、なんのことかよくわかってしまう。次男はどう理解したのか、おれのように

勘違いして甘んじていたのか? そしてそのままおれにも同じつもりで…? それとも全て解っていたのか?

「志都奈(しづな)と同じ死に方をしているのは、愛された者だけだ。そして、光路については知らないが、

あんたの母さんたちは、あたしに悩みを相談してきた直後だった。恐らく気持ちが弱くなって、つけ入り易い

状態だったんじゃないかと思う」

弱くなったとき…おれに拒否されて? やっぱりおれのせいなのか…祖母の話を聞きながら、不用意な

態度を取ったことを悔やんだ。 

おれも殺してくれ、と見えない伯母に願ったが、彼女は二度と現れなかった。

 

 

中3の1学期の始業式の日、父が珍しく早く帰宅した。食べて来なかったと言うので、祖母にごはんを

食べさせるから、先に食べてくれと言い、初めて手料理を出した。なんとなく一緒に食べたくなかった。

「おまえは食べたのか?」

「…おれの分は、これから」てか、それがおれの分だったのだ、米は冷飯を作るつもりで多めに炊いたが、

おかずは冷蔵庫の野菜と卵でなんとかするしかない。

「待ってるから、行って来なさい」

「冷めるよ」

「そうだな、ゆっくり食べているか」どうやら話があるらしい。まさか、寝室に連れ込まれたりしないよな…

不安に思い乍ら祖母のところに行き、キッチンに戻ってオムレツを作った。あとはインスタントのスープ。

「何か用事だった?」お待たせとは敢えて言わずに、向かいに座ると、

「すごいな、まさかこんなにちゃんとやってるとは思わなかった」とかぬかす。やらざるをえないだろが! と

思ったが、黙殺した。鱈の煮付けをつつきながら、父は「2年のとき、進路調査に就職希望と書いたそう

だな」と言う。

三者面談や保護者会には来ないが、担任と連絡は取っているらしい。だってやっぱり、あんたの金で

なんか食っていたくなかったし、おばあちゃんが居る間は仕方無いけど、こんな家早く出たいし。と言いたい

が、言えないでいた。「頼むから、大学まで行ってくれ。成績はいいほうなんだし、中卒で就職するよりも、

大卒のほうがやっぱり待遇がいいからな」おれは黙って箸を進めていた。「幸い、金には不自由させない

自信はある。私立の高いところでも構わない。ランクだって、栄路(えいじ)よりいいところへ行けるんじゃ

ないか?」…そうだ、まず長男に屈辱を味わわせたい。「聖陽館(せいようかん)なんかどうだ?」このへんで

一番いい私立の名を挙げた。

作戦変更。家事を全部しつつ、家のことを何もしない長男よりもいい高校へ行き、父の財産を浪費

する。祖母がすぐにどうこうということは無さそうだし、どうせあと何年かは此処に居るんだ。

「…聖陽館、第一志望にする」父は安堵した表情で頷き、

「おまえはお母さんに似て素直だ」と言い、皿を空にして浴室へ行った。

翌日早速、実力テストと進路調査があり、2日後には放課後担任から呼び出しがあった。

「ようやくやる気になってくれたな!…ああ、勉強はいつもちゃんとしているがな、進路希望のことだ、良かっ

た良かった」帰宅部で、ゲームや漫画を買ってもらうって発想も無かったから、家事をする以外の時間

ほかにすることが無いから、勉強はやっていた。母親が居ないから馬鹿なんだと言われたくもなかったし。

試験はまだ返されていなかったがとりあえずいつも程度は取れているらしい。

教室へ寄って鞄を持って昇降口へ行くと、後ろから声をかけられた。見知らぬ女子が居る。

「ちょっとこっち来て!」1年が1クラス少ないので使われていない下駄箱のほうへ行きながら、手招き

する。

「何?」てか、誰? そっちへ行くと、いきなりハグされた。「わっ、何だよ!」

「貫井、好き! 付き合って!」上体を少し離して、まだ両腕をおれの首に回したまま、目の前で言い

放つ。

「はあっ? …ばっかじゃないの?」おれはそいつを突き放して、昇降口を出た。

「諦めないからーっ!」後ろからでっかい声で言っている。おれは今日からマジで勉強するんだ、知るか

あんなやつ。…だけれども、間近で見た団栗みたいな目と整髪料の香りに、正直どぎまぎしてしまって

いた。

翌日には、そいつがだれか判った。朝から待ち伏せされて学校までついて来られ、そのまま同じ教室に

来たのだ。同じクラスかよ…。気になっている病弱な水沢とは大違いの、元気女だった。運動部なのか

日焼けしていて、真っ黒なストレートの髪をポニーテールにし、いつもピョンピョン跳ねてるような、うるさい

やつだった。

帰りもついて来たりしたが放っておいた。何日か後について来たとき、

「ねえ、先生に聞いちゃった。おうちのことみんなやってるんだってね。あと志望校も。そんなに頭いいと思っ

てなかったけど」などと言う。失礼な…。てか、担任、個人情報漏洩じゃねえか。「ますます惚れちゃったよ」

「何度も言うけど、そんなわけで忙しいから男女交際をする暇、無いから」

「邪魔しないから。送り迎えみたいなのでいいから。登下校だけでいいから。都合のいいときに呼んでくれて

いいから」そして腕を組んでくる。

「わっ、何すんだよ、てか、おまえも受験生だろが」

「まあ、勉強はしてるよ。そんないいとこ狙ってないけど」そのまんま前に回り込んで、また間近から言って

くる。無防備すぎる! 身をよじって逃れると、あっさり離してくれたが。

「これ、携帯の番号とアドレス。メールか電話してくれたら、すぐに会いに来るから」メモを突き出す。

「携帯…持ってんだ」おれは勿論、仲いい友達は誰も持っていなかった。多分携帯を持たせるには、

信用が無さすぎるんだ。

「女子のほうが普及率いいよね」おれの手に掴ませて「じゃあ。ほんと、いつでも呼んでね」と走り去る。

…急に静かになる。あいつがでっかい声でいかがわしいことを言うから周りの人にじろじろ見られながら、

また歩き始める。

電話はしなかったけれど、登下校で待ち伏せされて一緒に歩くうちに、やっぱりなんだかんだで気になる

存在になり、付き合うことにした。あいつ井町樹里(いまちじゅり)と一緒に居るときは、今までに無いくらい

視界が色彩的に感じたし、勝手に喋ってくる内容が楽しかった。そして何よりおれの事情を解ってくれて、

おれのほうは生活を変える必要が無かった。それでも暫くするとやっぱり外でも会いたくなって、電話をかけて

呼び出し、短い時間マックで過ごしたりした。すごく喜んでくれた上、こっちの都合でごめんと言うと、いいん

だって当たり前じゃない、と言ってくれた。下校時は河原のほうを回って10分くらい分の遠回りをしたりして。

成績は上げられず下がりもせず、男女交際なんてしてるわりには、何も犠牲が無かった。このままケッコン

しちゃうんじゃないかとまで、お気楽に考えていたほどだ。

けれども秋の半ば、突然別れようと言われた。わけが解らなかった。

「お父さんの仕事の都合で、卒業を待たずに引っ越すことになってね。わたし遠距離って駄目なんだよ

ね。ごめんね」余りにも軽く言われ、

「遠距離、やってみてないのに決めちゃうのかよ?」と反駁した。

「だって、今だって相当我慢してるんだよ」冷めた口調。「ほんとはもっと会いたかったのに」

今思えば、その直後に携帯は解約されたし、引っ越し先は地方だったし、お父さんの急な転勤という

のはリストラだったんじゃないだろうか。それで最後は苛々してた、都合がいいけれど、そう考えてしまう。

でもまあお陰様でその後は勉強に力を注げ、第一志望に合格することができた。父からの合格

祝いは、携帯電話だった。べつに要らなかったし、通信会社や型は選ばせてもらえなかったし、なんだよ、

としか思えない。

長男は制服姿のおれを見て初めて、

「おまえ、聖陽館うかったのか?!」と驚いている。

「うん」何気無く言いながら、ざまあ見ろと思い、苦々しい顔をして立ち去る後ろ姿を眺める。次男には

まるで似ていない。きっと、姿はおれの知らない父親に、性格はあの母親に似たのだろう。

5月頃、祖母の容態が悪化し、入院させることになった。父が指定したのは、不便にもうちから90分の

ところにある総合病院だった。入院する日は流石に来たが、あとはほったらかしだった。おれは見舞に

欠かさず行ったが、うちで世話するより楽なような気がした。

しかしある日、父がキッチンの引き出しに入れておく金が無くなっていた。長男に違いない。タイミング

悪くその日おれは自分の財布に入れていたのも少なく、食パン1枚でやり過ごさなければならなかった。

長男は、よくあることだが帰って来ないし、夜遅く帰宅した父に言いつけた。

「証拠も無いのに兄さんを悪く言うんじゃない」逆に叱られ、「本当にそうかもしれないが、真実が判る

までは言うな」そして自分の財布からぽんと5万出して置いた。

絶対こいつ、頭おかしい。おれは父の顔と金を見比べた。それで済ますのかよ。せめておれが浪費して

嘘をついてると疑って、そういうことはいけないと諭してくれてもいいじゃないか。いくらでも金を与えて、おれ

たちを養ったつもりになるのかよ。ぐるぐる考えていると、父は「あの男と同じ顔で見るな!」といきなり怒鳴

って、寝室に入ってしまった。

あの男。おれの父親のことか。知っていたのか。接点は無いものと思っていたので、少なからず驚いた

が、今更どうでもいいことだと思い、テーブルの上の5万をぐしゃりと掴み、自室に戻る。こんな金をあてに

しないと生きられない自分が歯痒かった。

翌日、祖母のお見舞いに行き、帰りに駅ビルの本屋に寄った。ひとまずアルバイトをして、あいつの

扶養を外れる準備を始めたかった。アルバイト雑誌を吟味しているとレジを打っている店員の声がやけに

心地よく耳に響いた。

お待たせいたしました、いらっしゃいませ、カバーおかけしますか、恐れ入ります、かしこまりました、丁度

いただきます、○○円お預かりいたします、××円のお返しです。レシートお持ちください、(ここでも)お待

たせいたしました、ありがとうございます、またお越しくださいませ。だいたいこんなふうで、気取ってるわけ

でもないが馴れ馴れしくない適度な冷徹さと親切さで、丁寧な接客をしているのが声だけで判った。姿を

見たくて、一度雑誌を置いてレジのほうを覗く。驚いたことに、同じ歳くらいの女子だった。灰色のカット

ソーの上にグリーンの店のエプロンをつけている、全体的に地味なかんじで、可愛さで言えば樹里には

敵わない、というか顔においても地味だけど、整っていて優等生的。ガツンと来るというのはこういうことだと

悟った。事務的に無表情に仕事をしているが、なぜか温かいかんじがする。声のかんじだと20代後半の

落ち着きがあったが、見た目は間違いなく10代だ。なんだこの落ち着きと、手際のよさ。

人にぶつかられて我に返り、またアルバイト雑誌を物色した。慌てて決めて、胸を高鳴らせながらレジへ

向かう。少し並んで、おれの番が来たとき、心臓のスピードはマックスだった。

「お待たせいたしました、いらっしゃいませ」

バーコードを読み取る間に名札をチェック。平尾みのり。なんといきなりフルネームを知ってしまった! 

みのりちゃん! かわいすぎる! などとあほなことを考えていると「お客様?」と覗き込まれた。茶色の

瞳がこちらを見ているので、ますます心臓がバクバクする。

「は、はい」

「390円でございます」おれってば財布も出してないし…慌てて500円玉を手渡し、触れたいのをじっと

堪える。お釣りとレシートは、釣銭盆に乗せて差しされたので、それをすごすご受け取る。「ありがとうござい

ました」…またお越しくださいませは無かった。気持ち悪く思われたのかな…。店を出るとき振り返ると、もう

ひとりレジに入って、その影でもう見えなかった。

水沢のことは樹里が現れてから見なくなってしまったし、樹里が去ったあとはひとりで帰るのは静かだなと

思ったくらいだし、何しろおれの気持ちは恋愛と思えないような稀薄さだったし、今回もすぐ冷めるだろうと

深く考えないでいた。

だが、その買った雑誌になんと、その書店の募集が載っていたのだ。

「17時から21時、大学生歓迎」高校生不可とは書いてない。速攻電話をした。店長さんが出て、

年齢を聞かれ15歳ですと言うと、

『あー、ごめんなさい、高校生はお断りしてるんですよ』と言われた。

「高校生不可とか、18歳以上とか、書いてないじゃないですか」隈無く見たのだ。相手が何か言い出す

前に、「お願いします! 祖母が大木原総合病院に入院していて、お金が必要なんです! 学校の

帰りにお見舞いに行って、その足で働きたいんです! なんなら調べてくださって結構です、祖母の名

前は…」一気にまくし立てた。半分は嘘だったが。

「わかりました、いいですよ」名前を聞く前に、店長さんが遮った。「では面接しましょう。近日中に寄れます

か?」

「ありがとうございます、明日の放課後でもいいですか?!」

翌日、保護者承諾印を自分で押した履歴書で面接を受けると、店長が聖陽館の卒業らしく和やかな

雰囲気になり、採用になった。しかも面接の最中に平尾さんが出勤して来て、最初に紹介していただい

た。ひゃっほう! 金を稼げて平尾さんと同僚!

 店長の紹介では、彼女は大学1年生で4月にアルバイトを始めたばかりだが、休日は朝や昼も入る

ので何でも知っている、優秀な人材だとか。教え方もレジと同じく丁寧で、おれが間違えを犯してもフォ

ローがぬかりなく、できるまで根気よく待ってくれた。仕事とは言え、今まで会った誰よりやさしかった。あまり

こちらを見ないが、時々、通じたかな、という顔で見ることがあり、そこで目が合うと視線が泳いでまた目を

逸らす。3つも年上なのに、スレてないというか男慣れしてないというか、ほんと幼い。ほかのアルバイトや

社員さんは、家はどことかきょうだいはとか血液型とか聞いて来たが、平尾さんは暫くそういうのは無かっ

た。仕事に慣れてきた頃、無駄話してもいいかなと思うタイミングで、こちらから

「平尾さんて、きょうだい居ます? 弟とか?」と聞くと、

「わたしはひとりっ子です。貫井くんは?」という形で儀礼的に質問される。あんまりおれに興味無さそう。

でもおれは構わず話しかけ、樹里のことも今カノのように話してしまい、シマッタと思う。フリーなのをアピール

したほうがよかっただろうに。

おれは店長に、家庭事情は皆には言わないよう頼んだので、皆同情とか抜きに自然に可愛がって

くれた。おれは役割をこなして他から立場を認められあてにされ、バイトしているときは本当に楽しかった。

夏が過ぎて秋のはじめ頃、祖母が息を引き取った。全体的に衰弱して、どこがどうというわけでなく。

祖母も密葬にされた。

長男は父に、

「心臓麻痺じゃないよな?」としつこく聞いていた。物凄く意地悪な気分で、おれは長男に

「ねえ知ってる? おばあちゃんが教えてくれたんだけど、父さんにはお姉さんが居たんだって。でも嫁ぎ

先で原因不明の心臓麻痺で亡くなったのに、父さんは仕事が忙しくて葬式に行かなかった。その後、

父さんに愛されたおれの母や、兄さんの母さんや、光路(こうじ)兄さんは、同じように亡くなった。おばあ

ちゃんはほっとかれてたけど、どうだったんだろうね。そして次はどっちなんだろう」

「なんだって?」

「おれの父親のことは知ってたらしく、彼のことは父さんきらいみたいだけどね」

「…何が言いたい?」

「まあ、あんまりふたりとも大事にはされてないから、呪われそうもないか」

明らかに怖がっているので、最後はフォローしてみたが、20歳で情けないくらいのリアクションだった。そう

言えば、金が無くなったことを問い質そうと思っていたのに、バイトに夢中ですっかり忘れていた。それに

ついてむこうがおれのリアクションを観察している様子は無かったので訝しんだが、ほかの犯人は考えられ

なかった。あの後も、ダイニングに水がぶちまけてあったり、種々の嫌がらせがしてあった。おれはバイトから

帰ると、まずそういうのを片付ける羽目になった。おれのほうは最終的に自分を正当化するためだけに、

売られた喧嘩は買わないことにしていた。それなのに今こうしてぬけぬけとおれの隣に居るのが腹立たしく

て言ったのだが、期せずしていい反応を得られた。

その後も長男は出がちで余り顔を合わせることはなかったが、ある夜、遅くに玄関のドアが開けられ

施錠の音がしたので父か長男だろうと思いつつもう半分眠っていたら、その内足音が階段を上がって

きてなぜかおれの部屋のドアが開いた。

「立基」電気を点け、長男がベッドのほうに進んで来た。どうやら間違ったのではないらしい。何かあった

のかと、反射的に上体を起こす。

「どうし…」たの、と言い切る前に布団をはがされ、押し倒される。「何すんだよっ!」力いっぱい押し返す

が、割にがっしりしている長男はびくともしなかった。殺されるのかと思ったら、そうではなかった。けれども

次男みたいに優しくはなかった。酒臭い息を荒げて、乱暴にスエットを引き裂いてくる。遮二無二唇を

押し付けた後

「今、親父に例の話を確認してきた。呪いなんかはどうだっていい。光路だけ、親父に愛されたそうだな。

おまえはそれを言っていたんだな」と言って、おれの腕を抑えつけたまま、顔を間近に寄せてきた。「この顔。

いつもきれいだなと思っていた。親父もそうしたんだ、おれが我慢することはない。憎悪と愛情は紙一重と

言うけど、本当だな…」

「離せ、おれはおまえなんか大きらいだ」

「気を引きたくていじめても、いつも黙殺だ。おまえは大人だなあ。ますますいじめたくなる。でも、ああいう

いじめ方はもう終わりだ。力づくでおれのものにしてやる」そしてまた再開しようとしたので、おれは長男の

股を蹴り上げ、痛がっている間にベッドを降りて、父の金を盗まれて以来持ち歩いている通帳など盗られ

て困るもの一式入った鞄を枕の下から、そして習慣的に寝る前に揃える翌日の服を勉強机の椅子の

上から、引っ掴んで部屋を出た。そういうのを用意しておいたのは、幸いだった。うちを飛び出しながら、

もう二度と帰らないと決心した。駅の反対側の公園まで走って、公衆便所で裂かれたスエットから着替え

た。寒くなり始めたので、上着を持って来なかったことを悔やんだ。

とりあえず漫画喫茶に入り夜明けを待った。あいつらはおれが口座を開いたこと、バイトして金を持って

ることは知らないから、のたれ死ぬと思うだろう。携帯はドコモショップが開いたら、父が知っている番号を

解約して新規で持とう。それからそれから…おれはまんがを読むふりをして、必死でこれからの計画を立て

た。頭を忙しく動かしている間はよかったが、それが緩むと、長男の手や唇の感触が戻って来た。震撼し、

そして涙が出た。

なんなんだあいつ…なんでそうなるんだよ…。ぶっ殺したい…。

けれども悪いことを考えると、必ず平尾さんが妄想の中でおれ呼ぶ。そうして思い留まるのだった。

なんとかして、平尾さんに辿り着きたい。それしか考えられなくなった。

 

考えてみたら労働契約書を部屋に置いて来てしまったので、おれを探そうとしたら、バイト先はすぐに

割れてしまう。今度いつ入ってたっけ…辞めたほうがいいのだろうか。でもバイト先の番号は、前に間違って

登録してしまったらしく、かからなかった。平尾さんの番号は、実はバイトを始めた頃に店の名簿から書き

写してしまったから知っている。彼女には解ってもらいたい。もし匿ってくれてその上うまくいったら、それ以上の

ことは無い。そう思うと、希望が持てた。

けれども、彼女は電話に出なかった。少し離れた街でバイトに応募しても、胡散臭いのか採用されず、

金がどんどん減って行った。 

平尾さんに何度も電話して、留守録になってしまうと通話料金が発生するらしく、それが痛い額だった。

浮浪者同然に暮らしながら、これはやばいと思って、最後の金で服を買い銭湯に行ってから、バイト

先の入っているビル続きの駅で、平尾さんを待ち伏せした。

もう後が無い。今日会えなければ、家に帰って長男と父を殺して死のう。そう決心して、バイト先の

ほかのやつも通るであろう危険な場所で彼女を待った。

やはり彼女は救世主なのか、友達と3人で現れた。泣きそうになるのを堪えながら、ほかのやつが、

しかもカレシかもしれない男も居るのに、声をかけた。心底驚いた顔をしてから話に応じてくれたが、やはり

困惑はしているようだった。深刻な状況なのに会えたのが嬉しくて、なんだかへらへらしてしまう自分が厭

だった。気の短い女友達が、これから行くところに同伴させて話を聞くことに決めた。草食動物みたいな男

…寛大さんは、何も言わず従う。飯を食ったら話の途中なのに寝てしまったりの史上最低の姿を見せて

しまった後、寛大さんのお姉さん、蛍子さんが現れ、話がとんとんと進んだ。

おれは仙台で、板前になることになった…ほかに選択肢なんて無かった。

職と宿を提供してくれる砂地さんという人は、家の人に行き先を言うのが条件と言ったけれど、おれは

言わなかった。父は放置かもしれないが、長男は追いかけて来るかもしれなかった。その旅館に辿り着い

たときに、言って来たか砂地さんに聞かれ、はいと嘘をついてしまう。蛍子さんを信用しておれをかくまって

くれる砂地さんや、平尾さんのバイト仲間だからっておれを砂地さんにお願いしたり泊めてくれたり金を

貸してくれたりする蛍子さんと寛大さんを見ていると、今までのおれの出会いはなんだったんだろうと思う。

あの3人と平尾さんが格別親切なだけなのか。そうでなけりゃ、まともなのは祖母くらいだ。でもおれだって

あんな家で育って、まともなんだか判ったもんじゃない。

板前として働きながら、高宮きょうだいや平尾さんとメールして、突然安定した幸せな毎日を送れる

ようになった。

就業時間はわりと長く、贅沢もしないので翌月には寛大さんに借金も返せ、年末は休みを取ってまた

来たらと言われた。その後数年、年末年始は高宮きょうだいのところで過ごすことになった。夏には3人が

こちらに遊びに来て、休みを合わせて会ったりうちの店に食いに来たりした。砂地さんと蛍子さんが一緒に

居るのを見て、おれは似合うなあと思ったけれど、寛大さんは、いやそれは無いんだよ、とあっさり言う。

それに寛大さんは平尾さんを好きなんじゃと思ってそれも本人に聞いてみたが、「あんな八方美人、付け

上がると痛い目見る。おれはおれだけに優しい女を探す。あ、おまえはがんばれよな」と冗談みたいに

言う。これだけ応援してくれるんだから違うのか。

初めての年始滞在で、平尾さんを初詣に誘うことには成功した上、一度風邪で様子見になったときに

寛大さんと成り行きでおうちに伺ってしまい、ご両親を見て、適度な保護と放任、というか信用のバランス、

お母さんの適度なキッチリさといい加減さのバランスに感動した。理想の親子、だよなあ…。

それから毎年初詣は一緒に行った。彼女が大学3年から4年になる春休み、

<今仙台に来てるんですけど、一週間中で会える日ありますか?>とメールが来た。慌ててシフト表を

見る。

<明日、早上がりです! 17時に体空きます、ごはんでも食べに行きますか? ぬく>約束して、待ち

合わせに現れた平尾さんに

「どうしたんですか? こんな時期に来るなんて初めてですね」

「今、春休みなんで」

「あ、そうですね」でもなんで? ちょっと早い時間だが、店は空いてるので適当なカジュアルイタリアンに

入る。近況報告をしながら食べ、最後に珈琲を飲んでいるときに、

「実は、こっちで就職しようと思って」平尾さんが言う。

「こっちで? えっと、教員志望でしたっけ。関東って厳しいんですか?」

「まあそれもあるけど、貫井くんの傍に居たいから」聞き逃しそうなくらい、普通に言われた。でも顔をよく

よく見れば、やけに真面目な、赤い顔をしている。「…よかったら、付き合ってくれませんか」よろしければ

袋を二重にしましょうか、と お店で言うみたいな言い方だった。だけど、その瞬間物凄い緊張がふたりの

間に流れた。「わたし、貫井くんが好きです。貫井くんが…その、もし…」言い澱まれて、おれも首やら

耳やらまで熱くなった。

「あの、おれも勿論好きです、あの、多分解ってると思うけど、初めて会ったときからずっと好きでした。もう

ほんと、今もこれからも、はい、ずっと好きです」息つく暇も無いほど、焦って言うと、平尾さんは笑う。

「何回も言わないでいいですよ。それに、これからずっとかは、まだ判らないでしょう。勿論、そうであるように

努力するけど…」

「えー、ほんとに付き合えるんですか?…信じられない…」

「そうなの? 言われ慣れてそうだけど」

「まさか、例の元カノにしか言われたことないです」

「意外。因みにわたしのほうは、初恋で初交際なんで、何も解ってないから宜しく」

「それこそ意外なんですけど。すごい大人と付き合ってそう」

「すごい大人と? どうして?」理由は無いが。「まあ、年下を好きになる予想は無かったけど。でも今は

制服姿でもないし、あんまり年下ってかんじしないですよ」

「老けました?」

「そうでなくて」笑う。「なんかね、精神的に、頼りになるから」なんて嬉しいことを。

 

 次の休みは3日後だったので、また会うことにした。平尾さんは午前中に面接があると言うので、おひる

から。午前中は寝てようかと思ったけれど、これは急いでしておかなければということをすることにした。

最近お客さんの男同士のカップルを見て、先輩が

「おれは嫌だな。やっぱり不自然なんだよ。神の摂理に反してるっつーの? だから病気になったりするん

だよ」と言ったのを聞いて、初めて中学の保体の時間に見たエイズのビデオを思い出したのだ。次男とひと

通りのことをしてしまったということは、次男が関係した父、父が関係した全ての男女(おれの母も含め)

その関係者全て、どこからでも感染するのだ。おれが感染していたら、平尾さんは諦めないといけない。

彼女にはうつしたくない。キスでだってうつると言う。たぶん、付き合っていたらしたくなるだろう。絶対だめ

だ。

検査に行ったら、おひるの待ち合わせにはギリギリで、しょっぱなから遅刻なんてありえん! と猛ダッシュ

した。平尾さんはもう居て、リクルートスーツだった。

「そんな急がなくても、メールくれればいいのに」

たぶんそう言ってくれると思ったけど。早く会いたいのもあったし。

「スーツ着てるとやっぱおとなっぽいですね。そういうのも似合いますよ」

「あんまり年上扱いしないでね。あと、ですますもやめない?」前から思っていたけど、この人は余り褒め

られても信用していないというか、お世辞としか取らない。おだては通用しないのは解っているんだけど、

何もかもツボなものでつい本気で褒めてしまう。

観光地は寛大さんたちと一緒のときに割に回ってしまったので、おひるを食べながらどこへ行こうかと

相談。おれは旅館内の職人部屋に住んでいて人を招ける雰囲気ではないので、寛大さんたちが来た

ときにもそれは言ってあり、「うち来る?」なんて言わなくて済むことが、検査結果が出る前の今は幸い

だった。平尾さんはビジネスホテルに滞在中で、招こうと思えば招けるが、たぶんそんな発想は無い。

「そうだ、図書館が新しくなったんだ、行ってみます? あ、みる?」笑う。「わりと大きいん…だよ」もうボロ

ボロだ。

「まあ、徐々にね」本気で可笑しそう。「図書館かあ、行きたいな、やっぱ解ってるなあ」おれのほうは、

褒められるとすぐに有頂天になってしまうのだった。

平尾さんが帰る日偶然遅出だったので、送りに行けた。今回は絶対に手出しはしまいと固く心に

誓っていたが、もうほんとに可愛くて抱きついちゃいたい瞬間が多かった。我慢、我慢。次のときまでの

辛抱だ。別れ際に手だけ握ってぶんぶん振り回し、それで終わりにした。1週間かそこいらで結果は出て、

問題皆無だった。おれはそのとき、過去の悪いもの全てを捨てられた気がした。

更に、みのりがこちらで私立の高校の先生になり引っ越して来た、おれが20歳になる年に砂地さんに

「お父さんとは連絡取ってないの?」と言われ、曖昧に頷いたら、

「あんまり関係無いかもしれないけど、年金とか住民税とか、本籍こっちにしておいたほうが便利な気が

するんだ」と言う。「それに、知らない間に戸籍消えてたりは無いと思うけどね、急にお父さんが引っ越し

ちゃったら、自分の本籍がどこにあるのか判らなくならない?」

「ですね」4年間、気にしなさすぎたかも。

「今はきみが稼ぎすぎて、お父さんが扶養家族控除の範疇を越えて所得税を余計に払ってたけど、

今度は自分で所得税とか住民税を払うんだよ。やっとひとりだちってかんじだね」

・・・行き先を言って来たと嘘をついた手前、質問したいことが沢山あったができなかった。きっと父は

おれが此処に居ることを知っている。そして4年間放置している。…それに引っ越してやいないか、気に

なる。おれは家に非通知設定で電話を入れてみた。夜なんで、だれか居るかもしれなかったが、出たら

切るつもりで。もう繋がらないかもしれなかった。

『はい貫井ですが』父の声だった。引っ越してはいない。帰宅早いじゃないか。まあ元気そうじゃないか。

だから切ろうとした。その瞬間言われた。『…立基か?』…なんで? 思い出せるのか、おれのこと。少し

沈黙が流れた。『もうすぐ20歳だなと考えていたところだ。…元気か?』まるで疑いもせず話を進める。

おれは答えずに切ボタンを押す。

2、3日不安に思って過ごしたが何も起こらなかった。そして20歳になり本籍も移し、何も起こらず

今日に至る。

考えてみれば、父がおれを思い出したことのほうが奇跡的で、おれを探す時間も意欲も無いことは

当たり前なのだった。

おれは、探してほしかったのか? 帰っておいでと言ってほしかったのか? 

みのりにも言えずに、そんな疑問を検査結果と共にゴミ箱に捨てた。

そして今度こそ、籍を外すときが来る。また見て見ぬふりなんだろうか。平尾家を巻き込んで何か起こりは

しないか。いやきっとどうでもいいんだ。自分の家族ならば金も出すしうちに居ていいけれど、出て行くなら

それはそれでよいのだ。そんなのはおれには全然理解できないけれど、彼はそうなんだ。時におれの母の

ような暢気な女を、時に二番目の母のようにきれいなだけで冷たい女を、時に次男のようにそれにそっくりな

何も知らない少年を相手に性欲を昇華させられさえすれば。 

たぶん今は、うちのことは新しい妻か家政婦にやらせて、長男を養っているか出て行かれたかで、

自分のために生きている。

 

   *****

 

「…ぬっくん、もうすぐ着くよ」みのりの声がして初めて、自分が眠っていたことに気付く。みのりは窓の外を

見て「あったかそうだよ」と、こちらを見ない。…頬が涙で濡れている。

「うわ、なんでおれ…」

「夢?」こちらをちらりと見る。

「うん。でも全然覚えてないや」ごしごしと袖で拭いて、荷物を下ろして準備し始める。些か心配そうにして

いるので、「でもなんか、妙にすっきりした。悪いものを洗い流したかんじ」と笑ってみせた。

「そっか」みのりはやっと笑顔になり、「ありがとう」と荷物を受け取った。

駅で顔を洗い、おれたちはタクシーに乗り込む。タクシーは軽い低音を響かせて、おれがまさに求めて

いたような、新しい両親の住む家に向かって滑り出した。

 

                                                  了

 

 

 

 

                                        

 

 

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