夏の終わりのソナチネ              小林幸生 1998

 

 

   

 秋には花をつける、今は葉ばかりの銀木犀に囲まれた門戸を抜けると、そこにはお菓子でできたような、小さな家が

あった。チョコレートのような扉を開いてわたしと拓実を迎え入れるのは、魔女のようにいつも黒い服の千鶴。中では

逆に天使のような面差しの千雪が、お茶を淹れてくれる。その日、わたしたちは悲しい話を聞く。

ご両親が相次いで他界された後、なんとかふたりでこの家を守って来たけれど、今度千雪も結婚して出て行くし、

千鶴ひとりでは無理なので、売りに出したのだそうだ。

「千鶴は?」拓実が滅茶動揺して言う。「此処を出て何処へ行くんだ? もう決めたのか? なあ、この近くに

しろよ」

「…うるさいな、決まったら教えるよ」千鶴は全く取り合わずにお茶を啜る。千雪は、拓実が逆上する前に慌てて

「日南子、ピアノのことなんだけど」と話を変えた。「自転車で通えるようなところに友達が教室を開いてるの。続ける

子はそこを紹介したんだけど、あなたはどうする? 拓実さんかおじいちゃんおばあちゃんと相談して決めたら? わたしが

ドイツに行っちゃってからの返事でも構わないし、ゆっくり決めていいのよ」

「ああそうか」結婚してもこの家に居るなら、ヴァイオリンとピアノの教室は続けられるけれど、ドイツに行っちゃうん

だった。「うん、考えておく」今は受け容れるのが精一杯…というか、この姉妹がここに居なくなるなんて、考えられない。

外に出ると、流石7月の空、真夏の色をしていた。舗道も眩しすぎて、思わず目を逸らした。

歩いて10分ほどで家に着くと、拓実は

「じゃあね」とアトリエへ行ってしまったので、わたしはひとりで母屋に行き、仕方無く自分の部屋で宿題をやった。拓実が

夕食にも現れなくて、おばあちゃんに聞いたら「後で食べるって」と言うので気になってアトリエへ行った。泣いてんじゃない

かと思ったけど、普通に絵を描いていた。わたしを見ても大して関心を示さずに絵を描き続けた。構わずにソファに座り、

その後ろ姿を見ていた。可哀想に。二度フラれた上に、今度はご近所でもなくなる。拓実がわたしのおとうさん代わりに

なってから早12年。彼のおにいちゃんだったおとうさんが、おかあさんと一緒に事故死して、お葬式の日に「おれがつい

てるからね」と言ってくれた、わたしのために煙草を止めてくれた、その人の辛さは、そのまんま自分の痛みだ。

電話が鳴り、拓実は流石にそれには反応して、出た。「…おお、太一。どした? うん、いいよ。じゃあ。気をつけて」

切る。「太一が来るってさ。まだ会社出たとこだから、1時間くらいかかるって」手を洗い、アイスカフェオレを手早く注いで

くれる。

「あ、ああ、ありがと。太一…なんだろ?」

「知らん」

太一は千鶴があの家を売ること、知ってるのかな。もしや、千鶴は太一と住むことにしたとか…不安が過る。

太一は、千鶴が連れて来た仲間で、拓実の友達は美大のときの仲間か、千雪絡みの音楽家か、高校までの友達

なのに…最近其処に入ってきた、そのどれにも属さない、サラリーマンしながら役者をしている人だ。千鶴は高校時代の

友達と言ったが、最近、太一は出身大学の付属の男子校卒だと判り、千鶴は公立の共学高校だから学校は違う

らしい。拓実は知っているのかそれ以上突っ込まないが、わたしは気になっている。

大体太一は、だれにでもやさしいけれど、特に千鶴にやさしい気がする。拓実の味方としては、かなりライバル視して

しまうのだが、千鶴も太一も何を考えているのかわからない。

「今のうちにメシ食って来る。日南子、別に居てもいいから」お言葉に甘えて居座る。描きかけの絵を見ると、千鶴たちの

家の絵だった。見とれているうちに屋根に雨の当たる音がし始め、そして走る足音が聞こえ、ドアがノックされた。うわ、

拓実はノックなんかしない、太一が先に来た! とりあえず開けると、結構濡れた太一が立っていた。

「あー、ひなぴょん」勝手につけた渾名で呼ぶ。

「拓実は今、母屋に…でも入って。もうすぐ戻るはずだから」中へ入れ、勝手にタオルを出して渡す。

「ありがと」頭や服を拭いているところに、拓実が駆け込んで来た。

「ひー、すげー夕立。やっぱ屋根付きの渡り廊下作ろうかな…あ、太一。いらっしゃい」

「お邪魔してまする」眼鏡を拭きつつ。

「ごめん、物色した」拓実にもタオルを渡す。

「サンキュ。物色? いや、いい。太一を濡れたままにするより、いい手だ、でかしたぞよ」太一に合わせたのか、ふざけて

言う。頭にタオルを乗せて、グラスを取り出し始める。

「あ、じゃあ、わたしは」アトリエを出ようとすると、太一が

「あ、べつにいいよ。今母屋に行くのも、たいへんでしょ」確かに。拓実を見ると、

「じゃあ居なよ。もう1杯飲むだろ?」拓実はわたしのグラスを取り上げながら、なんだかほっとした顔をしていた。

…太一と恋愛絡みの話になるのを恐れている? …その顔を見て、わたしは逆に、勇気が根付いてしまった。今

聞かなければいつ聞くのだ? と。

何も知らずに拓実はアイスコーヒーを注ぎ、わたしには牛乳を淹れてガムシロップと共によこす。拓実は作業椅子に、

太一とわたしはソファに腰かけて、まずは飲み物を口にする。

「昨日稽古があって、舞台美術のことで川越(かわこし)さんに来てもらったんだけど」

「ああ、千鶴、今度のもやるんだ」

「うん。そのとき聞いたんだ、おうちのこと」描きかけの絵に目を遣る。「拓実には今日話すって言ってたから、そのことに

ついて話をしたいと思って。もう聞いたんだよね?」

「ああ、昼間。日南子も一緒にな」

「どうだろう、あそこをみんなで買い取れないだろうか。みんなのサロンとしてさ」

「サロン?」拓実とわたしの声がハモる。

「拓実たちは個展を開いたり、松岡さんたち音楽家は演奏をしたり、おれらは芝居をしたり。勿論お金を取ってね。

おれも芝居に金かかって殆ど貯金なんか無いんだけど、みんなでならどうかなって。川越さんも、何処かへ越しても

使えるじゃない。でもお金絡みのことだから、いきなりみんなにより、まず拓実に相談なんだけど」

「妙案…だけど、おれもみんなも金…どうなんだろ、家っていくらくらいで売るのかな」

「何千万とかじゃないか」

「例えばこの前のぷよぷよ大会に集まったの…15人くらいだったっけか。あれがみんな賛成したとして、5千万円と

して…」

「さんびゃくまん…」

「…おれも…だれも持ってないよきっと」

「…ごめん、言い出しっぺのおれも無理…あでも、分割にはできると思う」

「集まったやつらのつてで知らないやつも参加したら、ひとり頭は減るだろうしな。声かけてみるわ」

そしてふたりは溜め息をついて沈黙する。

「あのさー」わたしは太一に、無遠慮な視線を投げながら言う。「家はとりあえず、自分のものにならなくてもあそこにある

わけじゃない。新しい持ち主が壊さない限りは。千鶴はいいの? ふたりとも、傍に繋ぎ留めておかなくていいの?」

「へっ?!」太一が目を点にし、拓実がむせる。

「日南子、おまえ何を…」

「知らないよ、遠くへ行っちゃうよ。太一は千鶴が居なくなってもいいの?」

「なんでおれ? 拓実ではなくて?」

「拓実はよくないでしょ、そんなところで遠慮し合うなんて、男らしくない!」

「日南子、おまえはー…」怒ろうとするが、まるで迫力の無い拓実。

「まいったねえ、高校生だもんね、ひなぴょんは。気にもなるかー」太一が情けなく笑いながら、隣のわたしの肩を

ばんばん叩いた。「拓実はそうかもしれないけど、おれは川越さんに恋愛感情無いよ、てか、彼女がどうこうじゃなくて、

おれ、恋したこと無いの」

「へえっ?」またハモる叔父と姪。

「まあ離れたくない大事な友達ではある。でも彼女が選んだことなんだから、仕方無いと思ってるよ、それに関しては。

また、会う機会は作るし」

「そうなんだ」なんか納得した。しかし33歳で恋愛未経験とは。まあ、太一らしいと言えば、それまでか。

「拓実は」太一がまっすぐ拓実を見る。「これを機会に結婚申し込んだりしないの?」

「なんでそうなる…」

「だって、バレバレだよ」

「…おれ2回フラれてんだよ、もう終わってんだよ」

「2回くらいで…」今度は太一とわたしがハモり、笑う。「諦めんなよ」続きは太一が言う。

「なんだよおまえら…」拓実は憮然として言う。「ふたりとも、自分が恋愛してフラれてから言えよ」

「返す言葉もありまへんがなー」太一が茶化す。「まあ、ひなぴょんは、まだまだこれからだし。…雨、上がったみたい

だね。そろそろ帰るよ、ごちそうさま」

「じゃあ千鶴の家の件は、みんなにメールしてみる」

「宜しく。僕も役者仲間に声かけてみるわ。あ」戸口まで行き、また振り返る。「あのさあ、その、川越さんが手伝って

くれてる今度の芝居、よかったら」鞄からビラを出す。

「おう、行く行く」

「じゃあまた、あ、此処でいいよ。お邪魔しました〜」わたしにも手を振り扉を閉める。その瞬間、拓実が

「あれ、あいつ…」と言う。

「うん?」

「何が、よかったら、だよ。主役じゃねえか」

「うそっ」

窓の外を見ると、暗い庭を抜けた太一は、門を丁寧に閉めていた。

 

   2

 

 実を言うと、恋愛どころか友情についても、わたしはイマイチ理解できていなかった。陽気なおとうさんと同じ顔をして

いながら、まるで印象の違う、ちょっと怖いかんじの拓実が「おれがついてるからね」と言ってくれて、それからこどもみたい

ではあるが一応オトナの彼の後をついて回り、その仲間、15は年上の人たちとつるんでいると、同じ年代の子たちと

過ごすのは結構苦痛になってくる。あんまりひとりで居ると、「好きな者同士で」と言われたとき困るのを悟ってからは、

そこそこ付き合いをよくするようにしたが、そちらとのつるみは最低限にして、逃げるように帰宅してしまう。無論帰宅部

だが、月に一度の委員会は免れず、1学期最後の水曜日である今日は、仕方無く出席した。風紀委員会の行わ

れる3年1組に行き、空いた席に座る。委員長の2年生が進行し、熱心な委員はメモを取りながら聞く。わたしは

冷めた委員なので、適当に要約して報告するのみ。大体、個性を出したいんなら私服の高校へ行けってかんぢなので

ある。

「では終わります、次回は9月の第4水曜日です」皆立ち上がる。「1年6組の小峯さんは残ってください」名前を

呼ばれ、驚いて委員長を見ると、こちらを見ている。えー、何? 早く帰りたいんですけど!

「なんでしょう」仕方無く黒板の字を消している委員長のほうへ行く間に、担当の先生もほかの委員も、みんな居なく

なる。

「朝の校門前風紀検査での違反、1年6組が一番多いんですよ」と黒板消しを置いて手の粉を払いながら言う。そも

そも背が高いのに、教壇に乗っているので見上げる形になる。

「はあ、すみません」

「明日のホームルームで、必ずそれを言ってください」無表情にはきはきと話す2年男子の顔をずっと見ていられず、下を

向いて

「はい」と言う。

「てなとこで、風紀委員はおしまい」教壇を降りて、体を折り下から覗き込んで来る。「一緒に帰らない?」

「へっ?」思わず一歩後退る。

「鞄、教室だよね。おれもだから、昇降口でまた」まっすぐ立って、委員会のバインダーを持って先に出て行く。

ひとりになると、本当のことだったのかよくわからないかんじがしたが、とりあえず鞄を取りに教室へ。恐る恐る昇降口へ行く

と、本当に委員長が待っていた。

「お待たせして…」全部言う前に、遮られる。

「いやいや全然。そう言えば、おれの名前、覚えてる? 4月に委員長になるときに言ったけど」

「あーえっと…」無論覚えていない。

「だよね」苦笑する。「2年7組の斉木朋(さいきとも)。覚えてね。職権濫用してごめんね、4月から、ずっと話してみたいと

思ってたんだ。あっ、バスと電車で帰るんだよね?」

「…はい」

「じゃ、とりあえずバス停へ行こうか」歩き始める。「おれ、最近の高校生のファッションとか考え方とかきらいでね、自分でも

古臭いとか思うけど、だから風紀委員になって、とりあえずファッションから世直ししてるんだけど」あ、もしや委員会の話を

したいのかな、わたしがあんまり冷めてるから。なら面倒臭いけど聞いてあげよう。「うちの生徒はまだまともなほうだけど、

やっぱり相容れないものはあって。で、きみってなんか、違うじゃない」

「え? そうですか?」まあ、違反はしていないけど。スカートは膝まであるが脚に自信が無いからだし、このネクタイも

校章もいつもするのは好きだからだし。

「なんか大人びてるっていうか、落ち着いてるっていうか」

「老けてますか」

「んなわけないでしょ、どっちかというと見た目は、まだ中学生って言っても通るよ」

「それもどうなんでしょうね」怒るでも笑うでもなく言うと、

「それ! そういうかんじが」と笑われる。「まあはじめは、単純に可愛いなと思って見始めたんだけど」…ふざけているの

かな。どんなグループに居ても、この子かわいいねと言われるのは、別の子だった。何の特徴も無いこんな顔で、それは

無いだろう。そう考えているうちにバス停に着くが、誰も居なかった。「よければ…あんまり興味は無さそうだけどつきあって

みない? きみの興味のあることやら考えやら、いろいろ知っていきたい。勿論、すぐ返事聞かせてとか言わない。会っ

てるうちにきみのほうでもおれでいいと思ったら、でいいんだ。それかもう、そういう人、居る?」静かではあったが、遮る間も

無く言われて、ぽかんとして聞いてしまった。急に質問口調になったので、はっとして

「あ、えっと…」耳に残った言葉を頭で反復し、「そういう人って…」と口ごもる。

「カレシとか、好きなやつとか」

「居ません」間髪入れず答えて、それ自体に恥ずかしくなる。

「じゃあ今度の土曜日、遊びに行ってみない?」

「えっ」いきなりそうなっちゃうの?

「会ってみて、おれみたいの厭だったら、断ればいいじゃない」

「そんなお試しみたいな…」

「おれがいいって言うんだから、いいじゃない。何か予定ある?」

「土曜日…あれ、あ、いや、日曜日だった」

「何が?」

「お芝居を観に…友達が出るんで」

「へぇー、そんな友達!」あ、きっとこれは、同年代の友達と思ってる。「それが日曜日で、土曜日は大丈夫?」…畳み

掛けられ、適当な嘘を思いつけず、結局約束してしまう。

土曜日はあっという間に来て、わたしが出掛ける頃ようやく拓実が起きてきた。

「あれ、珍しい。出掛けんの? さてはデートだな?…んなわけないね」起き抜けのブサイクな顔で言う。

「何よそれー」

「だってその服装」

「…ああ」相当考えた上、これにしたのだ。今更口出しはさせるまい、と黙殺して家を出る。瑠璃色のパーカーTシャツに

白のワークパンツ、紺のバッシュにリュックサック。わたしはロングスカートも膝丈くらいなら短いスカートも、キュロットもジー

パンやアーミーパンツもオーバーオールも大好きだ。恐らく古風な斉木先輩は、ロングスカートがお好みだろう。だから、

好みに合わせるのは敢えて避け、短いのは悩殺目的みたいだから辞めた。

待ち合わせは、池袋駅の…いけふくろうだと混みそうなんで、ルノートル前。5分前に着くと、斉木先輩はまだ来て

おらず、人の行き来を見ていた。2分前に、斉木先輩が現れる。

「あ、ごめんね、待った?」

「いえ、今来たところです」からかっただけで来ないんじゃないかという不安もあったので、ほっとしたら笑顔になってしまった。

「私服、かわいいね」

「先輩はロングスカートのほうがいいかなとも思ったんですが」

「…否定はしないし、きみがワークパンツって実は意外だったけど、でも、そういうのもいい。色もきれいだし。うん、かわ

いい」当の斉木先輩は、制服でシャツをきっちりズボンにインしているのに、私服で裾を出しているのは意外だったが、

ほかはなんとなく想像通り。ストライプのダンガリーシャツにジーパン、ナイキのシューズと斜めがけ鞄。いいかんじではない

ですか!

「そのジーンズの色、変わってますね。きれい」

「でしょー、一目惚れした色なんだ、ヴィンテージグリーンて書いてあった」

「へえ、ヴィンテージ」

「ごはん何食べたい? とりあえず駅ビル行く?」食べに行く場所にしても、その後の遊び場所も、聞いてくれているので

否定も提案もできる範囲で、そこそこ決めてくれているのが、なんか拓実っぽくて丁度よかった。アムラックスを回りながら、

わたしはこの人と付き合うかもしれない、と思ったら、なんだかドキドキした。

「車、全然興味無かったらどうしようと思ったけど、結構詳しいんだね、よかった」アムラックスの後でサンシャインのカフェに

入り、先輩は言う。

「デザインのことしかわかりませんけどね」エンジンとか、機械としてはまるでわからないのだ。

「おれ、いつかローバーミニに乗りたくてね、あ、勿論旧型のやつ。もう製造してないから中古しか無いんだけど」

「それ、友達が乗ってます、緑のメイフェア」

「えっ、友達が?」

「あ、33歳の女性なんですけどね。あーでも車どうするんだろ、今度引っ越すから」

「おとなの友達か」

「そう、この前言ったお芝居やってる人も、おとななんです。ミニの人は造形師で、その舞台では美術担当で」

「すご…」

「叔父が絵描きで、その後をくっついて回ってるから、30前後の友達ばっかりなんです」

「だからおとなっぽいんだね、きみ」

「逆に同世代との付き合いが過疎なんですが」

「明日のお芝居は、だれと行くの? ひとり?」

「叔父と」

「そうなんだ」心なしかさみしそうなので、つい

「先輩、興味あったら、明日一緒に行きますか?」と言ってしまう。いや、違う。先輩の表情はそういう意味ではないのに。

「明日はちょっと」にこりと笑って、「でもお芝居って、芸術教室でしか観たことないんだ。行ってみたいな。いつまでやってる

の?」

「あ、ビラ持ってます」リュックサックに入れっぱなしだった。「あげます、これ」最初自分は無関係だと思ったが、初めて行く

のにという考えも浮かび、「わたし大抵2回行くので、日が合えば一緒に」と言う。はっ、こっちから誘ってしまった。

「ほんと? こーゆーとこひとりで行くの不安だし、一緒に行ってもらおうかな。来週…もう夏休みか、じゃあ木曜日とか、

土曜日とか」土曜日は千秋楽なんで、拓実が2回目で行くかもしれず、鉢合わせはやっぱりやだなと思って木曜日に

する。

「チケット頼んでおきます。先輩初めてだから、友達がお試し価格でロハにしてくれると思います」

「ロハって?」ぎゃーシマッタ、死語だよ死語!

「…タダのことです。カタカナでロハって書く漢字の只ってあるでしょう、あれから来たらしいんですが、叔父たちがよく使っ

ててつい…」

「なるほど面白いね」

それから展望台で昼から夕方になっていく景色を見て、別れた。夕食は家で食べるということにしたのだ。お互い

バイトもしていないし。駅は隣だったので最後まで一緒だったが、意外にも全然疲れず、名残惜しかったくらい。先輩、

なんかすごいな。

翌日は、拓実が行きたい個展があったので、午前中はそちらへ行った。拓実が同期生とふたり展をやったlune verte

(リュヌ・ヴェルトゥ)という画廊で、「緑色の月」という変わった名前のように、緑色の壁で、こじんまりしていて、なんか好きな

建物。今日は、拓実の先輩が個展を開いている、最終日だった。

「間に合ってよかった」と言いながら、拓実は回っていたが、わたしはその絵はあまり好きではなく。本人と拓実が話して

いるときも、わたしは話に加わらなかった。中がエアコンのせいで寒かったので外に出ると、なんと目の前の道を自転車を

押しながら歩く斉木先輩に気付いた。

「あ」思わず声を上げると、先輩は気付いてこちらを見た。な、泣いてる。

「…わっ、なんでこんなとこに!」急いで涙を拭い、立ち止まった。「今日はお芝居じゃなかったっけ」

「午後はそっちに行きますけど、此処で叔父の先輩が個展を開いていて、先に寄ったんです」

「個展て、絵の? 変わった色形だと思ったら、そういうところなんだ」と普通に話しながらも、涙が後から後から出てくる。

「早速みっともないな、おれ」

「何かあったんですか」遠慮しつつ聞く。

「其処の病院に、幼馴染みが入院してるんだけど…もう危ないんだ。告知してないらしいんだけど、きっともう、あいつは

知ってる。ゲームやまんがを持って来たって、いじった気配すらない」

其処へ拓実が出て来て、涙の先輩とバッチリ視線を合わせてしまった。

「日南子、お待…」明らかにカタマっている。

「あ、あの、例の…叔父の拓実です。拓実、こちらは学校の風紀委員長、斉木朋先輩」

「どうも」

「初めまして。すみません、こんな顔してて。日南子さんは関係無いんです、たまたま通りかかって。じゃあおれはこれで」

「日南子、今日はやめておく?」

「え?」

「いや、いいんです。それじゃ!」先輩は自転車に跨がって走り去った。

「どういう意味?」拓実に聞くと、

「彼の傍に居てあげたら?って意味」

「…わたしが居たって、どーしよーもないよ」

「ドライですこと〜」もう何も言わずに駅へ行き、ドムドムに入ってごはんを食べ、まったりしてから太一の舞台へ。

こちらは初めて来た芝居小屋。劇団の名前はOneだというのに、この芝居小屋は「テアター・ヌル」、ドイツ語で「ゼロ

劇場」という意味だそうで、拓実がハチャメチャウケている。拓実は学生の頃、絵のためにドイツ語もフランス語もイタ

リア語も履修していて、いち早く反応してウケていることがよくあるが、後で説明されると、そんなにツボるかなあ、って

ことが多い。意外にツボ範囲が広いらしい。こちらはグレイ一色のすっきりした建物だが、これも好きで、どこか懐かしい

かんじもした。

客席は100、しかし殆ど満席。まあ初日は招待もあるんだろうけど、すごい。千鶴は調光室から後輩に指示を出して

舞台転換すると言っていたので、客席には居ない。千雪は教える日なので、今日は来られない。わたしはこの、舞台が

始まる前の緊張感が大好きだ。みんなの期待に満ちた顔、パンフレットを捲る音、出演者の噂話(いいこと、愛に満ちた

ことばかり)、久しぶりに会ったらしき人たちの嬉しそうな挨拶。

そうしてブザーが鳴ると、立っていた人は皆いそいそと席につく。

パンフレットによれば、この作品はドイツの文豪ゲーテによるもので、ヴィルヘルムという太一のやる役の若者が、俳優

一座に入ったり家業に戻ったりした後に自分の一座を持ち役者兼監督を始める。途中サーカスの少女ミニョンや竪琴

弾きの老人を拾い、仲間にする。シェークスピアや様々な恋愛を通して、成長していく役者の物語。続編もあるらしいが

それはまたの機会に、と書いてあった。

幕が上がり、…わたしは今日、なんだかぼうっとしていて、全然集中して観られなかった。解説で読んだくらいまでは

記憶にあるが(それは読んだから?)、気付くとミニョンは死んでいてその出生が語られ、驚愕した。

幕が下り、拓実と共に楽屋へ行く。千鶴に会い、拓実は舞台のからくりについていろいろ質問した。どうやら面白い

からくりがあるらしく、今度はチェックしてやる、と考える。太一が衣装のまま偉そうなおじさんたちと話しているのが見え

て、隅で待った。彼らの後でわたしたちの知らない友達らしき人と話した後で、むこうからこちらへ来た。

「やー、どーもどーも」少しハイになっている。拓実がぶっちぎりで誉めるので、わたしは頷いたりしていたら、

「おれ、今回もまたもう一度来ようかな、日南子、楽の日また来るか?」

「あ、わたし、中日(なかび)に来る」

「中日?」

「ひなぴょん、昨日電話くれて、予約済みなんだよね」

「うん、昨日拓実は帰りが遅かったから言わなかったけど、学校の友達と行く」さっきの人とは言えなかった。「太一、今

その分払っていい?」

「いいよ、ありがとう」

「学校の友達かあ」支払いをしてチケットを貰う後ろで、拓実が言う。太一も

「ひなぴょんの友達って、どんなふうか気になるよね」と笑う。「たのしみだな」いや、楽屋には連れて来ないから! 黙って

2枚のチケットをしまう。いつも支払いは拓実がしてくれるので、やっぱりイタイなあ、と思いつつ。

 

帰宅して、明日から学校は夏休みだが特別講座があるので、拓実のアトリエに行くのはやめてプリントなどをチェックして

いると、階下で拓実とおばあちゃんが話しているのが聞こえた。

「母さん、日南子は部屋?」

「其処で電話してない?」さっき、しようと思って受話器を手にしてから、辞めたのだ。

「居ないよ、子機もある」

「じゃあ部屋に戻ったのかしら、行ってみたら?」

「まあ、絵ができたから見るかと思っただけだから、今じゃなくても」全部聞こえているのが可笑しい。行こうかとも思ったが、

「すぐ言わないと怒られない?」

「そうだね」と上がって来る音がして、咄嗟に机に突っ伏して寝たふりをしてしまう。

拓実はノックをして、声をかける。なんとなく返事をするタイミングを逃し、またノック、扉が開いた。

「ありゃ、寝てる」もうしょうがない。寝たふり続行。拓実は、わたしがベッドの上に脱ぎっぱなしにしたサマーセーターのアン

サンブルの上着をかけてくれ、また、エアコンの設定を弄る音がしたので、きっと温度を上げてくれたのだとわかった。そして

静かに戸を閉めて出て行った。…なんだか泣けてくる。わたしは拓実に、大事にされすぎた。

おとうさんたちのお通夜の日、後で聞いたところによれば、始まるまでに時間がかかるし、ふるまわれる夕飯までもたない

かもという理由で、わたしは拓実に連れられ、近所のモスに行った。実の兄と義理の姉を亡くし本人も辛かったろうに、

今まででは考えられないくらい饒舌にわたしの相手をした。たのしく過ごしていたはずなのに、わたしはしかし、

「おかーさんたち、いつかえってくるの?」と聞き、その途端拓実は涙を落とし、状況を把握できないわたしは「どうしたの、

たくちゃん…ひなのポテトもたべていいんだよ? げんきだして」とか言ったらしい。そのへんまでは拓実も今は笑い話として

話す。そして次の言葉については決して語らない。だけどわたしは。

「日南子、おれがついてるからね、がんばるんだよ?」ほかの細かい事柄は忘れても、頭に乗せられた大きな手の温もり、

夕焼けを受けてきらきらした涙、そしてこの言葉は、決して忘れない。

 

 

  

 

ほんとうに転寝してしまった。おばあちゃんに起こされて風呂に入ったのは12時近かったので、まだ起きている

だろうが拓実のところへは行かずそのまま寝たら、太一と千鶴の結婚式に斉木先輩と出席し、拓実はふてくされて

来ない、という陳腐な夢を見た。千雪みたいにふたりはドイツに行くと言うので、「行かないでー!」と叫んで目が

覚めた。

丁度目覚まし時計が鳴り、顔を洗いごはんを食べて、制服を着て鞄を持って家を出る。出掛けに拓実が

起きてきた。

「あれ、夏休みじゃないの?」

「講習入ってるの。あ、千鶴たちのおうちをみんなのサロンにする話、どうなった?」思いついて聞く。

「あー…あっという間に買い手がついちゃった。今更友達が買いますなんて言えないよな」

「そうなんだ…いつまで住めるの?」

「知らない」夢の中のようにふてくされている。知らぬ間にその件でまた喧嘩したのかも。一昨日か? 昨日、

舞台の話をしてるときは普通だったけど。うちを出て電車に乗っているときは、千鶴がほかの仲間と一緒に拓実の

アトリエに初めて現れた日のことを思い出した。今よりずっと髪が短く、少年みたいだったが、あとは全く変わって

いない。わたしは拓実のカノジョだと決めつけていたっけ。

高校の最寄り駅に着き、改札でいきなり斉木先輩に会ってしまった。

「あ、お、おはよ」動揺してる。「昨日はみっともないとこ見せちゃって」

「あ、いえ」電話しようとしてやめたのは、その件だった。どうしたかなと思ったのだが、やはりイキナリのカノジョ面の

ような気がして、やめたのだ。「…大丈夫ですか」バスターミナルに向かいながら聞く。

「今のところ、容態が悪化したような話は聞いてないよ」

「いえ、先輩がです」

「…おれは健康優良児だから」

「…そういうことでなくて」

「ありがとう、大丈夫だよ」ほんとうは大丈夫ではないな…。バスターミナルは、夏休みだからいつもより少ない

ものの、うちの生徒だらけだった。やばっ、少し先輩の後ろを歩いてみたけれど、振り返りながら話すし、バスでは

ふたりがけの席に座ってしまう。あー、ちょちょっと、先輩…そこで座らないのはへんなので隣に座り、なるべく窓の

ほうを見て話した。

「叔父さん、若いんだね。驚いたよ。33歳って聞いたし、おじさんって響きがね…」

「叔父たち、自由人で結婚もしてないせいか、みんな若く見えますよ」

「みんな芸術家なんだよね。きみのおとうさんやおかあさんもそうなの? きみがピアノ習ってるってことは、音楽

家?」

「いえ、父は普通のサラリーマンでした。母も専業主婦でしたし」

「えっ」先輩は、でした、という言葉に敏感に反応した。「もしかして、もう…だから叔父さんと行動してるの?」

「はい、事故で。叔父と祖父母が親代わりです」

「そうなんだ、ごめんね」神妙に言われたので、

「謝ることないですよ」わたしは苦笑する。

「死別なんて…なぜあるんだろう」先輩の顔に、また暗い影が降りた。

 

木曜日の昼公演。テアター・ヌルのある駅で待ち合わせ、斉木先輩は今日は先に来ていて、わたしが目に

入ると、にこやかに手を振った。

「こんな格好でよかった?」気を遣ったのか、今日はスニーカーではなく茶色いローファーに綿パンだった。

「ばっちりです、この前みたいにジーンズでも大丈夫ですけどね」わたしもワークパンツはやめ、トラッドな服装に

したが。

「あ、実は私服、そんなイメージだった」

「いろんなの好きなんですよ。でも今日は、それこそワークパンツはちょっとまずいかなと」

「いろんなのか、そうか、次もたのしみだな」

受付を通って客席へ。パンフレットを読んだりしていると、真ん中の通路をスケッチブックを持った人がドカドカと

通り過ぎるのが横目に入ったので、厭な予感がして見ると、やはり拓実だった。千鶴が一緒に居る。

「あれ、叔父さんだね」先輩も気付いた。ふたりは前のほうに座る。

「最終日に来るって言ってたのに。それになんで千鶴が客席に…あ、あの隣の人は舞台美術の友達、例の、メイ

フェアに乗ってる」

「ああ、造形師さん」客席暗転で、話はまた後にする。今日は集中して見られ、拓実の言っていた面白いからくりも

わかった。背景にもこんなに目を遣ったのは初めて。千鶴が作った世界で、太一やほかの役者さんが演技して

いる。不思議な気分だ。

幕が降りたら、わたしたちはまだ座って、劇の内容から抜け出られずにいたが、拓実たちはすぐに立ち上がり

後方の出口へ向かって来たらしく、わたしを見つけてでかい声を出した。

「あれっ、日南子」わたしはもう拓実をノーマークだったので、居るのを知っていたにも関わらず飛び上がらんばかりに

驚いた。「あ、風紀委員長さん」斉木先輩に気付いてむこうも驚く。

「こんにちは」立ち上がって頭を下げる。拓実は後ろを気にして

「とりあえず出よう」と出口を示した。堪忍して曖昧に笑う千鶴の後ろをついて行く。ロビーで千鶴を紹介する。

相変わらず愛想の悪い千鶴だったが、先輩はあまり気にせず、美術を褒めまくる。

「今日は客席に居たんだね」

「うん、昨日まで調光室から指示出してたんだけど、今日から好きにやらせてみてる。だめならもとに戻すつもり

だったけど、大丈夫みたい」

「おれたち楽屋行きますけど、一緒にどうですか?」先輩に向かって、珍しく丁寧語な拓実。

「あ、行ってよければ。きみがひとりで行きたければ待ってるけど」わたしの心中を察して気を遣ってくれるが、拓実は

「行きましょー、行きましょー」と背中を押して連れて行ってしまう。

「あ、ちょっと待ちなさいよー」わたしは慌ててついて行く。

太一は楽屋前の人だかりに居なくて、呼んでもらうと、もうTシャツとジャージになって出て来た。

「あれ、拓実今日来たんだ」「楽のチケット売り切れてたじゃん、だから慌てて空いてる日に。当日券だから、

おまえの売上にならないけど。それより太一、こちら!」先輩を示す。

「はじめまして、今日はチケットをありがとうございます」太一の頭に、ハテナが3コは乗っかった。

「えーと?」千鶴の後ろから、わたしは顔を出す。

「学校の先輩、斉木朋さん」

「あっ、あー! ひなぴょん、今日だっけ! うっそ、もー友達なんて言うから! どーも! 武藤太一です!」

でっかい声で満面の笑みで、握手を求めているので、周りの人もこちらを見てる。

「武藤くん、はしゃぎすぎだよ」千鶴が冷ややかに言い放つ。

「あの、ちょっと待って」わたしは割って入り、「まだそーゆーんじゃないから」と太一を宥める。

「えっ、なに違うの?」おとな3人の声が揃い、明らかにガックリしているが、

「僕は希望してるんですけどね」斉木先輩が穏やかに言い、再び沸く。

「ひなぴょん、今すぐおっけ、おっけー!」

「やるなあ、日南子」千鶴は口端で笑うだけだが。

「何を渋ってるわけ? 超似合ってるじゃん!」拓実までハイテンションになる。

「…あのさー、ろくに知らなかったのに、すぐにハイそうですかって付き合えるわけないでしょが」わたしは千鶴を

真似て静かに言い、「じゃあお礼も言えたし、行きましょうか先輩」

「え、あ、うん」

「太一、夜公演もがんばってね」最後は笑顔を作り、芝居小屋を出て、交差点まで来たところで止まる。

「ごめんね、掻き立てるようなこと言っちゃった」

「まいっちゃいますねー先輩ってば」わたしはようやっと赤面してきて、まともに先輩を見られずに、でも一応笑い

ながら言う。

「なんか焦っちゃって。今日のお芝居の、ミニョンがきみに重なっちゃったんだ」

「ミニョンが? ああ、拾われて、歳の差で、ヴィルヘルムが拓実ですか」ミニョンはヴィルヘルムに恋い焦がれて

心臓の発作で死ぬのだ。

「叔父と姪って結婚できるんだっけ…?」

「やめてくださいよ、笑っちゃいます。拓実は、あの舞台美術のおねーさんに首ったけですよ。あのふたり、付き

合ってないんですけど、そうだったらいいのにって思います。それって、家族的な愛ですよね」

「うーん…」ちょっと唸った。「まあそれはさておき、否定したってことは、おれはまだ認められてはいないと」

「あえっと、すみません。わたしってすごく慎重みたいなんですよ、何しろ恋したこと無いくらいだし、もう少し待って

ください。ちゃんと返事します」

「うん、ごめんね、急かしたわけじゃないんだ」先輩ってすぐに謝るな。やさしいんだろうな。そこは太一みたいだな。

今日もお茶だけにして、夕ごはんには帰ることにした。斉木先輩は、ちゃんと家族を大事にしていて、わたしにも

そうしてほしいらしい。付き合っても家を蔑ろにするということは、無さそうだ。それはとてもよい。まああとはお金

だな。先輩もバイトしてないらしいし、親の…わたしの場合は祖父母のお金でデートって、どうなんだろう。

 

 

   4

 

その日は、千雪先生最後のレッスンだった。おばあちゃんが一緒に来て菓子折りを渡し、今までのお礼を

言って先に帰る。たぶん意識してだろうが、シンフォニアとソナタはマルになった。ツェルニーはだめだったが。最後に

その合格した2曲を通して弾くように言われた。弾きながら、愛しいピアノやその上に置かれたもの、その部屋の

もの全ての視線を感じ、甘受した。この感覚も、最後なんだ…。弾き終わると、先生に拍手された。

「日南ちゃん、10日って空いてる?」

「うん」

「デートは?」

「千鶴が言ったね?」苦笑する。「生憎、次の約束はしてないよ」

「そうなんだ。いや、先に太一さんが教えてくれたんだけどね」あいつはー!

「で、10日って?」

「ああ、あのね、8月いっぱいは居るんだけど、太一さんがこの家のお別れパーティーしたいと言っていて、実は

拓実さんと太一さんと千鶴とゲオルクとわたしだけで、もう既に合う日が10日だけになっちゃって。その日来られ

ない人はまあ、また別にしようかと。じゃあ来られるね?」

「うん」

「そしたら、今の2曲弾かない?」

「えー! ひとりなんて、絶対厭! 千雪何か弾かないの? それなら伴奏するよ。でもわたしが弾けるのにして

ね」千雪はピアノも教えられすが、ヴァイオリニストなのだ。

「えー?」今度は千雪が叫ぶ。「…あ、でもあれ、弾きたいかも」やけにあっさりと承諾して、ファイルを探り始めた。

そして内線で千鶴を呼ぶと、手だけ念入りに洗ったのかきれいで、服や腕は石膏で白くなった千鶴が降りてきた。

わたしを見て

「今のピアノ、日南子だったんだ。彩香かと思った」と目を丸くする。彩香ちゃんはわたしより1学年上の、この

門下のピアノで一番うまい子だった。

「まさか。彩香ちゃんはもっと進んでるでしょ」

「同じ本をやってるよ、ちょっと先だけどね。日南ちゃんもがんばってたわよ。あ、それでね」ファイルから出した楽譜を

千鶴に見せる。「弾いてくれない? 10日」

「ええっ。…あれか…まあ弾けるかな。あ、もしかしてピアノは」

「日南ちゃんにお願いしようと思って」

「ならいいよ」千鶴が薄く笑う。「初の共演だな」

「え、何、何の曲?」

「わたしが日南ちゃんくらいのときに作ったの」

「わ、作曲?!」

表紙に、ヴァイオリンとヴィオラとピアノのためのソナチネと書いてある。千鶴は、千雪みたいに専門にはしなかっ

たが一緒にヴァイオリンを習ってきて、高校生のときにヴィオラも購入して弾くようになった。千雪門下の発表会で

一度聴いたことがあり、その音の深さに、なぜ千鶴がヴァイオリンでなくヴィオラなのかわかった気がした。また聴け

るんだ、と思ったら嬉しくなった。コピーさせてもらうことになり、コンビニに用事がある千鶴が送りがてら、コピー代を

払って原本を持ち帰りに来てくれることになった。あっという間に着替えて来て、といっても白い粉がついていない

だけの同じような黒いTシャツにジーンズだったが、腕もきれいにして現れた。千雪にさよならして、千鶴とお菓子の

家を出た。

「引っ越し先、決まったの?」

「うん、中野にちょうどいいところがあったから、月末からそっちに行く」

「…まあ、行けない距離ではないか」

「まだ招待してないんですけど」笑う。

「えっ何よ、行っちゃうからね」

「ピアノ、続けないの」先日、新しい先生を紹介しないでいい、と千雪に言ったのだ。

「う〜ん、なんかちょっと、休もうかなと。先生がよくて通っていたのもあるし」

「そうなんだ」コンビニに着いて、千鶴にお金を貰ってコピーし始める。千鶴は何か買いにレジに行く。戻って来た

ところで、

「でもわたし、実は千鶴のほうが好きなの」

「はあ?」イキナリの告白に、大きく2回瞬いた。

「千鶴、引っ越すのやめて、うちへおいでよ。拓実と結婚したらいいじゃない。それとも拓実ではだめなの? 太一の

ほうがいいの?」まだ半分しかコピーしていなかったが手を止め、一気にまくしたてる。

「はあ?」今度は困ったような顔。わたしも別になんてことなく言ったものの、次に何を言うか少し考えている間、

千鶴も何か考えた素振りを見せ、「武藤くんか拓実が何か言ったの? てか、何か知ってる?」と聞いてきた。

「何か? 拓実が千鶴に2回フラれていることは知ってるけど」

「そんだけ?」

「あとは太一が恋愛したことないって言ってたけど」

「…何か飲んでいかない?」千鶴はコンビニの中の飲食スペースを示した。「かき氷とか食べてもいいし」

「…じゃあ、アイスティー飲もうかな」

「ストレイトだったよね」千鶴はレジに戻り、注文する。わたしはコピーを続け、終わるともう千鶴は席に座っていた。

原本とお釣りを渡して、カウンターの隣に座る。お金を払おうとすると、誘ったのは自分だからと断られる。アイス

コーヒーを飲み乍ら、

「拓実には言ってないんだけど、わたしね、昔武藤くんにフラれたんだよ」と言った。

「ええっ!」

「高2の秋にね」わたしが二の句が継げないでいると、「そもそもさ」と先を続けた。「わたしも恋愛とは程遠いところに

居たんだけど、高1の夏にね、市内の私立女子高の美術部と毎年恒例の勉強会があって、作品を持って行った

んだよね。そこと兄弟高の男子校に行っていた武藤くんが、生徒会の用事で来ていた。急いでいた武藤くんは

わたしにぶつかって、作品、壊れちゃったんだ。それで生徒会そっちのけで直そうとしてくれたんだけど間に合わなくて

…てか、直らなくて、謝り倒された。それきりかと思ったら翌年も会ってね。したら今度は、文化祭の演劇部の

公演で舞台美術のアルバイトしないかって言われて、一夏一緒に過ごしたらね、ああいうかんじで他の人との橋

渡しは完璧だしムードメーカーだし気遣い半端じゃないし、なんかいいなと思って、文化祭終わったらもう会えないと

思って、気付いたら告白してた、でも、まさにそう、おれ恋愛ってわっかんないんだよね、だからごめん、だって。で、

大学出てからそのへんで遭遇した。告白なんて覚えてないみたいに、あの調子。だけど確実に、あの人、拓実の

存在に安堵している」

「じゃ、じゃあ、今も?」あんまり驚いて、そう聞くのがやっとだった。千鶴は、出会ったときはショートカットだった、

今は二の腕くらいまであるまっすぐで真っ黒な髪を弄り乍ら

「拓実も武藤くんも、みんな大事。誰かひとり選ぶなんて考えられない。ほんとに、感化されちゃったんだよ。絶対

これ、武藤くん病」と笑う。

「ナニソレ…」わたしは脱力して、アイスティーの氷をカラカラと鳴らした。

「だから日南子に、あの先輩に決めるように言うことはできない。武藤くんは何も考えないで言ってるけど」

「まあ、かなりいいとは思ってるんだけど、なんだかよくわからなくて」

「ぶっちゃけ、拓実には日南子が居るなんて思ってたけど」

「ええっ、わたしが邪魔してたの?」

「邪魔というのとは、違うけど。でもわたしに拓実と結婚しろと言うってことは、違うんだね」

「先輩にも言われたけど、拓実と恋愛なんて笑っちゃうよ。抱きついたって、どうしたって親子じゃん」

「そうでしたか」笑う。「だからまあ、まだ拓実がわたしを好きでいてくれたとしても、答えは変わらない」断言した。

拓実はもうだめだ…。「でも、日南子がわたしをそうやって受け容れてくれて嬉しかった、ありがとう」いつものように

薄く笑いながら、ひとつひとつの言葉を大事そうに言った。思いがけず、涙が出た。

「…招待しないなんて言わないで。これからも、わたしと拓実の傍に居て。ね、千鶴」千鶴は薄く笑ったまま、

頷いてくれた。

10日の前に一度合わせに行く。千雪の曲は、高校生がこんなの書けるんだってくらい、ものすごい感傷的な

曲だった。技術的にはわたしでも弾けるし、ふたりも余裕そうだったし、あまり高度ではなさそうだが、メロディラインが

ほんとに、泣いちゃいそうだった。合わせをして帰ると、拓実がアトリエから門を閉めているわたしを呼んだ。

「悪いんだけどさ」アイスカフェオレを淹れてくれながら、すまなそうに言う。「10日、行けなくなっちゃったんだ」

「ええっ、ありえない、なんで行かないの?」

「師匠の講習会の助手、大事な仕事なんだよ。千雪がドイツ行く前に、別の日におれは行くつもりだけど、これは

10日におまえ、持って行ってくれない?」絵だった。あのお菓子の家の絵が、カンバス2枚完成していた。

「おおっ、すごい!」1枚は雨上がりの昼の明るい絵、銀木犀の枝には涼しげな滴、空にかかる虹。お伽噺みたい

だ。2枚目は夜の風景、白く浮かび上がる銀木犀と夜鶯。幻想的だった。

「昼のを千雪に、夜のを千鶴に渡してくれ」

「っかー、わたしがほしい!」

「おまえも含め、あの家縁の輩にはこれをくれてやる」1号、葉書サイズの画用紙が数枚出て来た。デッサンで、

あの家のいろんな表情が描かれている。

「うわー…色無しってのがまた堪らない!」

「どれがいい? 一番に選ばせてやる」

「全部!」

「だめ、1枚」笑う。「いや、カンバス持ってってくれたら、もう1枚」

「持ってく、持ってく」選び難かったが苦心して2枚チョイスし、ピアノ鞄に仕舞った。

「…おまえさあ、千鶴に、拓実と結婚してうちに来たらいいって言ったんだって?」

「え、うん。だってほんとにそう思ったんだもの」悪びれもせず言う。

「全く。3回フラれたじゃねーかよ」

「でも千鶴、言うんだそれ、拓実に」言わないと思った。随分オープンだな。

「うん、で、拓実もそう思ったわけじゃないよねって」

「ないよねって、都合いいねえ千鶴」

「いや、よく解ってるよ、今だっておれ、どう考えてもあいつ好きだし、誰より理解してほしいとは思うんだけど、手に

入れたいとは思ってないんだよね。前に言ったときは確かに、そういう気持ちがあったのに。枯れてんなあ」

「それは完全に、太一病に感染してますね」

「わはは、千鶴もおんなじこと言ったわ」

「しょーがないな、この3人」

「まあでも、心配かけてたんだよな、ごめんな。おれは大丈夫だから」

拓実はなんだか吹っ切れたような顔で笑った。

 

   5

 

おばあちゃんに持たされたお菓子とカンバス2枚と楽譜の鞄をカートに乗せて、お菓子の家に向かった。天使に

迎え入れられて居間に入ると、千鶴と太一と、千雪の婚約者ゲオルク、拓実のアトリエにもよく来る何人かが

来ていた。

「日南子ちゃん、久しぶりー。なんか今日はかわいくなーい?」作曲家と画家の双子である並木兄弟が揃って

言う。

「今日もでしょ、今日も」ゲオルクが言うと、千鶴が

「演奏があるからおめかししてきたんだよな」と言う。当の千鶴は、相変わらず黒の上下だったがパリッとした

Yシャツでよそ行き風。

「千鶴、カッコイイなあ」

「それ、褒めてんの? 貶してんの?」みんな、演奏してくれんの? ソロ? などと喜んでくれた。太一がカンバスを

新聞紙で包んだのを見て、

「もしかして、あれ?」と寄って来る。「見たい見たい!」

「みんな揃ったらね」

「これで全部よ」千雪はグラスにみんなの炭酸水を注ぎながら言う。松岡さんが

「拓実は?」と今更言うので、みんな笑う。説明して食卓に着くと、千鶴と千雪が作ったご馳走をいただいて、珈琲

タイムになり、みんなが持ち寄ったお菓子が出て、それから演奏タイム。まずわたしたちからだった。メソメソしながら

聴いていた、次に歌う松岡さんが

「陰謀だ、この演奏の次なんて!」と言いながら、涙を拭いて前に立つ。双子の片割れ天哉(たかや)くんが伴奏、

彼が今日のために作った曲で、これで更に嗚咽が広がり、双子のもうひとり晴哉(はるや)くんが川越姉妹にミニ

チュアのこの家をそれぞれプレゼントして、わたしまで涙をだーだー流し、拓実の絵を渡したらもうトドメ、泣いて

いないのは千鶴と太一だけで、みんな号泣してしまった。

「冷徹女、なんで泣かずにいられるんだ」松岡さんが千鶴に言う。

「てか、なんで泣くかな、この家は、自分のものじゃなくなるだけで、とりあえずはこのまま残るんだよ?」とわたしと

同じことをサラリと言い、太一は

「おれ、人前じゃ泣けないんだよねえ」と言った。

その言葉が妙に引っ掛かったが、何が引っ掛かるのか解らないまま夕方おいとまし、おとなたちは更に飲み続けた。

夜遅くに帰ってきてアトリエに入ろうとする拓実を追い掛けていき、報告がてらその話をしたら、

「影では泣いてるのかなって思ったんじゃない?」と、いとも簡単に答えを出した。

「流石、倍以上生きてるだけある」

「やな褒め方」そう苦笑してから、「まあ、そうなんじゃない? 唯の能天気には、あんな気遣いできないでしょ。

あいつは痛みを、よく知ってると思うよ」珈琲を落とすセットをしながら「飲む? もう眠れなくなるかな」

「飲む」

「今ならホットもできますが、如何いたしましょう」

「拓実は?」

「ホットな気分。でもいいんだよ、おまえはアイスでも」

「ホットにする。胃袋をあっためたい」

「声楽家みたいなことを言う。松岡か、おまえは」

「松岡さんの歌も泣けたなあ。天哉くんの曲で。晴哉くんのミニチュアも…みんなあの家を愛しているんだね」

「太一は何もしなかったの? 企画だからいいのか」

「ケーキ焼いて来たよ。おいしかった、すごいんだよ、見た目も。パティシエだね」

「ああそうだった、うまいんだよあいつ」

マグに淹れたての珈琲を注いで、こちらへよこす。わたしは、テーブルに置いてくれていたさとうとミルクに気付かず、

というか自分が入れていることをすっかり忘れてブラックのまま一口飲んでゲホッとなった。

「おいおい、大丈夫か? なんで入れないんだよ、これ」大笑いしている。おそらく情けない面で、ティッシュで口の

周りを拭く。「まあ、日南子が珈琲の味解るようになったら、おれは父親引退だな」まだ笑ってる。

「…引退って…父親にそんなもの無いでしょ」

「だって仮だし。カレシできたら、もうこんなにくっついて回ることも無くなるだろうし」

「拓実は」わたしの飲めないブラックの珈琲を飲んでいる拓実を睨む。「それでいいんだ、斉木先輩とばっかり

遊んで、拓実と出掛けたりしなくなっても、寂しくないんだ」別に怒っていなかったのに、言っているうちになんだか

怒っているみたいな口調になってしまう。でも拓実は何も感じてないふうで

「そりゃー寂しいけど、嬉しいほうが大きい」と笑う。「いつまでもおれにくっついてるわけにはいかんでしょ。そのうち

おまえのほうから、此処にも来なくなるよ」

「そうなのかな」わたしはアトリエを見回した。おとうさんたちのお葬式の日、いつでも来ていいからねと言われ、

後日おそるおそる覗いてみたら、煙草をふかしながら電話をしていた拓実。ソファを示して、電話を続けながら

煙草を揉み消し窓を開けた。窓からちょうど、かわいい三日月が見えた。初めて見た描きかけの絵、油絵の具の

におい、パレットと筆。電話を終えて振り返った拓実は、12年経った今も、まるで変わらない。母屋では無表情

だけど、こっちではよく笑う。煙草をやめて、大学を卒業して、3回千晴にフラれただけだ。拓実は全然変わらない

のに、わたしは。「3歳のままならよかった」立ち上がり、アトリエを出た。

「日南子?」拓実はそう言ったが、追いかけては来なかった。

成長するというのは、年月を経るというのは、こういうことだ。新しい何かを得る代わりに、古い愛しいものを失って

いくのだ。新しいものを得ようとしないで、懐かしいものだけにしがみついている自分は、不健康なのだろうか。

拓実は千鶴を手に入れたくないかもしれないけど、わたしは拓実に、ずっと傍に居てほしい。恋愛でないことは

確実でありながら、そう思ってしまうのだ。

翌日、わたしは斉木先輩に電話をした。待ち合わせの茶房に行くと、10分前だというのに先輩は先に来て

いて、アイスコーヒーを前に何かのパンフレットを捲っていた。

「お待たせしました、早いですね」ウエイトレスに、少し迷ってマンゴージュースを注文する。先輩は鞄に仕舞う

前にパンフレットをこちらに示し、

「なんか時間余っちゃって。予備校に行こうと思って、申し込みしてきたんだ。今更なんだけど、ちょうど夏期第2

コースが始まるから」と言う。

「そうなんですか」ジュースが来て一口啜る。

「…今日は、断りに来たかんじ?」

「えっ」いきなり核心を突かれる。

「なんか、電話してきたとき、モノモノしかった」見ると、先輩は笑顔だった。

「モノモノしかったですか…」

「うん。やっぱり拓実さんなの?」

「…はい、あ、いえ、拓実を恋愛対象として見てるんではなくて、やっぱり父親なんですけど。先輩はとてもいい

かんじで理想的なんですけど、わたしがまだ、なんか父親離れできてなくて、先輩も家族を大事にしてるから、

今のままでもお付き合いはできそうなんですけど、でもなんか踏み切れないというか…だから、ごめんなさい」

「そっか」言い終えてまた表情をうかがうと、変わらず笑顔で「まあ、予想通りってとこかな」と、いつものように

はきはきと言う。

教壇の上では神経質そうに見えたこの人の顔は、間近で見るととても穏やかで、いたわりに満ちていた。

「ほんとに、先輩が厭なわけじゃないんですよ」わたしは念を押した。

「ありがとう。まあたぶん、ホイホイくっついて来るような子なら、おれも好きにはならないだろうしね。予備校に行き

始めるってことは、こっちも恋愛一辺倒になるつもりは無かったってことだし、気にしないで」

「はあ」

「きみは制服も私服も、風紀委員長賞をあげたいくらい、好ましかった。そして少しでも話ができてよかった。きみの

言葉や仕種、全てが本当に好ましかった」好きだとは言わずに、好ましいと、しかも過去形で言うところに、また

やさしさを感じる。泣きそうになる。先輩は立ち上がり、伝票を手にする。

「あ」わたしも立ち上がりかけたが、制される。

「きみ、一度も何も奢らせてくれなかったよね。最後くらい格好つけさせてよ。じゃ、また委員会でね」と行ってしまう。

「ご、ご馳走さまです」わたしは腰を上げてお辞儀をし、もう一度座った。先輩は扉を閉めるときにもう一度こちらを

見て、わたしと目が合うとにこやかに手を振った。また頭を下げる。顔を上げたときには、もう扉は閉まっていた。テー

ブルに視線を戻すと、先輩はいつの間にかアイスコーヒーを飲みきっていて、氷がキラキラと輝いていた。その傍に

あったポーションのミルクはそのままで、ガムシロップの口は開いていた。

 

何事も無かったようにまたアトリエに入り浸り、お盆から思い立ってアルバイトを始め、宿題くらいしか勉強を

しないで夏が過ぎていった。25日くらいに千雪とゲオルクが渡独し、30日に拓実と共に千鶴を訪ねると、あらかた

引っ越しは済んでしまっており、千鶴自身は中野で寝泊まりしていた。

「手伝わせろよなあ」拓実は力無く、がらんどうの家を見ていた。

「1日、始業式の後遊びに来る? バイトやってんだっけ?」約束通り招待してくれた。

「行く行く! やってるけど、その日お休み」

「バイト、何してるんだっけ」

「カフェ店員。なかなかたのしい。珈琲おいしいらしいから、おいでよ」

「らしいって」

「わたし、そのまんまでは飲めないから」拓実をチラリと見ると、こちらは見ずにニヤニヤしている。父親離れはまだ

まだだな、と思っているのか。

お菓子の家の中に入るのは、本当にこれが最後となる。明日の朝、不動産屋さんに明け渡し、業者が来て

清掃と鍵の取り替えを行うんだそうだ。

1日に千鶴の新居に伺うと、拓実のアトリエみたいなかんじの仕事部屋と、寝室とDKだった。帰りがけに窓を

見ると、まだ明るい空に、あの日と同じかわいい三日月が見えた。

帰ってきて、お菓子の家の前を通ると、もう新しい家族が来ているらしく、トラックと荷物が門のところにあった。

銀木犀が香る頃、やっとその家族に遭遇した。かわいらしい小さな姉妹とやさしそうな両親、そして大きな、

ふかふかした いぬ。前を通り過ぎるわたしを、中に入ったことのある人とは知らずに、その姉妹がにこやかに眺めて

いた。わたしはこっそりと、彼女たちに手を振った。

 

了 

 

 

 

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