似非御伽草子〜竹取物語〜 

 

 


                                                小林 幸生  2011

 

 かぐや姫は間も無く月へ帰るため結婚できないので、求婚者たちに無理難題を押し付け、断ろうとしました。しかし

ひとりだけ、かぐや姫の所望のものを持ってきた男が居ました。…

 

 心中悪態をつきながら、おれは親父の作った茶饅頭をトレイに並べて行く。ちょっとでも力が入ると崩れ、ちょっとでも

力が抜けると床に落ちる、むかつく商品だ。ロスを出すと、親父に怒鳴られる。口答えすると、実家で勤まらん者が

他所でやっていけるか、と小憎らしく言われるのが腹立つから、悔しいけれど慎重になる。

 半分空いたシャッターの隙間から、駅へ急ぐ人の足がいくつも見える。彼らが会社で仕事を始める頃、この店も開く。

それまで親父とおれは、黙々と和菓子を作り、並べて行く。

  何度出て行こうと思ったかわからない。厭な和菓子屋の売り子の毎日。

 

  事の始めは、ばあちゃんの死だった。14でこの店に嫁いで来てからずうっと、看板娘として売り子をやっていた。

時代的に、和菓子職人は男がするもので、売り子をして遅く出勤して早く帰宅し家のことをするのが、嫁の義務だった

から、店の厨房に足を踏み入れたことはない。息子である親父が和菓子を作り始めてからも、母であるばあちゃんは、

看板娘と呼ばれた。その後、じいちゃんは他界、店を任され二代目となった親父には嫁が来なかったので、死ぬまで

引退しなかった。おれはというと、親父の実の子であるのは間違いないらしいが、2歳まで結婚しなかった相手である

母親のもとに居たのに、母親一家に何かあったらしく、急にこの家の家族となったらしい。おれはばあちゃんと保育所の

おばさんに育てられて大人になった。いや、母親とおれのことは置いておいて。まあそんなわけでばあちゃんはこの店の

看板娘で、そして死んだので、東京で大学を卒業したおれのもとに親父の弟・げんちゃんが押し掛けて来て土下座した

わけだ。店のために帰って来てくれと。実はおれのほうは、運よく就職したというのに、入ったばかりの会社で上司と喧嘩

してクビになり、職探し中。げんちゃんにリクルート雑誌を見られ、なら話は早いと喜ばれた。でも、だ。

「おれは親父も、饅頭も、商店街も、だいっきらいなんだよ!」

  和菓子屋のひとり息子が、あんこがきらい、甘いもの全般ならまだしも、クリームやチョコレートは大好物ときてる。

絶対に無理!  それになんだ、あの商店街の横の繋がり。祭とか歳末セールとか自治会とか、面倒臭すぎ!

  それでも食い下がるげんちゃん。

「売り子だけでいい、ばあちゃんと同じで。ほかの面倒なことは、店主であるぜん兄がやるから」

「親父も死んだら、おれがやらないといけなくなるんだろ」

「そのときに厭なら、店をたたみやがれ」

「はっ?」此処まで店のためにしてるげんちゃんの口から、そんな言葉が出るとは。

「ぜん兄が生きてる間に潰したくないだけだからな」げんちゃんは、遠くを見て言う。

  誓約書を書かせ、ほんとに売り子しかしない約束で帰郷した。親父は寝耳に水で、おれを店に立たせないとか、

一悶着あったが、げんちゃんのとりなしで今の形に収まる。アルバイトを雇えば済む話じゃねえか、と今更思ったが、逆に

親父がおまえじゃなくたって、という態度だったから、燃えた…はじめだけは。

 自治会に出ないったって、近所の連中は章太郎が帰って来たってんで見に来るし、祭のときは期待してるとか言わ

れるし、最悪だった。仕事も辛くて、何度も投げ出したくなった。

  それでも続けてしまっているのは、金曜の夕方に買いに来るルカさんのせいだ―――。

 

  店が休みの水曜日は、親父は仕込みや発注で店に居る時間があったり商店街の仲間の家に将棋を打ちに行っ

たりと居ないことが多いが、おれはたいていうちに居た。この家に戻ったときの取り決めで、掃除と洗濯はおれがやるから、

そう出掛けてもいられない。洗濯は1日おきにやっているが、掃除は休みの日に一気にやるのだ。親父は散らかさない

ので、床を掃除機かけたり埃が気になるところをはたいたりするだけだけどね。あとはトイレと風呂はちょっと気合い入れて。

そんなもんだ。ひとり暮らししたときと同じで部屋数が増えたくらい。地元に戻ったからって、同級生に教えてもいないし、

出て行ったか社会人になったかだろうから遊ぶ相手も居ない。大体友達がいたとして、高校生のときみたいにカラオケや

ゲーセンではしゃぐ気力は、22歳のおれには無い。

  6月半ばになって、その日もおれは、昼まで寝て、飯を食った後に洗濯機を起動して部屋の掃除をしていた。

「章太郎!」下の店から、親父の声。

「なんー?」掃除機を止めて玄関のドアを開くと、階段を登って来るのは親父ではなく、同じ歳くらいの男だった。下から

親父が顔を出している。

「おまえが帰って来たって聞いて、来てくれたそうだ。覚えてるか?」

「章太郎、久しぶり。おれだよ、りょう…」

「亮輔!」

「変わんねーな」

「おまえもな」小、中学校が一緒だったやつで、同じクラスだったときはたいてい出席番号が続きでつるんでいた。高校は、

亮輔のが成績がいいから別れ、それきりだった。

「ごゆっくり」親父の一言で、中で話すことに決定する。

「ごめん、まさに今掃除機かけようとしてた、一番汚いとこで」ど真ん中にあった掃除機をどかす。

「きれいじゃん。男ふたりで住んでるのに。あ、これ。食おうぜ」

「サンキュー。親父はきれい好きだから」台所に行き、茶の用意をする。といっても、グラスにでかいペットボトルから麦茶を

注ぐだけだ。申し訳程度に氷を入れて、お持たせのコンビニプリンを茶の間に持って行く。

「1個はおやっさんのな。洋菓子大丈夫だったよな。しっかし、おまえは継がないと思ってたよ」

「店? 継ぐって言ってないし、親父が認めないだろ」

「やっぱだめなんだろ、あんこ」

「うん」笑う。「こーゆーののがいい」プリンを掬ったスプーンを頬張る。

「なんでやってんの、きれいなお客さんでも来るのかー?」冗談めかして言ってるのに、おれの顔が一気に熱くなる。「え、

なに、マジ?」

「え、いや、なんでもないんだけどね?」でもなんか喋りたくなって、ルカさんの話をした。

 

 おれとタメか少し年上くらいか、でも少し幼いかんじの残る普通のオンナで、どう見ても華やかさには欠けおれの好み

ではないのに、来るとときめいてしまう。はじめおれを見ていきなり

「あれっ、豊乃さんは?」と言い、その言い方から多少馴れ馴れしさを感じたが、その後は真逆でよそよそしいのだった。

親父が厨房から出て来て

「先月ポックリ逝っちゃってね」と言った。

「ええっ」

「ルカちゃんが研修で居なかった間に、瞬く間に葬式しちゃったから」

「あらまあ」

「長患い無しの老衰だから、本人も楽に死ねたんじゃないかな」

「それは御愁傷様でした」トーンが低くなる。

「でね、看板坊主はうちのばか息子になったから宜しくな」親父はおれの頭を押して下げる。

「なにすんだよ」

「息子さんいらしたんですね」

「東京で大学生してたから。就職できないから連れ戻した」

「ちがっ…就職はした。クビになっただけ…」

「同じようなもんだ。きょうは何にします?」

「えーと、とりあえず黄身時雨ふたつ、豆餅ひとつ。で…あ、柏餅まだありますね、じゃあわたしは味噌餡の柏餅で」

「りょーかいっ」親父はおれを押し退けて品物を取りお会計を始める。鼻の下伸ばしやがって。「毎度ありー」

「ありがとうございます」ルカさんのほうもお礼を言って、駅のほうに去る。

「駅向こうの会社のOLさんでな、毎週金曜日に会社の皆さんと食べるみたいで来てくれるんだよ」上機嫌な親父は、

ふと気づいて「…あんな子がお嫁に来てくれたらなあ」とおれを見る。最初は自分が結婚したいのかと思って

「それはナイだろ」と言ってから、「…おれのってこと?」と飛び上がる。

「おれのわけないだろう」ゲラゲラ笑っている。

「ま、ますますねーわ」しかしおれは不覚にも、おれが厨房、彼女が売店にいる姿を想像してしまう。なんか、いい

かも。…いやいや、絶対だめだ、そしたらこの店を継ぐってことだ!

 その日閉店業務をしていると、ルカさんがやって来て

「あの、これおとうさんに渡してください」と白いものを出した。御仏前袋だった。

「え」おれに押し付けて、行ってしまった。奥の親父に渡すと、

「ありゃ、気を遣っちゃって」親父は感動の涙で目を潤ませた。「会社の人と連名だ。明日、昼休みに香典返し持って

行くか…あ、土曜日休みかな、月曜日は…おれ自治会の会議か…」自治会の会議はたぶん、駅の反対側の会長の

自宅。そっちもこっちも行ったら、作るのに支障がありそう。

「おれ行こうか」

「へ?」

「昼休憩にちゃちゃっと行って来るよ」自分でも驚くほどさらりと言っていた。

「お、それなら助かる」

「自治会の会議に出ろと言われるよりずっといい」

  その月曜日、おれが働いていたような会社に伺い、親父からルカさんのタナミという名字を聞いてきたので受付で

言うと、名札をぶら下げたルカさんが下まで降りて来た。思わず漢字表記をチェック。棚見流果だった。変わった名前。

和菓子仲間を連れてきて、親父の香典返しを一緒に受け取った。

「却ってすみません」

「いえいつもありがとうございます、店頭に祖母はおりませんが、今後も宜しくお願いいたします」と頭を下げる。なんかそう

いう、店のためにみたいなことがスラスラ言えてしまう。

 そんな出会いをしたが、その後店に来るときはあまり喋らず、3回の金曜日はマニュアルみたいなやりとりで終わる。

親父にも会釈しただけで行ってしまうし。

「この時間って、もう仕事終わってるんですか?」意を決して、6月半ばに聞いてみた。言ってしまってから、誘っている

ように聞こえないかと後悔する。

「いえ、これから週明けに仕事を残さないように、ラストスパートなんで。みんなで精をつけようと」財布に釣銭をしまい

ながら、まっすぐおれを見て答える。おれのほうは、目を逸らしてしまう。

「なるほど」とは言っておく。

「ありがとうございます」

「あ、ありがとうございます、またお越し…」姿がもう見えない。

「おいおい、なんでお客様が先にありがとうございます、て言うんだよ」親父がいつの間にか後ろに居た。

「あんま見てなかったら、いつの間にか居なかったんだよ」怪訝そうな顔をするので、「言っとくけど、金はもう貰った

からね」と付け足す。

「そんなんアタリマエだ」

  そんなかんじで特別仲良くなったりしないのだけど。でもなんだか、金曜日がたのしみなのだ。

 

  亮輔はニヤニヤしながら聞いていたが、

「それさ、あんまりガツガツしないで少しずつ話しかけて行ったら、うまくいくんじゃん?」

「えーそうかなあ? 愛想無いよ、あんまりにも。おれには興味無いってかんじ」

「和菓子には興味あるわけだし、和菓子職人の息子なんて、魅力的だよ」

「げ、おれとは食の趣味合わないのか!」

「食わなくたって作ればいいじゃん、継いじゃえ継いじゃえ!」

「やだやだ、商店街はやだ。…おまえは何してんの? 大学、確か東京だったよな。おれとは雲泥の差の」

「この春戻って来たんだ、親が今まで公文教室やってたんだけど、本格的に塾にするってんで、手伝うんで秋くらいから

準備してた。海藤進学塾、なんてすごい名前になったよ」

「へー、塾の先生か。そりゃすげーな」

「いやー続くかビミョーだけどね」

「商店街じゃないのは羨ましい!」

 

それから亮輔は、自分は東京にカノジョを残してきたことや、こっちに居る仲間の話をし、今度飲もう、と言ってメアドを

交換し、帰って行った。ほかのメンバーはそんなに近くなくて魅力は感じなかったが、いいかんじにおとなになった亮輔とは、

今後も付き合いをしていきたいと思いつつ見送る。

  翌日休憩が終わって下へ降りて行くと、親父が流果さんと話していた。あれ、木曜日だしまだ昼間だぞ?

「お、来た来た、章太郎、流果ちゃんがお願いがあるってよ」

「へっ、な、なんすか」流果さんはちょっと困った顔で

「毎日忙しいだろうけど、ちょっとの時間、うちのバカ息子の家庭教師、やってくれませんか?」

「息子?!」

「びっくりだよな、お子さんが居るとはね」親父も苦笑している。「しかも小学生」

「えーっ」

「よく驚かれます…わたしがこどもみたいですから」

「幼いっちゃー幼いけどねー」

「親父…若いって言えよ」

「今4年生なんだけど、ほんと馬鹿で。わたしが教えても聞いちゃいないから、家族じゃないほうがいいかな、と。とりあえず

算数と国語…理科社会は時間に余裕あれば。どれもこれもできないから。お休みの日にでも、ここの帰りに寄って

くれても」

「はあ。おれでもいいんですが、ちょうど友達が塾の先生ですよ? 彼のほうが教え方うまいと思います」

「亮輔くんか、頭よかったもんなあ」

「塾かあ…学童クラブに行っていた頃は、それでも先生が宿題やらせてくれてたんだけど、卒業した今は、宿題やらないで

平気で学校に行っちゃうもんで…まずそこからなんて塾の先生がみてくれるかなあ…あ、あの子が帰って来るような

時間はその方は塾で教えるのよね、そこへ行って宿題は無理ね」

「あー」おれは流果さんが子持ちだということや、きょうはよく喋るなあってことに頭が行ってしまいつつも、考えた。「ここ

7時で閉めると…伺うの遅くなっちゃうから、毎日の宿題は無理かなあ。水曜日だけなら、おれは暇だしいいですよ」

「ほんと?」

「でもまず毎日宿題やらせるのが先決じゃないか?」親父が口を挟む。

「それはまあ」

「人の目があればやるかもな。このへん小学生がウロウロし始めるのって、3時頃だろ?  その時間に章太郎がつきっ

きりは店的にはだめだけど、そこの階段でよけりゃあ、ここで宿題やってから帰るとか遊びに行くとか」

「あ」そこに座っての目線の風景が甦る。

「そう、おまえがやっていたことだ。終わるまでは遊びに行けなかったよな」

「そうなんだー」

「こいつは母親が居なくてね、ばあさんは此処に居たし、やっぱり見張られないからやらなかった。でもここで勉強してから

少しまともになったよな」

「少しって!」

「それで大学まで行ったんだもの、うちの子も章太郎くんみたいになってくれたらなあ!」名前を言われ、ドキリとする。

「終わったら遊びに行ってもいいし、流果ちゃんと一緒に帰るまで居るんでも、うちはいいよ。水曜日はおまえが、宿題

以上のことも上でみてやれば? そしたらお子さんは毎日学校帰りは此処に来りゃいいんだから、簡単だ」親父はスラ

スラと提案する。

「なんでそんな、こうなること知ってたみたいなかんじなわけ?」

「おまえを流果ちゃんの子、ばあちゃんをおまえに置き換えただけだ。働く親はそうやって、うまくいくように工夫するもんだ」

「なるほどー」流果さんは少し考えてから、「こちらにばかりお世話になって申し訳無いけど、そうさせてもらえますか」と

言う。お客さんが来たのて「お金のことはまた相談に伺います、あ、いや、きょう閉店頃にあの子と挨拶に伺っていいです

か」

「はいはい」親父が返事をし、流果さんはおれにも宜しくと言って去っていく。お客さんに季節で新発売の水饅頭を

売ってから親父を振り返ると、「残念、おまえの嫁さんは無理かー」と心底がっかりしたように言った。

  あーマジで既婚者、子持ち? 指環とか気にしてなかったな。てか、指環なんかしてたっけ。おれもがっかりしながら

閉店まで仕事をする。7時になり、シャッターを下ろそうと道に出ると、駅のほうから親子が走ってきた。

「遅くなってすみません、もー、あんたがモタモタするから」怒っているが全然怖くない流果さんは、それでもこどもと

並べると確かに母親に見える。

「なんでかってに決めちゃうんだよー、おれ、勉強なんかならわないよ!」と帰ろうとしている。顔は、流果さんそのものだ。

おれはこどもの扱いには慣れていないので、どうしたらいいんだ?と思いつつ、面白いなーと見ていた。親父が出て来て、

「おい、おまえ、あんこ食えるか?」

「いらねー! それにおれは、おまえじゃねーし」

「それはあんたが名乗らないからでしょーが! それにあげるとも言われてないのに、いらねーってなに、図々しい」流果

さんはこどもを羽交い締めにして親父とおれの前に立たせる。

「まずはこれで茶を1杯ひっかけながら、話をしようや。今年最後の、導明寺だ」こどもの顔がパアッとなる。

「おれ、どうみょうじ、大すき…なんでわかるの? かあちゃんが言った?」

「いや、仲良くなりたいから考えたんだよ、この子は何が好きかなって」

「おじさんこれ作れんの?」

「勿論、ここのお店のお菓子は、みーんなおじさんが作ってるんだよ」

「すげー! おれ、ほかにも、三色だんごと、ずんだもちと、わらびもちと、げっぺいと…」

「月餅はスーパーのだよ」流果さんはぼそっと言う。

「みんな大好物!」結局どれでもアタリじゃねーか。「全部作れる?」

「月餅は作ったことないけど、似たようなのは作ってるよ。あれは中国ので、おじさんは日本の伝統的な和菓子を作っ

てるからね」

「あれは中国のなんだー、おじさんは日本の人だもんね!」盛り上がっている。

「勉強マスターしたら、お団子を一緒に作らないか?」

「作る、作る!」

「じゃあ、まず名前を教えてくれ、おれは、善太郎、ぜんちゃんだ」

「ぜんちゃんか! おれはしゅん、左側に馬って書いて、右側はカタカナでム、ハ、タだ」

「だからそこに、みたいな、をつけなさいって。タではないから!」流果さんが補足。駿という字だとわかって、おれは噴き

出した。

「足の速い馬って意味だぞ。とうちゃんが、競馬好きだからつけたんだ」と言われて、改めて流果さんの手を見るが、左右

ともに指環はやはり無かった。

「とりあえず中にどうぞ」親父が上を示す。

「あ、いえ此処で失礼します」流果さんは慌てて言う。

「これ食うだろ、中で落ち着いて食えや」

「食うー」

「章太郎、先にもてなしてろ。シャッターとか閉めたら行くから」

「す、すみません」

  最後の桜の葉っぱだと自分のために残しておいた導明寺を惜しげもなく、水饅頭と共にパックに入れてよこす親父。

すあまでも食うか、と聞かれるが、いらん、と言う。

 2階の居間に案内し、昨日亮輔にしたように麦茶を出す。上がって来た親父に、パックのまま和菓子を出しているので

怒られる。

「わたしがこのままでいいって言ったんです」流果さんが庇ってくれるが、駿が

「言ってないじゃん」と言ってしまう()。「いただきまーす」

「お、礼儀正しくて偉いぞ、駿」親父に褒められ、駿は赤くなりながら

「おじさんのお菓子、超うめーな」と親指を立てる。

「ほんとすみません…」流果さんが謝り、駿がなんで?って顔をする。「それで、えーと」

「まず駿におとなの間で決まったことを話そう」親父がさっきの話をする。「終わったら、遊びに行っていいんだぞ」

「でもさー、こっち来てからあそび行くと、時間にロスが…」

「そんな言葉ばっかり覚えて、全く都合がいい」とか言いながら、うれしそうに水饅頭を手にする流果さん。「いただき

まーす」

「ちょっとちょうだい」

「えー、ちょっとだよ?」と言いながら半分もあげている姿は、どちらかというとおねえちゃんだ。

「これ初めて食べた。うまっ」

「それは水饅頭って言うんだよ」

「へーえ。きれいだしね。すごいや。で、なんだっけ」話を逸らそうとしたわけではないらしい。

「宿題やって行かないと、先生に怒られないか?」親父が駿の顔を覗きこむ。

「まあ。でもべつになんてことない」流果さんががっくり。「ゆーとーせーのほうがカッコわるいし」

「いつ怒るかは先生次第だけどさ。帰りの会が終わってからとか、20分休みとか昼休みとか、遊べる時間だったら、それも

ロスだと思わない?」

「んー」

「いい子で目立つのはカッコ悪いなら、頭の悪い子で目立つのはカッコいいのか?」

「いやー…カッコよくはないよ。おもしろいからいいってかんじ?」

「遊びで目立つのは、文句無しにカッコいいよな」

「そりゃあね」

「やっぱり遊びの時間削るのは勿体無い、おれもそう思う。此処へ来ておやつが和菓子なのと、帰れるところを怒られる

のと、どっちがいい?」

「和菓子!」流果さんは更にがっくりしているが、これはいい展開。

「じゃあ決まりだ、おやつを食べたら宿題、宿題が終わったら友達と遊ぶ」

「きまりー!」うまいな、親父。

「でも水曜日は家庭教師な」

「え、遊んじゃだめなの?」

「友達、スイミングとか行って遊べない日とか無い?」

「あるやつもいる」

「みんな週に1回くらい、そんな日もあるさ。遊べる日に比べたら、全然少ないし」

「まあそうだな」

「水曜日は、大学を卒業した、このおにいちゃんが勉強を教えてくれるから」流果さんがおれを示し、駿は急に不安

そうになる。

「ぜんちゃんじゃないんだ」

「おれ、大学出てないし」親父はガハハと笑う。「章太郎ってんだ。まあ、駿と同じように宿題しないこどもだったが、

おれのアイディアでするようになって、二流だが一応大学を出た。いきなり一流大学出の先生に習うより、寧ろいい

だろう。まずそのアイディアで宿題するようになって、レベルがアップしたら、亮輔くんに教えてもらえば一流大学に行ける」

「なんだそれ」今度はおれががっくり。

「りょうすけって?」

「一流大学を卒業した、章太郎の友達」

「ふうん」

「でもな、駿。水曜日は月に4〜5回ある。土日はおかあさんと遊ぶとか用事があるとかかもしれないから抜いて、月火

木金、友達と遊べる日は、月に何日ある?」

「へっ、え、えーと…」

「章太郎は解るか?」

「あ? 16〜20日?」

「正解」

「くっそ!」悔しがる駿。

「今のところ、章太郎のほうが頭がいい。教わって、そして抜かすんだ。オトコは競争して自分を磨くんだぞ」

「お、おう!」

「今のところって…」おれは更にがっくりしたが、流果さんがお金の話を始め、いただくようなことができるのかと保留にして

もらおうと思ったが、月火木金はおやつ代を含め1日千円で月に1万6千円〜2万円、それは階段側に立っている

親父に、水曜日は流果さんが迎えに来るまでの世話を含め5時間弱を1日5千円で月に2万円〜2万5千円を

おれに、という話になった。いただきすぎじゃないかと思ったが、塾に通ったり家庭教師を雇ったりしたら、同じくらいかそれ

以上かかるからと言われ、4週でも5週でも月に2万円ずつ親父とおれにということで話がまとまる。とりあえず6月後半の

2週間、半額で試行することになる。

  その晩早速、メールで亮輔に報告をした。おまえの塾を紹介したけど、ということも一応添えて。こどもなんか教えら

れっかなーと。亮輔は学校の勉強なら大丈夫だよ、困ったらおれでよければアドバイスする、と言ってくれた。

 

 翌週から、駿がうちに来るようになった。水色のランドセルを背負い、通学帽をかぶらずにゴムで首にぶら下げ、名札を

裏返しにつけて。名札は不審者対策に学校がやらせていることだけど、帽子はおれも通った「ゆーとーせーではあり

ません」的なアピールで、やっぱりやるのか、とウケた。

「ランドセル、今の子はオシャレだよなあ」

「おれらの少し後だよな、どんな色でもってなったの。深緑のとか、いいよなあ」親父とおれは、しげしげと遠目から駿だと

わかった、くるくる回りながら走って来る姿を見る。

「こんちくわー」出た、こんちくわ!()

「こんちくわー」親父もおれも、ノッてしまう。

「じゃあまずおやつだ、何食う?」

「水まんじゅう!」

「じゃあ此処に座ってな。昨日おれが作った特製のテーブルだ」板を釘打って作った小さなテーブルが、階段のところに

用意してあった。蝶番で、折り畳める。

「すげー、大工さんみたい!」

「あー、いいなー、おれには作ってくれなかったぞ」

「章太郎は、どうやってたの?」おやじのむこう側から、こちらを覗く。

「膝の上」おやつはポテチかチョコだがな。

「ださっ!」遠慮ねー。あっと言う間にたいらげ、「ようし、きょうも計ドと漢ドだ」と宿題を出す。

「わからなかったら質問しろな」

「いいの?」

「勿論。わかって終わらせないと意味が無い」

  …質問だらけだった()宿題が終わったのは、5時近くだった。

「げーっ、もう5時? あと30分しか遊べない!」

「友達と約束した?」

「きょうはしてない。校庭か公園にいるやつと遊ぼうかと」そうだそうだ、ガキの頃はそんなふうだった。友達がいそうな

ところに行ってみて、いたら遊ぶのだ。

「じゃあ章太郎と遊んだら?」

「へっ」接客しながらおれが驚く。

「30分休憩とっていいぞ、トランプとウノ、出してある」

「ウノ、おれトクイ!」

「友達とのつきあいも大事だからな、宿題早く終わるようになったら、遊びに行こう」

「うん」

「学校の勉強は、おとなになって戦うための装備だ、いっぱい身に付けとけよ」お客さんが帰ってそちらへ行くとき、ふたりは

そんな会話をしていた。駿の眼はキラキラと親父を見ていた。うまい言い方をする。男子にはテキメンな言い回し。おれ

にはそんなこと言わなかったけどな。

 30分間ウノをして、下へふたりで降りて行くと、親父が黄色いメモ紙を出して

「流果ちゃんにメールしてくれ」と言う。「まだ仕事中かもだから、メールのほうがいいだろう。もう帰宅の約束の時間に

なったから、帰します。もし仕事終わっていたら、一緒に帰りますかって」

「あ、ああ」思いがけず連絡先を知ってしまう。すぐに返事が来て、今終わったところだから伺います、とあり、10分弱で

現れた。見送って、

「ぜんちゃん、章太郎、バイバーイ、また明日ね」と言われると、なんだかこそばゆい。

「親父、勉強が装備とか、なんか悟ってんな、あいつメチャクチャ尊敬したみたいだよ」

「おまえ見て解ったことだよ」

「おれ?」

「高校出るまでは鎧を、その後は武器を手に入れる勉強をする。おまえは経済学を、おれは和菓子作りを。人生は

生き抜く戦いだなあって」

「おれは活かされてない武器を持っているのか」

「販売は経済の基本だ。今後また社会に出ても、販売経験は役立つだろう。まあこれから違う武器を身に付けたけりゃ、

また勉強すればいい」おれにはそれが、和菓子作るなら教えるぞと聞こえたが、きょうは反発する気持ちは沸き上がら

なかった。

  翌日の火曜日も宿題は早く終わらずおれと遊んで終わり、水曜日がやってきて、きょうは始めから居間に上げて

おやつを食べる。きょうのチョイスは、葛きり。

「章太郎は食べないの?」

「おれはいい」麦茶だけ飲む。

「もうあきるほど食べたんだな」羨ましそう。

「…いや」ちょっと躊躇ってから、正直に言う。「きらいなんだ、あんこが」

「えーっ! おうちが和菓子屋なのに!」

「因みに苗字も小倉だけどね」

「ん?」

「つぶ餡のことを小倉と言ったりする」

「ほんとだー! あれ、お店、みょうじじゃないんだ」

「あー佐藤文具店とかは苗字だな。うちの屋号の“蓬莱堂”はね、じいちゃん…ぜんちゃんのおとうさんがこの店を始める

ときに、考えて決めたんだよ。かぐや姫って、昔話あるじゃん、あれに蓬莱の珠の枝っていうものが出てくんのね」

「かぐや姫に? 覚えてないや」

「こども向けだとカットされてるかもな。おれも中学生のとき国語の教科書にかぐや姫の、昔の言葉で書かれた難しい

のが出て来て初めて知ったくらい。で、ぜんちゃんに聞いたらそう言ってた。蓬莱は、空想の植物で実際には無いのに、

かぐや姫は結婚したくなくて、プロポーズして来た男に蓬莱やら何やら、持って来られないようなものを言って、持って

来たら結婚してあげるって言ったんだ」

「やっぱ持って来られなかったの?」

「そいつは、作って持って来たんだよ。でもすぐバレて、結婚できなかった」

「ださっ」

「かぐや姫は月に帰るから地球の男と結婚できないとか事情があったんだろうが、じいちゃんはその、偽物を作った男の

愛に心を打たれたんだって。どうしても彼女と結婚したかった。彼女に喜んでほしかった。で、じいちゃんは飴で蓬莱の

珠の枝を作ってお店で売ったんだよ。最初に買った人が、じいちゃんのお嫁さんになった」らしい。まあ、美女ってだけで

そんなに愛せる竹取物語のそいつは、確かにすげーわな。

「へー! 今、それは売ってないの?」

「じいちゃんは、いつもあるのはつまらないって、お祭りのときだけ出すことにしたんだよ。ぜんちゃんも、お祭りのときは

作るんじゃないかな」

「たのしみー! お祭り、絶対来る!」

「あ、30分経った。まず宿題だ」

 宿題の後は、用意しておいた3年までの復習テストなんかをやって、対策を話し合い、少し遊んで流果さんの

お迎えを待った。

「章太郎は大学でどんな勉強したの?」遊びのときに聞かれる。

「経済学って言って、お金の流通とかをね」どう説明したらいいんだ、そもそも流通、は通じてるのか。

「じゃあ、ハンバイで戦ってるのか」…戦ってるのかおれは? 何と?  だれと?

「おれは何で戦おう。和菓子屋はかなりいいよな」そんな言葉、親父が聞いたらかなり喜ぶだろうなあ。自治会の会議

だか遊びの集まりだかで居ない親父はきっと、おれからそう言ってほしいに違いない。そんなふうにしている内、シャッターの

閉まった脇の扉のとこにある呼鈴が鳴らされる。インターホンで出ると流果さんだった。

「おかあさんだ。支度して。下へ行こう」

「えー、まだ少ししか遊んでないー」

「まあ、きょうは勉強の日だし」下へ行くなり、駿は流果さんに

「ほうらい堂の名前のユライ、聞いた!」と言う。

「へー、帰り道で教えてね」無駄話してたと思われないか不安に思いつつ、挨拶して別れる。

「また明日ねー!」

  入れ違いくらいに、親父が帰宅する。酔っ払って、げんちゃんに担がれている。

「全く、弱いのに調子こいて飲むから」布団を敷いて親父を寝かせてげんちゃんに麦茶を出す。

「最初は上機嫌に、章太郎が帰って来てうれしいうれしい言ってたんだけど」

「ほんとに? げんちゃん作ってねー?」

「まじまじ。最近じゃあ話しかけてくれるって」まあ、確かに最近だな。まじで親父が言ってんのか。

「酒屋のてっちゃんの息子がさ、祭りに蓬莱の珠の枝出すんでしょ、あれを去年、新婚の嫁さんに店名の由来と共に

あげたら感動してさ、また買ってくれってうるさいんだよ、予約予約って言ってから、急に酒煽り出して」

「なんで。嬉しい話じゃん」由来の話とは奇遇だなと思いつつ、先を聞く。

「てっちゃんの息子は知らないから仕方無いけど、おまえのかあちゃんとは結婚してやれなかったわけだろ。辛いんだよ」

「何を今更。昨日今日の話じゃあるまいし」

「最近、母息子で来るお客が居るそうじゃないか。おまえが羨ましく思ってないか、気にしてんだよ」

「そんなこと考えてたのかよ。そうは見えなかったけどな」

「態度には出さないけど、そういう人だよ、大事にしてくれよな」げんちゃんは、商店街の中の自宅へ帰って行った。

  げんちゃんは今、近くに店を構えて花屋をやっている。和菓子屋とは全く違う仕事を選んだ。ほんとうは和菓子屋を

継ぎたかったのだろうか。ばあちゃんが死んで戻りたいのに、花屋があるからまたしても諦めたのか?  たぶんおれが

聞いても、気を遣って

「なんでえ、和菓子なんて」と言うんだろうなあ。そう言えばげんちゃんも結婚しない。たぶんもう、40台後半だろう。

蓬莱の珠の枝を小細工してまで嫁にしたい相手は居なかったのか?

  げんちゃんを見送って居間に戻ると、ケイタイが光っていた。「着信中 流果さん」と出ている。慌てて出ると

『駿だけど』幼い声がした。流果さんのケイタイからかけたわけか。

「あ、駿か。どうした」

『かあちゃん泣いちゃった、どうしよう』

「えっ、なんで」

『ほうらいの枝の話、したら急に…』

「今どこ?」

『うち。かあちゃんは隣の部屋』おれは襖のむこうに居る親父を顧みて、指環の無い流果さんを思い出し、もしかして、と

思う。

「おれがどうこう言ったってな…」

『ん、何?』

「きょうはかあちゃんと寝な」

『えー、4年にもなってー?』

「おれがついてるぞって言ってやれ。それだけでいい、泣きたいだけ泣いたらきっと、ぎゅってしてくれるから。な?」

『そんなんでいいの?』

「うん、それでいい」電話を切り、親父の目覚ましのセットを1時間早めて、コンビニめしをひとり分あたためて食べ、

片付けなんかをして過ごし、おれも横になった。

 目を閉じると流果さんの姿が甦る。何度も店に現れる若い女がほかに居ないから気になっていただけだ、結婚してん

なら、ガキがいるんなら、深入りしないうちに諦めて…でも、ダンナは居ないのか? ガキを作るほど大事だった相手には、

棄てられたのか? それとも、蓬莱の珠の枝を持って来たのにそいつは、他界でもして、やむなくひとりで駿を生んだの

か?

 居間でこどもの言動にいちいち恥ずかしそうにする流果さんを、想像の中でおれはそっと抱き締めていた。

「おれがついてるから…」不覚にも、おれの目から涙が落ちた。

翌日は、駿はお迎えも無く帰宅したので、流果さんには会わなかった。駿に様子を聞きたくても、親父がいるから聞けない。

駿も何か言いかけたが、なんかその話はしなかった。駿が来始めて初の金曜日、駿が階段で勉強してるところに流果さんが

来た。見たかんじ、いつも通りだ。駿のほうを見て

「やってるね!」と言い、

「きょうは塩大福食った」と言われ

「あ、カナギさんも塩大福だって。わたしは豆大福かな、久しぶりのこし餡、じゃあ塩大福、豆大福、茶饅頭、鹿の子で」と

注文する。袋に入れているおれに「あのう、水曜日、あの子に“章太郎がついてるぞ”って言われたんですが…あの子の

聞き違いですよね?」と言いにくそうに言う。おれはパックを落としそうになる。

「………えっ、な、なんて?」流果さんは申し訳無さそうに、こちらを見ずに言う。

「…こちらからかけたみたいだし…たぶん駿に“おれがついてるぞって言ってやれ”とか、言ってくださったのを、おれというのを

自分じゃなくて章太郎くんだと思ったのかなって。自分でもよくわかってないみたいだったし…」

「あいつほんと馬鹿…て、あ、ごめんなさい、あの、流果さんの言う通りでして、その…」

「ですよねー、ありがとうございます」ちょうどお金を置いて、袋を持って行ってしまう。

「あ、ありが…」

「また先に言われてる」親父は怪訝そうに見ている。駿のほうを見ると、心配そうにこちらを見てるので、口だけで馬鹿と言って

やった。あーっ?と怒ってこちらへ来そうになるが親父に止められる。「はいはい、遊ぶのは宿題終わってからー!」

 

  「おれはその場に居なかったしおまえじゃないから言えるのかもしんないけど…」亮輔は、山崎のロックを傾けながら言う。「だんな

さんが居るのか、居ないなら愛してるのに別れたかなんかでまだ好きなのか、確認したほうがいいよ」

「んー」日曜日の晩で、居酒屋は空いていた。貸し切りみたいな一角で、サシで飲んでいる。

「下手すると不倫になるぞ、聞いて早いとこ諦めるとか、なんとかしないと。おれ、浮気とか不倫とか許さないから。んなことしたら、

いくらおまえでも絶交だから」

「んー」

「おれに相談するってことはでも、動きたいんだろ?」

「たぶん…でもよくわかんないんだよね。ぶっちゃけ…“そんなん、好きだなんて言わないって!”とか笑い飛ばしてほしいってのは

あった」

「いや、完全に好きだね」

「おいー」

「けど、まだ引き返せる。なんなら、同窓会セッティングしよか? 目先変えて若い女の子と会えばさ。岩崎とか、宮内とか、来る

かもよ」中学で人気のあった女子だ。

「おれはあいつら、好きじゃねーし」あいつらは、どうすればモテるか知ってるというか、媚びてるの見えちゃうんだよね。

「鳥飼は?」

「あー、あいつは男の敵じゃん、でもなんか注意されるの嬉しいんだよって、Mかおれは!」大笑いして、溜息。「あの頃はたのし

かったなあ、女からどう思われようが、どーでもよくて」高校へ入って、やっと意識し始めたのだ。

「ほんとな。つきあってるやつもいたけど、おれらはな…」

「駿に聞いてみるかな」

「あ、話戻った。いや、本人に聞け。だって、離婚だとしても、死んだって言ってる可能性あるじゃん。こどもの信じてる話がほんと

とは限らない」

「そっかー。駿は、どういう気持ちで章太郎がついてるって言ったんだろ」

「意味わかってないよ、それ」

「あいつ馬鹿だしなあ。金曜日も、宿題してたら5時半になっちゃって。親父のむこう側に座ってるからなんも喋ってない」

「わはは、宿題2時間か、典型的男子だな。4年のなんて、20分だろ」

「おまえはね。おれは1時間くらいかかったさ」

「明日聞け」突然話を戻され、びびる。

「えっ、なんで、急すぎないか」

「間空かないほうがいい。いや、今聞こう」おれのケイタイを持ち上げる。

「やめろて!」

「明日でいいけど、聞けよ」あっさり返して来る。

「でもなんて…」

「なんで蓬莱の話で泣いたんですか。おれでよかったら力になりますよ、だんなさんと何かあったんですか、でいいんじゃね?  居な

きゃ居ないって言うだろうし」

「なんでもないって言われたら」

「脈が無いから諦めろ」

「おまえなんでそんな竹割ったみたいな性格なわけ?」

「ズルズルの恋愛してる時間、おれには無いからかな。脈無いなら次へ行く、または暫く恋しない」

「おれは割り切れねー」

「竹割ったみたいな…蓬莱の珠の枝…竹取物語かあ、全文古語で読むかなあ」見ると、ねむそうで顔が赤い。亮輔は酔っ

ぱらっているのだ…。

 

  翌日、お迎えも無く、駿は親父のむこう側、なんの進展も無く閉店し、ケイタイを見ると、酔っぱらっても記憶のある亮輔から

メール。

〉聞いたか?〈

〉迎えに来なかった〈

〉じゃあメール!〈…なんでえ…。昨日亮輔が言った通り打って読み返してみて、とりあえず単に親切なだけで気持ちはバレない

だろうと踏み、送信してみる。夜中まで返事は無かった。亮輔に報告して、その日は寝た。

  火曜日も同じかんじで、返事が無かった。気持ち悪いと思われたかな…。

  水曜日、駿とサシでおやつタイム。おれは小腹が空いていたので、ドトールで買ったクリームパンを食う。駿は親父の作った

落雁をうまそうに食い、勢い込んで咳込んでいる。

「大丈夫か、麦茶飲め」

「んー、あーうまかった」

「…かあちゃんは、その後変わりないか。その、泣いてから」

「…あー、わすれてた。そんなこともあったね」

「一週間しか経ってねーのにもう忘れるんかい!」

「わすれるくらい、元気だよ、かあちゃん」

「そうか、ならいい」

「…そう言えばなんで泣いたんだろね」

「それも気になるけど、1コ訂正していいか、“おれがついてるぞ”って言った、あの“おれ”、そのまんま“おれ”って言ってほしかっ

たんだよ。かあちゃんには駿が居るっていう意味」

「おれ、なんて言ったんだっけ」

「章太郎がついてる」

「あー。だって、“おれがついてるぞ”って言うから!」

「日本語は難しいな」

「うん」なんかたのしそう。

「あのさ」

「うん」やっぱりたのしそう。

「…とうちゃん、競馬好きのとうちゃん、何してる人?  ギャンブラー?」

「ギャンブラーって何?」素頓狂な顔に変わる。

「競馬とか、賭け事する人」

「かけごと?」

「…まあいいや、会社に行って働く人?」

「とうちゃん、居ない。最初から。おれ生まれる前から。友だちには、キリストかって言われたけど、意味わかる?」べつになんてこと

無いように言う。でも、てことは、結構正直に言ってんのかも。

「キリストにはおかあさんしか居ないんだよ」いや、ゼウスが父か? まあ、よくわからないから言わないでおく。

「へー、おんなじだ」

「…かあちゃん、結婚してないの?」

「知らない。でも、こどもがいるんだからしたんじゃない?」しなくてもできるとは言えない。

「…じゃあ駿、おれもおんなじかんじだ。おれは、最初からかあちゃんが居ない」

「そうなんだ」

「でもぜんちゃんが、一生懸命育てて、東京の大学に行かせてくれた」

「そっかー、だから章太郎とぜんちゃんは、なかよしなんだね」いや、おまえが来なきゃこんなに親父と喋ってないよ。「おれも

かあちゃんと、ずうっとなかよしかな」

「そうだよ、ずうっとなかよしだ」

  駿の物心がつく前に死んだのか別れたのかわからないが、とりあえずだんなさんは居ないことは知れた。でもだとしたら、おれは

どうしたいのか。

  宿題を終わらせ、先週のテストで判った、つまずいたところから復習していく。まず九九を覚えていない。これは生きていく上で

必要だからと叩き込む。忘れている漢字を思い出させる。

「ひらがなばっかりの文って読みにくいんだよ。おまえの作文やメールを読む人のために覚えようぜ。後回しにするとどんどん溜まる。

その場その場で覚えたほうが楽でいい」

「その場その場が多すぎるよー」

「あー遊ぶ時間が無くなるー」脅してみる。

「先週の月曜日から、友だちと遊んでねー」

「土日は何してんの」

「まあ、うちで遊ぶ。かあちゃんが相手してくれるときもあるけど、だいたいひとり。友だちは、おとうさんと遊んだりするからさ」

「家族で過ごす日か」

「章太郎は土日は暇?」

「店やってんだよね。実は土日は忙しい」

「そっかー。キャッチボールとか、してみたいんだよねー。かあちゃんより章太郎のほうがうまそう…」そこで呼鈴が鳴る。ドキリとする。

インターホンで出ると、やはり流果さんだ。

「今降ります」駿に支度をさせ、下へ。

「きょうもありがとうございます」

「きょう、かけ算復習したんで、問題出してやってください」

「生活に必要なら仕方ないよなー」駿はいやそうに言う。「じゃーまた明日ー」手を振り歩き出す。

「あの、メール返事しなくてすみません」流果さんは行かずに、おれに言った。それまでなんか神妙な顔をしていたのに、急に

笑顔になり、「忙しくて忘れてました!」と言う。

「え?」

「大丈夫なんで。じゃあまた!」駿を追いかけて行く。

「…なにそれ」おれはちょっとガーンとして、まだ人の行き交う商店街の道に立ち尽くした。

『そんなん嘘に決まってんじゃん』亮輔は電話口で笑う。

「ほんとは大丈夫じゃない? なのに言わないってのは、脈無い?」

『いやー…でもきっと強がる人だよ、ひとりでこども育ててるくらいだからさ。まあ、忘れてた!って言われても怒らないでやさしく

してれば、うまくいくかも。焦れったいなら辞めればいい。とりあえず不倫ではないから、応援するよ』

「それはどうも…」

 

 6月が終わり、駿はぜひ続けたいということで、今のやり方を貫くことになった。流果さんとはまた、よそよそしい関係に戻って

いた。おれも自分でどうしたいのか解らないから、動けずにいた。

「祭りなんだけど」自治会の会議から帰って来た親父が、おれを見るなり言った。

「うん?  夜まで営業すんでしょ、その日くらいはつきあうよ。いつだっけ」

「神輿、担がないか。おれは腰に来ていて、遠慮したい」

「…それ出ちゃうと、結局いろいろ手伝わされるじゃん、約束と違う」

「そうだな、じゃあうちは欠席で」と言いながら、何か言いたそうだった。

「駿がなんか、たのしみにしてるよ」と少し話を逸らす。

「そうか」

「…蓬莱の珠の枝、売るよね」

「ああ、もう予約も入ってる。風呂入って来るよ」風呂場に消える。“ひとりでこども育ててるくらいだからさ”亮輔の言葉が甦る。

「強がりめ…」

 

  7月に入って祭りの準備が始まったのか、商店街がせわしなくなった。店自体は、おれが入ったのが桜、柏シーズンを過ぎた

後だからそんなに忙しくないが、中元用の箱買いが多くなった。店頭でおれがわたわたして、親父が自治会の人に訪ねられて

何か話し合って、駿が勉強する毎日が続く。水曜日も親父はいつも自治会の集まり。親父をげんちゃんが連れて帰ったあの

日は、祭りの決起集会だったそうで、それから何か具体的に進んでいるらしい。頑なに自治会に顔出しや手伝いをしない

おれを、話しに来るおとなたちはチラッと見るが、お互い挨拶だけして目を逸らす。

  なんでそんなに、街のことに一生懸命になれるのか不思議だ。自分の店だけでいっぱいいっぱいではないのか。親父なんて、

いつもファックスでの発注が話してて遅くなり電話を入れたり、蒸しすぎになりそうな饅頭に駆け寄ったりしているのにだ。

  しかもガハハと笑いながら

「じゃっ、宜しくっ!」と別れ「いや〜、まいった、これもおれの仕事かー」とうれしそうなのはなぜだ。おまえは、宜しくっ、じゃない

だろ。言われるほうだろ。まあ、むこうも言ってるけど。駿も同じ疑問を抱いたのか、

「まいったーって言いながら、うれしそうだねえ」と突っ込む。

「頼られてうれしいってかんじかな」

「なるほどー」おれも言ってしまい、親父がぐるりとこちらを向く。誤魔化して「えっと、お中元終わったら、今度何で忙しい?」

などと訊いてみる。

「祭り!」

「…いや、店の話…」

「駿はむこう側に住んでるから来たことないか? この通りに、ずらーっとお飾りが出てな」

「ぜんちゃんが、ほうらいの枝作るんだろ?」

「えっ、あ、ああ」

「おれ買いに来る、小づかいでかあちゃんに買ってやる」

「へー、親孝行だな、駿」

「おれ、かあちゃんとどうしてもケッコンしたいんだよ」

「………」親父の視線を感じたが、おれは駿から目が離せない。無邪気にそんなふうに言う駿は、この前から情報が進展した

のか、ただなんとなくそう思ったのか、イマイチ読めなかった。

 

「えー、おれは、神輿担ぎたいけどな」店頭に顔を出した亮輔が言うと、

「おっ、人手足りてないから頼んでみようか。基本は商店街の人間だけど、うちの代理ってことで」親父が喜ぶ。

「やりー、お願いしまーす」そう言っているところへ、駿が登場。

「こにゃにゃちはー」

「こにゃにゃちはー」亮輔も、おっ、という顔をしてから、ノって同じ挨拶をしているので、駿は

「章太郎の友だち?」と見上げる。

「うん。りょ…」

「りょうすけだ、一流大学!」

「どんな情報だよそれー」ゲラゲラ笑う亮輔に、

「さすがに頭良さそうだなあ」と言う。

「眼鏡ってだけじゃん」こちらを見るがおれのツッコミには無反応、ショーケースを指差し、「ずんだもちください!」と言ってきた。

「はいよ」

「あ、お金は母が払ってますから」と亮輔に説明している。なんで亮輔には敬語やねん。

  階段に座ってずんだ餅を食わえ、ドリルを出す駿を見て、

「わっ、ノスタルジー!  おまえみたいだな」亮輔はおれに言った。

「そこでまだ宿題やってるのに、遊ぼうよーって迎えに来たよな」

  それから亮輔は、みたらしとあんこの団子を沢山買って帰った。あいつが商店街の仲間だったら重宝がられて、いいんだろう

なあ。まあ実際そうだったら面倒に思うのかもしれないけど。

「しかし、言われなくてもドリル出すから偉いな、さあ、きょうは友達と遊べるかなあ?」何気無くプレッシャーかける親父。まあ

でも、ほんと言われなくてもドリル出すし、まだ食べ終わってなくても問題を読み始めている。てか、よほど早く終わらせたいの

か?()

「そうだ、うちのほうのお祭りは8月7日から3日間なんだけど、ふたりはいそがしいの?」

「ああ、むこうは旧七夕のお祭りだから、いつもその日だな。こっちのはその前の金土日で終わってるから、ふつうの生活かな」

「いっしょに行こうよ」

「おお、いいな。…おかあさんはなんて?」

「まだ言ってない。こっちのにかあちゃんと来るから、むこうはぜんちゃんと章太郎と行きたい」

「かあちゃんはひとりぼっちかい」

「たぶん、こども会の店番…年によるのかな、まあ、かあちゃんいたら、4人でもいいし」4人で歩いていたら、なにに見えるん

だろう。やっぱ、おれと流果さんが夫婦、じいちゃんと孫かな。まさか親父と夫婦には見えまい。それか父、姉、弟、姉の息子

…波平、サザエ、カツオ、タラオか! しかし、商店街でなくても、こども会って…地域繋がり多すぎる!

「まあそれは、流果ちゃんも交えて相談しよう。閉店してからでもいいのか、とか」

「…てか、もうすぐ夏休みか」おれは今更気づく。「どこも行かないなら、水曜日は朝からキャッチボールできるな。夏休みの

宿題も一緒にできるし」

「おー!  しようしよう、キャッチボール!  どこも行かないから、毎日朝から来るか!」

「友達とも遊べよ!」此処で宿題したりしてあと少し遊べるってときは、親父が捨てないでおいてくれたおれのおもちゃで遊ぶ。

友達が持っていないような古くさいそれらは逆に魅力的で、早く宿題終わらせて友達とって気は無くなってしまっているようにも

見える。まあ休み時間とかに友達とは遊んでるんだろうが。付き合い悪いとハブにされないか、心配だ。

「明日は遊ぶよ、コンダンカイかなんかで、午前中で学校終わるんだ。かあちゃんに、イッペイん家行ってから、3時に宿題持って

ここへ来るよう言われた」流果さん、早くから此処の邪魔をしないように段取ったか、気を遣ってるなあ。「たぶんwiiやる」

「そうか、そういうのもないとな」

  宿題に熱中しているのか急に静かになる。おれは通りの行き交う人を見ながら商品を整え、袋やパックや箱を揃え、来た

お客さんの注文を聞く。お会計が終わったところで、厨房の親父が

「あ、流果ちゃん」と言う。買ったお客さんが帰ると、入れ替わりに流果さんが店に近づいて来た。「きょうは金曜日じゃないよ?」

「はい、なんか来客があるみたいで、会社に大したお菓子が無いから買って来てって。社員じゃないのわたしだけだから、

使いっぱです」笑う。駿に手を振り、「好評の豆餅かな…あ、やっぱり女性だから食べ易いのにしよう。よし、小倉と抹茶の羊羹

1本ずつください」

「おぐら!」急に駿が笑い出す。

「何かおかしい?」おとな3人はキョトンとする。

「みょうじがおぐらで、和菓子屋のこどもなのに、あんこが食えない章太郎!  おもしろすぎるよねー」

「えー、ほんとに?!」流果さんが驚いている。「しかも、おぐらさんて言うんだ、知らなかった。小さい倉、ですか?」

「はい」

「そうなんですよ、全くこいつはね!」親父はここぞとばかりに口を出す。「おすすめは?って聞かれて、季節の商品しか言え

ないんですわ」

「甘いものがだめとか?」流果さんは気の毒そうな顔をしている。

「いえ、洋菓子は好きですよ」

「へー…」

「だから、冬だけは邪道ながらチョコ大福出すんですよ、こいつのために考えたのに、それでも食べやしない!」

「こんなに美味しいのに…まあわたしも小さい頃、あんこだめでした。でも桜餡とか鶯餡とかずんだとか、あんこ好きに言わせたら

ニセモノのところから入ったら好きになりましたよ」そう言えば流果さんが“わたしはこれにしよう”と言いながら買うのは、味噌餡の

柏餅に始まり、小倉でないことが多い。水饅頭とか食べてたけど半分駿にあげたし、あんまり自分からは行ってないかも。

「じゃあ今度、桜餡食ってみよう」

「来年の3月まで出ねーよ」親父が突っ込む。おれたちの会話に笑う流果さんは、お会計して、最後に何か言いたそうにおれを

見たような気がした。でも何も言わず、親父に視線を移して

「じゃあ、宜しくお願いしますね」と言い、駿に手を振って、おれに会釈して戻って行った。なんか心配だけど、気のせいかもだし、

いちいちメールしたらうざいかな…と思い、やめておく。

 翌日、約束通り駿は3時にランドセルでなく宿題だけ入れた手提げで来て、友達のwiiのゲームの話をしながらおやつに

串団子のおぐらを選んで、食べながらまたあんこが苦手なおれを笑って、宿題を始めた。

  おれは珍しく午前中に商品入れ忘れをやらかし、お客さんから連絡があって、持って来いということだったので支度をしていた。

「じゃあ悪い、行って来る」

「くれぐれも下手にな。秋の新作お試し券も忘れんなよ」親父に釘を刺される。おれが上司と喧嘩して会社をクビになったから

心配しているのだ。今回は明らかにおれが悪いんだし、甘受するよ…。

「どこ行くの?」駿はイレギュラーな事態に驚く。

「失敗の後始末」嗚呼、こーゆーのも流果さんに報告しちゃうんだろなー。電話で聞いた住所のところへ行く。駅向こうの団地

だった。出て来たのは足の悪いおじいさんで、行くのが辛かったんだよ悪かったね、なんて逆に謝ってもらってしまい、穏便に

済んだ。いらっしゃれましたら使ってください、秋が無理なら冬でも春でも、覚えていて更新しますから、と引換券も渡し退散

する。いい人でよかった。そうして団地を出たところで、ぶつかりそうになったのは―――

「すみま…あ、流果さん?!」

「章太郎くん? なんでうちに? 駿が行かなかったとか?」

「え、此処、お宅なんすか」団地を振り返る。

「…あ、知らなくてたまたまですか」

「…実は失敗をやらかしまして…入れ忘れの商品を届けに…」結局自分で言っちゃう。

「珍しい!  なんか、章太郎くんて完璧ってかんじなのに」

「はあ? 完璧?」と驚いた途端、流果さんの瞳から涙が落ちる。「え、えー、なんで? いやべつに、怒ったんじゃなくて」

「ご、ごめんなさい、泣くつもりなくて、やだ、なんで」

「…学校の用事は、もう終わったんですか」

「え?  はい」

「よかったら、そこのモス、行きませんか。たまにはお茶でも…」こんなこと普段言わないから、心臓は飛び出しそうになり、

言葉に力が入る。

「いや、あの、章太郎くん忙しいでしょう、おとうさんが作りながら店番してるだろうし」

「おれは少しなら大丈夫です」

「………」あーすんげー困ってる、やなのかな、迷惑なのかな。ええい、と思ったら、言葉より先に手が出ている。自分でも

驚くが、もう持ってしまった手首は放せない。半ば強引に、モスに連れ込む。

「アイスコーヒーとかでいいですか」レジに並ぶ列に続いて、顔も見ずに聞く。

「は、はい」流果さんの後ろにも人が並んだし、アイスコーヒーでいいと言うのだから逃げないだろう、手を放す。

「すみません」

「………」見ると、また泣き出しそうな、すんげー困った顔をしている。順番が来たのでワークパンツの尻ポケットから財布を

出して「アイスコーヒーふたつ」と言うと後ろから

流果さんが千円札を出して来る。「いや、いいって、おれが誘ったんだし」

「いつもお世話になってるから」

「そんならあなたでなくて駿に驕ってもらうから」とお札を返してさっさと支払ってしまう。レジの女の子は微笑ましいわという顔で

じっと待っていて、こちらからでよろしいですか、とおれの金を受け取る。

「すみません」今度は流果さんが謝る。

「持って行くんで、席を取っといてもらってもいいですか?」

「あ、は、はい」…幾つだか知らないけど、世間知らずすぎないか?「あ、じゃあこれ、持ちますね」謝る用に持って来た店の

制服…甚平の上みたいのを丸めたのは持って行ってくれる。気が利くんだかなんだか、よくわからない。「暑そうだから窓際避け

たんだけど、此処でよかったですか?」おれは頷いて、前に座る。お茶したからといって、何を聞き出そうとか全然考えてない

から、沈黙してしまう。「…いただきます。…ま、毎日暑いですよね。章太郎くんは、夏と冬、どっちが好きですか?」流果さんが

気を遣って喋ってくれる。

「冬」

「わたしも。駿は夏なんですよねー」

「男子は大抵そうですよ。おれも昔そうでした」

「そうなんですかー」またしんとしてしまう。おれは何か話さないとと焦る一方、聞いちゃまずいことばかりが頭を過り、ますます

カタマってしまう。

「駿が…余計なこと言ってるかもしれないけど、あんまり、可哀想に思ってくれなくていいですから…」無理矢理に笑おうと

している顔が、そこにあった。

「逆効果なんですけど流果さん。そんな顔されたら、余計心配になりますって」

「………」またしても泣きそうな顔に早変わり。

「逆に、駿に、なんか聞いてますか。うちの家族のこと」

「…最初からおかあさんがいないから、おれの仲間だって…それしか言ってないですけど、そんな話してるってことは、聞いて

ますよね?」

「駿は、最初からとうちゃん居ないって言っただけですよ。亡くなったとか別れたとかは、彼自身も知らないみたいですね」

「…答えたくなければいいんですが、おかあさん居なくて辛かったですか」話は逸らされる。

「べつに、ばあちゃんが居たし。記憶も無いし。父は結婚してないらしいんですよ。おれにも言わないけど、なんか事情で。母が

2歳まで育てたおれを、急に手放してうちに来たらしいんですが、それはどうしてかは知りません。ふたつばかし疑問は残って

ますが、どうしてどうしてと問い質す必要が無いくらい、満たされてるからいいんです。駿もそうじゃないですかね。あいつ、

かあちゃんと結婚したいって言ってたし、たぶん今幸せだと思う」

「………あの子」

「でもおれは、知りたいですよ。流果さんが、今も駿のおとうさんのことを…」やばい、これ言ったらバレる。急に背筋が寒くなり、

口をつぐむ。

「奥さんが居たんで、結婚できなかったんです、わたしは」しらばっくれたのか、勘違いしたのか、過去の話になる。「知らないで

つきあってた。だから、判って別れた。でもそのときにはもう、おなかに駿の命は芽生えていた。ただ、それだけ。偶然にもやっぱり

2歳まで、うちの母が一緒に育ててくれた。もう亡くなって、ふたり家族になった。ただ、それだけ」

「じゃあやっぱり、結婚はしてない…」

「なんか似てますね」笑いながら言ったのに、また涙が落ちた。「あれ、またなんで…ごめんなさい、涙腺どうかしちゃったみたい」

だれも居なければとっくに抱き締めてる。周りには、家族連れの声や、店員さんの声が溢れていたから、おれは手を伸ばして、

流果さんの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「駿もだけど、おれもついてますから」流果さんの顔は、下向きでハンカチに埋もれていたから、もう表情は見えなかった。

「ほんとうにごめんなさい、ごちそうさま。あ、後で迎えに行きます」すまなそうに言う流果さんとモスの前で別れ、店に戻った。

急いで帰ったが、親父はやはり

「遅いぞ!」と言った。「お客様は、大丈夫だったか」

「勿論。足の悪い方で、なかなか来られないんだって。券、秋に来られないなら冬とか春でもいいって言っちゃった。いいよね?」

「ああ、それはいい」

「章太郎、宿題もうすぐ終わるから、ぼうずめくりやろう。あ、ダイヤモンドゲームが途中だっけ、違う、周り将棋か」

「片付けたじゃん。そのまんまにはしてないから、最初からだし、どれでも…あ、おれきょうはもう、休憩もらえないかも」

「きょうはおれが駿と遊ぶ。店をひとりで閉めろ」

「ぜんちゃんとー?」それはそれでうれしそう…。「ぜんちゃんだったら、周り将棋かなあ」

  ひとりで閉めろと言いながら、おれが駿と遊ぶときと違って自分のテリトリーの仕事はばっちり片付けた上で、駿と上へ上がって

行く。まあ、厨房のことなんか任せられたって解らないけど。

 駿が来始める前にやっていたようにレジ閉めの準備をし、ちらほら来るお客さんにあるものだけ売り、7時になったのでシャッターを

閉めていると、流果さんが現れた。

「…あっ、きょうはどうも…」親父が居ると思っていたのか、どぎまぎしている。おれも、あんなこと言って気持ちバレちゃったかと

思うと、耳まで熱くなる。

「今、呼びますんで」おれは階段前のドアを開け、「駿ー、お迎えー」とでっかい声を出す。

「はーい」駿と親父の、いい返事が返って来る。「きょうはねー、ぜんちゃんに本将棋教わったー」瞬く間に降りて来る駿に、

「ちょっと早すぎない、ちゃんと片付けた?」と聞いている。

「かたづけたよ、ざざーって」

「ざざーっ?」

「立方体の缶に、駒を入れてるんですよ。で、将棋盤を蓋にしてて、棚の下に突っ込むだけ」おれが説明し流果さんが納得する

間に親父も降りて来て、挨拶になる。

「また明日ねー」駿が手を振り、ふたりが去ると、

「店そのまま頼むわ、トシさんに電話しないといけなかったんだ!」と親父はまた上へ上がって行った。

「ああ」言いながらもう一度駿たちを見ると、流果さんが遠ざかりながら振り返ってこちらを見ており、おれが見たので慌てて

むこうを向いた。なんとなく、それはおれを意識してというより、おれら親子が仲良さそうに見えれば見えるほど、駿が幸せに

なれると信じて、つい見てしまうというふうに思えた。つまりは、おれは彼女にとって、駿の未来図でしかないのだ。つまりは、

息子を見るのと同じなんだ。

 

  「自治会の会議なんかに出ちゃったんだけどさ。たのしかったー、おれ商店街、気質合ってるかも」亮輔に昼飯に誘われ

行ってみると、駅前の待ち合わせで会うなりそんなことを言われた。

「それはつまり、お説教なわけ?」

「なんで?」

「おれは商店街の繋がりを面倒に思い、売り子しかやらない約束で帰って来た」

「まあそれは聞いたけどさ。あ、此処でいいか?」定食屋を示す。頷くと暖簾を潜って行く。「べつにおまえがどうでも関係無いよ。

うちの塾と場所チェンジしないなあ。もー、自治会に入ってしまいたい」案内されて座り、ふたりとも水曜日の目玉商品、300円で

食える親子丼を注文する。

「親父やげんちゃんに何か掴まされてないか」

「はあ?  あ、げんちゃんて、源次郎さんか。おやっさんの弟。あの人も気持ちのいい男だよな。顔だって男前なのに、なんで

ひとりもんなんだろ」

「それはおれも思う。親父より二枚目だ」

「それぞれドラマあるんだろうな、おまえのじいちゃんなんか、ほんとドラマだよな」

「そう言えば、お客さんと結ばれたんだな」

「その後、どうだ」

「昨日お茶した、ふたりで」

「すげー進展じゃん」

「でもなんかね、判った。だめだ。彼女、駿に片親のせいで不憫な思いさせてないか気にしてて、境遇似てるおれを重ね合わせて

見てるんだよ。おれは息子でしかない」

「わっ、きつ!  父親のことは、もう好きじゃないのか?」

「それはー、聞きかけたけど聞けなかった。話逸らされたっつーか。まあ、完全に切れてはいるみたいだけど」知らなかったとはいえ

不倫だったことは、亮輔には言わないでおこう。

「しかもおまえ、今の関係で満足してるだろ」

「まあね」

「こりゃあ無理かな」

「おまえならどうする」

「プロポーズする」

「んな性急な。完全フラれるわ」親子丼が来る。手を合わせ、箸を割り手をつける。

「うん、うまい。此処、昔、前原ん家だったじゃん」急に懐かしい名前が、亮輔の口から出て来る。

「え、ああ、児童会長。そうだっけ」

「あいつかけおちしたらしいよ、そんな情熱あったんだな」

「へー」

「有名な骨董屋だったご両親は、息子の許嫁のおうちの仕返しにより、土地も家も失くした。その後いろいろな手に渡り、この

定食屋になりましたとさ。おしまい」

「なんだそりゃ」

「ほんとの話だ。家ぶっ潰して親を貧困に陥れて、したいことを貫く。痛快だろーなあ」

「おまえ時々、危険思想持つよな」

「まあ、おれやおまえにはできないだろうね」

「おれは諦めて、亮輔は和解するまで説得すんだろうな」

「だろーな。て、おい、おまえは諦めんのかい」そのとき、隣の6人掛けの席に集団が案内されて来る。

「親子丼6つでー。あ、流果は卵アレルギーだっけ、違うのにする?」と聞こえ、思わず見る。

「あ、わたしじゃなくてユリカさんだよ、大丈夫」と答えているのは、まさにあの流果さんだった。視線を感じたのか、こちらを

見て「わっ、章太郎くん!」とのけぞる。

「よく会いますね」おれは連れを見て「あ、蓬莱堂の長男です。祖母の件ではどうも」と立って頭を下げる。あの香典をくれた

会社の方たちだった。

「あー、どうも。いつもごちそうさま」

「こっちは小中学校の同級生、海藤亮輔です。塾講師で、ていうか経営か」

「あー!」流果さんは会話に出てきたのを思い出したらしい。

「経営は、親がで、僕じゃないです」

「海藤進学塾か、評判いいよね」と頷いてる人も。

「ありがとうございます」食べ終わったところで、亮輔が珈琲飲みたいと言うし居心地も悪いしで、先に退散し、隣のスタバに移動

した。「なかなか可愛いじゃん、おまえの流果さん」

「だれのでもないし!」おれは親子丼より高いフラプッチーノを片手に、亮輔が荷物を置いたカウンターに行く。後から来た亮輔は

大袈裟に

「てか、駿ソックリ! いくつなんだろ。こども小4だろ?  40台かもよ」とか言ってる。

「まさか…いやわかんないよな。オンナの年齢なんて」

「まあ、倍生きてようが好きなもんは好き、素直に行けよ」

「倍だと考えちゃうな」

「おまえの愛はそんなもんかー!」殴る真似をしてくる。

「珈琲で酔っぱらうなよ」

「やっぱりモノにしろ、おれは祝福する。22にして小4男児の父親、アリだアリ」

「…てか、面白がってねーか、おまえ」

「世間体とか常識に囚われず、真っ直ぐ行ってほしいだけだ」

「真っ直ぐね…だけどね、かわされんだよすぐ。結局肝心なことは話してもらってない。おれは変化球を投げた覚えは無いん

だけどさ」

「むこうはありえないって頭なんじゃないの。打ち明けて最初はまさかーって言うかもしれないけど、誠意を見せてればうまくいく

かも」

「さっき無理と言わなかったっけ」

「流果さんの欲の無さそうな顔見たら、考えは変わった。おまえはどうだ、駿もひっくるめて、流果さんを愛してると言えるか」

「……うん、やっぱりどう考えても、ふたりとも尋常でないくらい好きだ」

「ですって」亮輔が急に後ろに向かって言う。

「!?」おれは慌てて振り向いた。流果さんが、亮輔の携帯を持って立っている。

「ありがとうございます、すぐ持って来ちゃったら意味無かったけど、今ベストタイミングでした」携帯を受け取りながら「よかったら

少し話したらどうでしょう。僕帰ります」

「亮輔!」

「またな」

「おいっ」行ってしまう。「………これってもう、誤魔化しようが無いかんじですか」

「………」

「てか、昨日のでバレてましたよね。どこから聞こえました?」

「…変化球を投げた覚えは無いけど?  みたいなかんじの…章太郎くんの言葉から。彼が、手で待てって…」

「あいつ…謀りやがったな」

「…章太郎くん…同情なんてしてくれなくていいですよ。彼に奥さんが居た話したのがいけないんでしょう、ごめんなさい」

「やっぱり“まさかね”なんだ。違うから」おれは夢中になって言った。「最初からおれは、事情とか何も知らないときから、

こどもがいてそりゃちょっとはショックだったけど、それでも諦めらんなくて」真剣に聞いていた流果さんの目に、また涙が溢れて

くる。「おれ将来何も決まってないような、駿となんら変わりないガキだけど、流果さんの傍にいたい、駿も一緒に、幸せに

なれないかな」

「そんなの、こっちの都合に合わせすぎだよ…」声にならないような声で、やはり受け容れない言葉が聞こえてくる。でも

おれは、引けなかった。

「ちゃんと決めるから。これからのこと、仕事も生活も、あなたと駿とどうしたらうまくやっていけるのかも。ふたりの考えもちゃんと

聞いて。おれ、ちゃんとしますから。だから少し待ってください、今すぐどうこうじゃなくて、一生のことを、ちゃんと、ゆっくり、

あなたの受けた傷も、ちゃんと受けとめて行くから」止まらない涙をハンカチで抑えながら、流果さんは

「ありがとう」と言った。「申し訳無い気持ちより、うれしいが勝っちゃう…今度、駿と一緒にもう一度話をさせてください」そして

まっすぐにおれを見て、「駿が勘違いして“章太郎がついてるぞ”って言ってから、そうだったらいいのにな…ありえないけどって、

ずっと思っていました」と言い添えた。

  その日、迎えに来た流果さんの前で駿に

「親子って結婚できないんだよ」と言うと、えーっと言ってから心底がっかりして、溜息なんかついちゃってる。「だからおれが、

かあちゃんと結婚する。そしたらおまえの、パパにもなれるんだけど、いいかな」

「えーっ!! パパができるの、それが章太郎なの、ヤッホーイ!」…喜んでくれてよかった。。。脇で聞いていた親父は驚愕して

折箱をバラバラと床に落とす。親父を振り返り

「仕事とか諸々は、ゆっくり考える。とりあえずこういうことにしたから」と言う。

「はー…い、いいのかい流果ちゃん、こんなんで」

「それはこっちのセリフでして…この春大学出たばかりの若者の未来を…」すまなそうに親父とおれを見る。

「いや、却ってこちらが。…息子を、宜しくお願いします」きっぱりと頭を下げる親父を見て、おれは胸が熱くなった。

  その晩亮輔にお礼メールすると、

〉よかったよかった! ところで自治会長からメールが来ててさ、サポート会員になることになった。サポートでも大活躍

しちゃうかも。おまえも気が向いたら一緒に、商店街の未来に尽力しよーぜ〈と返って来た。

「なんかこれは…」おれはこの店に、この街に骨を埋めそうな予感に、苦笑した。そして親父が残り物で持って上がってきた

ずんだ餅の翡翠色のあんこを指で掬って嘗めた。「…ありかもな」都合よすぎる気がしないでもないが、なんとなくおれは、

前向きになっていた。

                                               

 

 

 

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