小林幸生 2004
第一部 夏休みの宿題の下書き
とんがり屋根がトレードマークの麦田家には、そんなに広くないけれど5人がこじんまりと暮らしています。1階にキッチンなど
生活スペースがあります。2階に上がると5つドアがあり、手前から、今は父だけの夫婦部屋、わたし、長男、次男、三男の
部屋になっています。もともと広い部屋ふたつだったのを、改築して狭い部屋5つにしたのです。わたしの部屋の上がとんがり
屋根で、少しばかりの収納スペースになっているのです。
家族は、それぞれ面白い極端なキャラで…
ここまで書いて、ベタな文章だなと思う。夏休みの宿題で、家族の作文を書かなければいけないのだが、家の説明なんて
不要ではないか? そして学校に出すものにキャラはないだろう。
まあいい、夏休みは始まったばかり。気ままに書いて、後で直せばいい。
1、長男(7月22日)
一番上のおにいちゃん、麦田隆伸(タカノブ)、22歳。史学科の大学院1年生。母を早くに亡くし働く父の代わりに、3人の
父となり母となりいろいろやってくれた偉い兄。まんなかふたりには、男同士のせいかかなり威圧的で暴力的だが、わたしには
滅法弱くてハチャメチャやさしい。昨日だって、夜、通知票をテーブルの上に出しておき寝てしまったのだが、遅くに帰宅した
父が見て
「リカ、なんだこの成績はー!」と怒っていたのだが、タカが
「まあまあ、明日から夏休みで夏期講習も申し込んであるし、おれが勉強みとくから」と宥めてくれていた。わたしは部屋で
ふとんをかぶって、階段の下辺りでのその会話を聞いてほっとした。
きょうも、昨日ああ言ったくせに遊びに連れて来てくれ、デザートをご馳走してくれている。まあ、本人、かなりの甘いもの好きで、
わたしと居たほうがこういうお店に入り易いというのもあるだろう。わたしはクレーム・ブリュレにアイスティーをシロップ無しで飲むが、
兄はクリームたっぷりのモンブランにキャラメルラテいっちゃってる(笑)。隣の人のダブルクリームのシューを見て、また買いに行ってるし。
夕餉が食べられんぞ。
高校時代までは部活を諦め家事に専念していたが、大学生になってから、家事をみんなでやろうって話になり、サークルはやはり
それでも無理だからと、スポーツクラブに通い出した。余程真面目に鍛えているのか、更にガタイがよくなった。まんなかの兄たちは、
さぞや怖いだろう。
さっき兄の友達にばったり会い、いつものように
「妹だ、かわいいだろう」と頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。笑って頷かれたが、一度でいいから無理強いしないでかわいい妹さんだねと
言われてみたい。兄は友達の感想を聞く前に「かわいくってしょうがないんだよね」とまで言ってくれちゃう。タカにカノジョができないのは
わたしのせいみたいになっているが、実は。わたしは知っている。ほんとに連れ回したいのは、別に居るってこと。更に、兄はわたしが
知っているなんて、微塵も思っていない。
シュークリームを幸せそうにたいらげたタカは、
「きょう当番、だれだっけ」と何気無く言う。
「ナオじゃないかな」
「そっか、じゃあゆっくりできるな」
当番というのは、夕餉係のことだ。基本的に家計はタカが取り仕切っているが、食費はキッチンの決まったところにあって、当番が
持ち出して買い出しして来たり冷蔵庫にあるのを使ったりして作るか、出来合を買って来るか。月末に苦しくならないよう気を遣い、
足りなければ自分の小遣いを足したりする。父は帰りが遅いので免除で、きょうだい4人で順番に。最初は下3人は酷いものだった
が、だんだん板についてきた。朝餉はとりあえず皆食べる派なんで、パンとマーガリンとヨーグルトとインスタントコーヒーを常備するよう
買い出しの人が気に留め、それを勝手に食べて出て行くのだ。ここ2年ちょいはわたしが一番早い。吹奏楽部の活動に夢中になり、
朝も練習があるからだ。昼餉はわたしは給食、みんなもそれぞれ外で済ませている。兄3人はバイトしていて、その収入から昼餉代は
出ているらしく、そのためには家計は減っていない。だから家事はだいたいそれくらいで、洗濯はタカがやってくれるし、掃除は各部屋は
各自だがそんなのは当然だし、共用スペースは気付いた者が、お風呂は父がそれくらいやると言ってやってくれているので大したことは
していない。そんなペースでやってきたが、最近、ちょっと事情が変わり始めた。家で夕餉を食べないから当番をやらない、と次男トモが
言ったのだ。タカははじめ怒っていたが結局許して、3人で回している。
「…なあ、昨日の晩めし、ナオじゃなかった?」タカが唐突に言った。
「え?」
「サラダうどんとか言って、具がレタスだけって文句言ったじゃん」
「あ!」
「きょうはおまえだぞ!」
「ひゃー、帰って作らないと!」
「冷蔵庫に何かあったっけ? 買ってっちまうか?」その場合は、立て替えて後で家計から貰うんだけど、わたしはそんなに持って
いない。食器をトレイにまとめていると、タカのケイタイが鳴った。「マユだ」ちょっと目が輝いたのを、見逃さない。「ハイハイ、
どうした?」暫し話を聞くモード。「リカ、おまえ超ラッキーだぞ」
「へ?」急に話しかけられ、驚愕。
「あ、ううん、なんでもない」またマユとの会話に戻る。「有難くいただくよ、んーと、30分もあれば着くかな、ありがとう、じゃあ後で」
電話を切る。「聞いて驚け、マユが夕飯にカレーを作りすぎた、分けてくれるってさ」
「うわお!」
「米は炊けよな。まだまだあったから買わないでいい。じゃーお礼に此処のサブレ買ってってやろう」ウキウキが隠せないタカと共に
電車で帰る。とんがり屋根の我が家を通り越して、おとなりのドールハウスみたいなおうちへ。呼鈴を押すと、長い髪をポニーテールに
して、チェックのシャツワンピにシンプルなエプロンをつけたマユが出て来た。うん、文句無しにかわいい! エプロンがフリルとかレース
でないとこが、またいい! タカはでれっとしている。そう、これがタカの本命、うちのきょうだいの幼馴染み。次男と同じ歳の、20歳。
小学生の頃から共働きの…学校の先生をするご両親を待って家事を全て行う、えらーい子だった。勿論わたしのことも妹のように
かわいがってくれる、やさしいおねえちゃんなのだ。見た目も芸能人でもいいくらいかわいらしく、純真無垢で明るく世話好き。タカが
惚れないわけないよね。タカとも家事絡みでは仲間なわけだし。でも忙しそうだから、誘えないだろうなあ。
「ごめんね急に。こっちこそ引き取ってくれて助かる。ルーを鍋に全部落としちゃって、お肉と野菜足したらすごい量になっちゃったの」
「相変わらずゴーカイだなあ」とタカ。呆れる様子は皆無で、かわいいなあと思っているのが判る。
「夕飯どうしようって、青くなってたんだ、助かるよ。ありがとう!」わたしは有難く、麦田家用に鍋に移されたカレーを受け取り、帰宅。
誰も居なかった。
「トモもだけど、ナオもバイトに精を出しすぎだよ」と怒ったようにタカは言う。まあ、今は夏休みだからちょと違うが、1学期には当番の
日は学校から一度帰って、夕餉の用意をしてからバイトに行ったり、一応気は遣っているけどね。それは一言言及しておくが、タカは
苦笑。
「そんなにまでして稼いで、服買ってばっかりじゃん。なんだかなー」
2、三男(7月29日)
すぐ上のおにいちゃん麦田直行(ナオユキ)、16歳、高校1年生。中学時代の部活、将棋を続けてやるのかと思いきや、高校生に
なった途端にバイトに明け暮れ、稼いだお金で服ばかり買う。長男は咎めているけれど、これは、お下がりばっか着せられた反動に
違いない。そのカッコいい服で、残念ながらデートではなくバイトに行くだけだが。センスは悪くないし、飽きると呉れてわたしがユニ
セックスなテイストの服を着られるのはうれしいので、まあよしとしよう。
昨日も、わたしが作った夕餉は、まずタカとわたしに食べられ、キッチンにナオと父の分が残った。わたしがお風呂から上がって玄関を
見るとナオのコンバースの靴があり、キッチンの洗い皿の水切りに、ひとり分の食器が増えている。いつの間にか帰宅し食べて部屋に
居るらしい。
次男と共に、小さい頃からタカに殴られてよく泣いていた。殴ると言ってもまあ、タカはチョロチョロする弟たちを叱り、言うことを聞か
ないふたりを、収拾つかなくなって面倒だから一発ゲンコツを落とす、という図式。わたしを殴らないのは、まあ女の子ってのもあるけど、
夕飯のときに食卓に居ないとか、やるべきことをやらずにテレビ観てるとか遊んでるとか、あほなことをしないからだとタカは言っていた。
ナオたちは最初は言い返して更に殴られ、学習して反論をやめ、今ではふたりとも余り家に居ない、という結末。ナオはまだ当番の
規則に忠実ではあるが、一緒に食べないということで、反抗しているようにも見える。トモなんて、もう家で夕飯食べないと宣言した。
ナオも大学生になったらそうなるんだろうか。ナオは、時々わたしと話していて妙に話が合い盛り上がることもある。年子のきょうだいって
かんじだなあ、と思うが、最後にそうだったのはいつだっけ、もうだいぶ前のような気がする。
そして今日、午前中に部活で、帰宅し、夕方からの夏期講習に備え部屋で予習をしていてわからないところがあり、タカに聞こうと
部屋のドアをノックしたり下を探したりしたが、さっきまで洗濯物を干していたのに、居なかった。
「タカ? だったら今走って出て行ったよ」玄関でナオが靴を脱いでいる。「ゼミのなんかに遅れる〜って言ってた」
「おかえり。そうなんだ」そんなら洗濯物干しておいたのに。「英語聞こうと思ったんだよね」洗面所で嗽をして階段を上がって行く
ナオを見て、
「あ。此処にも頭のいい人がひとり」どうやら兄は3人とも頭がよいらしいが、特にナオは県内私立共学のトップ、わたしの第一志望の
明青(メイセイ)学院である。「ナオに聞いてもいい?」
「…英語?」ちょっと面倒そうな顔になるが、手が伸びてくる。「それ?」わたしの手からテキストを奪う。顔とは反対に、行動は読む気
満々だ。
「この文が、なんか訳せないんだ。繋がらないっていうか」
「こっちにかかるんじゃない?」
「そうなの?!」いとも簡単に言うなあ。
「ちょっと前後も読ませて。5分後に、居間集合」と部屋に行ってしまう。
「ハ、ハイ」わたしは一瞬ぼかんとしていたが、アイスティーをグラスに注ぎ、リビングにエアコンを入れてスタンバイして待つ。すぐに降りて
来て向かいに座り、
「やっぱそうだった」とテキストをこちらに向け、ペンで単語を指しながら全訳を言ってくれた。
「な、なるへそ〜」
「まあがんばってくれたまへ、受験生」と立ち上がる。
「あ、これ飲まない?」アイスティーを示すと、さんきゅうと言って飲み干し、キッチンでグラスを洗って一瞬で出て行く。
「あ、ありがとねー」声が届いたか疑問だ。エアコンがまだ効かない、数分の出来事だった…。
教えるという意味ではタカのほうがうまいが、単語を指しながら言ってくれたので、よく解った。やっぱナオもすごいや〜。
夕方から塾に行き、その訳がわたしに当たり、言えたのでえらく誉められた。友達も
「わたし分からなかった、すごいね」と言ってくれたので、
「いや実はわたしもわからなくてさ、兄に聞いちゃったの」と言う。
「いいなー」その子とも別れて駅ビルを歩いていると、マユが目に入った。迷わず声を掛けようとしたが、並んで歩いている連れが居る
ことに気付く。なんと、うちの次男だ。
「トモ…」口の中で言って、声はかけられなかった。明らかに、偶然会ったとは思えないふたり。笑顔で話しながらむこうへ行く。…マユが
たのしそう、ほんとにうれしそうに見えた。
どっちかと言うと、マユが…というかんじだ。
同じ歳で同じクラスになったこともあるトモは、ほかのきょうだいよりもマユと過ごした時間は長い。わかり合えているところもあるだろう。
だけど、タカからへんな噂を聞いた。トモは、きれいな女の子ばっかり、とっかえひっかえつきあっていると。最近家に居ないのはそのせい
じゃないかと。見たわけじゃないし信じたくないけど、マユもそのひとりってことはないよね?
「先輩!」突然声をかけられ、びっくり。
「おあっ、ナ、ナガイくん」部の後輩、永井啓示(ケイジ)くんだった。実はちょっと気になる存在だったりする。ちびっこくてかわいい1年の
くせに、性格が超オトナで、サックスの名手なのだ。
「おあって! おもしろすぎー」笑われた…おっ、隣に女の子! 「姉です」
「へっ、あ、ああ。初めまして」
「弟がいつもお世話になってます」入部の挨拶のときに話題になったので、おねえちゃんが居るのは知っていた。わたしのひとつ下だけど、
おとなっぽい。
「ムギタリカ先輩。3年生で、部長なんだよ」弟が説明すると、姉は尊敬の眼差し…いや、ほかに立候補が居なくてね。「ぢゃー、また
学校で!」ナガイくんは、おねえちゃんと共にたのしそうに去っていく。邪魔すんなよってかんぢ? ニヤニヤしてしまう。
「おっと、それどこじゃ…」さっきマユとトモが居たほうを振り返ると、目の前にナオが居て、これまたびっくり。「おおう!」
「…何、おおうって。失礼な驚き方だな」
「いや、今日は知ってる人によく会うなと。後輩とか、トモ…」口籠る。
「ふうん…」
「バイトの帰り?」当然同じ家なんで、一緒に帰ることになる。これからどっか行くってこたあないだろう。
「うん。リカは? 塾?」
「うん。さっきの問題バッチリだった、ありがとう」
「そりゃー解らなかったらまずいでしょう」なんとなく、喋ってくれるモードかな、じゃあ、一丁その服を誉めて…と思った瞬間、「なあ」と
むこうから話し出す。
「ん?」
「トモ、誰と一緒だった?」
「えっ?!」ど、どうしよ、言ってもいいのかな。
「また女?」ナオもあの噂を聞いたのかな。「マユだった?」
「!」
「…その反応は、マユだね」
「…」どうにも嘘はつけない性格。「むこうは気付いてないし後ろ姿だったけど、たぶん…」
「いや、ならいいんだ。ほかの女だったら、殺す」
…もしや。超真剣な横顔を見て、愕然とする。タカだけでなくナオも…そりゃあそうか、マユだもの。同性のわたしが大好きなんだもの、
異性の3人が、なんとも思わないわけがない。
でも、マユ。どうして? ぶきっちょのタカでも、ナイーブなナオでもなく、なんでトモ…ちょっと、腑に落ちなかった。
3、次男(8月4日)
まんなかのおにいちゃん、麦田友範(トモノリ)、20歳、大学2年生。経営学部らしい。現在の三男ほど服に留意していないのに、
さらりとスマートになんでもない服を着こなし見た目ばっちり、男女分け隔て無いラフな性格で、昔からよくもてた。というわけで、きれいな
女の子ばっかりとっかえひっかえの噂も立つ。真っ向否定してあげられるほど、わたしはこの人を理解していない。タカのように世話を
焼いてくれたわけではなし、自分が小1だったとき2年生だったナオほど、6年生だったトモは近くはない。登校班の班長だったと思う、
だからみんなのリーダーで、わたしの兄という雰囲気は無かった。それに今は、滅多に家に居ない。
と思ったら、今日は居た。わたしのほうは、夏休みは部活は午前、夕方から夜が塾というスケジュール。いつも通りパジャマのまま下に
降りて行くと、キッチンにトモが立っている。
「あ、お、おはよ」
「おはよう。トースト今から焼くんだけど、5枚切を1枚でいいよな? 一緒に焼くな」
「え、わ、わたしやろうか」
「たまには座ってナサイ」
「ハ、ハイ」途端にパジャマで来てしまったことを後悔する。父、タカ、ナオならなんとも思わないのに。と考えているうちに珈琲が出てくる。
「あ、ありがとう」
「あー、おれの気分でホットにしちゃったけど、アイスにする?」
「あ、いや、ホットがいい」
「そうか」トーストとマーガリンが出てくる。
「ありがとう、いただきます」
「ん」なんとなく一緒に食べ始める。珍しくサシだ。緊張するー。沈黙に耐えられず、質問する。
「トモも今、夏休みだよね。アルバイトが忙しいの?」てか、いつからこんなふうに、離れてしまったんだろう。
「そうだね。まあ、夏休みと言っても、大学ってあったりするから、学校も行ってる」というか、近かったときなんて、あったんだろうか。
「そうなんだ」無かったかもしれない。
「リカも忙しそうだね。部活?」話してても、全然こっちを見ないし。
「うん。夜は塾で」と思ったら、見た。
「そうか」うっ、目が合った…トモは、ゆっくり目を細めて笑った。途端に、胸がじわんとなった。なんか…なんだろう、この空気。わたしも
なんとなく笑って、目を合わせていられず珈琲を飲んだ。次にトモを見たら、もう窓の外を見ていた。
音楽室に行くと、20歳の次男と同じポーズで窓の外を見る姿があった。ナガイくんである。12歳で、おとなっぽすぎだろ! 友達に
話しかけられ、途端に中1の顔になったけど。いやいや、見とれている場合か、あの新しい曲のあの部分を自主練しとかないと…と
楽器を取り出した瞬間、
「リカ先輩」と2年女子が駆け寄って来た。
「ん? 何だい?」振り返ると、彼女の肩越しに、長男と三男が見えた。
「へっ?!」
「おにいさん、だそうですね。呼んでます」
「ありがとう」なんか焦った表情のふたりのいる戸口のほうへ行く。「どうかしたの?」
「おかあさんが危篤だ、会いに行くぞ」タカが辛そうな顔で言う。
「…おかあさんて? おかあさんはもう死んでるよね? 何のこと?」ナオを見ると、目を逸らされる。厭な予感がして、咄嗟に「わたし、
行きたくない」と言った。
「だめだ、会っておくんだ。写真のおかあさんは、おまえのおかあさんじゃない。今日死の淵に立っているのが、おまえのおかあさんなん
だ」腕を引かれ、その強さに抗えないと判って
「わ、わかったから…ちょっと待って、楽器出しっぱなしだから」と言い、音楽室に戻る。片付けて、指揮者の新垣(ニイガキ)が居た
ので「ごめん、ちょっと親戚に不幸があって、出るわ。戻れたら戻る」と言って出た。戸を閉めるとき、後輩の女子たちがうちの兄たちに
きゃーきゃー行ってるのが聞こえた。
「あの制服、明青じゃない? すごーい」
「ふたりともかっこいい!」
「リカ先輩、おにいさん居たんだー、いいなー、かっこいいおにいさん」
ゾクリとする。今のタカの話は、もしかしたら…おまえの…おかあさん…は、これから行く先に居る…じゃああの遺影のおかあさんは
…わたし以外の…?
校門前に、タクシーが待っていて、助手席のタカが、懐かしい名前の町を口にした。運転手さんは畏まって了解し、車を出した。
父の田舎。おばあちゃんが生きていた頃は毎年行っていたが、お葬式を最後に行っていない。隣の県だが一番近いところにあるその
町は、暫く行かない間に、少し進化していた。最後のほうはメモを見て告げた病院へ。タカが支払いをして、ナオが受付へ。ナオが
指差したほうへ、タカに促され、走った。…走らなくても、手遅れだった。行った先は、霊安室だった。タカが
「麦田雄一郎(ユウイチロウ)のこどもです」と言い、ひとりついていた人に入れてもらった。
「雄一郎くんはまだ着いてないのよ」おばさんとおばあさんの間くらいの女性が、タカに言って、それからチラリとわたしを見た。「どうぞ、
会ってあげて」
白い布を外されたその女性を見て、はいそうですか、おかあさんですか、とは思えるわけもなく…無表情に見下ろし、そしてナオの
後ろにぱっとよけてしまう。
「みんな…知ってたの?」
「いや、おれも知らなかった」
「タカとトモは知ってたんだ」
「うん」
「トモは…今日はもう居なかった?」
「いや、居た。行きたくないって言うから置いて来た」ボソボソ話していると、
「おとうさん来るまで、そこに座ってなさい。何か飲む?」付き添いの方に勧められる。飲み物はお断りして長椅子に腰掛けた。やがて
父が現れた。父じゃないみたいに号泣し、わたしたちは呆然とした。
兄たちが話しかけてくれるのを待ったが、彼らは長椅子に全体重をかけて動きそうもなかった。居心地は悪くなるばかりで、わたしは
立ち上がった。
「わたし、部活に戻る」
「へっ?!」
「一応、部長だから」
「て、どうやって?」
「お小遣い持ってる。さっきタカが払ったくらいはあるから」もう何も聞かずに霊安室を出た。
ナオが追っかけて来て、ふたりでタクシーに乗った。何も話せなかった。別に泣くのを我慢しているわけではなかったが、喋り出したら
何も知らなかったというナオに当たってしまいそうだったのだ。中学の前に着いて、ナオも降りると言うのでタクシー代を折半して降りた。
待ってようかと言うので断り、音楽室へ行った。もう1時半だったので鍵が閉まっており、戸にスケッチブックの1枚が貼られていた。
「リカへ。フルート、わたしのロッカー。明日返すね。ニイガキ」読んだという印にそれを剥がし、鞄に仕舞った。とりあえず駅に行きマックで
昼を食べ(入るから我ながら凄いと思う)、夕方まで駅ビルで時間を潰して塾へ行くも、テキストやノートを一式持っていないことに気付き、
受付のおねえさんに相談すると
「あら、忙しかったのね。テキストは貸してあげるわよ、帰りに返してね。書き込みはしないこと。ノートの代わりに、ミスコピーの紙を5枚
あげるから。これは返さないでよろしい」と、すぐに解決してしまったので、授業を受けた。終わるともう9時で…帰るしかないよなあ、と、
とんがり屋根を目指した。この家の子ではないかもしれない、と思っても、ほかに行くところなんか無いのだ。
居間に、またしてもトモが居た。
「おかえりー」ソファの上で胡座をかいて、テレビから伸びたヘッドフォンをしたまま振り返った。ふつーに笑っている。
「ただいま」
「夕飯、そこにある。当番の手抜きで、コンビニ弁当」
「ほんと、手抜きだ」
「ひとつは親父のだからな、取っといてやれよ」
「ふたつも食べないよ」笑ってしまう。「じゃー食べようかな」レンジに突っ込む。お茶を淹れて、トモの分も勝手についで出す。
「お、サンキュー」ダイニングで食べていると、ソファのトモは後ろ姿。テレビには、何か古い、白黒の映画。外国の俳優たちと字幕。
音楽がヘッドフォンから少し漏れている。クラシカルな音。トモって、レトロな趣味だったんだ。たまたまかな。
映画が終わったわけでもないのに、ぐるりと振り向いたので、箸に挟んだ鮭を落としそうになる。
「よしよし、食欲旺盛だな」げ、ガツガツ食べすぎたかな。で、また映画に戻る。そう言えばトモは、行きたくないって言ったらしい。
それは、あの人に会いたくないってこと? つまりは、彼女のこどもであるわたしも迷惑なんじゃないかな…ふと、不安になる。
「そうだ、おれね、真弓とつきあってるから」
「へっ?! マ、マユと…」宣言した!
「うん」
「なんで?!」
「は? なんで? へんなこと聞くね。…そりゃー、好きだからさ」いや、そーでなくて。なんで…教えてくれるの? 「でさ、タカやナオにも
自分で言うから、今んとこナイショな」
「うん。…驚いた。でも、よかったねえ…」
「うん、よかった」そうしてトモは、今朝よりも、さっきよりも、というか、今まで見たこともないくらい無防備な笑顔になった。
意外にも、帰りにくかったこの家で、わたしを温かく迎えてくれたのは、今まで一番苦手だった、トモだった。
4、父(8月6日)
おとうさん、麦田雄一郎、49歳。大手の電気製品メーカーに勤めているところまでは知っているが、具体的に何の仕事をして
いるのかは知らない。遺影の母が亡くなった経緯とかも、聞かないで過ごしてしまっていた。直接的にはタカに育てられたようなもの
なので、父と余り接触は無いが、きょうだいが私立に行ったり浪人はだめだと言われなかったり塾に行けたり毎日のごはんや住まいに
困らなかったり、これらは全て父が毎日遅くまで働いてくれているお陰なのだと理解している。
わたしの母という人に会いに行った日も、仕事を抜けて来て戻ったのか、帰宅した玄関のドア音がしたのは、いつも通り零時頃
だった。わたしは次男の傍でごはんを食べた後はなんとなく、さっさとお風呂に入って寝て(寝たふりをして)しまい、部屋に居たらしき
タカが気付いてわたしの部屋を訪ねて来たときも寝たふりをし、ナオの23時頃と父の零時頃の帰宅したらしき音を聞いていた。明日は
どんな顔で会ったらいいのだろう。いろいろ聞くべきなのか、いや、聞きたくない。何も無かったように振る舞うのが、図々しいが得策かも
しれない。そう思いながら、いつの間にか眠る。
翌朝は珍しく父が居てびびったが、わたしは強気におはようと言い、
「朝ごはん食べた?」と聞く。
「ああ、もう食べた。構わず食べなさい」わたしはキッチンに入り、トーストをセッティング。「リカ、明日の部活は午前か?」
「うん。夕方から塾で」
「すまないが、明日の部活は休んでくれ。告別式だ」
「…わかった」厭だと言いたかったが、昨日の、タカに捕まれた腕の痛みを思い出し素直に従ってしまっていた。わたしにはいつも
やさしい兄が、それだけ真剣だったということだ。父はほっとしたような顔をして、
「じゃあ行って来るよ」と出て行った。
「行ってらっしゃい」慌てて言い、そのために待っていたことに気付いた。まさかわたしだけとかタカとわたしだけとかで告別式、は無い
だろうから、明日は休むのだろう。で、今日は出社なのに、夏休みはわたしのほうが遅いのに、わざわざ待っていたらしい。本当は
事情も説明したかったのにできなかったのか、直接休めと言うことで真剣味を出したかったのか、わからないが、わたしのほうもそれを
受けて覚悟を決めることにした。父とあの人のこどもであるという望みだって、まだあるのだ。明日はしらばっくれないで、ちゃんと話を
しよう。部活に行くと、顧問とニイガキと副部長に伝えて、今日のうちにいろいろできることはやっておいた。
で、今日、8月6日がその、告別式の日。父とタカが喪服を着て、わたしは制服で、今日は電車で行った。家を出るときトモはおらず、
ナオが
「おれは行かないでいいの?」と父に聞いていたが、
「ちょっと大袈裟になるし、トモひとりが居ないのもね…」と言われていた。確かにそうだね。
ボックス席を陣取れ、缶珈琲を飲みながら父の話をし聞いた。
「今日お見送りする人はね、父さんの幼馴染みなんだよ。そう、ちょうどタカと真弓ちゃんみたいな。年齢関係も同じかな。仲良くして
いたが、わたしのほうが先に田舎を出て、こっちで結婚した。ナオが生まれてすぐ、あの遺影のおかあさんはちょっと精神をやられて
しまってね。実家で療養するんでうちには居なくて…わたしのかあさんを呼ぶには、ちょっと腰もやられてたしね、これからこども3人を
おれひとりで育てるのかーってかんじだったんだ。ナオはまだ1歳、トモが幼稚園、タカは小学生だったからね。そこへ幼馴染みの彼女が
現れてね、事情があって育てられない、預かってほしい、と言う。正直困ったんだけど、タカが可哀想だと泣くものだから、断らなかった。
真弓ちゃんのおかあさんも協力すると言ってくれたしね。それから彼女は行方不明になってしまって。で、半年も経たないうちに、タカ
たちのおかあさんも、実家を飛び出して行方不明、そして間も無く近所の川で見つかってね。リカのおかあさんもそうやって見つかり
そうで…探さなかった。まさか、生きていたとは思わなかった。彼女のおねえさん、一昨日会った、病院に居た人ね、あの人はみんな
知っていて、死の際に、こどもに会いたい、雄一郎に連絡をって言われて、呼んでくれたんだ。で、タカに頼んで連れてきてもらった。
けど、今日喪主をするご両親は、リカの存在は知らない。これ以上ショックを与えてもね…彼らには黙っていよう」
…がっかりする。わたしは、父の子でもなかったんだ…。
斎場に着いて、通り一辺倒の儀式を済ませた。わたしがマユの両親を知っているのとたぶん同じようなかんじで父は知っているで
あろう喪主夫婦に、
「息子と娘です」と言った。わざわざ連れて来たことに少し驚いたようだ、まあそうだろうな…。死の床に居た人は、母にしては若い気が
した。マユとタカの年齢差と同じって言った。というと、ふたつ。父よりふたつ年下だとしたら、47歳。見えない。まあ、30以上の人は
もうなんかよくわからないけど。というより、おねえさんと言われたあの方のほうが、おねえさんというにはお年寄りのような気がしたが、一瞬
気になって、そしてどうでもよくなった。見送りには行かずに失礼する。乗り換えの駅で洋食屋さんに入り、遅いおひるにする。
「もう、あの人の話はしないからね」父は言った。「一昨日の晩、4人で話したんだけど、今までもこれからも、きみはうちの子だ」
「トモなんかさ、ろくに話も聞かないで、そんなん当たり前じゃん、話し合うまでもなし、だってさ」
「今回はお別れをするために、というか、彼女が会いたいと言うから、彼女のためにね、会ってもらったほうがいいと思って。だからもう、
終わり。知ってしまったことで、今まで通りに全く同じってわけにはいかないかもしれないけど…でも今まで通りに」
わたしは泣きそうになりながらも、
「うん、ありがとう」とちゃんと言わなくちゃと思い、相当力んで言う。
「ははは、リカ、鬼瓦みたいだぞ」
「えー、ちょっと! 失礼なんですけどー」わたしはタカを殴る真似をする。父も笑う。幼馴染みを亡くして辛いだろうに、笑う。
帰ると、とんがり屋根のうちに向かって、でっかい声でただいま! と言った。
5、オマケ(8月16日)
わたし、麦田梨架(リカ)、14歳、中3。一応吹奏楽部部長の、受験生。平和に過ごしてきたのに、最近になっていろいろ思うこと
あり。世の中は単純じゃないと、思い知らされる日々。
告別式の日は当番だったので、一度うちに帰ったときに夕餉の支度をして、塾に行って戻ると、ダイニングでナオがそれを食べていた。
「いただいてるよ。あ、あと、さっき電話あった。吹奏楽部のナガイってやつ」
「は? ナガイくん?」ニイガキでもフルートパートの子でもなく、なんでナガイくん?
「居ないっつったら、じゃあいいですって」
「じゅあいいんだ」笑う。
「そうは言っても、電話しといたら?」
「そ、そうだね」玄関のコードレスを持って、部屋に行く。な、なんだろ。緊張する。部の名簿を見てかけてみる。4回の呼び出しで、
ナガイくんらしき声が
『もしもし』と出る。
「あ、あの、ナガイさんのお宅で…」
『あーリカ先輩、おれです』名乗らなくても判るのか。『突然すみません、用は無かったんですけど、名乗らないのは怪しいんで…て、
電話自体怪しいですかね、ははは』
「いや別に、怪しんだりは」するけど。
『今日お休みされてたから、元気かなって』
「?!」そ、そんだけ?
『一昨日も出て戻って来ないし』
「昨日は居たけど」
『そうですけど』
「明日も行くけど」
『ならいいんですけど』心配してくれたの? ありがとう! とは、なぜか言えないあまのじゃく。別にそういうのは期待していないのか、
ナガイくんは話を続ける。『7月のアンサンブルコンテスト…結果は残念でしたが、おれ的にはすんごくよかったです、感動しました!』
「ああ、あれね…」金賞狙いだったが、銅だったのだ。その練習で勉強をおろそかにし、あの成績だったわけだ。
『特に2楽章の先輩のソロ、もーほんと、よかったです。ほんとに音高行かないのってかんじです』
「高校は考えてないねー。ブラスは続けると思うけど」
『秘密をバラしちゃうと、おれは音高行きます。サックスで食ってこうと思ってます』
「へえ! すごいね。うん、ナガイくんならできるよ」
『わ、リカ先輩に言われると、俄然やる気になります、ありがとうございます!』うまいなー、この子は。『じゃーまた学校で』
「へ? あ、はい、また」急にまとめられて、びっくり。電話を切り、なんか、トモみたいな子だなと思う。急に何を教えてくれるやら。
うれしいじゃないの(笑)。まあでも、期待はしないことにしよう。だって、すんごい普通なのだ。好きな人に対して大告白をするような
緊張は皆無で、きっとだれにでもそうなのだ。例えばニイガキが一昨日早退して今日休んだとしたら、ニイガキに電話をするであろう、
特別な気合いやテンションの無さなのだ。
というふうに気にしないことに決めて部活に出て、暫くパート練習が続いてあんまり会わなかったのだが、お盆休み明けの今日、全体
練習で顔を合わせ、そして定期演奏会企画委員長に
「三役と学年委員は集まってください」と言われた。うわ、少人数で集まるところにナガイくん!
三役とは部長・副部長・指揮者、学年委員とは各学年のリーダーで、ナガイくんは1年の学年委員である。3年の学年委員は
部長の兼任なんで、つまり定期演奏会企画委員長合わせて6人しか居ないのである。気にしないことに決めたって、緊張してしまう
のである。ナガイくんのほうは、相変わらず飄々として全然ふつー。わたしも極力ポーカーフェイスで会議に参加する。帰りに、副部長の
橘(タチバナ)が、みんなでアイス食って行こうと持ちかけたが、
「ごめん、わたし塾」と失礼した。塾は夕方からだが、現在タカがゼミ合宿中なんで、食事はナオ、洗濯はわたし担当になっているのだ。
説明するのが面倒なんで塾と言う。
「そっか、じゃあまた明日ね」ニイガキが言い、みんなが
「おつかれっしたー」と言う。ナガイくんは敬礼している(笑)。結局は、精神年齢の差なんだよね…。
洗濯して塾へ行き、帰って来ると、ナオが自分が使った食器を片付けていた。「夕飯できてるよ」そしてとっとと出て行ってしまう。…ふと
考える。あの件について、ナオは何も言わない。彼以外はみんな知っていた。今まで通りでいいと、父とタカからは直接、トモの言葉は
タカの口から聞いた。ナオはどう思っているんだろう。あのときついて来たのは、長男になんとなくついてきたのか、そうしたくて来たのか、
判らない。今日みたいに会ったときも、なんとなく避けられてる気がするのは、被害妄想?
翌日、午前中の部活を終えて、フルートメンバーでマックでごはんしてから戻って来ると、居間にマユが来ていた。トモとお茶している。
「マユ! なんか、久しぶりだね!」飛び付いた。
「うちに来るの、付き合ってから初めてじゃない?」トモが事も無げに言い、マユは照れる。
「リカは知ってるのよね」トモがアイスティーを出してくれたので、長居オッケーと判断。
「びっくりしたよー、マユって、こーゆーのが好きなのね〜」
「どーゆー言い方だ」
「ちっちゃい頃からずうっとよ、実は」おー、すごい!
「おれも、初恋マユだった」…間にはいろいろありそうな言い方…。
「リカは? もう中3なら、恋、してる?」マユ…穏やかな顔で、すごいこと聞いてくるなあ。
「うー、うん。恋かどうかわからないけど、気になる人は居る」
「おー、ついに!」
「何々、クラスの人?!」ふたりとも、すんごいうれしそうなんですけど…。
玄関のドアが開く音がする。
「あ、ナオかな」洗面所へ行ったらしきあと、こっちに顔を出す。
「おっかえりー」3人はハイテンションで言う。ナオは無表情のまま
「…ごゆっくり」と出て行ってしまう。
「なんか、ナオ、冷たい」いじけるマユを見てはっとする。そうだ、ナオもマユのこと…思わず追いかける。
「ナオ!」階段の中程で振り返る。「…何か飲みたかったんじゃない? 持って行こうか?」
「…まあそうなんだけど、別にいいや」
「そっか…買い出し行った?」
「今、参考書買いだめして来ちゃったから、置いて、行くとこ」
「一緒に行っていい?」
「は?」
「荷物半分、持ってあげるよ」
「…」あ、厭そうな顔になってきた。断られるか。「制服はパス。着替えて来な」意外にも、オッケーだった。「あ、あと冷蔵庫に何が
あるか、見て来てくれる?」居間に戻ってグラスを片付けて、冷蔵庫を物色。部屋で着替えてまた下へ降りるが、ナオは居ない。
ドアを開けると外に居た。壁のカナヘビを見ている。
「チーズが4枚、水が8分の1くらい、マーガリンはめいっぱい、以上」
「…だよね。3日前に3日分まとめて買ったけど、ちょうど尽きたとこだ。荷物持ち、宜しく頼んだ」
「了解!」敬礼する。「ねえねえ、この服、貰ったやつ。こんな着方、どう?」なんか盛り上げようとしてしまう。
「いんじゃない?」あんまりノってこない。やっぱ、マユとトモを見たら、辛いのかなあ。買い物の間もわたしばっかり喋って、買ったものを
袋に詰める。「あのさ」いきなりこっちを見たので、うるさいとか言われるのかと思った。「冷蔵ものはまああるけど、冷凍もの無いし、中町
公園行かない? アイス奢ってやる」なんと、無表情のまま想定外のお誘い。
「行くー、食べるー」荷物を半分ずつ…いや、ナオのが多いか…持って、少し遠回りして行くうち、ああ、すぐ帰りたくないのか、と解る。
そこからはなんか笑いもするし、よく喋ってくれた。どんなスイッチだ。「わー懐かしい、小さい頃はよく来たよねー」大きな池があって
ボートに乗ったり、橋を渡って庵みたいなところに行ったりできるところで、ボートに乗ってるこどもが手を降って来たので、ふたりしてぶん
ぶん腕を回して振り返す。脇の売店でアイスを買ってもらい、ベンチに座る。「ねえナオ、水切りやって」兄3人は水切りが得意で、よく
ここで競争していた。やっぱり歳の順にうまいのだけど、わたしはできないので、三男もすごいと思う。
「ボート乗ってる人が居るから、だめ」
「あ、そっか、そうだね」
「それに、もうできないと思う」
「まあ、ずっと前だしね」
「もうあの頃とはみんな違うし」アイスを食べつつ、がっかりしたように言うが、少し考えてから、「まあ、トモとマユみたいに、いいことも
あるか」あれ、ナオからその話題?
「ナオは歓迎してる?」
「一応」
「一応って」
「ナニおまえしてないの?」
「してるよー。最近やっと、トモの良さが解ってきたし」
「トモの良さ、ねー」…シニカル。
「あのさ」なんとなく、話を変えたくなる。「実はわたしの第一志望、ナオんとこなんだ」
「そうなん?」驚いている。
「うかったら、また2年間一緒だね」
「うかったらね」
「やな言い方…」苦笑。「あそこブラス強いでしょ、続けたいんだよね」
「ブラスねえ…」いつの間にか食べ終わったナオは、棒を咥えて背もたれに寄りかかる。「部活ばっかり燃えてないで、受験終わったら
カレシでも作んなさいって」
「ナオこそ、カノジョ作ってから言ってよ」
「居るよ」
「えっ、うそ」
「うん、うそ」…ヲイヲイ。「いいの、おれは。ずっとひとりで」笑ってはいるが、なんとなく、言葉が重い。ものすごく、その投げやりな座り
方に、SOSを感じた。なんとかしたい気持ちばかり焦り、何もできないことに愕然とする。なんで笑ってるのに、そんなに悲しそうなん
だろう。その顔のまま、アイスの棒を脇のゴミ箱に捨てる。「そろそろ帰る?」
「ん? あ、あー…ごちそうさま」わたしも棒を捨て、辺りを見て「根が生えそう。帰りたくなくなっちゃうねえ」と言う。
「…帰るの辞めよっか」その顔に、笑いは消えていた。「逃げよっか、このまま」
「え…」そう言いながら逃げる素振りは無いのだけど、なんとなく消えてしまいそうなナオを見上げる。
「わはは、冗談に決まってるじゃん、うちを出てやっていけるほど稼げてないって」
「……」
「のあに本気にしてんの、帰るよ、ほら」先に行ってしまう。
「あ、待ってよ!」急いで追い付いて、後ろを歩く。行きよりも喋ってくれているのに、とてつもなく遠く感じる。
帰るとマユとトモはもう居なかった。留守番電話が点滅していて、再生すると、
『タカだよ〜ん、喧嘩しないでやってるかー?』と入っていた。
…勿論宿題としては、こんなのはどれも駄目だ。無難なところで、長男のえらーい親代わりぶりを、マユの件抜きで書き直し、提出
した。それはなぜか、いたく評価され、学校に貼り出された。下書きも、こっそり取っておいてある。
第二部、夏休み以後の自主課題
なんとなく続きの事件が起こりまくって、忘れられない記憶となった。どうせ提出できない作文として、書き残すことにした。
1、幼馴染み(9月19日)
瀬下(セシタ)真弓、20歳、大学2年生、フランス文学専攻。やさしくてたのしくて、こうなりたい女子ナンバーワンである。何しろ
麦田家は男ばかりなので、オトナになっていくにはこの人の協力があって、本当に助かった。うちの男どもはみんな熱を上げる(たぶん)
くらいで、わたしにとっても欠け換えの無い存在である。うまくこのまま行けば、次男と結婚して、おねえさんになるのだ! 今も時々は
お泊まりに行ったり、仲良くしている。8月末の定期演奏会にも来てくれた。ナガイくんの存在を教え、彼もわたしもソロがあったので、
マユとしては違う意味でも楽しめる演奏会になった。
で、今日は文化祭、吹奏楽部でミニコンサートがあるので、トモと来てくれる。午前中に友達と回っていたら会ったのだが、母校だから
もう数少ないけれど知ってる先生も居て、盛り上がっていた。
「後で聴きに行くから」
一緒に居たユーフォニアムのモリは、パンフレットを見て
「ナニコレ、万華鏡サロンだって。あれ、ナガイくんのクラスがやってんだ、行ってみない? 怪しい〜」
「ほんと、インパクトある名前だねえ」ついて行くと、確かに怪しげだった。光沢のある布を駆使して王宮みたいな雰囲気、何処から持ち
込んだのかソファーまである。ペットボトルで作った、そうは見えない万華鏡が大小様々置いてあって、それを覗き込んでいる人たちの
後ろ姿がまた、可笑しい。
「あれ、先輩方、来てくださったんですね」ナガイくんが居た。「怪しいでしょー、よかったら、堪能してくださいよ」
「すごいねー、これみんな、去年まで小学生だった子達が作ったんでしょ」モリが、たのしそうに作品を覗く。わたしも手近なのを覗いて
「えー、これ、ほんとにペットボトルなのー?!」と驚愕。
「先輩たち、無邪気だなあ…」後ろでナガイくんがポソリ。見ているうちにいつの間にか居なくなっていたが、出口に居た。
「じゃー、またミニコンで。1時集合でしたよね」
「うん、おもしろかったよ、後でねー」モリは次に行くクラスをもう決めていて、階段のほうへまっしぐら。
「あ、先輩」どっちを呼んだかわからないが、モリはもう見えないし、わたしが振り返ると、ナガイくんがスローモーションで殴りかかってくる。
「えええ?!」
「なんちゃって。これ、あげます」拳の中から、ちっちゃいものが落ちてくる。落とさないように、思わずキャッチする。「ちっちゃいの、もー
これが限界でした、でも一応見えますから、万華鏡」手の内のものをじっと見てからナガイくんを見ると、もう居なかった。
「あれ…」
「リカ、早くー」階段の上からモリが呼んでいる。
「ごめん、今行く」掌の中の万華鏡は、あたたかかった。ナガイくんが、きっと握っていたからだ。胸ポケットに仕舞い、モリを追いかける。
…やっぱり普通なんだよね。後ろに居たのがモリだったら、モリにあげたんでしょ?的な…。あれで顔真っ赤だったりぎこちなかったりすれば、
好かれちゃってるかもって思うけど、そーゆーの、皆無なんだよね。
食べ物屋さんをやってるクラスで昼餉を食べ、体育館裏へ。無論、ナガイくんはふつーに音出しをしている。コンサートはミニとは言え
体育館なんで、お客様は多い。今回はみんなで吹くことが多かったが、わたしとナガイくんだけはソロがあった。またマユがニヤニヤして
そう。ナガイくんのソロの後は、拍手ものすごかった。ま、負けた(笑)。解散してクラスに居たら、マユたちが顔を出してくれた。マユとトモの
後ろに、タカとナオが居る!
「あれえ、来てたんだ。聴いてくれたの?」
「まあね」タカ、元気が無い。今日聞いたんだな、マユとトモのこと…。ナオはいつも通り…まあ知ってはいたからね。
「おれらの在学中、ブラスこんなうまくなかったよなあ」トモはいたく感動してくれる。マユはこっそり、
「ふたりして大活躍ね」と言う。そこへ、本人、ナガイくんが現れる。
「居た居た、リカ先輩、高尾先生が…」連れに驚いて、会釈する。「お取り込み中すみませんが、高尾先生が写真撮ってくださるって。
3年生集められます? 2年生は戸部(トベ)先輩に頼みました。できたら楽器持って、中庭集合だそうです」
「了解、みんな探す」もう一度タカたちに会釈して去る。
「あれ、この前電話かけてきたやつじゃない? 声が似てる」ナオが全くデリカシーの無いことを言う。
「そうなん? なんかいいかんじじゃないか?」タカも勘繰り出す。「2年生も先輩って言ったから、1年生かー、年下いくかー」
「ちょっとちょっと、なんで今のだけでそうなっちゃうわけ?」
「だけじゃなく、電話…」タカは今更「そうとは言ってないかー」ガッカリしている。いや、そうなんだけどね。
「兄ちゃんは要らんほど居るんだから、カレシくらい年下でもいいんじゃない?」ナオはまだ言っている。黙殺して、
「お聞きのように召集だから。またね」
「あ、うん、また」複雑な顔をして話を聞いていたマユが、笑顔になって手を振った。
3年の部員たちを探して、楽器を持って中庭へ。楽器を持っていない者も居たが、全員来た。先生は西校舎の4階の窓に居て、
上から写真を撮ってくれた。後で貰ったその写真では、たまたまわたしはナガイくんの隣に居たというのに、なんだかふてくされた顔をして
いた…。
その後マユたちに会えなかったので、帰るとトモが
「真弓が宜しくって。今度ゆっくり会おうって言ってたよ」
早速電話して、翌日泊まりに行くことにした。文化祭代休でわたしは暇だったがマユは学校なので、掃除をしたりしてから夕方行く。
電話では何も言ってなかったけど、伺って会うなり
「ナオに昨日帰ってからとか今日とか、会った?」と聞いて来た。
「会ってないね」
「彼から電話あったとか、軽く言うなって怒っておいたけど、謝らないんだね」
「…あー、本人は悪気無いんだろうけどね。デリカシー無いよねー」
「そう、その通り! リカはまともだわ。ナオは口止めされてないしとかって…あ、ごめん、まあ入って」とりあえずマユの部屋に荷物を
置き、居間へ移動。持ってきたお菓子を出し、麦茶をいただく。「しかも兄が多いからカレシは年下でもって、なんか違うでしょ」
「ははは、わたしもあのときはちょっとナニソレと思った。でも今日は、ナオでなくナガイくんのこと聞かれるのかと思った」
「うん、聞く。でもその前に、…」ソファーに座り直して、「…いや、リカ、おにいちゃんたち、好き?」
「ナニ急に。好きだけど?」
「血が繋がってないって、判ったんだよね? その後も同じように好き?」
「うん。ナオ以外は今まで通りでいいって言ってくれたし」
「ナオは言わないの?」
「はっきりとは。まあ、4人で話し合って、今まで通りでってなったそうで、その中ではそう言ったんだろうけど」
「ナオは知らなかったんだよね、確か」
「うん。わたしと同じ日に知って…因みにマユは知ってたの?」
「うん。リカ初登場のときは幼稚園児だったから、どういうことか理解してたよ」
「そうなんだー。ナオは急に知ったし、おまえなんか妹じゃねーって思ってるかも」
「…リカのほうは、それは無いの? みんなに対して」
「もう14年間そう思ってきたからね。そうじゃないというほうが、未だに信じられない」
「そうか」
「ナオも同じかなあ。この前、中町公園でアイス奢ってくれたし、やっぱりおにいちゃんで居てくれるんだろうか」
「へーそうなんだ」
「トモは、知ってたのもあるけど、何を今更当たり前って言ってくれたらしい…あ、そう言えば、中町公園に行ったときにね、ちょっと
なんか、ナオがおかしかった」
「おかしい?」
「普通なんだけど、なんか辛そうっていうか、なんか重いもの抱えてるような。助けてってテレパシー送られてるみたいな」マユはちょっと
考えてから、
「…想像つくような、つかないような」と言う。マユは知ってるのかな、ナオの気持ち。もしかしてもう、フってたりして。「まあ、戸籍が
ただの紙切れな場合もあるし、そんなのを越えた絆で家族だったりもあるし、いろいろだよね。例えば、例えばね。戸籍上はうちの子
にもなれるから、覚えておいてね」
「へっ? なんで急に?」話の繋がりが見えない。
「例えばよ」
「よくわからないけど、それもいいね」マユがおねえちゃんかー。ニヤニヤしてしまう。
「で、ナガイくん。電話くれるような仲なんだ」
「例の、実の母が危篤だというんで早退して、次の日は行ったけど翌日は告別式でまた休んだら、電話くれたんだけどね」
「心配してくれたんだー」
「全然普通なんだよ。ちょっとでも顔赤くしてるとか、しどろもどろなら、期待するんだけど」
「電話だから顔色はわからないよ」
「あ、まあ、そうだね」笑う。「その後会ってもね」
「究極のポーカーフェイスかな…トモがそうなのよ。慣れてるのかと思えば、あのとき超緊張してたんだぜー、みたいな」
「ナガイくんて、時々トモっぽいんだよね」
「まんなか?」
「末っ子だけどね」
「ふうん…まあでも、あれはリカ次第で落ちるよ。今は判らなくても、カレシにしたくなったらモーションかけてみなよ。絶対成功するから」
「ひええ、モーションて…」わたしには縁の無い言葉だ。
「まあ今は、受験に集中すべきかな。第一志望明青なんだってね、たいへんそうだ〜」
「ナオが言ったね。そうなんよ、たいへんなんだよ〜」
2、ナガイくん(9月27日)
永井啓示くん、中学1年生、12歳。新入部員歓迎会で言っていたが、自分から入部した動機は、小5の頃におねえちゃんと
テレビを見ていて、ジャズバンド、特にサックスの演奏に魅了され、好んでCDを聴いたりするようになり、年子のおねえちゃんは私立
中学に行き、吹奏楽部に入ったが、彼女はなぜかオーボエに乗り換えたみたいで、自分は是非サックスを吹きたいと思って来た、と
言った。勿論、それまでサックスを持ってもおらず、吹いたことなんか無かったわけで。それなのに、1年生でソロを任せられる、サックスで
食っていくと豪語する。マジで尊敬する。その上あの人当たりのよさ、考え方の大人っぽさ。一体どないな育ち方をしてきたのか!
今月のコンクールの県大会が終わったら、3年生は名目上引退する。もしコンクールで残れば、役職のみ引退で、関東・東日本・
全国大会があるため残れば残るだけ長く練習には参加することになる。どちらにしろ、文化祭が終われば役員改選はしなければ
ならない。立候補と推薦の受付が始まる。現三役が選挙管理委員となり、受け付けるわけだが、もう投票かと思うくらい、指揮者に
ナガイくんの名前が挙がっている。無論本番は定期演奏会の校歌以外、先生が指揮するので演奏はするし、ソロをひがまれたのでは
なく、きっと音楽性を認められてのことだな。〆切が来てしまったので、何人から推薦があったかは書かないが、立候補と被推薦の者を
貼り出す。
部活に出て来たナガイくんは貼り紙の前でぎょっとして、それから腕組みして考え込んでいたが、やがて三役が一緒に居たらそこへ
来た。
「先輩方、ちょっといいですか?」
「来たな〜」タチバナがなんかうれしそうに言う。一応準備室に移動して、話を聞く。
「2年生に立候補するように言っていただけませんかねえ…時田先輩や皆木先輩とか、何も立候補してらっしゃらないけど、できそう
じゃないですか。おれ、背が低いから前に立って台に乗っても見えないし、性格も指揮者じゃないと思うんですよ。何せ1年だし、
やっぱり年功序列っていうか…新1年生に、3年生が甘く見られても」そこまで考えるか。すご。と思いながら、
「実はトキタくんは、おうちの人に辞めさせられそうになってて、居るのが精一杯」と言う。
「ミナギは、成績ヤバいって言ってた」とタチバナ。
「でも指揮者って、部長副部長ほど拘束無いよ、すぐ帰れるじゃない」わたしが指摘すると、現指揮者のニイガキが
「そうだよ、勉強しない理由にはさせない」と言い放つ。
「それで押すか」タチバナは爆笑している。
「因みに、新2年生の学年委員が空白なんだけど」わたしが言うと、
「ははあ、立候補させていただきますです」と頭を下げる。そのまんまきみは部長だよ、と思う。背が低いのだって、そこがいいのに
かなり気にしているみたいだしね…。
というわけで、被推薦者の辞退により受付期間延期、という異例の事態に。言ってみるとミナギくんは、はじめえーとか言ってた
けれど、うまく丸め込まれて立候補するに至った。
結局現三役の思惑通りに新役員が決まる。その日は選挙と開票、そしてなぜか先生がミスドのドーナツとお茶を買ってきてくれ、
お茶会になる。わたしは前部長として、偉そうに一言言って、3年生の三役とパートリーダー全員で頭を下げる。
「なんかさあ」新指揮者のミナギくんが酔っぱらいみたいに言う。「このメンバー、すんげーよかったよな、おれらもこうなりたい」
「おおー」なんて嬉しいことを。感動して泣く者も居た。わたしは照れ笑い。あー、あとちょっとで引退だ…。
感慨に浸りながら夕餉を作り、誰も居ないのでひとりで食べていると、玄関で開錠音。ドアが開くと同時に電話が鳴る。鍵を閉め
ながら
「はい、麦田です」という声で、ナオだと判る。「…ちょっとお待ちを」で、此処のドアが開く。
「おかえり」
「ナガイくん」受話器を突き出して来る。なんとなくからかいのニュアンスを感じて睨むが、またしてもこちらを見ていない。
「ありがと」怪しくないことをアピールするために、その場で出る。「はいはい、こんばんは」しかしナオのほうは居なくなってしまう。
『すみません、また電話…帰りに話しかけようと思ったら、すぐさま反対方向で』
「そうだね、校門出てすぐ、右、左」
『お礼言おうと思ったのに』
「お礼?」
『指揮者にならないで済んだのって、先輩の言葉のお陰なんで』
「あー、あれは3人とも思ってたよ。たまたま言ったのがわたし、てだけで。ついでに言うと、来年は部長だって、3人とも思ってるよ」
『マジですか?! …まあ指揮者よりは可能性あるかな』
「指揮者そんなに厭なんだ」笑う。
『いや、だって、ねえ。みんなから見えないし』
「そこまでではないと思うけど」
『とりあえずはお疲れ様でした。ミナギ先輩がおっしゃったように、先輩方ほんといい三役でした、威厳と親しみ易さもいいバランスで。
先生も3人のこと誉めてましたよ』
「上の2学年を見て自然とそうなったんだよね。わたしが1年生のときの3年生は妙に厳しくて、2年生は緩すぎたのね。で、どっちも
なーって。あと、タカオ先生が赴任してらして前の先生のやり方とか残ってたのが、今ようやっとタカオ先生風に落ち着いたんじゃない
かな。どっちがいいとかは、わたしは前のを知らないから、無いけど。とりあえず、わたしたちの学年はタカオ先生に不満が無くて、合って
るんだと思う」
『なるほど。ミナギ先輩は、卒業生も知ってるから、余計なんでしょうね』
「まあ、一応引退だから、あとは宜しく」
『でも、まだいらっしゃいますよね?』
「行くけど、仕切らないから。舅として見てるから」
『こわっ、見守るくらいにしてくださいよー』
「まー、やりにくいことがあれば、遠慮無く相談してくれたまへ」
『はい、宜しくお願いします!』
電話を切り、夕餉の続きをかっこみ、食器を洗っている間、居る筈のナオの気配が無いので、様子を見に行く。ほんとに消えちゃっ
たんじゃないかと思うくらい、しんとしていたので、いつかの言葉を思い出す。――――逃げようか、このまま
部屋のドアをノックするが返事が無い。
「ナオ、居ないの?」開けてみるが、真っ暗で、ドア脇に鞄が置いてある。下へ行き、玄関を見ると、革靴がある。居間のドアを
開けたら、居た。ごはんをよそっている。
「いただくよ」
「どこに居たの? 今、部屋に呼びに行って…」
「厠」流す音、したっけ?
「そう、まあいいや」
「ごはんに餃子に春雨スープって、炭水化物、多くね? あ、違うか、春雨は米粉じゃなくて緑豆だから、蛋白質か」
「りょくず? てのが原料なの?」
「まあ、父さん以外は若いからいいか」
「今日はバイト休みなの?」
「うん。別に当番だからって休むわけではないから、いろいろだよ」ダイニングのほうへ食器を運び、食べ始める。
「そーなんだ」なんとなく居づらくなり、「ごゆっくり」とドアを開ける。…別に止められないし。ちらっと見ると、目が合い、食べていた
ナオはむせる。
「…大丈夫?」言い方がシニカルになってしまう。
「…そう言えば電話、短いじゃん。もっと長電話すりゃいいのに」
「べつに部活の話だけだし。期待するようなことは何も無いよ」
「ふーん。まあ、どーでもいいか」…なにその言い方。なんか腹立つ。また食べ始めたナオを置いて、上へ行く。
部屋に戻ると、机の上にナガイくんこ万華鏡があった。ナガイくんが万華鏡をくれたのは、たまたま後ろにいたから…サックスで食って
いくと言ったのは、アンサンブルでソロを吹いたから、今日の電話だって、ニイガキが拘束無いとか2年学年委員が空白とか言ったのなら、
ニイガキにした筈だ。早退したのがニイガキだったら、やっぱりニイガキに電話しただろう。
兄たちだって…連れて来られたのがわたしでなくても、その子を大事にしたんだ。マユがやさしくしてくれたのも…べつにわたしである
必要は無かったんだ。
そう思うと涙が出た。随分と久しぶりに、わたしは涙を流した。
3、ミナミちゃん(10月14日、17日)
コンクールは銀賞という結果に終わった。3年間、銅、銅、銀だからまあ、よしとしよう。わたしの中学時代の舞台は終わった。いつも
金のところは流石の演奏、納得がいった。そして今回は課題曲になぜかフルート、オーボエ、ファゴットのソロ三重奏があり、わたし、
ニイガキ、タチバナの前三役でできたのと、自由曲の最後の最後がtutti(全員)で、総譜を見ていたニイガキとミナギが全員で終わるん
だねと言って、先生もだから選んだんだなんて言うものだから、全員で心をこめて最後の和音を吹いた。そんなかんじだから、みんな
とても満足していた。で、打ち上げでファミレスへ。
2ステージ(と言うらしい、フロア全体を3つに区ったうち2つ)を借りきって、とりあえずごはんを食べ、あとはドリンクバーの飲み物を
持って好きに移動、会計のときだけ最初のテーブルへ、というやり方。
「ええっ、明青学院?!」わたしは後輩たちに遠慮無く志望校を訊かれ、莫迦正直に答えていた。驚かれ 「まあ、この間の模試の
合格可能性も酷いもんだったからね。落ちたら笑ってやって」と苦笑。
「ブラスも強いですしね。あとはどこ狙ってるんですか?」
「掘り下げるねえ。七瀬と秋葉女子。不安なら県立栄冠もってかんぢかな」
「みんないい学校だなあ。私立狙いかー、4人きょうだいなのに金持ちっすね」
「上ふたりは県立から国立で親孝行だしね」
「明青以外は、ブラスはそんなでもないですね。あ、栄冠なら野球部強いから、甲子園で吹くのもあり!」
「うん、あと弱いブラスを強くするとかね」
「わっ、かっけー! 先輩、妙に男前なときありますよね!」
「そうだ、だから部長は任せ、おれは副に徹したわけだ」いきなりタチバナが話に入って来て、ブースに座り込む。
「てか先輩、リカ先輩の手下でしたよ」
「う、ひどっ! しかも手下でしたって、親父ギャグかい!」笑いが起こる。遠くのほうにナガイくんが見えた。モリとミナギくんに弄られて
いて、そのテーブルでも笑いが起こっていた。彼とは同じテーブルにならないまま解散した。まだ8時だったので、三役は名残惜しくて
ドトールへ行った。
先に会計をして飲み物を持って席に着いたところで、入口を見てニイガキが
「あ、ナガイくんだ」と言う。「女連れだ」見ると、おねえちゃんと中に入ってきたところだ。
「いや、あれおねえちゃんだよ。前に駅ビルでバッタリ会ってるんだ」わたしが言ったら、ふたりはガッカリする。
「なあんだ」
ナガイくんも気づいてこちらへ来る。
「先輩方、帰らなかったんですね。おれたちも偶然遭遇したんで、1杯ひっかけようかと。こっち、姉です。今日出てたんですよ」
「部長さんは2回目ですね、啓示がお世話になっております、姉のミナミです」
「ミナミちゃん。方角の南って字?」ニイガキが食い付く。
「美しいに南です」
「そうなんだ、うちの妹、方角の南なんだ」
「妹居たんだ!」わたしたちは驚く。
「その制服、藤村女学園ですね、木管厚くて好きなんですよ」わたしが思い出して言うと、喜んでくれる。「じゃあまた、出るときは挨拶
しますんで」ナガイくんはレジに行ってしまう。また邪魔すんなってかんじー。
「ニイガキ、妹居るんだね、知らなかったよ」
「うん、まだ小2、超生意気なのよ。あれ、タチバナって?」
「おれ、一人っ子。いいなあ、きょうだい。ムギタ、ひとりにいちゃん分けて…いや、兄貴は要らねー」笑う。「弟ならまだ…まあ、あんな
出来すぎた弟はプレッシャーだけどな」支払いをしているナガイくんを指す。「おまえら、カレシとしてはどーだ?」
「なにがいな」ニイガキが適当にあしらってくれたので、わたしの動揺はバレてないだろう。
「あーゆーオトナなやつって、年上狙いだったりするぜー」
「2年ならともかく、1年は3年なんか怖いんじゃない?」
「そーだよね」相槌を打った途端、タチバナの矛先はこちらに向いた。
「ムギタも興味無い? あいつのほうは、相当おまえ尊敬してるみたいだけど」
「尊敬とはちょっと違うでしょう。怖いってのにも通じるけど。興味はまあ、あるよ。タチバナの進路くらいには」
「なんだそりゃ」
「今は残念ながら、恋愛より受験でしょう。タチバナは音高受けるんだって?」話を換えてしまう。
「ああ。おまえら受けないの?」
「高校はとりあえず普通科で、ブラス続ける」
「同じくー」
「音大で一緒だったりして」
「お、それいいな!」
「したら、さっきの三重奏、吹こうよ」そう言うと、タチバナはいきなり泣き出した。
「わ、泣くなよ!」
「しょーがねーなー、男は」ニイガキがハンカチを貸してやっている。う、ちょっと似合いかも。タチバナって、もしかしてニイガキが好き
なのか? と思える雰囲気。逆はまあ、無いだろな(笑)。ニイガキはタカオ先生命だし。
「先輩…あ」ナガイくんが来て、びっくりしている。
「あーナガイ、助けてくれ、こいつらに泣かされて」
「オイ!」雰囲気で大丈夫と察したのか、
「じゃあお先に」と笑っている。「今月はしょっちゅう来てくださるんですよね?」
「ああ、来月も再来月もしょっちゅう」タチバナがふざけているので、ニイガキが
「個人練習しナサイ」とたしなめる。笑いながら挨拶をして、ナガイきょうだいは出て行く。
そうして別れたミナミちゃんと、また遭遇したのは、次の日曜日だった。また駅ビルで、2回会ってなければ判らなかったかもしれない
が、お互い、あ! というかんじだった。ひとつ年下だが、おとなっぽくて同じ年か上に見える。女の子らしいし。しかしナオに貰った服を
着ているわたしが、女の子らしい彼女となんか意気投合して、お茶してしまう。楽器の話が殆ど、あとはやはりナガイくんの話、進路の
話。いい時間になりカフェを出ると、ミナミちゃんは雑貨屋さんに行くと言う。なんと、明日はナガイくんの誕生日だというのだ!
「ちょっと、ご一緒していい? わたしも買うものがあった」駅ビルの中の雑貨屋さんで、わたしはさっさと目星をつけ、ミナミちゃんが出て
来る前に外のベンチでカードにメッセージまで書く。我ながら迅速だ。ミナミちゃんが
「すみません、お待たせしちゃって」と出て来たので、買ったものを差し出す。
「荷物になっちゃうのにごめんね、これ、ケイジくんに渡してくれる?」
「えっ、ケイジにですか!?なんか催促しちゃったみたい…」
「いやいや。前に、手作りの万華鏡貰ったことがあって。丁度いい機会をありがとう」聞いていたミナミちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。
「あれ、リカさんにあげたんですね」
「知ってるんだ、おうちで作ってたの?」
「はい、もともと細かいことは好きな子なんですけど、それはもう一生懸命、あーでもない、こーでもないって。文化祭の一日目は机の
上にあったから、展示しないんだーと思ってたら、2日目には無くて。わたしにも触らせてくれなかったんですよー?」
「あ、いや、たまたまね、展示見に行ったの、それで、ユーフォの子が先に行っちゃって、たまたま後ろに居たのがわたしで…」ミナミ
ちゃんは黙ってスマイル。…言っちゃまずかったかな?「ま、まあ、とにかく宜しくね」わたしはその話を終わらせ、途中まで話しながら
一緒に帰り、別れた。そうしてその晩、タカとごはんを食べていると、またしても帰って来たナオを待ち構えていたかのように電話が鳴り、
居間に入って来たナオに受話器を差し出される。何も言わないから、ナガイくんだと判る。なんとなくタカの前で喋る気になれず、玄関に
行く。上がりかまちに座り、
「もしもーし」と出る。
『先輩、ありがとうございます!』元気なナガイくんの声が飛び込んで来る。『地球のビー玉、嬉しいです。電気に翳すと、深海から
海面のほうを見てるみたいなかんじだし』
「気に入ってくれたならよかった。何の役にも立たないけどね」
『いやそれは、万華鏡だって。てか、役に立ちます、心理的に。あとあと、その万華鏡ですけど、あれはリカ先輩だからあげたんですよ』
「あ…」ミナミちゃんが言ったな。
『おれ、先輩が大好きなんです』いきなり、さらりと言った。
「ええ!?」
『恋愛なのか、尊敬なのか、姉貴と同じなのか、自分でもよくわからないんですがね、なんかいいなって、すげえなって見ちゃうんです』
「それって…」わたしがナガイくんに対して思っているのと、ほぼ同じではないか。
『でもべつに、付き合いたいとかのどうしたいってのは皆無で。あ、電話実は好きじゃないのに話したいからかけちゃうのはあるけど。
部活ではなんか、こうは話せないから…。おれの欲って言えばそれくらいで、だから今まで通りが有難いんですけど…なら言うなよって
かんじですかね。すみません、びっくりしたでしょう、1年坊主にこんな…』
「いや、1年だからどうってのはないけど…ありがとう。わたしね、最近、わたしでなくてもいいんじゃないかと思うことが多かったの。存在
価値希薄というか…」
『なーに言ってるんですか! うちの部は先輩でないと駄目なことだらけですよ! あの音にしたって、先輩でないと出せません』
「ありがとう、救われるよ」
『また部活、来てくださいね』
「うん、行く。またね」電話を切ったとき、爽快感があった。恋されていない残念さや安堵は無くて、まさに爽快だったのだ。全く同じふうに
お互い思っていたのも不思議で、感動した。少し余韻に浸っていたら、タカが顔を出して大丈夫か?と聞いた。大丈夫どころか! 「ん。
ごはんの続きだー!」
「もしかして、例の後輩か?」
「うん。でももうわたし、引退だからねえ。もうかかって来ないんじゃないかな」引退でなくても、なんとなくもうかかって来ない気がした。
なぜなら、お互いに頗る満足してしまったからだ。
ちょっとガッカリしてるようなタカ。そのむこうには、訝しげな顔をしつつごはんをよそるナオが見えた。
4、マナカさん(10月20日)
きょうは部活に顔を出すのをやめ、塾の申し込みをして来た。11月から受験までレギュラーで行くことにしたのだ。とは言えきょうは
当番。誰も帰っていなかったが、作り始め、しかし電話が鳴るので玄関へ。
『マナカと申しますが、ナオユキさんはいらっしゃいますか? まだ帰宅されてないですかねえ』大人の女性らしき声。
「そうですね、まだのようです。帰ったら電話させましょうか」
『では気が向いたらうちに電話くださるよう、言ってください』気が向いたら? ナガイくんの、じゃあいいですに匹敵する面白さだな。
間も無くナオが帰宅する。伝えると、笑わずに
「気は向かないけど」と呟いて、玄関の子機を持って部屋に行った。…高校生になって無理矢理携帯持たされたはずなのに、使って
ないのか? それに、電話取り次いだの初めてかも。友達、居るのかな…。中学のとき学校で見かけると、いつもひとりだった…。
ごはんが出来上がる頃、玄関を見たら子機が帰って来ていないので、呼びに行かずにひとりで食べた。食べ終わり食器を洗っている
と、ようやっと現れた。
「食べる? バイト行くの?」
「食べる。休み」
「ついでだからよそってあげよう。座ってて」
「さんきゅう」ダイニングに、むこう向きに座るし…。よそってトレイごと持って行くと、「お、うまそう」と、ちょっと元気な声になるも、だるそうに
食べ始める。きょうは枝豆と海老の塩やきそばと玉葱とエリンギのスープ。食べ易いものなのに、ガツガツはいかない。「電話のこと、突っ
込まないの?」
「長かったね」わたしはキッチンに戻り、シンクを磨く。
「…とっくに終わってたよ」
「携帯、使ってないの?」
「…使ってるよ。教えてないだけ。てゆーかさあ…」振り返り、また前を向く。「…どーでもいいか」
「携帯の番号教えないような相手なら、気にならない」ならなくもないが、まあそうならカノジョではない。とゆーか友達居ないのか心配に
なったところだ。そっちが気になる。実は性格悪かったり? わたしは悪いけど、べらぼう居るよ。
「お疲れですね?」
「ん。まあ、働くってのは、疲れることです」きょうはバイト休みだよね?…とゆーのは置いといて。
「わたしも働いたら、そーかねー」
「まあ、女子は結婚すりゃーそれはね」
「あて無いからなあ」
「貰い手無かったら、おれが居るし。妹の面倒くらいみるし」…わたしにはこんなかんじなんで、性格悪いとは思えない。
「でもナオも家庭持ったら、そうはいかんでしょ」
「持たない」即答。いつかの会話を思い出してしまう。…おれはいいの。「ま、おまえはみんなに大事にされるから、旦那もすぐ見つかる
よ」
「外では姉御肌だけどね」
「そっか、頼れる部長ね」
「…大丈夫?」なんか、苦しそうに胸を押さえている。疲れているのか、ほかの何かが苦しいのか、よく判らない。
「あ? 大丈夫って? 疲れなんて、寝りゃ治るよ」お面みたいな顔で笑って振り返る。「ごちそうさま」立ち上がり、食器をこちらに
持って来る。
「あ、ついでに洗っとく」
「じゃー任せた」居間を出ていく後ろ姿は、重々しいオーラに包まれていた。
翌日帰宅して、まず玄関で電話が目に入る。うちは発着信が残るのだが、昨日の日付と時間から、マナカさんと思われる番号が
残っている。むこうも携帯の番号ではないなあ、と思ったら、無意識にリダイアルボタンを押していた。
『はい、マナカ会計事務所です』
「えっ!?」リダイアルしたこと自体にびっくりした後、おうちでなく会社ということに、更に驚く。「あ、あの…」受話器を耳に当て、間違えたと
言おうとしてしどろもどろになる。
『うちには着信が出るんですが、ムギタさんですね? 声から察するに、妹さんかしら』昨日の女性らしき声だ。
「は、はい」堪忍して認める。
『兄に電話しないで!って?』
「ま、まさかそんな…」
『じゃー、兄とはどういうご関係ですか?って?』声は笑っているし、威圧的でもないのだけど、怯んでしまう。『ねえ、時間ある? お茶
でもする?』
「あ、あの…」
『何か聞きたくて電話してきたんでしょ? なんでもって約束はできないけど、できる限り答えるわよ』
結局約束してしまい、駅前のクラシカルな喫茶店に行く。入るなり、茶系のチェックのパンツスーツの女性が手を振る。
「あはは、想像通り! ムギタ何ちゃん?」
「リカです」
「わ、可愛い名前。どんな字なの?」
「梨に十字架の架です。長男がつけてくれたんですが、たぶん意味は無くて字面じゃないかと」
「へーえ、すてき」で、名刺を出して来る。真中くるみ、会計事務所受付の肩書き。
「くるみさんて…マナカさんも可愛い名前」
「名前だけね」実際は可愛いと言うより、きりっとした美人だ。
「お仕事中…ですよね、すみません」
「いいのよ。誘ったのこっちだし。何飲む?」マナカさんはもう注文して、飲んでいる。
「ブレンドで」
「おっとなー」茶化される。慣れた調子で注文して、「明青の先生やってたの、1学期」と切り出す。
「えっ、そうなんですか」
「お兄さんのクラスの副担任だったのね。で、実家の事務所が人手不足で辞めて、受付とゆーか、雑用になったの」
「はあ」ブレンドが来たのでいただく。
「うちの事務所、駅の反対側なのね、だからこの前バッタリ会ってね。なんか凹んでいたから、もう教師と生徒じゃないし此処に
誘って、相談に乗ったわけ」
「やっぱり何か悩んでました? なんかそうっぽいんですよ、最近」急にわたしが喋り出したので、笑われる。
「かわいー、心配してる」
「…笑わなくても」
「うん、悩んでたよ。お金って、どうしたらガッポリ貯められますかねーって」
「は?」
「…でもわたしは会計士ではないから」にっこり笑う。「株とか競馬とか、教えてみた」
「ええ!?」仮にも元教師なのに、この人…。
「でも馬券は学生は買えないのよねー」ゲラゲラ笑う。
「呆れましたね。なんつー悩み…」すんごいバイトしてたのは、それか。
「あと、聞きたいこと無い?」
「んーと…友達は居ますか? なんか、見かけるのはいつもひとりなんで」
「それは大丈夫みたい、学校ではつるんでたよ。まあ、ひとりも好きみたいね、だから学校終わってまで会わないんじゃない。バイトも
お当番もあるし」
「よくご存知で」
「家族構成と幼馴染みと、そのしきたりみたいなのは聞いたよ」
「じゃ、性格悪いわけではないんですね?」ほっとする。
「結構な気遣イストよ彼は。あーでも、親友は居ないかもね。あとこれは聞いたんだけど、カノジョは居ない。お申し込みはあるみたい
だけど、断ったみたいよ。必要としてないみたいに見えるけど。あなたには、好きな人とかの話はしない?」
「しないんですよ。おれはひとりでいいとか、結婚しないみたいなことは言ってます。わたしは勝手に、その幼馴染みを好きで、だから
そう言うんじゃないかと思ってるんですが」なんか馬鹿正直に言ってしまう。「幼馴染み…次男と付き合ってるのよね。なるほど」
「ほんとによくご存知で…」
「なるほど」もう一回呟いて、「まあ、これくらいしか話すことないかな。何しろ1学期とこの前の再会でしか話してないからなあ…」と、
なんとなくまとめられる。
「ありがとうございました。悩みがお金のことだけだったら、安心しました」
「再三、金持ちになりたいって言ってたよ。なんでか聞いてごらんよ」マナカさんはイシシと笑う。
「はあ」伝票を取ろうとすると、阻止される。「え、でもこちらの用事…」
「いーの、いーの、領収書切っとくから」…オトナって…。
帰ると、ナオがごはんを作っていた。「あれ、昨日わたしだったよね、タカと交代したの?」
「うん、タカ、文化祭で、今日明日はおれ。ちょっと待ってろな」マナカさんと会ったことって、言っていいのかな。きょう、機嫌は悪そう
じゃないけど。
「ナオ、あのさ…」
「んー?」何か探してるらしい。
「何探してるの?」
「カレー粉無かったっけ?」
「あるよ、そこでなくて、上の塩とかと一緒」
「へ? さっき見た…あ、あった。で? あのさって、それ?」
「うー、うん…」
「なんだよ」初めてこちらを見る。
「…あのね、怒らないでね」
「は? 聞いてみないと判らない」
「…じゃあいいや…」
「そこまで言ったら、言え!」笑っている。こちらを見ずに。
「…きょう、マナカさんに会った」
「………えっ」すごい驚き様。
「無意識にリダイアルしてて…なんか会うことになって」
「……」
「お、怒ってる?」
「いや、怒ってはいないけど、なんで…」
「無意識と流れで」
「あの人、何言った?」
「株と競馬教えたって」
「後でしばいたる」やはりこっちを見ないで作業を進め、炒めものが始まり、音で最後の方は聞こえない。「性に合わないからやらない
けどね!」下を向いたまま、でっかい声で言ってきた。
「…なんでお金持ちになりたいの?」ちょっと大きめの声で言うが、ナオはこっちを見て、怪訝な顔をしている。聞こえなかったのか、
答えは無かった。火を止めたので、しんとする。
「あの人が聞けって?」
「え、うん」
「ほんとにしばいたる」そしてこっちを見ないままで、「別に、世の中金だって解っただけ」と言う。そしてまた火をつけて炒めものの音が
復活したので、わたしは荷物を置きに上へ行く。でもなんとなく、違うような気がした。悩んでいることをちゃんと聞こうと決心して、また
下に戻る。階段を降りているときから、話し声が聞こえた。タカかトモが思いがけず早く帰宅したのかと思い、居間のドアを開ける。
「余計なこと言わないでくださいよ、一応、妹だと思おうと努力してるんですから」ナオが子機を耳に当て、電話していた。ドアを開けた
わたしに気づいて、顔に空白ができる。
「一応って…」わたしは愕然として、うちを飛び出した。
『ムギタくん?』受話器から、マナカさんの声がしていた。
うちの門を出たところで、前を歩いていた人にぶつかる。
「わっ」声で判った。
「マユ!」
「リカ」涙がだーだー流れる。「どうしたの。まあ、うちへおいでよ」わたしは、マユに連れられ、瀬下家に入って行った。
5、瀬下家と麦田家
何か飲むか聞かれ、珈琲と答えると、カフェインは興奮増長するからやめよう、と林檎ジュースが出て来た。白濁タイプの100%、
おいしい…。
落ち着いてくる。瀬下家には、当番は無い。毎日、マユがごはんの支度も掃除も洗濯もする。忙しいのに、マユは厭な顔もせずに
わたしの相手をしてくれた。ますます涙が出る。
昨日今日の話を洗いざらいする。
「ほんとはやっぱり、妹だと思ってくれてないんだ。血が繋がってないし、認めてないんだ」
「…当事者は判りにくいだろうけど、、、認めてないというのとはちょっと違うよ」
「そういうことだよ」
「まあ、妹とは思えないだろうね、ナオは」また涙がだーっと出る。「あと、もうひとつ、わたしのこと、ナオは昔はもしかしたら好きでいて
くれてたかもしれないけど、今は違うと思うよ」
「絶対そうだよ…」
「電話して訊いてみようか?」
「え、い、いいよ、電話なんて!」
「ちゃんと訊きなよ、はぐらかさないで金持ちになりたい理由を教えてって言いなよ。ほんとはリカが一番聞きたい言葉を言ってくれると
思うよ」携帯を弄り始める。
「え、ちょ、ちょっと…」
「あ、ナオ、今どこ? え、中町公園? なんで? ……あー、リカならうちに居るよ」
『あーーーっ』ナオのでっかい声が電話から聞こえてくる。『そ、そっか…盲点…』
「ちょっと、スピーカーにするからね」ボタンを押して、また話し出す。「あのさ、わたしのこと、ナオは恋愛の意味では好きじゃないよね?」
『え、何…』
「どう思ってる?」
『ええ? …』なんかもごもご言っている。
「ねえ、ちゃんとはぐらかさないで言ってよ」
『そりゃ、ねえちゃんみたいなかんじだよ。いろいろ教えてもらったし叱ってもくれたし、トモが泣かせたら承知しない、とかも思う。てか、
うまく説明できない、それよりリカ…』
「じゃあもうひとつ」
『おいマユ、おれ今…』そこで電話をこちらへよこす。言いなよって顔をする。
「なんでみんなそんなに言う…お、お金持ちになりたいの、さっきのじゃなく、ちゃんとした理由あるの? しつこくて悪いけど…」
『えっ、リカか。あえっと…』ちょっと詰まってから、『何不自由無い生活させたいからだよ、リカに』と言う。
「…なんでわたし?」
『友達と遊ばないで当番やってる姿見て、車がありゃあ買い物簡単だし、料理とかももっと簡単にできたり、洗濯なんかも…てゆーか、
お手伝いロボットとか、フルートだって純金のとか、なんだったらコンサートホールだって…』
「…ばか」
『ああっ!?』
「自分の服買いなよ、お下がりばっか着せられてたんだから」
『それはもういいんだよ、もう充分…』少し沈黙すると、『それからさっきの…妹と思おうと努力してるんですからってあれだけど』
「…妹と思ってくれてないの?」
『思ってない』また涙がだーっと出る。『だけどそれは、違うんだよ。妹じゃなくて嬉しかったんだよ、おれはずっと、カノジョにするならリカじゃ
ないといやだったんだ。血が繋がってないってわかる前から』
「……」なんと。二の句が継げない。
『でもおまえは完璧、おれのこと兄だと思ってるじゃん。怪しい仲の後輩も居るし、何度も諦めようと思った。兄としてできるだけ力になる
手段で、金持ちになろうとしてんのに、なんでそんな、先生に会いに行って、心配とかしてくれちゃうんだよ…』ナオじゃないみたいに、
すんごい喋ってる。反対にわたしは。涙も止まるくらいびっくりして、喋れなかった。
マユがわたしから電話を取りながら、
「ナオを救えるのは、リカしか居ないんじゃない?」とやさしい目をして言う。「ぶっちゃけわたしには、リカがあの後輩くんにホイホイ
行かないのも、無意識にリダイアルしちゃうのも、ナオが心配で堪らないのも、ふたりが両想いだからに見えるんですがね。まだ気づか
ないのってかんじ」
「えっそうなの?!」わたしは予測もしていなかった。
「リカは覚えてる? わたしの妹にもなれるって話」
「…あっ」
「そんないい手があるんだよ」
『何の話?』
「ねえナオ、いい加減うちに迎えに来なよ」
『ってか、マユ、おまえが…』
「公園はふたりの思い出の場所かもしれないけど、いつまでもそんなとこ居ないで」
『分かってるよ、もー!』電話がいきなり切れ、ツーツーと音がした。
「ナオはマユを好きなんだ、なんて遠慮されたら堪んない。うまくやってよね。なんならトモとタカに、今晩は帰って来るなって言って
あげるよ」
「何言ってるの、いいよ!」
「くく、真っ赤! まあ、いつでもうちの親に言ってあげるよ」
「てか、わたし何も言ってないよ?」
「解ってるから、言わないでいい」
「……」でも、たぶんそうなんだ。自分では全然気づかなかった。タカもトモも、同じ立場ではあるけれど、同じく大事であるけれど、また、
ナガイくんという存在も素晴らしいのだけれど、でも何か違うのだ。ちっともこちらを見てくれないから、こっちはじろじろ見て、その都度
いろんな気持ちになってきたのだ。
ほどなく呼鈴が鳴り玄関に行くと、なんとも形容し難い表情をしたナオが、やはりこちらを見ずに立っていた。
「ごめんね…探してくれてたんだよね?」
「うん、まあ…でもおれが悪いんだし…」
「トモと、早くこうならないか話していたのよね。思ったより早くてよかった。マナカさんに感謝だね…てか、わたしに喋る余裕与えてない
で、早く一緒に来いって言いなよ」
「ばかやろー、おまえが先に言うな。リカ、行こう」わたしは頷き、靴を履くと、ナオの手を取った。ナオが真っ赤になりこちらを見てから、
また目を逸らす。体つきのわりに大きな手が、一瞬離れて、わたしの手をすっぽりと包んでくれた。
「マユ、ありがとう」そういうわたしも、顔が熱い…。
「その手を離しちゃだめだよ」ドアが閉まる直前、マユが言う。
ヨーロピアンカントリー風の瀬下家を後にして、お隣のとんがり屋根の麦田家へ。中へ入ると、居間に電気がついている。靴を見て、
タカもトモも居ることが判る。ナオは、何も言わずに居間へ行く。手を繋いだまま、わたしも中へ入った。
「あーおかえり」トモはドアのすぐ傍に居て、ナオとぶつかりそうになる。
「ナオ、飯できてないのかよ、おれ腹減って死にそー!」タカはキッチンからでっかい声。
「あ、リカも居たん…」トモがナオの後ろのわたしに気づき、そしてふたりの繋いだ手に視線が行く。「あれ、やっとそうなったの?」
「何が?」トモの後ろからタカが顔を出し、ぎょっとする。「へっ、ど、どういうことだ!?」
「リカは自分でも全然気づいてなかったみたいだけど、明らかにふたり、両想いだったよね」
「おれも全然気づいてなかったー!!!」タカはギャグマンガみたいに驚愕した。
「まあ、ナオはタカが怒り出さないうちに、飯の続き作れや。その間、おれがマユと話してたことを説明しよう」タカとわたしは、トモと共に
ダイニングにかけた。ナオは素直にキッチンに入り、
「トモは…飯は?」と聞く。
「ゼミの連中と食って来た」そう答えたトモは、3人分のごはんを作り始めるナオにも聞こえるように、マユとトモがどんなにわたしたち
ふたりに期待していたかを、滔々と話した。わたしも昨日今日の話をする。タカは
「ムギタリカがセシタリカでムギタリカ…名付け親としては複雑な気分だな」と呟く。
「なんでセシタリカ?」ナオがこんがらがっているので、兄たちは笑う。
「明青行ってる秀才が、解らないってー」笑ってないで、教えてあげようよ…。
やがて出て来たハンバーグ膳のようなごはんに、トモは驚く。
「へー、うまくなるもんだな。リカ、こいつはいいだんなになるよ」
「明日はタカが文化祭打ち上げで夕飯キャンセルだから、手抜きになるかもね」
「そうなん? じゃー明日は帰るの辞めようかな」
「や、やめてよ。マユとおんなじこと言うし…」
「流石カレシカノジョだな」
「親父に言うでしょ? 先のこと考えたら、言ったほうがいいし」
「うん、隠すのは厭だから言うけど…いつ、どう言おう。
「今日言おうぜ、善は急げだ」タカとトモは盛り上がっている。
「えー」ナオとわたしは、心臓バクバクになる。
久しぶりに、食卓に4人が揃う。今までと同じようで、違う4人。
タカが父にメールし、今日何時に帰るか聞く。23時34分着の電車に乗ったところだそう。
「なんでって来た。そうだよな、普段聞かないのに。まあいいや、無視しちゃえ」
近い時間まで4人で珈琲を飲んでいて、間もなくという時間になると、トモが
「門のとこで出迎えて、びっくりさせよーぜ」と立ち上がる。
「いーな、やろう、やろう!」タカもノる。
「何をこどもみたいな」ナオはひとり冷めているが、
「あの人にとったらおれたちはいつまでもこどもなんだよ」と言われている。
門の両側に、分かれて隠れる。気を遣っているのだろう、タカに振り分けられナオと共にスタンバイ。珍しくじゃれ合っている長男次男を
見て、ナオは
「とうさんにとっては、じゃなく、唯のこどもだよ」と呆れている。わたしはその言葉に笑って、そして家を降り仰いだ。とんがり屋根のすぐ脇に、
三日月がおあつらえむきに出ていた。…この家が大好きだ。瀬下家も好きだが、絶対に戻って来るんだ、と思った。
「見えた、中村さんの角!」タカが覗いていた顔を引っ込めた。「せーの、で、おかえり!って言うからな?」
「よーし!」トモがやる気満々。
「トモ、声でかい…」ナオもやる気無さそうに見えて、そういう指摘をする辺り…。
足音が近づいて来る。
「じゃあ、行くぞ、…せーのっ!」
とんがり屋根の麦田家には、5人家族が住んでいる。高校生になったら、わたしはお隣に引っ越しをするかもしれない、紙の上だけの
話かもしれないが、とりあえずムギタではなくなり、またすぐに戻って来る。更にもうひとり、お隣から来るかもしれない。タカにお相手が
できたら…ちょっとぎゅうぎゅうすぎるかな…。でもいつか、そんな日が来たらうれしい。
そう思いながら、わたしはとんがり屋根の下の部屋で、このおはなしの筆を置き、受験勉強に切り換える。
了