似非御伽草子〜雨月物語〜 

 

 


                                                小林 幸生  2011

 

 

 

 

一攫千金を夢見て都へ行った夫・勝四郎は、妻・宮木に必ず秋には帰ると約束していたが、山賊に

襲われたり熱病にかかったりして時間がかかってしまった。都は戦乱と疫病で絶望し、妻ももう亡くなったろうと

思いつつも故郷に帰る…

 

   店長がタナミさんと呼ぶその人は、月に一度、決まった日ではないがフラリと現れ、一対の花を買っていく。

仏花ではないが、同じものをいつもふたつなんで、店長と、先立たれた恋人の墓参りと勝手に噂していたが、

夏の終わり頃、

「店長さん、蓬莱堂の店長さんの弟さんなんですってね」と、あんまり喋らないその人が話しかけてきた。

「よくご存知で」

「あちらでよく、会社のメンバーで買ってましてね。しかも今、うちの子の勉強、店長さんと章太郎くんに見て

もらってるんで、いろいろ話を聞いて」

「へーっ」こどもが居ると聞いて、店長とおれは顔を見合わせる。

「小4なんですが、ほんと馬鹿で」笑っている。

「失礼ですが、タナミさんておいくつ…」店長は無遠慮に聞く。

「31です」苦笑するが、隠さずに言う。

「ひょえー、見えない!  完全に騙されちゃうよなあ、一央くん」

「ほんと、大学出たばかりくらいかと思っていました」

「自覚が無いもんで…」数日後更に仰天したことには、店長曰く、店長の甥っ子の章太郎くんとやらと、

婚約したと言う。おれは会ったことないが、確か今年の3月に大学出た…22歳くらいだよね?  そいつも

見た目に騙されたに違いない。

  その婚約について知るまでの数日の間は、おれの中で妄想は歪曲して、タナミさんはきっと、先立たれた

旦那さんの墓参りに行っているんだ、となっていた。それは多分に、こどもの頃憧れていたお隣の姉妹の妹の

ほうの思い出に、重なっていたと思う。

 

  章太郎とやらには会わないまま秋が来たが、代わりにその話の頃から、店にその章太郎の友達が出入りして

いて、店長と将棋を打ったり商店街の話をしたり、その章太郎の話をしたりしていた。実はおれの高校の卒業

生で、去年教育実習でおれたちを教えた人なのだが、むこうは全く覚えていない。おれはよくも悪くもない、

目立たない生徒だったからだ。いい高校だからその話をするのは自慢気だし、まあいっか、と話さずにいた。

しかもおれは彼が実習期間を終えたあとに中退してるからみっともないし。店長は履歴書を受け取ったものの

ろくに見ていなかったし学歴には興味無さそうだったし、たぶんおれがいい高校に入って1年の半ばで辞めた

ことなんか覚えていない。

  亮輔くん、と店長が呼ぶのでおれも呼んでしまっているが、6つは年上だ。何やら自治会で店長に会って、

友達の叔父さんということもあるのか気が合っているらしい。人なつこいのか、ここでも自治会でも、顔を出しては

みんなを笑顔にするタイプらしい。教育実習のときも教え方うまいと評判よかった。男子高だから残念、共学

ならモテモテだったろう。まさにイマドキの草食系眼鏡男子。王子様の格好とか、させてみたい。

  その亮輔くんが、駅前のファミレスで飯を食っていた。相手は、同じ年くらいの男子で、さてはこれが章太郎

か!と思った。おれはバンドの仲間と一緒で、遠目から見ていたが、なんとなく章太郎かどうか知りたくて、

トイレのついでにそちらへ行ってしまう。

「亮輔くん、ちわっす」

「お、一央くんじゃん、どうした、デート?」

「まさか。バンド仲間と来てるんすよ」

「そうなんだ。あ、こいつ、店長の甥っ子の章太郎」やっぱりだ!

「はじめまして。お噂はかねがね」

「えー噂って? おまえか?」亮輔くんはそれに答えず

「一央くん。げんちゃんの店の」とおれを紹介する。

「あー!  叔父がお世話になっております」笑う。

「あと、タナミさんの婚約者なんですよね」

「…知ってんのね」真っ赤になっちゃう。かわいーの。髪は色抜いてんだろうけど、皮膚や瞳は色素の薄い、善良

そうな若者。亮輔くんよりは少し大柄。タナミさんみたいにちいさい人なら、すっぽり包み込んでしまいそう。タナミ

さんは、こういうのが好きなんだ。そんなら、おれでもよかったじゃん。ま、31と17歳は、ナイわな。おれだって、

憧れだった人と重ねてるだけだし。

「水曜日って、お店休みだっけ」と亮輔くんに言われるが、

「はい、定休日です。蓬莱堂さんもですか」と章太郎に問う。

「うん、なんか水曜定休日のところ、うちの商店街は多いみたい」と穏やかに答えられる。今度ゆっくり、なんて

言いながら席に戻る。仲間に長便所と言われて、知り合いが居たんだよ、と笑う。打合せをして、ライブハウスへ

移動。きょうは、久しぶりのライブだ。リハーサルをして、楽屋に引っ込む。

「一央、楽器換えた?」ボーカルの晴祈(はるき)に言われる。

「いや、同じだけど。へん?」

「逆、逆。よく響いて歌い易い」

「此処のアンプのお陰かな」実は裏指導があったのだ。ベース人口が極端に少ないこの業界、エキストラを

頼まれることは多い。それで夏の間縁があって4回もライブに付き合ったちょっと年齢層が上のバンドのボーカル

さんに、バンド論とボーカルが必要とするベースラインについてをとくとくと聞かされたので、たぶん気の利いた

演奏をしている筈。最近はお陰でますます演奏がたのしくなっている。

 本番もたのしくやり、軽く打ち上げ、みんな同じ駅だからつるんで帰る。

  シャッターの閉まった店ばかりの商店街の途中で、オンナを抜かしたとは思ったが、誰かまでは見てなかった

ので、知らずに抜かして声をかけられる。

「一央。ライブだったのか?」

「…ああ、くるみ」

「あっ、望月じゃん」中学が一緒だったから、みんな知っている。幼馴染みのおれほど、みんなとくるみは近くない

し、名前では呼ばない。

「こんな時間に帰るのかよ」

「その台詞、そのまんま返すよ」前に、自分は煙草吸うくせにオンナにやめろと言う男がきらいと言っていたが、

その感覚なのだろう。

「一央、送ってやれよ」からかわれて

「こんな女、だれも襲わねーし」と拒む。

「頼りにならないやつに送ってもらっても」くるみはくるみで、けってかんじだし。

「せいぜい気をつけな」言い捨てて、先に行く。

「…小せえ男だな」…うるせえ。いくらバイトだめなとき代わってくれる貴重な存在と言っても、仲間の前で大事に

なんかできない。放っておいたほうが身のためだ。

  商店街を抜けると急に暗くなり、少し心配になったが、仲間を取ってくるみは置いて帰った。

 

  まさか本当に、くるみが不運に見回れるとは思ってもみなかった。まあ、まだましなほうで、後ろから来た

バイクに足をかけられ転倒するという事故だった。強姦とかじゃなくてよかったはよかったが。入院したくるみを、

仕方ないから見舞う。

「悪かった」

「なんで謝る」

「おれが送ってれば…」

「ばーか、ふたりで歩いてたって、足はかけるさ。強姦とかだったら、思い止まったかもしんないけど」

「そうかな」

「まあ、あんな時間まで遊んでたから悪いんよ」

「………」

「バンド、たのしそうだね」

「うん、たのしい。昨日きっかけを1回ミスったけど」

「まあ、全部がうまくいくわけないさ」

「おめー、旺揚だな」

「おーよーってナニ?」…こいつは偏差値50無いんだった…。

「ま、元気そうでよかった。じゃーまた。お大事に」仕切りから外に出る。

「一央」

「ん?」

「…今度、ライブ見に行きたい」

「へえ。いいよ、呼んだる」目当ては、晴祈か? 中学時代からよくもてた。しかし誰かを見てときめいてる

くるみなんて、想像できない。

「サンキュー。じゃあね」

「おう」

  病院を出て、携帯の電源を入れた途端、電話が鳴る。ねえちゃんだった。

『一央、帰り何時?』

「今一回帰るけどまた出て、7時半までバイト。なんで?」

『母さんから連絡あった、今晩帰るって』

「ふうん。来てもいいけど、金はやらないよ」

『まあ、バイト終わり次第、まっすぐ帰ってよ。わたしも仕事終わったら帰るから』逃げんなよ、と聞こえる。

「あいよ」おれはうちに帰って荷物を換えて、部屋を出かけて思い直し、ベースをクローゼットの裏に、パソコンと

ポータブルMDをベッドの下の箱の奥に隠して、通帳や金を全部持ってバイトに行く。

 

 「おつかれさんー」店長に見送られて店を出る。商店街を抜け、昨日くるみを置き去りにした場所も抜け、

うちが近づいて来る。一歩一歩、足取りが重くなる。マンションを下から見上げる。おれのうちに灯りがついて

いる。溜息を大きくついてから、エントランスに入る。玄関に鍵はかかっていない。ドアを開け、

「ただいま」と言ったら、中からおかえりーと上機嫌な声が聞こえる。

「一央、元気だった?」白いノースリーブのワンピースに、頭をひっつめてムーミンのミイみたいな頭にしたノー

メイクの母親が、ダイニングでラーメンを食っている。

「まあまあだね」おれはダイニングに入りもせずに「そのうちねえちゃんが帰って来るから」と部屋に引っ込む。ベース

とかが見つかってないか確認する。出掛けたときと変わり無かった。ほっとして、ベッドに大の字に寝転ぶ。うつら

うつらしていたが、カタンという音でうっすら目を開けると、母親がおれのリュックを開けようとしていた。

「おい」

「あ、あらー。起きてたの?」慌てている。

「あっちでおとなしくしてろ、勝手に入るな」おれは無表情に追い出した。すごすごと母親が部屋を出て行った

後に腹が鳴った。そうだ、夕飯食ってない。食ってから帰ればよかった。

  玄関のドアが開いて、ねえちゃんが帰宅した。

「ただいま」

「おかえり、奈央ちゃん」媚びたような母親の声がしたが、姉はまっすぐこちらへ来た。

「一央、来な」すごい気迫だ。黙ってダイニングへ行く。3人してテーブルに向かう。姉は茶も出さないし、母親が

食べたラーメンのゴミを忌々しげにゴミ箱に捨てるし。「金をくれって来たの?」

「うん。あと、様子見に。元気そうでよかった」

「よくねーよ!」

「ねえちゃん」姉を止めようとするが、もう遅い。

「金蔓が生きててよかった、それだけだろ、もう帰って来んな、あんたなんか母親じゃない!  あたしたちはね、

自分の力で生きてんだよ、なんで大人のあんたができないのよ!」一気に言ってテーブルを叩き、母親に掴み

かかろうとする。おれは辛うじてそれを抑える。

「やめろて、ねえちゃん!」ねえちゃんを座らせて、母に向き直る。「おれたちは、あなたに施しをする余裕は

無いから、もう来ないでください。なぜなら、あなたが母親の義務を放棄したからです。ほんとうなら、あなたが

未成年のおれたちを養うべきです。でもあなたにそれは望まない。そして、会いたくもない。ひとりでちゃんと生きて

ください。もう、来ないでください。勝手に出て行ったのだから、この家を捨てたと見なします。だから、うちの鍵は

返して」おれは手を出す。母親は顔を歪め、うわーんと泣き出した。慰めず、ひたすら待った。同情もしてもらえ

ないと解ると、母親は

「薄情なやつらだよ」と吐き捨て、鍵を投げ捨てて出て行った。

 

「ありがとう、一央」ねえちゃんはいつものトーンに声を落として、へなへなと背もたれに寄りかかった。

「鍵は確保したけど、合鍵持ってるかもだし、空き巣に来るかもしれないな。引っ越しとか、考えたほうが

いいかも」

「そんな大金は無い。家に金目のものを置いとかないようにしないと。あんたのほうが心配よ。パソコンとか

ギターとか」

「ベース」言い直すが、聞いちゃいない。

「売られちゃうから隠しときな」

「きょう既に隠してたよ」

「さっすが…」言いながら、ねえちゃんは涙を落とした。「どうしてこうなんだろ。もとはと言えばとうさんがいけない

のよ。かあさんはあいつのせいでおかしくなった…」

「まあ、しょーがないよ…」ねえちゃんの頭を撫でてから、キッチンに入った。「腹減った。なんか食お。ねえ

ちゃんは?」

「食う」

「オムライスでも作るか。待ってな、今スペシャルなの作ってやるから」

「ありがと」ねえちゃんは部屋に行って、「荒らされた形跡は無い。でも、これからわかんないなあ。まあわたしは

盗られるようなものは何も…」

「ぱんつとか、注意しな」

「なんで」

「19の女の子がはいたぱんつですって、高く売られちゃうかも」

「サイテー」

「あいつなら、やりかねない」

  おれたちは食欲を満たして、テレビを見て、順番に風呂に入って寝た。こんなまともな生活は、ねえちゃんの

稼ぎがあってこそ。おれも生活費入れてるが、好きなことをさせてもらい、ねえちゃんはドレッシーな服も買わずに

あくせく働く。きょうは思わず、おやすみと共にありがとうと言う。

「なに、急に」

「おれ、ねえちゃんが居なかったら生きてらんなかったなと思って」

「それは、姉として当然の義務だから。…まあわたしも、一央じゃなかったら、捨てて逃げてたかも」笑う。「じゃあ

おやすみ」隣の部屋へ消える。おれは自分の部屋に入り、ついこないだまで幸せだったこの家庭が壊れたことを

実感する。思えば、このマンションが不運の悪臭を放っていたのに、全く気づいていなかった。おれが物心ついて

からの十数年の間に、屋上からの飛び降り自殺も、一家心中もあった。隣の姉妹は男運が悪すぎる。

 

  翌日、約束通り松本さんが来た。ねえちゃんは会社だったから、おれが対応する。茶を出すと、

「立派にやってるわねえ」と激しく頷いた。母親と同じくらいの年齢と思われるおばさんだが、市役所で働くだけ

あって眼光鋭いのににこやかに笑う、侮れないかんじの貫禄があった。両親が帰って来ないと判って、ねえ

ちゃんが市役所に行って相談に乗ってもらったときに担当になった人だ。現段階の貯蓄や財産を見ると生活

保護は出ないが、貯金が外から(父親か母親により)急に下ろされる心配もあり、管理される立場になった。

毎月2回、うちに現れ、様子を見聞きし、アドバイスして去って行く。バンドに誘われたとき、ねえちゃんにも

勿論、松本さんにも相談した。楽器は前任のお下がり、スタジオやライブハウス代を割勘にはなるだろうけど

と。

「やってみなさいよ。バイトばっかしてたら、つまんないでしょ。奈央ちゃんも何かやったらどう?」

「あたしはいいっすよ」ねえちゃんはどうでもよさそうに言って、毎日会社勤めをしている。おれはバイトが11時

から7時半、昼休憩と茶休憩を抜かして5時間しか働いていない。とうちゃんの置いて行ったパソコンで曲を

作ったりしつつ家事をやって、たのしく暮らしているのだ。

「通帳は変わりない?」

「はい、無事です。ただ昨日母が来て」

「えっ、また?」

「でも金は渡してないし、鍵も返させました」

「そう」厳しい顔になる。「どこに住んでるのかしら」

「さあ。男のところって最初に言ったきり、情報はありません」

「おとうさんもね…」

「もう死んでんじゃないすかね」

「諦めちゃだめよ」いやー、居なくてもいいんですよ、松本さん。おれは声に出さずに語りかけた。ねえちゃんと

ふたり、なんとなく生きてなんとなく死んで、それでいいんですよおれは。

「一央くんはお金、貯められてる? 奈央ちゃんのほうは貯まってきたかしら。おとうさんのお金に頼らないでも

生きていけるようにならないといけないわね」松本さんは冊子とノートにせっせと書き込みをしながら呟く。

「おれはあんまり。姉のは知らないですけど、たぶん貯めてますよ、自立精神旺盛だから」

「無理しなきゃいいけど。そこへ行くときみは、のんびり構えてて、いいねえ。それでいてだらしなくない。理想的

だ」

 

  松本さんを見送り支度してバイトへ。もう何年もあそこで働いているみたいな気分で、足を踏み出す。そう

させているのは店長だと、判っていた。

 

  9月だったか、働いているときにタナミさんが来て、更に後から来た亮輔くんの様子がおかしくて、タナミさんの

接客をおれに任せて店長は亮輔くんと事務所に消えた、あの日のことを、突然思い出す。

「どうしたのかしら…あんな慌てた亮輔くん初めてだわ」タナミさんは心配していた。おれは言われた一対の

花束を作りながら、タナミさんの手を見た。婚約指輪が光っていた。今まで無かった気がする。前の旦那って、

離婚なのかな。

「タナミさん、ちょっと」店長が事務所に連れて行くが、ほんのちょっとで出て来た。

「どうしたんすか」

「わたしもよくは…」濁される。まあいいか。

「こんなかんじで」できた花束を見せる。

「はい、ありがとうございます」お金を払ってから、タナミさんはそれを受け取って、帰って行く。

「ありがとうございましたー」

 ほどなく、亮輔くんもバツが悪そうに帰って行く。店長が出てきて、

「なんでもかんでも順風満帆には行かないわな」とだけ言う。続きはありそうも無かったから、

「店長、ここの店の名前の意味、実はおれ知らなくて」と話題を変える。

「マジか?!」呆れてる。

「あるバンドのヘルプをするようになって、そこのバンド名、クランツがついてるから、そっちを先に聞いちゃったん

ですがね。トイフェルズクランツっつって、悪魔の王冠っていうドイツ語なんだそうです。ここのクランツもそうです

か?」

「そう。ドイツ語で花の冠だ」

「店長って、なんでも知ってるんですね」と言ったら、

「女の気持ちはわかんねーな」と笑った。いや、違う。解りすぎちゃって厭なんじゃねーの、と思う。

  お客さんが来たので話は終わった。

  あの日、亮輔くんに何があったのか、おれは知らない。これから先、きっと店長も亮輔くんも、その話はしない

だろう。おれが両親の話を彼らにしないように。

 

熱が出てくるみにバイトを代わってもらった。代われると言ってもくるみは高校に行っているから、3時半からしか入れない。

前に休んだときはライブだったから、2時までおれが居て、店長の飯の時間を確保した。それができないと電話で言うと、

『一食くらい抜いたって死にやしねーよ』と店長は答えた。『それよりガッツリ休んで、早く復帰してくれや。お大事に』申し訳

無いが、そうさせてもらう。

 8時頃に呼び鈴が鳴り、ねえちゃんなら鍵も持ってるしそもそも鳴らさないだろうと無視していたら。携帯が鳴り、メールを

見ると、くるみだった。

〉起きてる? 今、ドアの前に居るんだけど〈暫く待って反応無ければ帰るつもりか。おれはインターホンで

「今出る」と言い、玄関ドアを開ける。

「ごめん、辛かったらいいって言おうとしたのに、切るのはえーよ」

「きょうありがとな」

「こりゃー下がってないね。ゆでダコの、涙目」

「おまえが行ったとき、店長、トイレにも行けなくて苦しんでなかった?」

「あのね、りょうすけって人が居たの。だからトイレもごはんも大丈夫だったって」

「…ああ。会ったの初めて?」

「うん。なかなかに、ジェントルマンであった」

「そうだな…」

「ちょっと、大丈夫?」どうやらふらっとしたらしく、くるみに支えられる。「ごめんごめん、無理させたな。寝てな」

「んー」寝室に戻る。

「お見舞い持って来たんだけど、ここ置いとくね」

「どこに何を?」ダイニングは見えない。

「えっと、井戸田さんのお店の、缶のスープ。テーブルに置くね。今飲む?  あっためようか」

「今…いい」

「おねえちゃん何時に帰る?」おれの部屋を覗くが、入っては来ない。小4あたりから、入らなくなったんだっけ。おれのほうは、

なにいきなり、と思ったが、ねえちゃんは、一応オトコだと認めてんのよ、と言っていた。

「9時くらい」ベッドの縁に腰掛けて、一息つく。ジジイか、おれは。

「それまで居ようか」

「大丈夫だよ、寝てるから」慌てて布団に入る。「悪いけど、鍵、締めてくれる? そんで、新聞受けに入れてってくんない、

物騒だから」鍵を投げる。

「え、あ、うん」足許に落ちた鍵を拾い、戸を閉めかけ、また開く。「あんたさあ、大丈夫なの。ひとりで抱え込んで、熱が出たり

してない?」

「…何が?」

「この1年、いろんなことあったのに、泣き言を一度も聞いてない。わたしなんかには言えないのかもしれないけど、店長も心配

してるってことは、店長にも言ってないってことじゃん。おねえちゃんには、却って言えないでしょ、おねえちゃん自身、見かけると

前よりちょっとキてるかんじするし。バンドのあいつらには言えてる?  どっかでちゃんと、吐き出してんの?」

「……いや。おれ、あんま重く考えてないんだと思う。心配されるほど、悩んでない。ひょえーっとは思ったけど」

「ひょえーっ、で終わりなわけ?」

「うん」

「ほんとに?  強がってない?」

「うん」

「…ばかだなあ」

「おめーに言われたくねーし…」力が入らん。

「心配して損した、じゃー帰るわ」

「サンキュー」

  玄関のドアが閉まる音、鍵がかかる音、鍵が新聞受けに落ちる音が聞こえる。少しして、遠くに雨の音も。すぐ近所だけど、

もう着いたかな。ねえちゃんは、傘を持ってっただろうか。

 全然、だな…おれは全然コタエてない。なんだろう。たぶん、なんとかなると思ってんだ、甘いのかな。そんな心配して

もらっても、却って困るくらい、なんでもないんだ。

 

  翌日復活して出勤すると、後から亮輔くんが来たのでお礼を言うと、

「昨日、カノジョ見たよ」と言われた。

「言うと思った。期待に添えずすみませんが、あれは幼馴染みです」

「候補でもないわけ?」

「ないですね。ちょっと安直すぎやしませんか」

「はは、そうか、残念。時に、一央くんには知性を感じるよな、実はアタマいいでしょ」

「んなわけないでしょ、中退で」

「あれ、確か青真館高校でしょ、このへんじゃ一番いい私立…」わーっ、店長、覚えてたんかい!

「え、なんだよ、後輩じゃん」

「亮輔くんもか、流石だね」

「…実は、海藤先生に生物教わってます…」白状する。

「ええっ、教育実習んとき、居たの?!」

「1年C組でして…まあ、後で思い出したし、どうでもいいかなって」

「ひゃー、こっぱずかしい!」

「へー、縁があるんだね」店長は嬉しそう。「今度3人で、飯でも食おう」

「そですねー」

「さ、将棋だ将棋」ふたりは事務所に行く。ドアは開けっ放しなんで全くひとりってわけではないが、ふたりの笑い声がすごく

遠くに感じ、BGMのボサノバだけが聞こえる。クリスマスリースを量産する仕事を与えられているが、店長のようにきれいに

いかない。あーもー!  顔をしかめながら作っていたら、小学生が駆け込んで来た。

「こんちくわー、あ、はじめまして、えーと、かずおくん、だっけ」

「だれ?」思わず笑っちゃう人懐こさ。

「あ、シュン。来たな」事務所から店長と亮輔くんが出て来る。「一央くん、タナミさんのこども」

「あー!  あれ、もう結婚したんでしたっけ」

「今月の頭に」

「じゃあ、章太郎くんのこどもでもあるんだ、すげー」おれはすんごい驚いてしまう。

「12歳年下の息子だからねー」亮輔くんはなんてことなく言う。「因みにうちの妹も同じ歳。12歳年下の妹」

「わー」驚いているおれに、シュンくんは千円札を出して言う。

「ぜんちゃんに、冬っぽい花買って来てって言われた。これで買えるのちょーだい」

「マルーシア、松雪草を探しておいで!」店長がいきなりオネエ風におれに命じる。

「なんすか、それ」

「『森は生きている』という、外国のお伽噺だ」

「博学すぎて時々置いてかれる!」亮輔くんがアタマを抱える。

「松雪草ってどれ?」

「幻の花だから、無い」

「げんちゃんー」ゲラゲラ笑う小学生。いい反応だ。

「だから福寿草にしようか、鉢植えでもいいよな?」

「へ、わかんない」

「まあなんでもいいんだよ、ぜん兄は」さっさと小さい鉢を3つ、手提げに入れてる。明らかにサービスだな。「一央くん、領収書、

ディスプレイ代で切っといて」

「はい。蓬莱堂さん宛てですね」

「正解」

「クイズかよー」すかさず突っ込む小学生。

「かあちゃんたちに、よろしくな」領収書を袋に突っ込んで、シュンくんに渡す。

「はーい。またねー」走り去る。おいおい、袋はまっすぐ持てよ! かっわいーの。小学生男子って、あんなだっけ。

「迷わず蓬莱って書けるミュージシャンって、なかなか居ないよね」亮輔くんが腕組みしてニヤニヤしている。

「もー、いいじゃないすか、成績のことは」なんで中退したのか聞かれないうちに、店長にリースのコツを尋ねる。

「リースが終わったら、お飾りが待ってるからね、頼むよー」言ってから、「あ」と何か思い出す店長。「中嶋さんに助っ人頼まない

と。空けててくれてるかな」そうだ、去年はクリスマス直前から年末にかけての繁忙期、助っ人が居たのだ。3人でないと回ら

ない。おれの前にここで働いていた人で、結婚して少し遠くなるから辞めたのだ。もう中嶋さんて名前ではないのだけど。前の

助っ人さんは全然来られなくなっちゃって、去年は中嶋さんが敢えて来てくれたのだ。短期だったら、と今年も約束はしていた。

もう1年経つのか。そうか、おれ10月からだったから、1年以上働いているんだ。

 

  買い出しをして帰って、鍵を開けていると、隣の部屋の鍵が内側から開く音がした。こんな時間に妹さんは居ないだろうし、

お姉さんが出掛けるなんて珍しいので、なんとなくさっとうちに入り隠れてしまう。ドアがバタンと閉まった音、施錠する音がして

から少しして、うちのドアをそっと開けて見ると、エレベーターに消えて行く女性の姿が見えた。妹ではない。てことは、姉。白い

長いコートは、新しそうだった。なんだか不審だが、元気になったのかも、と思い直してうちに入った。

  9時過ぎて、呼鈴が鳴る。またくるみ?  と思ってメールを待つが、来ず、代わりに

「一央、居るんでしょ、出てよ!」姉の怒鳴り声がした。

「ごめんごめん、なに、呼鈴なんか鳴らして」ドアを開ける。

「警戒すんのも解るけど!」姉はドアの脇で、さっきの白いコートの女を抱えていた。「鞄の、脇ポケットに携帯入ってるから、

出してかけて。管理人さんと119、どっちがいいかなあ?」

「えー、わかんねーよ」

「じゃあ119!」かけて、なんて言ったらいいかわからないから、ねえちゃんの顔に電話を向ける。「あー、えっと、救急です。

人が倒れています。青葉町2丁目のマンション、ロータスクラウン4階の廊下です。宜しくお願いします!」

「さっすがねえちゃん」

「聞かれたこと答えただけだよ」

「で、この人、お隣のお姉さんのほう?」

「たぶん。動かしていいかな。ちょっと、下に…そこに居たからすれ違い様挨拶しようとしたらね、倒れかかってきたわけよ」

「はあ。1時間くらい前に、エレベーターに乗るの見たよ」

「そうなんだ。最近会ってないから、しずかさんかどうか判らないけど、出掛けられるんだね」

「うん。確か、妹のほうはいつも10時くらいに帰って来てたよね。ドアの音が…」救急車のサイレンが聞こえてきた。

エレベーターを見る。階数の点灯が、4に辿りつき、チーンと鳴る。開いたドアから、白衣にヘルメットのおじさんたちが

出てきた。コートの女を一瞥してから担架に乗せ、

「ご同行願います」と言うのでおれたちは怯み、「様子を伺いたいので。聞いてから行く時間が無いのは、わかるでしょう?」と

念押しされる。

「あ、じゃあちょっと、おれの番号をここに」一度部屋に入り、携帯と、コート、ペンと付箋紙を持って出て来る。「ねえちゃん、

鍵閉めて」

「おう」その間に、お姉さんを倒れていたので病院に運びました、連絡くださいと番号とともに付箋紙に書いて貼り、仕方無く

救急車に乗って同行する。倒れたときの様子や、1時間ほど前に見かけたことを話す。

「たぶん405の姉妹の、おねえさんのほうだと思うのですが、この何年かは病気で外へ出ていないんですね、だからほんとに

そうか判らないし、倒れたのも病気なのか、体力がもたなかったのか、よくわかりません」

「なんの病気か聞いてますか」

「いえ…不幸が続いてのショックだという噂しか…」

「なるほど」

  救急車は酔うと言うが、ほんとうに気分が悪くなった。病院に着いて医師が診ている間、ねえちゃんとおれは長椅子で

げんなりしていた。

「電話…切ったほうがいい?  でも、妹さんが連絡して来るかも…」

「いいよ、入れときな。音は出ないようにね。電話来たら、非常階段で…」と言ってるときに、知らない番号から着信、

バイブで震えた。おれは非常階段に出て、電話に出る。

『もしもし、あの…貼り紙を見て電話しました。宮木あすかです』

「あ、あの、おれ、隣の岸谷一央です」

『一央くんが救急車呼んでくれたの。ありがとう。今、病院? 同行もしてくれたのかしら』

『はい、あの、どちらかというとうちの姉がなんですが、電話番号は姉のを貼っとくのはちょっと…なんでおれで。えっと、

いらっしゃれますか?  紅葉町立病院です」

『はい、今から行きます』 急いで駆けつけてくれたが、おねえさんは息を引き取っていた。死因は、寒いところに居たために、

肺炎。抵抗力の弱いところに、1時間も冬の屋外に居たからだ。

「うちの電話は履歴が残るんですが、8時頃、公衆電話から着信があって、更に留守番電話に、しずか、居ない?と呼び

掛けが入っていたんです」最近は挨拶しかしていなかったあすかさんが、真剣に言う。

「続きは入っていなかったんですか」

「ええ。おそらく、出たんじゃないかと。で、話をした。そして呼び出されたのか、出掛けて行った…かもしれません」

「だれの声でした?」

「はっきりわかりませんが、帰って来ない旦那ではないかしら」

「…ああ。帰って来るのですかね…」

「でもひとりで戻って来たしな…」

「うーん…」

「まあとにかく火葬の手配をしなくちゃ。死亡診断書出してもらったりするからわたしは時間がかかるわ。あなたたちはお帰り

なさい。どうもありがとう」

「何か手伝えることは…」

「大丈夫よ。あ、よかったら使って」タクシーチケットだった。

 

  帰りながら、あすかさんひとりになっちゃったね、と姉が言った。ご両親はとうに他界。嫁に行ったとは言え姉のほうはそのまま

旦那さんと住んでいた。旦那さんはいつからか帰らなくなった。妹は外へ出て行っていたが、旦那さんに先立たれ帰って来た。

姉は臥せりがちになり、実際妹が生活させていた。鬱だろうということだった。昨日まで、変わらず寝ていた姉に、きょう、何が

あったのだろう。旦那を迎えに行き、来なかったのか。それにしては、待つ時間が短くないか。自殺しようとしてやはり辞めた

とも、考えられる。白い真新しいコートは、妹さんのだろうか。旦那を迎えに行くんだとしたらそのために、少しでもきれいにと

思って借りたのか。

  旦那はなぜ帰って来ないのか。…そしてうちの父は。神隠しみたいに、消えてしまった。まあ、うちの父は女ができたらしい

けど。母の口から聞いただけで、真実はわからない。

 

 「あれ」エレベーターを降りると、廊下に男がいた。背広にコート、スーツケース。「もしかして、しずかさんの旦那さんですか」

その男に、姉が問いかける。

「…はい。おかしいな、夕方電話したときは居たのに」

「…あの、今同行して来たんですが、しずかさん、病院で亡くなりました」

「ええっ」

「今、あすかさんが病院に残って、死亡診断書とか言ったっけ、そういうのを…なので、あすかさんも暫く帰らないと思います。

鍵はお持ちでは?」

「差してみたんですが、換えたみたいで。あすかちゃんの連絡先、ご存知ですか」

「病院に居るから出るかわかりませんが、さっきの着歴でかけてみましょう」おれは携帯を取り出す。

「すみません…」発信してみたが、やはり電源は切っていた。留守番電話にメッセージを残し、ちょっと怖い気もしたが、とり

あえずうちに来てもらうことにする。ほんとうに旦那さんかどうか、わからない。でも、嘘をついているようにも見えない。

「でも、一体今までどこに居たんです、しずかさんは、鬱になってしまったんですよ。そしてきょうは、あなたを迎えに行ったんで

しょうか、肺炎で亡くなったんすよ」ねえちゃんは少し責めているような口調。

「はあ、すみません」気の毒なくらい小さくなっているその人は、背は本来高くて、長い前髪に印象の薄い顔、縁の細い眼鏡

だった。

「わたしに謝られても」

「一応、手紙は出していたんですよ、返事は一度も無かったけど」無いからってほっとくんかい。「こちらは仕事で行ってたん

ですし。一緒に来るか聞いたら断られたし、鬱だってことも今初めて…」

「…えっ、もしかして、単身赴任だったんですか」

「そうですよ。なんて言ってたんですか、妻は」

「行方不明」

「…なんで」あんぐりしている。

「っていうのは、あすかさんに聞いた話ですが。鬱の原因として」

「はあ」

「ま、まあ何か事情があるんですよきっと…」

「そうですね…」

  その晩、あすかさんから連絡は無かった。

 

 朝、ねえちゃんはお隣の呼鈴を押してみたが応答は無いまま、おれに任せて会社に行った。

「夜、しずか、来てないですよね。僕に会いに」

「へっ?」

「やっぱり夢か…きみたちもよかったねえって喜んでくれてて…きみが知らないなら、やっぱり夢です」

「……残念ながら、夢ですね」

「そうですね…」

  朝9時くらいになり、旦那さんもいい加減申し訳無いから、と自分の連絡先を書いて隣のドアに貼って帰ろうとしたとき、

エレベーターからあすかさんが出て来た。

「あ」

「え、祐樹さん?」病院に泊まったのか、疲れ果てた顔をしている。

「昨日、いらしたって電話したんですが、気づいてないようですね」

「もしかして、一央くんたちのところに泊めてくれたの?」

「ええ」

「何もかも、お世話になって…ごめんなさい」

「いえ、うちは全然。あ、じゃあおれは」部屋に退散する。廊下から、

「どうぞ」という声と、鍵を開ける音がして、しんとした。

  あんなにきれいな姉妹なのにねえ…男性には恵まれないわね…うちの母が噂していたのを思い出す。雨月物語の

浅茅が宿の話を読んだときは、死んでからだんなが帰って来る気がしたが、ほんとにそうなってしまった。

  旦那さんは誠実そうだった。まさか妹が姉を妬んで手紙を…まあいいや、関係無い。とりあえずねえちゃんに報告メール

して、家事もせずにもう1回寝た。

  バイトに行って、帰り道、気づくと目の前に母さんが立っていた。

「一央。いい子だからお金を頂戴。母さん困っているんだよ…」と弱々しい声で言う。「おまえは奈央と違ってやさしい。頼むよ」

「息子相手にカツアゲって…どうかしてんじゃない」おれは脇をすり抜け、先へ行く。しかし母さんはすごい力でしがみついて

きた。

「サラ金で借りるのも審査でだめだった。親子だろう、助けておくれよ」

「厭だ」冷徹に言い放つが、今度はボカボカと殴りかかって来た。

「人でなし!  母さんが困っているんだから、よこしなさいよ!」前回会ったときに考えたことを思い出す。いつの間にか背も

抜かしていた。こんなにちいさかったっけ。捻り潰すことも可能なくらいに、ちいさかった。けれどもおれは、母さんに手を上げる

ことができず、受身でいるうちに、ついに隠し持っていたナイフで刺された。

「うっ…」膝をついた途端、リュックを奪われる。開けている音がした。財布のマジックテープが剥がれる音も。

「…3千円て!」嘲りを含んだ声がして、更にリュックを探っているようだったがそれを打ち捨て、ジャンパーのポケットも確かめた

後に、「これっぽっちか。通帳もカードも無い」と言い放ってから、おれを脇の公園に引き摺っていく。埋めるのか?  意識が

無くなっていくなかで、微かにそう思った。

 

  目を覚まして最初に見たのは、クリスマスリースの山だった。バイト先かと思ったら、病院らしい。気付くまでに時間が

かかった。横になっていて、起き上がると腹が痛んだ。

「ううっ…」夢じゃなかったのか。母親に殺される悪夢。「いってー」体勢を変えられず、しかしこの状態も辛く、ゆっくりまた

横になる。

  店長が仕切りから中に入って覗き込んできた。

「おう、起きたか。痛むか」

「はあ…おれ…死んでないんすね」

「昨日ね、一央くん通帳を忘れて行ったでしょ、包装台の下に」それ、忘れて行ったって言わないっすよ、店長。しかも1週間

経ってるし。「だから追いかけたら、怪しい人が居てね。きみを繁みに隠そうとしていたから、取り押さえて通報した。お母さん

だったんだね、ごめんよ、捕まってしまった」

「…ああ」

「この通帳といい、靴の底の銀行カードといい、空っぽの財布といい、悪いことしか想像できない。大丈夫なのか?」そう言えば

おれは裸足で寝ていた。カードは通帳とともに、店長の手の中にあった。

「…店長、きょう店は…」外が明るかったので、思わずすっとぼけたことを聞く。

「きょうは水曜日だ、気にするな」答えてから、「おまえはなんでそうなんだ」いきなり泣き出したので、びっくりする。おとなの

男の人が、しかもいつもガハハと笑っている店長が。「くるみちゃんも心配してる、なんにも言ってくれないって」

「くるみには言いましたが、おれ、なんとも思ってないんですよ。ほんとに…ただ昨日?のことは…」

「流石に堪えたか、母親に殺されかけて」

「……あんなちいさなおばさん、捻り潰せると思った。けど、おれは手を上げられなかった。それはいくらあんなでも母親だからって

大事に思ったわけではない。おれは何もしていないと、後で胸を張って言えるようにと、謀っていたんです。ちっとも大事では

ない。捕まってざまあ見ろって思う。そんな自分、厭ですね。助からなければ、ただの可哀想な息子で済んだのに。自分で

気づいてしまったんだ。なんにも感じないだけじゃない、自分さえ無事なら、ほかはどうでもいい、そういうやつなんですおれは」

「…変わりねーよ。おれも…亮輔くんも」

「亮輔くん?」

「まあ、おれたちの話はいつかするよ、とにかく集まっちまった、似た者同士が」

「おれみたいなんですか」

「うん。不思議なほど、似ている。そうでないやつには責められるかもしれない。でも全然普通だ。幾らでもそんなやつは居る。

全然おかしなことではない」

「そうですか…」

「それとはべつに、大事な人もちゃんといるだろ。お姉さんとか」

「……」

「お姉さんは、今事情聴取中だ。市役所の、松本さんて人と一緒に。終わったら此処へ来るはず」

「…店長は…大事な人、居るんですか」

「もっとひでーや、いねー」

「おにいさんは」

「おれは普通に両親居たし、おまえんとこのきょうだいの絆みたいなんは、無いね」

「いいのか悪いのか…」リースの山に目をやる。「忙しいのに、すみません…」

「だーから!  そこで気を遣うなよ!  さっきお姉さんに聞いたら、おとうさんは帰って来ないそうじゃないか。おれはこどもが

居ない。代わりになんかなれるわけないけど、おまえのために割く時間はある。よそんちで父ちゃんではないからな。だから、

利用していいんだよ。遠慮すんなよ。似た者同士の仲間だからよ」また泣く。どうしちゃったんだ、としか思えない。やっぱり

おれは薄情だ。

  ねえちゃんと松本さんが入ってくる。

「あっ、起きてる!」ねえちゃんが駆け寄ってきて、おれの肩を揺さぶる。「よかった!」

「って!  痛いよ、ねえちゃん」

「あ、ごめん」枕を少し立てておれの体を起こし、みんなと話し易いようにしてくれる。

「一央くん。お母さんは、精神錯乱起こして、病院に入ったわ。だから罪は問われないみたい」松本さんが神妙に言う。「こんな

ことが起きないように、探偵に捜索させてたんだけど、間に合わなかったわね」

「…そうですか」おれは目を閉じて、溜息を吐く。店長には、死刑じゃなくでガッカリしているのがバレてるだろう。苦笑しながら

「お姉さん来たならおれは帰るよ」と、思い出したように通帳とカードをおれの手に握らせ、出来上がったのと作りかけのリースを

紙袋に仕舞った。

「おれ、暫く入院?」ねえちゃんに聞く。

「うん」

「また気を回して!」店長が呆れた顔をする。「もうくるみちゃんと中嶋さんを手配したから、しっかり治しやがれ!」そして出て

いく。

「ありがとうございました」ねえちゃんが見送り、やがて松本さんも

「また来るわね」と出て行った。ねえちゃんも送って行くのでまたひとりになったがすぐに、くるみが入ってきた。

「あー、すまねーな、バイト」

「……そんなのは、いいよ」言いながら、泣き出す。

「もー、なんなんだよ、みんなして…」おれは力無く言う。「泣いてもらうほど傷ついてないんだから、泣くなよ」くるみがおれの

手を取って泣き出したので、相当びっくりした。口が悪くて強気の女が。おれは混乱して、何もできない。結構な至近距離に

あるくるみの顔は、超真剣で、…怖い。

「一央が死んだら、わたし生きていけない」

「はあ? んなわけねーだろ、酸素じゃあるまいし…」涙がおれの手に落ちる。久しく泣いていないから、人の涙の熱さに

驚いた。くるみの手そのものも、あまりに熱くて驚く。そう言えば、うっかりぶつかったりする以外、人と触れ合うことなんて、

ずうっと無かったのだ。

「一央しか好きになれない、ちいさい頃からずっと好きで、ほかの人なんか見られない、どんだけパーフェクトな人がいても

わたしは一央がいいの」

「…安直なんじゃない」

「アンチョクって…?」

「短絡的というか…」

「タンラク?」

「…テキトーに近いところで決めてないかってこと!」

「十数年、ずっと真剣に考えてきたんだから!」殴る真似をする。

「おい、おれ怪我人…」

「ほんとに殴るわけないでしょ!」

「…けどさー」

「一央は、好きな人とか、居るの?」

「……」

「居るんだ?」

「居ないけど」

「じゃあ今の沈黙は何よ」

「…恋したことが無いかも。そりゃー憧れてたとか、今も憧れる人は居るよ。でも手に入れたいとか、ちっとも思わないし」

「そうなんだ…じゃあ、わたしを好きになってよ」

「そんな急に無理だって。あ、いや、友達としては好きだけど…」

「そんなの要らない。待ってるから。一生、わたしは一央だけが好きだから」おれの胸に顔を乗せ首に腕を巻きつけて

くる。「一央…もうこんなこと、誰にもさせないから。わたしより先に死んじゃだめ」

「そんなんどうなるかわからないし…」くるみの肩越しに、ねえちゃんが見えた。驚いてからニヤリとし、仕切りをもとに

戻して居なくなる。あ、いや、違うって…気づかずくるみはそのままおれにしがみついていた。

「治ったら、デートしよ。幼馴染みとか友達とかでなく」

「無理だって」

「バイトの借りは返してもらうからね」

「ちょ、ちょっと待て…」

「続きはそのときね」くるみは真っ赤な顔になって、仕切りの外にすっと居なくなる。隣のおじいさんが顔を出して、

「聞こえちゃった」とニヤニヤして言う。おれは顔を熱くして、手をブンブン振る。

  晴祈たちも見舞ってくれ、親に殺されかけるなんてと神妙に現れたのに、おれがあんまり普通なんで、拍子抜けして帰って

行くような入院生活が終わり退院できたのは、クリスマス過ぎてからだった。超忙しいときにバイトに穴を開けてしまった。退院

したその足で、ねえちゃんと挨拶に行くと、中嶋さんとくるみが働いていた。くるみは潤んだ目でおれを見ていたが目を逸らす。

グリーンのエプロンと帽子を見て、

「そう言えば、風邪で休んだとき、亮輔くんも手伝ってくれたんですよね。これ着たんですか」店長に聞く。

「いや、花束は作れないから、留守番をアピールするために敢えて着てもらわなかった。予約を受けるのと、キッチンブーケを

売るのだけやってもらったんだ」なーんだ残念。「そう言えば、着せてみてーな」

「ですよね」

「で、明日から働けるって…大丈夫なのか」

「はい、また宜しくお願いします」

「了解。じゃあくるみちゃんは、明日から大丈夫。ありがとうな。31日だけ宜しく頼むわ」

「31日は、4人体制ですか」

「いや、3人。主婦の中嶋さんを解放する。30日に生蕎麦差し入れしてくれるって、みんなで大晦日に食べたらって。31日、

終わったら、おれの特製つゆで食わしたる。よかったら奈央ちゃんも来なよ」

「いいんですか」

「おー、年越し蕎麦」

「年越しライブとかは、無いの?」中嶋さんに聞かれる。

「無いですね。年明けまでバンドはお預けです」

「年越し蕎麦か…ねえ、そのまんま初詣行こうよ」いきなりくるみが誘って来るから、焦る。「店長と4人で」付け足されて、

ああ、となる。

「そ、そうだな」

「おれもいいんかい、ひとりだけジジイだぞ」店長は苦笑。解っているようにも、そうでないようにも見える。

「勿論です」居てもらわないと困る…。ねえちゃんが気を回して帰っちゃって、くるみに何されるかわからん…って、何を考え

てんだおれは。「じゃあ、すみません、きょうはこれで」

「おう、明日宜しくな」

  店を出ると、

「くるみちゃんは最初泣きそうな顔をしてたけど、あとはいつも通りだったねえ。ちゃんと考えてあげなよ」などと、ねえちゃんに

言われる。

「わーってるよ」

  商店街を出て公園の前を通ると、道路がなんか黒ずんでいる。

「これ、あんたの血よ」

「げえっ」

「店長さんが見つけなくても、母さんはこーゆーのから捜索して捕まったろうけど、あんたの命は無かっただろうね。こんだけ出血

して」

「感謝だね…」

「死んじゃえばよかったとか、思ってないよね?」睨んで来る。「わたしをひとりにしたら、承知しないからね」苦笑して歩き出す。

それから暫くして、「ねえ、なんでバイト、花屋さんなの?」と今更聞いてきた。

「たまたま、募集してたってだけ。ほんとは本屋がよかったんだけど、並びの高堰書店は募集してなかった。それだけなんだけ

ど…」

「けど?」

「たぶん、店長の引力。ちょっと、似てるみたい」

「そうか?」ねえちゃんには解らないみたいだ。

「ふーん」

「店長が…お父さんだったらよかったのにな」

「ほんとだよ…」ねえちゃんは忌々しそうに言う。「こんなことになっても…ニュースで母さんの名前出てんのに、反応無し。

ほんと、どっかでのたれ死んでんじゃないの。ねえ、くるみちゃん家は、ご両親健在だっけ」

「へ?  うん、そうだな」

「まとも?」

「まとも」

「じゃあ、結婚しなよ。まともな両親できるよ」

「…おれまだ結婚できねー歳だし」

「そうか、じゃ来年ね」

「勝手に決めるな」

  おれはもう暫く、ねえちゃんとふたりでいいよ。まあ、ねえちゃんが結婚するってんなら祝福するけどさ。

 

  店長はわざとらしくなく病み(怪我)上がりのおれを労りながら、相変わらずガハハと笑いながら、魚屋みたいな口調で繊細に

お飾りや花束を作り、ロリな店で働く。アンバランスだ。おれもだけど。中嶋さんだけがぴったりなかんじで、くるみは黙っていれば

みたいな笑える年末の仕事。くるみと一緒に働くのは大晦日が初めて。お年寄りには案外やさしかったり、タナミさんがシュンを

連れてくればそっちで盛り上がったり、おれそっちのけでたのしそうなもんだから、おれを好きだなんて言ったのは夢みたいな気も

する。

 そんなこんなで、大晦日の7時で閉店、仕事納めだ。28日で仕事納めのねえちゃんは、うちで大掃除やら何やらしていた

が、閉店業務の終わる7時半に店に現れる。

  店長が上の住まいからいつの間にかコンロと鍋とフライパンを持ってきていて、調理を始める。テレビでも観てな、と小型の

テレビをよこすが、ついみんな店長の作業に見入る。もう切ってある浅葱と柚子の皮、それと白胡麻と三つ葉は、好みで

取れと無造作に置かれ、謎のでかいタッパーを残し蕎麦が茹でられる。どんぶりに分けられ、鍋の茹で汁はポットへ。タッパーの

中身がフライパンで焼かれる。鴨だそうだ、そしてブツ切りの長ネギ。九条葱だと言う。有名なんだろうが、知らない。焦げ目が

ついたら蕎麦の上に乗せ、また鍋が出てきてつゆ作りに入る。鰹節をどっさり入れて出汁を取り、市販のつゆでなく白醤油と

味醂で作り、蕎麦にかけてゆく。「ひゃああ、うまそう!」

「中嶋さんの旦那さんが作った蕎麦とおれの具とつゆの、年越し蕎麦、完成!」

 薬味をかけて、みんなで

「いただきまーす」と合掌。

「中嶋さんに写メ送ろう」店長が携帯カメラに納める。

「鴨なんて初めて食う」

「ほんとだねー」ねえちゃんとおれはガツガツと食う。「去年はインスタントだったしね」そうだ、ふたりで初の年越しだった。「こんな

大人数の食事自体、久しぶりかも」ねえちゃんはさみしいことを言う。おれはバンド仲間としょっちゅうだからな。

「4人で…」くるみがツッコみかけて、やめる。

「おれもそうだな」店長がなんてことなく言う。「たまにはいいもんだな。あ、足りなかったら、赤飯炊いたから食いな。釜ごと

持ってくるかな。あっ蕎麦湯やりたいやつは、これな」いつもひとりのくせに、なんでこんなに慣れてるんだ店長は。

「赤飯って、家で炊けるんですか」

「うん。ささげっていう豆と餅米で。釜に、おこわっていう水加減の線があるし」

「小豆じゃないんだ」

「知的な一央くんも、知らないことがあるんだな」店長に驚かれる。

「店長が博学すぎなんすよ」

「炊きたて、食ってみるか」

「いいんですか」言い終わらないうちに上へ行ってしまう。ほんとに釜ごと持ってきて、勝手に人数分茶碗に盛り出す。胡麻塩を

ふっていただく。「うまっ!」

「くーっ、ちょうどいい固さ!」

「あったかい赤飯て、初めて!」

「店長、茶碗とかどんぶりとかこんなに持ってるんですね。お客様が多いんですか」ねえちゃんが訊く。

「うん、最近こーゆーことしてなかったけど、よくしてた時期もあった。言っとくが、おれ、友達は居るからね」笑う。…きっと、

友達はみんな、家庭を持ってしまい、そんな集まりはしなくなったんだろう。「じゃあまた、わたしたちにふるまってください、

すんごいおいしい」ねえちゃんはそう言って、赤飯を口に運んだ。すんごい幸せそうに。

「こんなんでよけりゃ、喜んで」

  上に運ぶのをバケツリレー的にして手伝って片付け、男性の部屋だから女性陣は遠慮しておれだけが店長の住まいに入って

キッチンまで食器を運ぶ。洗いますよと言ったが、遠慮された。

 本だらけの、無機質なスタイリッシュな部屋だった。写真は白黒の建物の景色だけで、人は無かった。下の店とはだいぶ

違う。

  11時まで事務所でうだうだして、初詣に行った。タナミさんたちが式を上げたという大きな神社まで電車で行く。大晦日は

夜中も電車が動いているなんてことも、初めて知った。なんとなくか、ねえちゃんの思惑か、店長とねえちゃんが喋っていたので、

その後ろをくるみと歩く形になってしまう。暫く黙っていたが、

「3日までお休みなんでしょ」と言われる。

「…うん」

「どっか行こう」

「………ねえちゃんも休みだから、家のこといろいろするかも」厭なわけじゃないんだけど、はっきり好きだと思わないのにデート

するのはどうかと思い、逃れようとしてしまう。

「少しもだめ?」

「おまえも家族と滅多に時間合わないだろ」

「…うん」

「大事にしろって」

「…わかった」拍子抜けなくらいあっさり引き下がる。

  0時になり、新年の挨拶をする。混んでいたがお参りをして、破魔矢を買い、店長はかっこめも買い、おみくじや屋台で盛り

上がって、電車で帰る。

  商店街で店長はさよなら。送らないでいいのか、と言われるが、くるみも家が近くなんでくるみん家の前を通って帰ります、と

言う。

「じゃあ休み明けに」

「顔出します」くるみとねえちゃんは店長に頭を下げる。「ご馳走さまでした」

  3人になると、ねえちゃんが

「わたし、三賀日は寝てるって決めたの。なんか疲れちゃって。うちのこととか、なんにもしないから」

「へっ?」

「邪魔だから、あんた昼間出掛けてくんない」

「…さっきの話…」くるみとおれはあんぐりする。

「うん、聞いてたの。一央の考えは古臭いのよね。付き合ってないのにデートはちょっと…とか思ったんでしょ」

「その通り…か、近いことを」

「べつに付き合ってないとふたりで会っちゃいけないって法律はないんだから、お互いを知るいい機会じゃない。それでくるみ

ちゃんを好きになるかもしれないし、嫌われるかもしれないし」

「後者かも」おれとねえちゃんはゲラゲラ笑う。くるみも笑ったが

「嫌うわけないじゃん、15年くらい、ずっと好きだったんだから」すぐ否定。

「ヒュー」ねえちゃんはからかいの表情。「まあだから、3日とも遊んできていいし」

「いや、だけど…」

「ありがとうございます、じゃあ明日遊ぼう」

「きょうでなくて?」ねえちゃんは、あれってかんじになる。

「元旦くらい、家族と過ごしましょうかね。一央とお姉ちゃんも」くるみは、今度は静かに笑った。

「そうだね」3人して、穏やかに笑い合う。おなかも満たされ、気持ちも満たされ、幸せだなあ、となんとなく思った。

 

  2日は映画にカラオケくらいしか思い付かなくて、混んでいるところにわざわざ行くなんて、とも思ったが、言われるままついて

行った。駅から映画館に行くときコートのポケットに手を突っ込んでいたら、

「手、繋げないじゃん」と怒らるが、

「それはやっぱちょっと」と断る。「付き合ってないんだから、そういうのはしないからね」

「ほーよーは受け入れたくせに」

「いっ、いや、受け入れたわけじゃないから! もーほんと、そーゆーのは双方の合意のもとにやってよね」

「…なに言ってるかわかんないよ」

「もーいい…」おれは先へ行く。くるみは手を繋ぐのは諦めて、コートの裾を掴む。ちょっと、ちょっと。可愛いじゃねーかよ。

  しかしくるみのリクエストの映画は、ホラー。可愛くない。

  昼飯のときに、うわって驚いてたと笑われる。ドッキリさせるのも狡いし、怖いというより気持ち悪いんだよ、あーゆーのは。

  カラオケは、曲の趣味も合い、お互いうまいねと認め合った。

「でもボーカルじゃないんだ。ギターだっけ」

「ベース」

「地味ー」

「でも重要なんだからな」

「解ってるよ、でなきゃ一央はやらないでしょ」

  夕飯は家で食べようってことになり、夕方別れた。明日はって話にはならない。ほっとする反面、いいんだ、とも思う。

  帰るとねえちゃんが、もう帰って来たのと呆れる。

「ついでに明日も誘われてない」と買ってきたふたり分の飯をテーブルに置く。

「早速フラれちゃうわけ、なにしたのあんた」

「なんも。そこそこ盛り上がってはいたけどねー」

「他人事みたいに」ねえちゃんもいただきます、と言うが、携帯が鳴る。「あ、メール、くるみちゃんだ」

「アドレス知ってんの」一緒に幼馴染みではあるが、学年が違うから小学生以降疎遠になりメアドは知らなかったはず。

「昨日交換した」

「そう」しかし、何をチクるわけ。ねえちゃんはメールを読み

「明日は3人で遊びませんか、だって。昔の幼馴染みのよしみで。明後日は仕事でしょうから早く切り上げてって、気遣いも

万全、いい子だわー」

「おれには断り無しかい」

  結局どこに行っても混んでるからと、うちで昼飯を食ってテレビを観る会になる。十代の若者のすることかい!  くるみは

ねえちゃんに仕事のことを聞いたりしていて、おれも初めて知る話もあった。そしていきなりの、

「カレシは居るんですか」やっぱり訊くんかい。

「居ないし、要らなーい。あんな親見てたら、結婚に夢も希望も感じない。それなのに付き合うのもねー」これはおれも知ってる

答え。

「一央も、結婚したくない?」急に振られビックリする。

「…考えたことねーや。まだ、結婚できねーし」

「あそっか、男子は18だっけ」

「くるみちゃんは?」

「したいです、一央と」珈琲を噴きそうになる。「それ以外考えられません」

「くるみちゃんなら、姉からもお願いしたいわ」

「光栄です!」

「そこで結託するなっつーの!」

  くるみはやはり夕飯前に帰って行く。

「家族、大事にしろよ…に感化されたねー。あんたのこと本気で好きなんだわ」ねえちゃんはニヤニヤと言う。携帯に、お礼

メールも来ていたが、返事を聞かせろとかは、無かった。

 

 4日、松本さんが夜伺いたいと電話して来た。ねえちゃんにも会いたいのだそうだ。なんだろう。無論いいが、9時過ぎですよ、

と言う。了解を得て、ねえちゃんに続いて、松本さんが現れた。

「おとうさん、見つかったわよ」

「………」ねえちゃんと顔を見合わせるが、言葉が出ない。

「新興宗教のアジトに…幹部として居る。どうする、説得して帰って来てもらうなら、協力するわよ」

「…いいです」ねえちゃんは即答した。「好きにしていてもらいましょう。今のままで、うちはいいんで」

「…そう。一央くんも?」

「はい。折角探していただきましたが、今のおれたちに、父親は必要無いんで。まあ、元気で好きなことしてるんなら十分です」

「わかりました」玄関まで送るとき、ねえちゃんは

「父や母と、縁は切れませんか」と訊く。

「…即答はできないけれど、可能か調べてはみるわね」松本さんは、困ったような笑顔になる。

「ぶっちゃけ知りたくなかった…」ねえちゃんはドアを閉めてから、苛々したように言った。「年末からのいい気分が、一気に

台無し。わたしたちのためを思うなら、調べないでほしかった」

「うん…」同意するふりをしたが、内心は仕事に忠実な松本さんに同情していた。ほんとうは、連れ戻しに行って、この家庭を

もとに戻したかったに違いない。ねえちゃんの言葉に、がっかりしたに違いない。もう、無理なんですよ、もとになんか戻らないん

ですよ、松本さん。

 

  「この前は、姉がすみません」次に松本さんが来たときに、ねえちゃんは仕事だったので、おれは思わず謝った。

「なんで謝るの?」

「あんなふうに言われたら、がっかりしただろうって。でもおれも、もとに戻したいとは思ってないんです。今のままで、いいんです」

「解ってるわよ、お役所仕事はやらないといけないってだけよ。ところでね、こういう訪問、今のところお父さんは俗世には興味

無いみたいだし、お母さんは入院してるから、月に1回にするわね」

「そうですか」

「あなたはいろんな意味で大丈夫。ちょっと、奈央ちゃんが心配だけど…」

「おれもそう思います。完璧主義で、融通がきかないとこ、あるから。あと、吐き出せる友達とか、居ないかも」

「同感。支えてあげてね。何かあったらすぐに連絡を」

  不吉なことを言われ、ゾクリとするが、ほんとうにその数日後、ねえちゃんは駅の階段を上がりながら発作で死んでしまった。

幸せだった年末年始は、一瞬で影を潜める。しかし同時期母は精神病院内で自害したこともあり、松本さんの執り成しで、

父に親権を放棄させ、おれは店長のこどもになることになった。

「店長がお父さんだったらよかったのに」おれの一言を、ねえちゃんは命に換えて叶えてくれたとしか思えない。ねえちゃんが

死んで、おれは初めて涙を流した。間違い無く、たったひとりの家族だったから―――。

 

                                                了

 

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